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2009年4月

2009年4月30日 (木)

レタス作りのすすめ・・・

 新聞・テレビはここ数日は『豚インフル』の話題で持ちきり。どの国が何人発症したとか、感染したということで大騒動。アメリカでも死者が出たというから、この大騒ぎはしばらく続くようだ。成田では、メキシコはもとよりアメリカやカナダからの到着する飛行機の機内に立ち入って乗客の健康状態をチェックするという物々しさ。

確かに、日本に豚インフルのウイルスが入ってきては困ることは間違いないが、赤字国債を10兆円など将来のことなどなにも考えないで、選挙対策のバラマキ行政を続けている政府には、それ以前にやらなければいくらでもあるのだろうに・・・と醒めた見方をしているのは私だけなのだろうか。

ここぞとばかり、このところアソウ総理の解散云々の問題がマスコミの人気になって、すっかり出番がなくなった、おしゃべり厚労相やオタク農水相、そしてますます美的要素がなくなり表情がこわばってきた消費者担当相などがテレビに出まくっているようだ。

この方々は、輸入豚肉は絶対大丈夫などと大見得を切っているが、言い方が何となく自信がなさそうなので、かえって国民の恐怖心や不信感を高めているように思えてならないのは、現政権に批判的だからだろうか。

私はこの問題は、自然界からの警鐘だと捉えているので、普通の生活をしていて豚インフルに罹患したらそれは仕方ないことだと思っている。現代の医学では例え特効薬のワクチンはなくても治療可能なのだから、そんなに慌てることはないのでは・・・とも思っている。

それ以前に、前回も書いたが、鳥から豚になったら、次には牛となることを十分頭の中に入れて、必要以上に外国からの牛肉を輸入し、国民にあたかも牛丼などは安価で栄養満点だと強調して食べさせて金儲け・・・という業者の存在に注意を向ける必要があるのではとさえ思わないでもない。

ところで、今日はもう4月の晦日。今年も3分の1過ぎようとしている。豚インフルなんて暗い話題はしばし忘れて、ごく平和な話題を提供したい。

私と数年前まで100坪の土地を借りて百姓のまねごとをしていた。その土地が老人施設に変身してしまったので、本格的な野菜作りは断念しているが、それでも我が家の狭い庭に畳2畳分程のスペ-スを確保して、キュウリとダイコンは毎年つくっている。

今年の2月ごろだっただろ化、立ち寄って園芸店で『レタス』の種子が目についたので、ひょっとして作れるのではと思い購入してしまった。開けてびっくり、たった210円の袋には、信じられないほどの量の種子が詰まっている。

早速いつも通りの方法(注・文末に紹介)で発芽させてみることにするのだが、これが何と全て発芽したので小さなビニ-ル鉢に丁寧に植え替えたところ、50株もの苗ができた。

2週間もすると小さなビニ-ル鉢では追いつかない。これは大変とばかり、キュウリにはまだ間があるスペ-スにとりあえず植えたところどんどん成長するのに驚いてしまう。

これは、ひょっとしてプランタ-(かっこよく横文字を使っているが、魚を詰める大型のハップウスチロ-ルの箱)でも大丈夫かなと思い挑戦したところ、実にうまく育ってくれ、このところ毎日一株ずつ食べている。

当初は味が薄かったが、葉が大きく緑が濃くなるに連れて、市販されている以上に濃厚な味になってきたのに大満足。これは皆さんに紹介する価値があると思い、余った種でもう一度発芽させ、昨日またまた小さなビニ-ル袋に50株以上の苗を作ることができた。

これを近所の人に配ると同時に、このプランタ-の作品を自宅前において、通行する人たちに作ってもらうような啓発活動を思いつき、昨日、さらにもう一度発芽させるために種まきを完了した。

この方法ならば、太陽が当たればベランダでも、駐車場の片隅ででもできる。ハッポウスチロ-ルの箱は中身をだしたらほとんどが無用のものとなり、ゴミに出すのが普通となると、これはゴミの削減にもつながることは間違いない。

この連休中は忙しくなりそうだ・・・。(田舎親父)

(注)私の種の発芽方法。以前、学校給食などで使われていたアルミ製の給食用のトレイ(100円ショップでも同様なものがある)に、発芽用のゴ-ルデンピ-ト板を2枚おいて水で膨らませる。そこに3cm程度の間隔に浅く凹み作り種を数粒ずつおいて、種が見えないようにまわりのピ-トをかぶせるだけである。

スイトピ-のような湿気を好まない種子以外は、ほとんどの植物の発芽には有効で、予想以上の発芽率がある。発芽して本葉が見え出したら小さなビニ-ル鉢に植え替えれば苗ができるというわけである。

2009年4月29日 (水)

こんないい加減な話がまかり通るとは・・・

 一昨日話題にした、鬼畜の母親と内縁の男が娘を殺害した事件の場は大阪。今日これから話題にするトンデモ健康管理センタ-も大阪。大阪に特別悪意を持っているわけではないが、知事はじめ随分賑やかな人が多いようだ。

とれはともあれ、大阪市の中心に『宝生会 PL健康管理センタ-』という健康管理機関があるという。ここは総合病院と同じような診療科目を持ち、主に人間ドックなどを受け持つようだが、関連病院として『医療法人 讃和会 友愛会病院』という名前があるところから、一応はれっきとした病院組織の形態を整えているようだ。

この病院(健康管理センタ-)が、人間ドックや一般健康診断では必ず行われる血液検査項目である、善玉コレステロールと呼ばれるHDLコレステロール値を、『測定していないにもかかわらず』虚偽の数値を記載し受診者に通知していたというから、またまたいい加減な運営で金儲け・・・が目的なのだろう。

ここでは、初回に正常値を示した受診者について、その後の健診は5回に1回しか実施せず、それ以外は、前回の数値を参考にした架空の数値を記載していたとのことである。当時、健康診断の受診者が多いため検査の処理が間に合わず、手抜きを行ったという説明だが、5回に一回というのも信憑性がないように思える。

『善玉』と名前がつけられているので、一般的には正常値の範囲を逸脱しても体に影響ないと思いがちであり。しかも、HDLコレステロ-ル値は数年での変動幅が小さいにもかかわらず、測定には時間がかかるため、この検査項目をしない病院も多いと聞いている。

私が桑の葉の効能を調べる意味で、自分自身を人体実験にして約2ケ月に一度の割合で行っている検査でも、去年までは総コレステロ-ルとLDL(悪玉)コレステロ-ルを検査しているが、HLD(善玉)コレステロ-ルの検査は行っていなかったことからも、手間がかかる割にはあまり重要な値だという認識がなかったことも確からしい。

しかし、検査をやらずにやったように見せかけて、基準値の範囲で適当な数値を記入して誤魔化すやり方を昭和59年から平成16年までの約20年間続けていたというから、これは悪質な『詐欺』といっても過言でないだろう。というより、こんなことを20年間もよくぞ続けられたものだと、ある意味感心してしまう。

今回のことが何故明らかになったかについては報道がない。20年間もバレなかったことが、ここにきて表沙汰になったのは組織内の権力闘争が勃発し、一方の誰かがマスコミにチクったか、あるいは若手の正義心からの告発だろうと思うが、それにしても20年間も隠し通してきた組織もたいしたものである。

それ以前に、大阪のチェック体制の甘さが気になるが、組織ぐるみで隠蔽すれば、血液検査の一項目などは行わずに、適当な数値を記入しておけば検査費用は入手できて、しかも検査を受けた人は誰も疑えないとなると、ひょっとして他の地域でもあり得ない話ではないとも思えないでもない。

前述したが、去年までは行っていなかった私の掛かりつけの病院での決英検査の項目に、今年からこの値が毎回記入されるようになったという。

この病院では基準が変わって、善玉と悪玉をはっきり分けるためにと同時に、両者のバランスが大事だとのことで、総コレステロ-ルより重要な値だと医師から説明を受けている。

話が横道に逸れてしまったが、自分の健康のために受けている人間ドックや一般的な血液検査で、例え年間通して変動が少ないとはいえ、大事な検査項目を手間がかかるからという理由(本当は金儲けのため)で、やったように見せ掛けは許せない。

医療費削減は今後の社会では重要な課題であるに関わらず、病院や健康管理センタ-というべき、医療の最前線の機関が、削減とは反対の、何とか誤魔化して金儲けを優先する体質に楔を打ち込まねば、医療費削減なんて夢のまた夢のように思えるが・・・。(田舎親父)

2009年4月28日 (火)

鳥ときて豚となると 次は・・・?

