学校が全てを担うことは不可能・・・
私は、本来『学校』はそれぞれの教科の学習指導が重点な場であるべきだと捉えている。が、時代の趨勢(いろいろな要因が複雑に絡み合っている)によって、本来家庭や社会が担わなければならない日常生活に必要な常識的な躾や、社会性などの育成を学校に委ねてしまったことが、今日の混乱の原因ではないかと分析している。
それがいつごろから始まったのかははっきりした根拠はないが、戦後の混乱期を抜け出そうと国民が必死で働いていた時期と重なることは間違いないだろう。
そんな要求を文部省がはっきり拒否すれば良かったのだろうが、教育こそが戦後の混乱期を乗り越えるために尽力せねばという使命感があったのではないだろうか。家庭や社会の受け持たねばならない、基本的な生活習慣の指導までも『体罰の禁止』というシバリを、自らに課した上で受け入れてしまった。
『体罰の禁止』を否定するものではない。が、話して分からせるには限界があることも確か・・・。この問題を棚上げにしているのが現状ではないだろうか。
『席に着いて先生の話を聞く』ことは学校生活の基本中の基本であるにも関わらず、それができない子どもが多い。教師は、何とか席に座らせようと努力するが、どうしてもできない児童生徒には『廊下で立ってなさい・・・』と叫びたくなる。しかし、教室から出すことは『体罰』となり、指導力がないというレッテルが張られるとなると、ぐっと我慢しなければならない。これは辛いものがあるだろう。
『席に着く』などとは当たり前で、これを『学力』と呼ぶことには抵抗があるだろう。が、私はこの『席に着く』というなんでもない当たり前のことも『学力』の範疇に入れてもよいのではないかと思っている。何故ならば、この『学力』を徹底的に身につけなければ学習が成り立たず、先に進まないことは誰もが理解できるはずだからである。
教師は『席に着いて話を聞く』という、ささやかな社会性という学力をつけながら、算数や国語の知識などの『本来の学力』もつけなければならないのだから大変・・・。
ところが、保護者やマスコミはこんな学校の現状をほとんど知らず(知っていても知らぬ振りかもしれないが)、ほとんどの人たちは『学力』とは点数で表せるものであり、そのための『学力テスト』なのだから、『学力』とは『テストの成績』以外何ものではないと思っている。これは想像以上のギャップで、ここに学校の苦悩がある。
学力テストの点数が『学力』の一つであることは間違いではない。しかし、前述したようにテストで計れない学力の存在も大きく、学校はこの部分にかなりの労力を必要としている。
テストで計れない学力をつけるための基礎基本は、『家庭の教育力』と呼ばれる親が子どもを『躾ける能力』と『世間さま』と言われる子どもたちを暖かく見守る周りの環境である。この『世間さま』とは、今日の言葉で言うコミュニティ社会の存在だろうが、それが崩壊してしまったことなど抜きにして、学力テストの点数を『学力』と騒ぎ立てるのだから、混乱するのは当たり前。
本来ならテストで表せられる学力と表せない学力が別々に存在するのではなく、学校と家庭や社会の機能がうまく調和して互いに補完関係で身につけたものだが、家庭や社会の機能が薄れ、テストで計れない学力までもが学校が受け持たねばならなくなった。
社会や家庭の教育力が低下したのは、経済が発展し生活が安定するに従って、子どもを取り巻く環境が大きく変化したことに起因することは多くの識者が指摘しているので私の稚拙な分析などはここでは不要だろうが、子どもの数が減少した上に核家族化し、その上テレビという娯楽が家庭に入り込み一般化し、今ではテレビよりもっと『個』を主張する携帯やゲ-ムが当たり前なり、人間同士の関係が希薄になるとともに、親子関係も縦関係ではなく『友だち』といってもよい横関係が目立つようになったことは強調しておきたい。
その上『便利が是』という考え方が圧倒的多数を占めるようになり、鉛筆をけずることやリンゴの皮を向くことまでも『不便』となると、子どもたちの生活の中で『自分でやる』ことなど探す方が無理。
さらに、親たちの価値観が『手伝いなどとんでもない。テストで点数が少しで上がればそれでよい・・・』となると、子どもの自主性など育つわけがない。続く(田舎親父)


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