 昨日の書き出しと同じになるが、『豚インフル』という奇妙な言葉が世界中を駆けめぐっている。実際にメキシコではこの『豚インフル』にかかった人が80人以上も死亡しというからことは重大である。

アメリカの高校に修学旅行という行事があるのか理解していないが、ニュ-ヨ-クではメキシコから帰国した高校生が集団で『豚インフルウイルス』に陽性反応を示しているという。

また、カナダやニュ-ジランドでも『豚インフルウイルス』に陽性反応を示した人が多数でているというから、世界保健機関(WHO)が大騒ぎするのも頷ける。今後、世界的に流行する兆しがあるようだ。

豚インフルエンザがメキシコと米国で拡大していることを受け、米厚生省は一昨日アメリカ全土に、公衆衛生上の緊急事態宣言を出したとのこと。また、米政府は5千万人分備蓄している抗ウイルス薬のタミフルとリレンザの4分の1を、感染者が確認された州を中心に配布し始めたというから、アメリカの慌てぶりは尋常ではない。 

経済では『アメリカがクシャミをすると日本が風邪をひく』のは当たり前と思われているが、日常生活においてもアメリカの我が国に対する影響は言葉では表現できない程大きいのは周知のこと。

メキシコにでかける人はあまり多いとは思えないので、メキシコとの人の出入りにおいては厳重なチェック体制を敷ければ『豚インフルウイルス』の上陸は阻止できるかもしれないが、アメリカとの人の出入りを全てチェックするのは数的に膨大。理論上では可能かもしれないが、恐らく無理があるだろう。

だとすると、日本でこの『豚インフル』を発症する人が現れても何ら不思議ではない。恐ろしいのは、普通のインフルエンザと同じように『空気感染』することである。『豚インフル』に罹患した人が何らかの理由で成田をスル-したとすると、これは恐ろしい。

病院に駆け込めば『豚インフル』と診断される可能性は高いが、日本社会で働く人々は簡単に休める環境にないことを考えると、単なる風邪だろうということで、マスクをして通勤するのは日常茶飯事。

満員電車に乗った時点で、数十人の人々の体内にこのウィルスは侵入、抵抗力のない場合はたちまち『豚インフル』に罹患。さらに感染は広まることは容易に想像がつく。

加えて恐ろしいのは、『豚インフル』に有効なワクチンがないということである。鳥インフルエンザに対しては研究が重ねられて、3000万人分の備蓄があるとのことだが、ワクチンがないとなるとウイルスの暴れるのに任せて嵐の過ぎ去るのを待つしか手がない。

この『豚インフル』病気は従来にはなく、人のインフルエンザや鳥インフルエンザ(AI)のウイルスが『豚の体内』で変種を起こし、人に感染したのだという。

どうして人間が感染したかその経路はまだ確認できていないとのことだが、素人でも豚肉の中にウィルスが潜んでおり、それを食べたのだろうことは容易に想像できる。

厚労省や農水省の担当者は、このウイルスは71℃で死滅するというから、十分に加熱すれば食べても発症することはないと説明しているが、このところのこれらの役所の言うことはインチキが多いので信じるに足りるかどうか疑わしくもない。

これでは豚肉を敬遠したくなるのも無理はなく、生計を豚肉に頼っている人たちにとっては凄い痛手になるのではないだろうか。

我が国では『鳥インフルエンザ』という言葉には異常とも思えるほど敏感に反応し、このインフルエンザの原因となるウィルスが発見されたら、そのまわりに近づくことも禁止して徹底的な消毒はもとより、鶏舎で飼われている全ての鶏を焼却処分にすることが当たり前になっているようで、何度も同じようなニュ-スが流れている。

もしも、今回の『豚インフルウイルス』が、日本のどこかで見つかったら、そして不幸にして、そのウイルスがある一頭の豚から発見されたらどうなるだろう。同じ豚舎の豚を全て焼却処分にするのだろうが、その光景をマスコミはどのような画像で報道するのだろう。想像するだけで気持ちが悪くなる。

ウイルスは地球上のどこでも、鳥にも豚にも、犬にも猫の体内にも存在する。当然人間にも存在するのは当たり前・・・。人間が次々に自然環境を変えるものだから、ウイルスだって対応するのは当然で、変移を重ねて人体に入り込んでいたずらするものが現れても何らおかしくない。

鳥ときて豚となると、次には牛に来ることを想像できない方が不思議。信じたくないが、間もなく『牛インフル』という言葉が現れる他とは確実なように思えるが・・・。(田舎親父)

2009年4月27日 (月)

人間の母性は動物以下になれ果てたのか・・・

 『豚インフル』という聞き慣れない言葉が世界中を駆けめぐっている。なんでも豚が介在するウィルスが引き起こすインフルエンザらしいが実態はまで闇の中。いよいよ人間の悪行に対して自然界からの逆襲が始まったのではないだろうか。

今日は、このことを話題にしようと思ったが、いい加減な情報ではなかなか自分の考えを表せないので改めて述べることにして、今日は大阪で起きた、これが人間(しかも母親が)がすることか・・・という事件を取り上げることにしたい。

『児童虐待』などという生易しい言葉では言い表せないほど、悲惨な事件がまたまた報じられた。

4年生の女の子が行方不明という見出しを発見したのは数週間も前だった。自宅に戻らないと母親から失踪届けが出されたので、捜査を開始したというものだったと記憶している。その時は、また誘拐でもされたのか・・・と思ったものである。

続報で、この女の子は母親と内縁の男と同居、虐待していた可能性・・・という記事に『あっ、これはいつものパタ-ン。下手するとすでに殺害されているのでは』と思ったが、その危惧通り遺体が発見された。実の母親に折檻されて殺される娘が哀れ・・・。

しかも、実の母親と内縁の男と、その上男の友人と3人で遺体を運び墓地に埋めたというから信じ難い事件である。なぜこんな事件が繰り返されるのだろうと暗澹たる気持ちになる。

母親が離婚、すぐに新しい男と同居するが、子どもが男に懐かないのだろうが、殴る・けるという暴行が始まる。これは児童虐待(子殺しと表現した方がよいが)の典型的なパタ-ンである。小学校4年生というから、男はこの女の子に性的な虐待もしていたのかもしれない。

普通は、母親が必死になって止めたり庇ったりするのだろうが(これが母性だと教えられたし信じているが)、この種の事件に関わる母親は、母性しら男に奪われているように男の我が子に対する暴力を見ないふり、いやそれどころか、いっしょになって我が子イジメ。このような母親の心理は一体どうなっているのだろう。

自然界においては、いかなる場合でも子どもを守るのが母親の本能で、この本能を失うのは動物園で飼育されている、人間の心理を見抜いた動物だけ。現代の人間は、心まで動物以下になれ果てたらしい・・・。

報道によると、女の子が殺されたのは(たとえ衰弱死だとしてもベランダに放置したり、食事を与えなかったというならば殺したと同じ)母親が捜索願を出す前の日だったというから、自分で殺したのか男が主犯だったかは別にして、我が子が死亡したことを隠蔽した工作であること間違いない。

さらに、母親と男は飲み屋でビ-ルを煽りながら笑っていたというから、まさに鬼畜の行い、悪魔に人間として・母親としての魂を売り渡したとしか思えない。

捜索願が出された後で、女の子の実父が必死になって写真を持って情報の提供を、駅前などで通行人に訴えていたといわれているが、ひょっとしてという思いがあったのかもしれない。『ハラワタが煮えくりかえる・・・』とも述べているらしいが、ならば何故、この女の子だけをこの鬼畜の母親に託したのか、知っても意味ないことかもしれないが、そのあたりがよく分からない。

好き嫌いは個人の感情が大きく左右することで、第三者からは到底想像もつかない背景があることは理解できる。この34歳の母親が夫と、どうしても別れなければならない事情があったのかもしれないが、自分たちの子どもを荷物のように分けるという考え方は、私には到底理解できないことであると同時に、絶対に許せない。

ところで、子どもが関わる事件では必ず学校の責任が云々される。今回も校長が記者会見で『家庭訪問をしていれば・・・』という意味のことをコメントしていたが、こんな事情では、とても担任が家庭訪問していても会えたとは思えない。それよりも、新しい父親に殴られたことの報告を受けたにも関わらず、そしてその後の虐待を示す何らかのサインを見落としていたことの方が責められるだろう。

児童相談所は『少しでも虐待の可能性があると疑ったなら、通告してもらいたかった』と、学校の対応を批判しているらしいが、この役所の行動が決して早いとは思えないことを知っているので、適切な対応がとれたかどうか疑わしい。

それよりも近所の人が大変な場面を目撃しながら、放置していたことが問題ではなかろうか。警察に通報したという報道もあるが、本当ならば警察は親が子どもを殺すのを黙認していたことになる。こんなことがまかり通っては、とても法治国家とはいえないと思うのだが・・・。

こんな理不尽で悪魔の仕業だとしか思えない3人に対しても、裁判の場では弁護士がつき『反省している』という理由で、できるだけ軽い刑罰になるように論述するのだろうが何か釈然としないものを感じてならない。

私が裁判員に選ばれ、この事件を担当したとしたら、(いかなる弁護の論を聞いても)世の虐待されている子どものため、また同じような境遇にある母親のためにも(警鐘の意味をこめて)、実の子を死に至らした母親は当然ながら、男にはそれ以上の厳罰に処すことに賛成する。(田舎親父)

2009年4月26日 (日)

お前ら ちょっと違うんでないかい・・・

最近、クレジットカ-ドはもちろん、どのス-パ-や量販店、はたまた、ちょっとした専門店でも、独自のカ-ドを発行し購入岳に応じてポイントを付与する『ポイント制』が当たり前になっている。

『ポイント制』というものは、普通は100円で1点のポイントがつき、それをある程度貯めることによって、1点につき1円分として値引きや他の景品に換えることができるという制度だと理解している。

確かに消費者にとっては買い物をすればいつの間にかポイントが貯まっているので、便利でしかもお得感がある制度であるが、独自のカ-ドを発行していない店でも、消費者は現金で支払うより、ポイントが加算されるクレジットカ-ドでの決済にすることが普通になっているようだ。

クレジットカ-ドで決済すると、手元に金が戻るのに時間がかかるので、普通の店では現金決済の方が嬉しいはずなのに、決済できないと利用してもらえないことや、店自体も現金を扱うよりカ-ド決済の方が、面倒がなくて良いという考え方が大勢を占めるようになってクレジットカ-ド利用が当たり前になってしまっている。

かくゆう私のような古い(感覚も年齢も)人間でも、お金を持たなくてもすむので、まとまった金額の買い物にはクレジットカ-ドを利用するようになっている。また、最近では、ポイントが付かなくてもスイカやエディというカ-ドを持っていれば、使える交通機関や店が増えたこともあって、それらのカ-ドで買い物をしているのだから、若い年代の人たちがカ-ドを利用するのは当然だろう。

そんな『ポイント制』を景気対策に使おうとしたのが『エコポイント』らしい。政府は省エネ家電に換えることが、いわゆる『エコ』だと定義(ちょっと違うと思うのだが・・・)だが、省エネ家電の買い替える購入者に『エコポイント』という奇妙なネ-ミングの『ポイント』を付与する制度を景気対策のウリの一つとして検討していたようだ。

それが巷に知られるようになり、家電店では制度開始を待つ消費者の買い控えが起きて(このままでは困るという苦情でもあったのかどうかはわからないが)ボーナスシーズン前にポイント付与だけはした方が人気が出ると判断したらしく、5月15日からこのポイントを付与すると発表した。

しかし、ポイントの利用方法などの詳細はこれから詰めるというから、言葉にならないほどいい加減な話。エコポイントをもらうには、5月15日以降に購入した際、購入店や購入日などが分かる商品の保証書や領収書を保管しておき、制度を運営する事務局に送付する必要があるというのも、取ってつけたような説明である。

その事務局の運営者を民間から公募する方針(?)で、『夏をめどに実際にポイントを使えるようにしたい』と、今後、経産、環境、総務の3省合同のプロジェクトチームを発足して、検討作業を進めるというから、まるで雲をつかむような話。困ったものである。

消費者には、どのようにポイントが付加され、そのポイントが何に使えるのかという点が周知されていない上、国会の審議の状況によっては、ポイント付与だけで、何にも使えなくなったりするという笑えない笑い話さえ噂されているという。

繰り返しになるが、『エコポイント』とは、要は『省エネ』というマ-クの付いた家電を買うと、価格の何パーセントかをポイントで還元し、次の買い物での値引きに使えるシステム。現在の量販店で行っているポイント制を単にパクったと言われても仕方がない代物のようだ。

それは、ここでは不問にするとして、エコの本当の意味からは買い換えなどをできるだけ控えて、物を大事に使うこと。いわば、経済活動が一番のエコに反するはずだが、ポイントを付与して買い替えを喚起するような制度を導入、しかも、また天下り用なのだろうが『エコポイント事務局』などという組織を作って、そこでとりまとめるなどは『お前ら、ちょっと違うのではないかい・・・』と言いたくなる。

『エコ』という言葉やマ-クが付くと何でも『環境に良いもの』だと思い込む国民の意識の持ちかたも問題だが、『エコ』というネ-ミングをつけて、極端な表現をすれば,いわば『ダマシのテクニック』で経済効果をあげるという発想はいかがなものなのだろう。(田舎親父)

2009年4月25日 (土)

大騒ぎするほどではないと思うのだが・・・

芸能音痴の私でも『SMAP』という人気グル-プの存在は知っている。このメンバ-はNHKもお気に入りらしく、年末恒例の紅白歌合戦や大河ドラマの主役に抜擢しているぐらいだから、いまや日本では知らない人間はいないといっても過言ではないのでは・・・。

その一人であるクサナギ君という青年が都内の公園で酔っぱらって全裸になって騒いでいたとして、公然わいせつの疑いで警視庁に現行犯逮捕されたということが新聞・テレビで大きく報じられたのは一昨日のこと。

彼は、NHKの地上デジタル普及のメインメンバ-としてお馴染みで、毎日のようにチデジの普及コマ-シャルが流れているので知名度は全国的。いわば一番旬なタレントといっても差し支えないだろう。

やや細面で鼻筋が通った日本人離れした顔は、重厚な雰囲気はないもののまじめそうな印象を受ける。その風貌は、ひょっとして西アジア系の人種の血が入っているのではないかとも思える。

芸能界での評価は、だいたいは人間的にしっかりしている好青年だという。その超人気の好青年が真夜中に全裸になって大騒ぎしたというから、これはマスコミの格好の餌食になるのは仕方ないが、どうもその扱いが大袈裟なような気がしてならない。

全裸になって大騒ぎは行き過ぎだろうが、酒飲みの人には程度の差はあるものの、酔っぱらって前後不覚になり自分がしていることもわからなくなった経験は一度や二度はあるのではないだろうか。

34歳にもなってという人もいるが、若くして人気タレントになり金銭的には何ら苦労もなく、周りからチヤホヤされているとなると、考え方が自分中心になることは当然だろう。その時、我が儘を表に出せる人間であれば、周りは迷惑するものの、ストレスは溜まらないのだろうが、彼は内に秘めるタイプだったのではなかろうか。

そんな性格であったとしたら、いろいろな問題が内面に蓄積して、一人になった時に急に酔いがまわり、前後不覚になって服を脱ぎして大暴れ?したのでは・・・。逮捕されたというニュ-スに接した初期の感想であった。

ところが、時をおかず彼が住む高級マンションを家宅捜査という報道にはびっくり。普通は、本人が容疑も認め反省の言葉も口にしている状況で、しかも『酔っぱらっての大騒ぎ(か、どうかはわからないが、公園で裸になって大声をだした程度で・・・)』は大目に見られる風潮の中、家宅捜索とは何か違和感を覚えてならない。

このところ検察や警察が何かの力に操られるかのような、時に強引と思われるような捜査が目立つが、今回の家宅捜索は芸能人やスポ-ツ界、あるいは大学生に最近蔓延している大麻や覚醒剤という麻薬などとの関連しているのでは・・・とも思わせる、意図的な何かがあったのではないだろうか。

家宅捜索は30分程度で終わり、押収物はないとのことであるが、警察の『あくまで動機や背景を探るための一般的な理由。全裸癖などの嗜好性があるか物証を探しただけ』という発表も奥歯にものが挟まったような表現はなにを意味しているのだろう。

あらかじめ、彼の交遊関係に麻薬などに関連しているという情報を得ていたのか、あるいは取り調べの過程で、同様の供述でもあって麻薬など別件の可能性をつかんだのではというところではないかとも思えないでもないが、逮捕時泥酔していたが薬物反応はなかったという報道を信じれば、これも無理がありそう。

このことは時間が解決してくれるだろうが、国策として『地上デジタル放送』の普及を進めている時だけに、主役の彼の今回の不祥事には政府も真っ青。ハトヤマ総務相は『そんな奴をイメージキャラクターに選んだのか。恥ずかしいし、最低の人間だ。絶対許さない』と声を荒らげて激怒しているらしい。

最低な人間という表現は取り消したようだが、酔っぱらって裸で暴れた程度の青年に対して、どうも大人げないような気もしなくはない。彼を最低の人間と言うならば、自分の周りには、きっと最低の上にもさらに超とつく最低の人間はゴマンといるに違いなかろうことに気付いていないようだ。

自分の直轄の事業に対して国民的同意を求めるために起用したタレントが、このような事件を起こしたことに、思わず言い放った総務相の怒りはわからないわけではないが、酒癖ななどにも、当然厳重な身体検査をしたはずだろうから、クサナギ君を起用した総務省の責任も問われるのではないだろうか。

ともあれ、ちょっと騒ぎすぎているとしか表現しようがない事件であることは間違いなさそうだ。

蛇足になるが(ないことを祈っているが)、もしも彼が麻薬などの事件に関連していたとしたら、芸能界にはシロと思える人物など存在しないのでは・・・と思われても仕方ない事件でもあるが・・・。(田舎親父)

2009年4月24日 (金)

ますます医者は大変になりそう・・・

 最近はどんな症状でも名前をつけるのが流行らしく、手のひらに多量の汗をかく症状にも、普段はあまり耳にすることはない『手掌多汗症』という立派な名前がついているようだ。

一般に、緊張状態になると手を握りしめ、後で手を広げると汗で濡れていることがよくある。このことは私も何度も経験している。ところが、この『手掌多汗症』の人となると、緊張しなくても常に手に汗をかいてしまい、その汗が半端ではないから日常生活でも困るらしい。

私の周りには存在しなかったので、俄には信じられないが『汗で紙が濡れるため字が書けない』とか『汗で滑って物をよく落としてしまう』あるいは『汗が滴り落ちてパソコンが壊れる』とか『汗で金属がさびる』などという悩みの人もかなり存在するという。

このような手掌多汗症の人は、ただ『普通の人より汗をかく』というよりも、それにより生じる様々な問題や悩みが、その人の性格や人生まで左右しかねないというから、実際の生活に困るのは、こんな症状を知らない私でも容易に想像がつく。

当然ながら、何とか治療を受けて直したいと思う気持ちが強く、最近はこのような人に外科的な手術がさかんに行われているという。

しかし、この手術をした人から、手のひらには汗をかかなくなったが、体の他の部分に異常に汗を書くようになったという苦情も増え、中には、手のひら以外の部位の異常な発汗が社会生活が困難になったとして、病院側を相手取り提訴するケースが相次いでいるとのことである。

全国でこれまでに少なくとも6件あり、先日は東京高裁が医師の説明不足を認定し病院側に賠償を命じたというから、医者もおだやかではないだろう。

記事によると、この手術は『胸腔(きょうくう)鏡下胸部交感神経切除術(ETS)』と呼ばれ、内視鏡と電気メスで脇の下の交感神経を切除するようだが、言葉で説明されてもちょっと想像がつきかねる。

しかし、この手術によって手掌多汗症は治るが、別の部位の汗が増える『代償性発汗』と呼ばれる副作用が、程度の差はあるもののほとんどのケースで起きるというから、これは相当やっかいである。

ある中年の女性は20代の時ピアノの鍵盤が汗で滑って困ることから東京の病院でこの手術を受けたが、手の汗は止まったものの背中や太ももから滴るほど汗が出るようになったという。

スカートがぐっしょりとぬれ電車の座席にしみができるため、公共交通機関は利用できなくなり、夢だった海外留学や就職もあきらめて、数年後に手術をした病院側を相手取り慰謝料など約1億円の賠償を求め提訴したとのこと。

この一審の裁判は『代償性発汗を患者に説明したが不十分だった』と病院側の説明義務違反を認め110万円の支払いを命じ、これを不服とした女性側の控訴審でも『代償性発汗は相当に重篤。副作用を可能な限り具体的に説明すべきだった』として、相当額の賠償を命じたとのこと。しかし、裁判官は判決に付帯して、いずれも『十分な説明を受けても女性が手術を受けた可能性は相当程度あった』と指摘しているというから、副作用などの説明はある程度されていたと考えられる。

この手術に詳しい専門医は『ETSには手の汗の悩みを確実に解消する効果があることは間違いない』と断定し、副作用の代償性発汗の程度が著しい人は少数で、大半は満足感を得ているのも事実と語っている。

要は、副作用を丁寧に説明し、手術を受ける意思があるかどうか確認するインフォームド・コンセントが行われていれば問題と起こりにくいコメントだろうが、インフォ-ムド・コンセントの捉え方が患者によってかなり差があることの説明がないのが気になる。

専門医の言うことはもっともであるが、どこまで説明したかどうかは後でなかなか判明しにくく、はじめから手術をしてほしいと思っている人にとっては、手術前の説明が単に頭の上を通りすぎている場合も考えられる。

裁判に持ち込むことを否定する気はない。医療ミスもあるだろうことは承知している。明らかなミスに対して泣き寝入りすることはないが、医師とても人間、人間がやることに常に完全を求めること自体無理があるのではないだろうか。

医療ミスをなくすためにも、患者と医師との信頼関係が何よりも大切だと思うのだが、医療関係の訴訟では(多くの場合)どうも最初からボタンのかけ違えがあるように思えて仕方ない。

医療ミスがないことは当然として、なるべく裁判沙汰などにならないような社会になりたいものであるが、今の医療の現状では無理かもしれない・・・。(田舎親父)

2009年4月23日 (木)

全国一斉学力テストの意義はなくなった

 数日前の東京新聞の社説に『学力テスト 一斉の目的が見えない』と題して、今年度前2回の学力テストに不参加だった犬山市が参加に転じたことを取り上げ、今回の全国学力テストは国公立全校で実施されるが、私立校の参加は減る一方で、文部科学省がこだわる『一斉』にならないと述べ、それは学力テストの目的が見えないからだと論じている。

 はっきり学力テストなど意味がないと断言していないのは、商業新聞の限界で仕方ないと思うが、皮肉を込めた論述はなかなか鋭く、なるほどと思わせる。

 すでに読んでいる人も多いとは思うが、まずはこの社説をそのまま引用させていただき過当なテストの点取り競争を批判したい。

 (全文引用)二十一日の全国学力テストは愛知県犬山市が参加に転じ、国公立は全校で実施される。だが、私立校の参加は減る一方だ。文部科学省がこだわる「一斉」にならないのは、目的が見えないからだ。

 小学六年と中学三年が対象の全国学力テストは今年で三回目だ。全国の自治体が初回から参加したなかで、犬山市は「競争で学力向上を図ろうというテストは教育理念に合わない」と過去二回とも不参加だった。

 しかし、三月の市教委で今年は参加を決めた。不参加に批判的な田中志典市長は教育委員を増員し、任期切れとなる参加反対派委員を賛成派委員に入れ替えた。多数派工作が実った結果といえる。

 保護者のなかには「なぜ犬山だけが不参加なのか」「テストを受けさせ、結果を知りたい」といった疑問や反発があった。市長はそんな声に耳を傾けたのだろう。

 市教委が不参加を貫いてきたのは、瀬見井久教育長の強い個性と指導力もあったろうが、独自に進めている教育改革への自信と自負があったからにちがいない。

 点数ばかりに注目が集まる学力テストを教育現場でどう役立てるのか。学校別の成績公開はしないとみられるが、市としてデータをどのように活用していくのか。

 ここで参加に転じるなら、そこまで踏み込んだ議論をしてほしかった。犬山市の努力は全国から注目されていただけに、「横並び」と落胆させてしまう。

 国公立は全校参加となるが、私立はテスト離れが進む。参加校は一昨年62%、昨年53%だったが、今年は48%とさらに下がる。

 不参加の理由はいくつかある。結果が届くのが遅くて活用しにくい▽学校の学習進度と合わない▽学校や生徒の客観的な学力は民間の模擬試験で十分-などだ。

 いずれも児童生徒にとって役立たないという判断だ。文科省はテストの目的を「全国規模で結果を分析し、学力向上に活用する」というが、私立の減少傾向はテストがその目的に合致していないことを裏付けているのではないか。

 義務教育なのに公私間で対応に差があれば「一斉」の意味は薄い。国公立実施校も半分程度の抽出調査に変えてはどうか。一回五十億円以上の費用も削減できる。

 学力テストは競争原理による学力向上が図られ、結果を通じて各教委を監督できる。国が一斉に固執するのはそんな狙いと思惑があるのでは、と勘繰ってしまう。(引用終了)

 社説も指摘している通り、義務教育なのに国公立と私立では全国一斉学力テストに対する姿勢にかなりの温度差があるのが気になる。国公立には『何が何でも参加せよ・・・』と圧力をかけながらも、私立には、ある意味参加の自由を認めるという背景はなんなのだろう。

 私立中学校が大人気。そのための塾通いが最近では小学校の中学年からはあたり前になっている。私立の小学校はもっと人気らしく、公立の幼稚園などに通っていては合格はおぼつかないのが現状という。これが異常だとも思わない風潮が問題だと思うが、それについてはここでは述べても話が先に進まない。

 私立の学校が存在し、公立の学校より明確で独自の教育方針を持っているとなると、私立志向も当たり前。そのため必死に勉強する姿勢も、子どもの心身ともに豊かな成長という点から見ると問題があるものの、頭から否定する気はない。

 そんな勉強を積み重ねて合格してきた子どもにとっては、全国一斉の学力テストの問題に正答するのはそれほど難しいことではないだろう。しかも、結果が9月にした各学校に戻らないという時間的な遅さから、学校にとっては役に立たない代物であることも間違いなさそう。ならば時間の無駄遣いだと参加しないのは当然だろうし、来年も行われるようならば参加校はさらに減少することは確実ではないだろうか。

 しかも、学力テストの結果が一人歩きしているのが現実であるにも関わらず、文科省がいくら『地域間の点数競争になってはならない』と強調しても、点数が低い自治体は心穏やかではないだろう。

 2年続けて最下位クラスの自治体の首長は『全力を挙げて学力向上に取り組んできた。結果については私の責任。子どもたちには頑張ってもらいたい』と公言しているらしいから、首長自らがこの学力テストの結果がその地域の知的バロメ-タ-だと思っている証拠だろう。

 校長の責任で回答するようにとの学校に対する質問事項も分析していくとかなり問題が含まれる。一見、校長の判断で回答できるように思いがちだが、たとえ学校名を書かなくても良いとあっても、回答の項目から学校が特定できるように構成されている。

 これでは校長は自由に回答できる訳がない。まさに、全校一斉学力テストの本質は、競争原理を利用して都道府県の首長や教育委員会を『結果の点数』に集約させ、教育システムそのものを国が一元管理するのが狙いであることは間違いなさそう。これは恐ろしいことである・・・。(田舎親父)

2009年4月22日 (水)

接待費?に150億とは・・・

 2016年のオリンピック開催地を東京に招致しようと、かなり強引な誘致運動や世論操作が展開されていることは周知のこと。

先日、開催地を決めるために現地調査に来日した国際オリンピック委員会(IOC)の評価委員会に対する都知事はじめ都の幹部諸氏の対応は、まさに『異常接待』としか言いようがないほどの気の使い方。何か哀れさえ感じてしまった。

東京視察を終えたムータワキルという委員長は、接待に満足したのか、笑顔で『東京のビジョンやコンセプトに大変感銘を受けた。五輪を開催できることが分かった。コンパクトな五輪になるだろう』と評価していたが、シカゴでも同じような評価をしたというから、単なる外交辞令ではと思わないでもない。

多分秘密裏で進めていたのだろうが、ビックサイトで公開された都の立体模型などは凄いとしか言いようがなく、改めて都知事の意気込みに驚く。テレビのニュ-スでは(私の聞き間違いでなければ)職員が一つ一つ手作りで作っていると紹介していたが、都のどの部局の職員が担当していたのだろう。

このジオラマの完成にどのぐらいの期間を要したかは聞き忘れたが、これ程まで精巧な模型を素人集団が作るとなると1年や2年はゆうに必要だろう。制作費が5億円とも紹介していたが、この不景気のなか豪勢な話である。

都知事の『これには委員たちもびっくりしていたぞ・・・』と得意そうに話している姿を映し出していたが、全部が都の職員の手作りとはとても思えない。実際はジオラマ作成の専門業者が介在しているだろうが、こんな凄いものを見せられたら委員たちがびっくりするのは当然だろう。

委員たちを招待しての首相が主宰する迎賓館で開かれた『晩餐会』の様子もテレビ局が競って放映していた。首相や都知事の得意そうな笑顔で挨拶している姿が強調されていたが『これだけ接待しているのだから、東京に票を入れるのは当然』と、まるで札束で横っ面をはるようなやり方だと感じ、違和感を覚えたのは、私が貧乏人だからだろうか・・・。

東京の準備した招致費用は150億円らしいが、この莫大な費用は全て都民の税金に違いない。オリンピック招致を公約にした知事を再選したのは都民だから、これについて他県の者が批判すると叱られそうだが、それにしても壮大な無駄なように思える。私と同じ思い人も少なくないのではないだろうか。

今回のオリンピックの招致ははじめから無理があることは以前にも述べた。アテネを除いて、五大陸をある程度回り持ちして開くのがオリンピョク委員会の方針だと言われている。最近の開催地がシドニ-・アテネ・北京、次回がロンドンと言うのだから、次は当然北アメリカか南アメリカ、また中東かあるいはアフリカの都市の開催となるのが普通だろう。

しかも、北アメリカからはシカゴ、南アメリカからはリオデジャネイロの両都市が立候補している。両方とも世界に知られた大都市、いくら東京が知名度抜群といっても、はじめから難しいことはわかりきったことではなかっただろうか。

都民はともかく国民の多くはそのことを理解しているらしく(最近は少し盛り上がり気味だと言われているが)オリンピックなんて・・・という雰囲気が大勢を占めていることも確か。

今回の接待にも関わらず、10月に開かれるIOCの総会で、東京以外の都市が決定されたら、150億円は全くの無駄遣いになることは火を見るより明らか。あのジオラマも開催が決まったら展示する価値があり、展示場誘致という争奪戦もあるだろうが、落選となると、あのボリュウムでは場所を探すのも容易でないだろう。

都知事は自信満々で、もしも落選すれば辞任するともとれる発言をしているらしい。それは当然だろうが、オリンピックが開催できない、150億(それ以上だろうか)の借金は負担しなければならないとなると、都民のツケは大変なものになりそうだ。

よしんば、接待が成功して2016年に東京でオリンピックが開催されることが決まったとしたら、これも大変。このことを前提に築地の移転問題が起きていることも今では誰もが感じているだろうし、『オリンピックのため』という論理で、凄まじい無理が通ってしまうのではないかと危惧している。

現在でも『進むも地獄 退くも地獄』となると、2012年の秋、ロンドン大会が終わった後あたりには、『むしろ150億円を溝に捨てた方がましだった・・・』という声が上がらないとも限らない。

それ以前に、『参加することに意義がある』というオリンピック憲章は言葉だけで、実際には金メダル競争のためには何でもあり・・・の金儲けだけが目的のイベントに成り果てたオリンピック。

これだけ地球が狭くなり、貧困撲滅や地球環境などは全世界の共通の課題になった今、少し立ち止まって、オリンピックそのものの在り方を議論する時期に来ているように思えるのだが・・・。(田舎親父)

2009年4月21日 (火)

やはり失職してしまったが・・・

 ブログで議員や市役所を批判して議会から不信任案をつきつけられ、議会を解散した鹿児島の阿久根という、ほとんど知られていない小さな自治体の市長と議会の対決模様を、話題としては面白いのでマスコミは大きく取り上げている。

そのマスコミ報道によると、市長と議会とのバトルが相変わらず盛んで、選挙の結果選ばれた議員が改めて不信任案を決議したので市長が自動失職したという。

議員の数が多過ぎるというこの市長の主張は納得できる。自分のブログで議員の人気投票という発想も賛成。職員からの反発覚悟で、職員の給料を公開も賃金のわりに働かない職員に対する強烈なアピ-ルとして面白い。

この市長の主張は多くの市民からは拍手喝采されるだろうが、いろいろと既得権や利権を持っている人たちにとっては、自分の生活基盤が根底から乱されると危機感をもつことも当然で、やり直しの市議選挙にはかなり力を入れたに違いない。

その結果、不信任案かけつのギリギリために必要なギリギリの議員数は確保して、自動失職に追い込んだのだろうが、市長を支持する議員が2人から5人に増えたということは意味がある。

市長も『予想通り。現実は受け止めます』と語り『どうしてこんなに公務員と市民の間に格差があるのか。市民に考えてもらいたい』と、出直し市長選で市職員・議会改革を訴えると、ヤル気を出しているというから見物・・・。

どこの自治体でも同じだが、こんな個性的な市長を応援する気持ちのある人たちは、どちらかといえば資産も地位もない人たちが多いので、いざ市議に立候補するとなると、その準備の方法すらもわからず勝てる戦術すら持たなかった人が少なかったに違いない。

それがたった3人だけしか市長派の議員を増やせなかったのだろうが、5月下旬に予定されている市長選挙では、記名する人の名前は一つ。しがらみがあって市議選挙では特定候補に投票しなければならなかった人たちも、気負いなく投票できる雰囲気があるだろうから、圧倒的な数で当選できるのではないかと内心期待している。

この市長の対抗馬が国交省の官僚というのもいただけない。反市長派の輩が考えることは、国と通じている人物を市長にすれば、国からの補助金がもらえるのでは・・・という魂胆が見え隠れしているが、これでは自治体は今までの体質を変えることはできない。

無給の奉仕活動という気概のある人ならば、議員ならば何人いても構わないだろうが、たった2万5千人足らずの市に16人の議員は多過ぎることは明らか。これはあくまで推定だが、少なく見積もっても議員一人当たり年間一人1000万円以上は市民の税金が使われているのではないだろうか。

すると議員に支払う報酬だけでも2億円ぐらいの税金が消える勘定。この程度の規模の自治体の予算がどれほどのものか詳しい実態は知らないが、議会関係の予算が市の財性を圧迫していることは間違いなさそう。これでは新しい発想を出せというのが難しい。

もっともだからこそ、国の補助金頼みという考え方しかできないのだろうが・・・。

また選挙かと無駄を指摘している市民も多いだろう。財政的に考えると出直し市長選挙ということ自体無駄な出費なのかもしれないが、そんな出費は議員定数の削減や職員の意識改革で簡単に補填できるはず、批判はともかくまず投票しなければ・・・。

ところで、全国市議会議長会などによると、2回の不信任決議を受け自動失職した市長はこの10年間では、07年に兵庫県加西市の中川暢三という市長だけだという。

 どこかで聞いたことがある名前だなと思って記憶をたどってみたら、この中川氏とは長野県中野市の町おこしのイベントの手伝いで同行したことがあることを思い出した。その時は、故郷で市長に立候補すると話していたようだが、実際に市長になっていることに、凄いと敬服。しかも、職員や議員の削減などで議会と対立したというのも今回の阿久根の市長と共通するのは面白い。

俄然、竹原という失職させられた市長に肩入れしたくなった。が、決めるのは市民の皆さん。どちらの候補が、自分たちが生活している地域を、自立させ発展させられるか、二人の言うことをじっくり聞き、自分で判断してほしいものである。(田舎親父)

2009年4月20日 (月)

溝に捨てられる1000億円あれば・・・

 アソウ総理が上機嫌で『パキスタンの安定なしにアフガニスタンの安定はない、またアフガニスタンの安定なくしてパキスタンの安定はない・・・』と、かっこつけた演説口調で1000億円をアフガニスタンのテロをなくすためにという名目で、パキスタンに支援するために拠出すると表明している映像を見て、この御仁は自国の人の暮らし向きなどは頭にないのかと首を傾げてしまう。

アフガニスタンのタリバンという組織のやり方には反対する。が、その後ろ楯はイスラムという宗教の存在がある。イスラムの教えというのはわれわれ日本人には理解するのがきわめて難しく、不思議としか表現できないことが多々ある。

そのあたりをじっくり考えないで、ただテロ組織だと断定して徹底的に殲滅するというアメリカ流の軍事行動に盲目的に従うことが当たり前になってしまっている我が国の政府のやり方には危険なものを感じてならない。

フセインの暴挙を許せぬ、と軍事行動を起こしてフセイン政権を倒した時、日本のマスコミはこれでイラクは安定するといったニアンスで、これを大々的に『是』とする構成で報道したが、実際にはイラクは今でも政情は不安定。

オバマ政権になって泥沼化しているイラクから撤退するという方針を打ち出したようだが軍事に頼るアメリカという国の本質は変わらず、今度はアフガニスタンのテロ組織を撲滅するために行動を起こすと明言している。

政治音痴の私には、なぜ日本政府と世界銀行が主宰したのか、その背景は理解できないが、東京で開催された『パキスタン安定会議』という集まりには、約40もの国が参加したとのこと。

そして、参加国・国際機関がそれぞれの資金協力の規模を表明して、今後2年間に総額で日本円にして約5000億円の財政支援することに合意したというから、これは参加国がアメリカに対して何らかの思惑があったからだろうことも容易に想像できる。

その5分の1に当たる1000億円を日本とアメリカが受け持ち、残りの3000億円を集まった各国で受け持つとのこと。アフガニスタンのテロ撲滅という政策を打ち出したアメリカが1000億円を負担するというのはわかるが、日本がこれほどまでの金額を受け持たねばならない理由がよく分からない。

コイズミ首相がブッシュ大統領のいうことに対して『ハイ わかりました』と、言いなりになっていたことを、識者は『コイズミはブッシュのポチ』だと揶揄したが、今回のアメリカに追随した巨額の支援金を見ると、アソウという御仁はシッポを振るだけではなく、口を歪めて涎まで流して『オバマのポチ』になることを喜んでいるのではないかと思ってしまう。

パキスタンという国の現状はよく理解できないが、ブット元首相が暗殺されたり、軍事ク-デタ-が頻発していることから政情がきわめて不安定で、しかも国全体が貧しいという事実から一部の階層の人間が特権を持っていることは想像に難くない。

東南アジアや開発途上国に日本が莫大な金額を援助をしているが、日本のゼネコンなどが、そのカネを目指して支援国の政府要人や軍部に賄賂を渡して、道路やダムの建設を受注することが度々摘発されていることも事実。

街頭で募金を募り、集まったお金をその国の『政府関係機関』に送っても、実際には途中で消えるという話も度々耳にする。現金を送っても無駄、それよりエンピツやノ-ト、あるいは古着を大量に手荷物としてもって行き直接人々に配るのが確実と、実行している人も少なくない。私もその人たちに賛同し物資を集めた経験がある。

日本の援助(現金)の全てが、その国の経済の発展や貧困から脱出に使われることはなく、むしろ、そのほとんどが一部の特権階級の懐を潤していることは確実らしく、パキスタンもこのパタ-ンであることは間違いなさそうだ。

今回の1000億円の何割が本当にパキスタンの安定に使われるかが全く不透明で、ひょっとしたら全てが特権階級の懐にはいらないとも限らない。これでは、まさに1000億円という天文学的な巨額のカネを溝に捨てることになってしまう。

日本が豊かだと見られているようだが、実際は昨日も取り上げたが、高齢者医療の問題一つとっても豊かさとはほど遠く、『貧乏人は医者などにかからず、早く死んでしまえ』ともとれるような政策が続いているのが現状。

無駄なカネをバラマくのではなく、今日の日本にとって一番大切なことは、アメリカの命じられるまま1000億円を政府関係機関に送金することではなく、たとえその10分1の100億円を学校建設など、人々の暮らしを将来的に安定させるための資金として使うことに知恵を出すことではないだろうか。(田舎親父)

2009年4月19日 (日)

また高齢者イジメが始まりそうだが・・・

 このところ気になるニュ-スが多いのでネタ探しには苦労しないが、時間的に少し遅れることが悩みの種。しかし、それは仕方ないことと割り切って、今日は私もその仲間になった高齢者の問題を取り上げてみたいと思う。

『貧乏人は麦飯を食え』とは、随分以前の総理大臣の発言として有名だが、それでも麦飯を与えるだけの優しさはあった。しかし、一昨年から始まった医療費削減のためと称した後期高齢者医療制度は『麦飯も無駄飯の一つ、貧乏には医者などかからずさっさと死ね・・・』と言われても仕方ないほど高齢者イジメの制度であることは確か。

厚労省は後期高齢者との言い方がいかにも死ぬことを前提にした酷い表現という批判が大きくなり、何とか聞こえが良いネ-ミングがないかと探しているようだが、ふさわしい名前がないらしく、一つ一つに注釈をつけながらも使っているようだ。

この医療制度は当初の計画では70歳以上の中間高齢者の窓口負担割合を、発足時の1割を昨年度から2割に引き上げるはずだったが、ネ-ミングの悪さと政局のドタバタで、このまま引き上げたら高齢者の反発が大きくなって選挙に大敗しかねないという自民党と宗教政党の思惑で凍結しているとのこと。

しかしこのまま放置しておくと、医療費の財源が苦しくなるというので見直しを進めているらしく、先日その見直し案の骨子が厚労省のブロジェクトチ-ムから発表された。

その案によると、65~69歳の医療費の窓口負担割合を現行の『3割から2割』に引き下げる代わりに、08、09年度と2年連続で凍結している70~74歳の2割負担を実施に移すとのことである。

厚労省は65歳までは『現役世代』と認識させたいらしいが、一般サラリ-マンや公務員は定年が60歳であるにも関わらず、年金が65歳にならないと受け取れないという矛盾をどのように説明するのだろう。

庶民にとっては、この5年間をどうして食いつなぐかが大問題で、給料の極端にダウンを強いられるが嘱託として働ける人はまだしも、多くの人は職場を去って新たに条件が悪い就職口を探すのが現状であることから、『現役』と表現するならば、この問題を解決する方が先だろうに思わずにはいられない。

それはさておき、窓口負担を64歳以下の『現役世代』は3割、65歳から74歳までの『前期高齢者』は2割、75歳以上の『後期高齢者』は1割とするという。

65歳から70歳までの負担を軽減するというのは一見して改善だろうが、これは70歳から2割負担が凍結のあおりで、69歳は3割なのに70歳は1割という矛盾が説明できないので、何とか2割負担をさせたいという引き替え案のようにもみえる。

今回の発表は、現段階は骨子だけの見当であって、本格的な制度の見直しは今年の秋までには必ず行われる総選挙後に行うというから、選挙で現政権が続いたら『60歳代の人の負担を減らして公平感が出るようにする』という選挙を意識した案だろう。

その後ろには、60歳代はまだまだ元気な人が多いので医療機関にかかる人の割合は70歳代の人より少ないだろうから、この年代を引き下げてもさほどの負担はかかるまい。むしろ70歳代の医療費を計画通り2割徴収した方が医療財政ということからベタ-だろう、という単純な意図が見えているように思えるが・・・。

年寄りを敬うといいながら、行き場のない高齢者の何と多いことか。新聞には毎日のように高齢者が絡む悲惨な事件や、高齢者問題をどうするかなどという記事が掲載されている。

この国の指導者には、パキスタンの困っている人々に行き渡るとはとても思えない1000億円は気前よく出してまでアメリカのポチになりたい人間が多いらしく、パキスタンの本当に恵まれない人のために100億円を支援して、残りの900億円を我が国の身寄りのない年寄りのために・・・という発想はないらしい。

いずれ私も、誰かに介護されたり医療機関にお世話になるだろうことも想像しないわけではないが、できればそれらの機関に関わる期間はできるだけ少ないように過ごしたいと、強く思う昨今である。(田舎親父)

2009年4月18日 (土)

金儲けのためにはここまでやるか・・・

 景気の低迷が続いて売り上げが上がらないのだろうが、外食産業では次々と値下げをはじめているようだ。

先日、『牛丼』が売り物の『吉野屋』と『松屋』の値下げに続いて、同じく牛丼チェ-ンの『すき家』が値下げというニュ-スが報じられた。

アメリカ産牛肉は絶対に食したくないという主義の私には、外で『牛丼』など食べることはないので、こんなニュ-スは何ら影響はないが、たかだか400円程度の牛丼を、一割以上も引き下げて大丈夫なのか・・・と、こちらの方が心配になってしまう。

もちろん大丈夫だからこんな値下げをするのだろう・・・。が、一体、本当の原価はいくらなのだろうと素朴な疑問がわいてくる。

これらのチェ-ン店の親会社がアメリカやオ-ストラリアから大量の牛肉を極端な安価で輸入していると聞いたことがある。それをどこかで加工して全国に展開するチェ-ン店に配達しているのだろうとは思うが、それにしても店を運営するのには店員もいるだろうに、この人たちを余程安い賃金で雇っていなければやっていけるわけはない。

コンビニや洋服など全国に展開している会社は名前だけ『店長』とか『管理職』という役職につけることが当たり前になっているらしく、勤務時間が異常に長くなっているのにも関わらず、管理職だから残業代金を払わない方法をとっているらしい。最近これが問題になり裁判沙汰になる事件の報道を度々耳にする。

チェ-ン店を経営する親会社の幹部連中は自分の給料を削減するなどという考え方は、はなからもっていないはずだから、この1割強の値下げは、アルバイトがほとんどだと聞いている店員たちの待遇に影響することは容易に想像できる。

そんなことを考えていると、店のご飯を無断で食べたなどとして、牛丼チェーン『すき家』を展開するゼンショーという会社が、残業代不払いで同社を刑事告訴した女性店員を窃盗などの疑いで仙台地検に刑事告訴』という記事を見つけた。

何でもこの会社は、商品用のご飯どんぶり5杯分を無断で食べたとする窃盗などの疑いで店員を告訴したというから、これは物凄く『セコい』話である。しかも店の監視カメラの映像が証拠だと検察に提出しているというから、はじめから店員を泥棒扱いにしているのではないかとさえ思えてくる。

店員は『ご飯に洗浄用ブラシの毛が入ったため商品に使わず、まかない用のおにぎりにした』と反論したようで、結局のところ、嫌疑不十分となって不起訴になったとのことであるが、無断で食べたことは認めているらしいので、どちらもどちらというところか。

この店員は昨年、仲間2人と残業代の割増賃金が不払いだとして労働基準法違反の疑いで同社を刑事告訴したという。会社としては、雇用条件は法的に整備しているのに告訴は心外と許せなかった事情はわからないわけではない。

恐らく、この店員を何とかクビにしたかったのだろうが、問題を大きくしたくなかったので、何とか材料を探していたのではないかとも思われても仕方ない。

それにしても、防犯カメラで店員たちの行動を監視して、丼5杯を無断で食べたことを理由に『刑事告訴』という手段はいただけない。店員とその弁護士が『会社を刑事告訴したことに対する報復だ。ささいなことを取り上げて脅かしており許されないこんな手段で威嚇、報復するのは許されない』と反発するのも頷ける。

会社側にも言い分があるだろうが、値下げという利益に反することをしながら、材料の仕入れなどは当然としても、人件費までも徹底的に切り詰めて、結局は『金儲け』に走る体質があることは間違いなさそう。

これでは従業員が気の毒・・・。こんな店を利用する人間が多いことも確かだろうが、ついつい安さに惹かれてしまう庶民も、自分に置き換えて考えなければならない問題ではないだろうか。(田舎親父)

2009年4月17日 (金)

何故マスコミはこんなに大きく取り上げるのだろう・・・

 長い間不法に滞在していたフィリピン人の一家に対して国外退京が通告されたが、マスコミの後押しと支援者達の活動で、13歳の娘だけは滞在を許可したという記事を見てから数カ月過ぎたのではないだろうか。

新聞の記事には『夫妻は92~93年、出稼ぎのため、それぞれ他人名義のパスポートで不法入国。日本で結婚し、のり子さんが生まれた。06年に母親の逮捕をきっかけに国外退去処分となり、08年に最高裁で処分が確定した。その後、改めて在留特別許可を求めていた。』とある。

この記事が事実だとしたら、これは国際的には立派な犯罪である。フィリピン人から見ると経済的に豊かな日本に憧れるのは理解できるが、だからといって偽装の旅券で入国するのは許せることではない。

ごく普通に考えたら、何故その滞在を黙認していたのだろう・・・と素朴な疑問が生じる。そして、不法滞在を『違法』だと認可した時点で即刻退去を命じないのだろうか。

13歳の娘は日本語しか話せないのでフリッピンに帰国しても教育を受けられない、との理由は分からないでもないが、そんな問題は不法滞在を続けていた両親の責任であって次元が違うことではないだろうか。

両親は不法滞在がバレたらどうなるぐらいの知識はあっただろう。そしてこんな日が来ることを予測できたはずではないだろうか、と思えて仕方ない。

滞在許可が切れ、先日両親が帰国したようだが、それにしても、この一家に対するマスコミの異常とも思える取材と、揃って『家族がそろって滞在できるようにすべき』ということを前提にした論評が気になる。

一般社会では最高裁の判決は『最終結論』であると教えている。確かに再審請求という道があるが、最高裁の決定を覆すことは必難で『冤罪』で悔し涙を流しながら刑務所に入っているだろうと思われる人のことも取り上げられているのに・・・である。

『両親は日本の社会にとけこんでおり、犯罪の恐れがないから滞在させて良いだろう』との意見も分からないわけではないが、最高裁の判定に対して日本人は従え、外国人は別だ・・・というのはちょっと違うのではないだろうか。

多くの人がこの一家を支援しているらしい。その人たちの努力で、13歳の娘は日本で教育をうける機会が得られたのだから、それで十分だと思うのだが、マスコミの対応は、一人生活していかなければならない娘がかわいそうだだという『お涙ちょうだい・・・』の構成に終始しているのは変な話。

私にはこの問題の背景はよく理解できていない。が、とにかくマスコミの取り上げかたが異常なことが気になる。しかも、最高裁の判決を無視してまで、一斉に『滞在させてやれ・・・』とは理解の範疇を遥かに越える。

こんなことを書くと、お前のヘソが曲がっているからだとお叱りをうけそうだが、もっと取り上げなければならない重大なニュ-スがあるだろうに、ゴミのようなと言ってはいいすぎかもしれないが、不法滞在の外国人のことを大々的に取り上げるのは、話題を誘導するという、ジャ-ナリズムとしてあってはならない意図があるのではと思えてならないのだが・・・。(田舎親父)

2009年4月16日 (木)

冤罪を引き起こしやすい痴漢判決・・・

 3年前に小田急線の車内で女子高生に痴漢をしたとして、強制わいせつの罪に問われた防衛医科大学校教授の上告審判決の逆転無罪は、多くの人々からは概ね当然だと受け止められているようだ。

この種の事件は日常的に起こっているという。満員車内で女性の身体を触るという痴漢行為は卑劣なものであり許されるべきではない。これが大前提で、明らかな痴漢行為は厳罰に処すことは当然だと思う。

しかし、あの満員電車の実態を知っていれば、この大学教授は冤罪では・・・と思う人も少なくないはず。そう思わせるほど、意識的に触れようとしなくても身体が密着することは日常的に起きている。このことは私自身現職時代毎日のように経験してきた。

報道によれば、教授は指から微小物を採取され、警察官から『DNA鑑定をすれば分かる』と言われたとのことだが、その鑑定書は法廷に提出されなかったとのこと。これは、DNA官邸をしなかったか、それとも『否』の判定だったと思われる。さらに、繊維の鑑定でも、女子高生の下着と同じものは検出されなかったというから変な話である。

目撃証人もいないとなると、女子高生の供述だけが判断材料で、1、2審はこの証言をもとに有罪を言い渡したようだ。これは問題で、素人が参入しなければならない『裁判制度』が導入されたら、こんな判決が続出するのではないかという危惧が生じる。

最高裁の判決は、女子高生が成城学園という駅に着く前から痴漢をされていたと供述しているのに、同駅でいったん下車した後に再び車両に乗り、教授のそばに立った点などを不自然と判断したとある。当然だろう・・・。

犯人を特定するために再度そばに立って、犯人かどうかを確認したとも考えられないことではないが、実際に痴漢行為を受けてやっと逃れたのに、再び近づくなど普通では考えられない。それ以前に、下車後どうやって元の位置(教授のそば)に行けるのだろう。どう考えても供述には無理がありそうだ。

科学的な物的証拠や目撃証言もない。供述にも無理がある。なのに1、2審の裁判官たちは有罪にしたのはどうしてなのだろう。どうもこの種の犯罪では、まず被害者である女性の言い分を100%信用する傾向があり、それが『是』するのが常識になってしまっているように思えてならない。

判決は、満員電車での痴漢事件について『客観的証拠が得られにくく、被害者供述が唯一の証拠となることが多い上、被害者の思い込みで犯人とされた場合は防御の手だてが容易ではないとの特質から、特に慎重な判断が求められる』と指摘しているが、これもその通りで、今までその指摘すらなかったことの方が変ではないだろうか・・・。

実際に、女性がこれはと思われる男性の手をつかみ『痴漢です』と騒いで、示談に持ち込んで金品を得る、という手口も多いらしい。さらに悪い男と組んだ、時代小説では定番の『美人局』まがいの報道も少なくない。

このような破廉恥行為で逮捕され有罪となると、ほとんどの場合社会的な地位は奪われるばかりか、職場からクビを言い渡されるのが常であるので、『認めたら釈放』という警察の脅し?に『やっていない』のに『やりました』と認める人も多いという。

この教授が絶対にやっていないという証拠はない。女子高生が金品を得るためにウソを言っているとは思いたくないが、教授は一貫して行為そのものを否認しているという事実は、余程周りの理解がなければできないはず。これは重く、教授の言い分を支持したくなる。

この問題で、例の植草教授の事件を思い出した。最初の逮捕のきっかけは階段で鏡を使って女性のスカ-トの中を覗いたという行為だったと記憶している。これは目撃者もいるはずだから、『絶対にやっていない』と言っても世間は納得しないこともよく分かる。

私もやったのではないかと思っているが、二度目の逮捕は電車の中での痴漢行為、しかも証言したとされる女性は法廷に現れないとなると、植草教授をどうしても社会的に抹殺しなければならない事情があったのでは・・・と思っている。

話は飛ぶが、こんな事件が起こるのは女性が働くのがあたりまえになったのにも関わらず、安心して通勤できる環境を整えないからではないだろうか。その意味では、最近流行りの『女性専用車両』には大賛成・・・。

ただ、現在ではその車両は車両が最前列か最後尾が多いようだが、真ん中の車両にして、しかも数両を女性専用にしたら、この種の事件での冤罪は少なくなると思うのだが、いかがだろう。(田舎親父)

2009年4月15日 (水)

電動車椅子の事故が多いのが気になる

 一昨日、電動車椅子に乗って踏み切りを渡ろうとした86歳のおじいちゃんが特急列車にはねられて死亡という記事が目に止まった。

その踏み切りは警報機も遮断機もついており正常に作動していたというから、警報音がなり始めたが大丈夫と思い込んで踏み切りに突っ込んだか、あるいは踏み切りの中で動かなくなったかどちらかだろうが、いずれも付き添いがあれば防げた事故ではないだろうか。

特急列車の運転士には間違いなく過失はないだろう。が、我が国の国民は判官贔屓というか、『一見』弱い方の見方をする傾向があるので(マスコミの報道の仕方が大きく影響しているのだが)運転士に対して批判が集まらないことを切に願っている。

この事故に限らず、このところ電動車椅子の事故が多発しているという。確かに危険である。最近この電動車椅子に乗って走っている光景を目にする機会が多いが、我が物顔で狭い道路を走っている姿に、これで良いのかな・・・と首を傾げることも一度や二度ではない。

足腰が悪くなり、車椅子がなければ外に出ることが難しい高齢者が多くなったことは間違いない。そのような人にとっては電動車椅子というのは魔法の器具であろう。ボタン一つで動き、自分の意のままに外出できるのだから、需要が増えるのは当たり前だろうが、事故の報道がある度に、これを製作や販売をしている業者は、きちんとした対応をしているのだろうか、安全対策はどうなっているのかと素朴な疑問が頭をよぎる。

人間心理として、車椅子の人を見ると『ゆずる』のが当たり前で、どんな狭い道路であろうと気持ちよく通してあげたいと思うようで車も一旦停車したり、徐行して安全に走行できるように配慮している。

車椅子を押す人もそれらの気遣いに対して、恐縮したような仕種や、中には声を出して『すみませんね・・・』とお詫びというかお礼の言葉を出して、互いに意思を確認し合うことが多いが、そんな光景は見ていてホッとする。

しかし、電動車椅子には付き添いがないのが普通。恐らく乗っているお年寄りは狭い通りで人々や車とぶつかるたびに『ごめんなさいね・・・』という気持ちをもっていると信じたいが、そのような器具を使わねばならない高齢者の人たちの多くは、表情が固く一言がでないのが普通になっているといっても過言ではないだろう。

さらに電動車椅子を購入する際にどれほどの補助があるのか知らないが、価格も高く購入できるのは経済的に豊かな層の人たちなのも気にならないこともない。

私が目にしたことがある電動車椅子を使っている高齢者はほとんどが男性である。勝手な想像だが、電動車椅子を購入して自分で操作している男性高齢者達は、多分現役のころには管理職などの仕事に従事、十分な蓄えもあるのではないだろうか。

えてしてこのような男性に共通するのが、自分は人より偉いのだ・・・という思い込みがあるのかもしれないが社会性が乏しく、特に高齢になるに従って誰に対しても気軽に会釈もできないという態度に現れるようだ。

電動車椅子で動いているとき、『ごめんなさいね・・・』という言葉も表情も乏しく、いかにも『そこどけ・そこどけ電動車椅子サマが通る・・・』という雰囲気をだすのではなかろうか。

そんな私の想像を確かめるためにネットで車椅子の事故を調べてみた。いや出てくる出てくる。こんな事故が多いのかと思うほどの事例が見つかった。そのいくつかを・・・。

電動車椅子に乗った『87歳の男性』は、道路右側の路側帯を通行中に、誤って深さ約2メートルの用水路に転落し死亡。これは明らかに初歩的な運転ミスだろう。

すっかり暮れた時間帯に『80歳の男性』は、電動車椅子で車道の中央を進んでいたとき、後ろからきたワンボックスカーに跳ねられて大怪我。運転手は前方の電動車椅子などいるわけがないと思い込みがあったとのこと、運転手の過失は当然としても無灯で走る方も過失は大きいはずだと思うのだが・・・。

こんな事故もある、『98歳の男性』が、交通閑散なトンネルで後ろからきたトラックに追突されて死亡。さらに、昼間『84歳の男性』は、自宅から坂を下ったところにあるマレットゴルフ場へ向かう途中の下り坂で、電動車椅子のクラッチを切って、惰性で降りていこうとしたため、自動ブレーキがきかなくなってスピードが出過ぎて坂道の下の林に飛び込み大怪我。これなどは非常識という言葉しか出てこない。

まだある、市街地から郊外へ向かう渋滞した車線で『83歳の男性』は、渋滞車両の間をぬって、道路を横断して、対向車線を走ってきた軽トラックに跳ねられて死亡。『86歳の男性』は、自宅から500mほど離れた警報音が鳴りはじめた踏み切りに進入、電車と衝突。これなどは今回と同じような事故である。

電動車椅子は押す人間は必要ない便利で快適な器具。まさに自分で会社を経営したり管理職などを経験した男性にとっては最高の贈り物であるが、安易な気持ちが運転されたら周りはたまったものではない。

電動車椅子に反対するものではないが、付き添うが必要などという最低限の約束事が必要ではないだろうか。(田舎親父)

2009年4月14日 (火)

『名古屋走り』とはこれ如何に・・・

 何新聞だったかは覚えていないが、かなり前に『名古屋走りって何?・・・』という面白い記事があった。

その時はあまり気にしないで読み流していたが、何かの参考になるのではと思って、あらましを記録しておいた。一昨日中央道をバスで帰る途中、渋滞にはまってしまった。仕方ないので車窓からその様子を眺めていたら、少しでも前に出ようという気持ちが強いのだろうが、かなり危険な運転をしている車があったのでこのことを思い出した。

記事によれば、愛知は都道府県の中で4年連続交通事故死者数ワースト1の記録を保持しているらしい。県警はきわめて不名誉なことと『名古屋走り』の名称で悪評の高い乱暴運転の撲滅作戦に乗り出したという。

『名古屋走り』とは、信号が変わる際、黄信号なら当たり前に進入し、赤信号でも状況次第で強引に進入するという、謂わば、法令無視や違反ギリギリの運転をする人のこととのことのようだ。また、大通りで速度制限を無視したり、ウインカーをつけずに車線変更する行為もこの『名古屋走り』の範疇に入るらしい。

この手の運転をする人間は私の住む横浜の片田舎でも全くいないわけではないのに、わざわざ『名古屋走り』の典型と言うのだから、名古屋近辺はこんなことが日常茶飯事になっているのかもしれない。

愛知の車両保有台数は全国一で、他県に比べ幹線道路が広いため、信号待ち時間が長いのが特徴だという。

それでイライラがたまってこのような横着な運転をする人が多いのではないかと識者は分析しているらしいが、愛知はトヨタのお膝元当。車の数は多いだろうことは容易に想像がつく。ならばこの意見は当たらずとも遠からじという感はする。

またン記事によると『松本ルール』という地域限定の交通方法があるという。松本は北アルプスの懐に抱かれた静かな地方都市である。私の蚕の師匠の住まいがあるので、この地を走る機会はかなり多い。

そのル-ルというのは、(1)赤信号になっても前車について右折する(2)対向車が左折するすきに右折する(3)優先道路に出る際に一時停止しない・・・などの行為を指すものだと紹介している。

国宝の松本城でも知られるこの町は、昔の名残が各地に残っていることでも知られ、観光客には人気のスポットが多い。

最近は徐々に整備されて直線の広い道路が多くなっているとはいえ、一般的には道幅は狭く曲がりくねっているのが特徴の一つ、あまりスピ-ドが出せないことも、こんなル-ル?となっているのかもしれないが、私の経験からは、車より自転車の乗り方の方が乱暴なのが気になる。車が遠慮するのが当然とばかり、安全など確かめないで横断したり、飛び出したりする光景を何度も目撃しているからである・・・。

このほか、『伊予の早曲がり』というル-ルや『甲斐ル-ル』、あるいは『播磨交通法』などという地方の人たちが好む運転方法があるらしいが、私にとって忘れられないのは京都の運転マナ-の悪さである。

私は高校まで京都で過ごしたので、謂わば故郷。時に東名高速を使って出かけることもある。

この町は碁盤状に区画整理されていることが有名なので、知らない人は、車は走り安そうに考えるかもしれないが、区画された時代の乗り物が牛車や籠の世界となると、道幅がそれほど要らないのは当然。

太平洋戦争でも焼けなかった都市なので道路はそのままというものが多く、車の数だけで多くなってしまったことから、やたらは無理な運転が目立つようだ。信号が変わると同時に右折するなど当たり前、ここは右折優先か・・・と言いたくなってしまう。

四条河原町といえば京都では有名な繁華街、そこを運転していた時の話であるが、交差点の手前で信号が変わったので停車したところ、市バスが私を追い越して停止線横断歩道に突っ込んで止まったことにびっくり仰天したことがある。

さほどのスピ-ドを出していたわけではない。急ブレ-キを踏んだわけでもない。黄色から赤に変わったので普通に停止したのだが、市バスの運転手にはこのタイミングの赤は黄色もしくは緑と見なすという『京都走り』のル-ルを教えたかったのかもしれない。

『何をチンタラ走っているのか・・・』とって我慢できなかったのだろう。お手本を示す意味があったのかもしれないが、停止線で泊まっている車をわざわざ追い越すのは掟破りだと思うのだが・・・。

京都では『品川ナンバ-』の車は苛められると聞いたことがある。東京に対して特別の思いのある京都人の心情から類推すると、あながち外れていないように思えるが、横浜ナンバ-に対しても敵愾心があるのだろうか。それにしても、公務員がわざわざ教えるものではないだろう・・・。

只今交通安全週間真っ只中、お巡りさんが異常に多いので、お手本のような運転が目立つ。

杓子定規のような運転では、かえって無駄な渋滞を引き起こすのも分からないこともない。それが各地に暗黙の了解事項の特別のル-ルが存在する理由なのだろうが、交通法規はきちんと守らなければ、大事故になりかねないことは肝に命じておくべきだと思うのだが・・・。(田舎親父)

2009年4月13日 (月)

こんなにバラマいて将来大丈夫なの・・・

 『一本桜を見ませんか・・・』というお誘いを受けて、久しぶりに飯田に出かけてきたので、久しぶりで飯田に出かけてきた。

何カ所案内されただろう。樹齢が数百年、幹周りが4、5メ-トルという古木のしだれ桜がお寺や神社の境内に、農家の裏山に、そして部落の人々の墓所にと、いたるところといっても良いほど、神が宿っているような荘厳な姿。

ただただ、すごい・・・という言葉しか出てこない。いままで桜といえばソメイヨシノの圧倒的な量を求めていたのが、桜の持つ神秘性の凄さを実感。桜観が変わってしまった。

このことは別に紹介したいと思うが、しばらくサボっていた社会の矛盾などに対する私の独り言やつぶやきを・・・。

昨年度末、新年度の予算を審議している最中に、この予算では不足しているので追加の補正予算が必要だという『掟破り』といってもよい変な論理を、3分の2という数の力で強引に通過させたことは記憶に生々しい。

その後、民主党の小沢代表の献金疑惑をマスコミが大騒ぎしたので民主党の支持率が下がり与党の鼻息が強くなっているようだが、それにしても今年度が始まったばかりだというのに、15兆円もの莫大な予算規模の補正予算とは、自民党と宗教政党の政治屋サンたちは足らなければ国民から税金で搾り取れば良いとでも思っているようだ。

自動車が売れなくなっているという。薄型テレビなどの家電品なども買い控えが目立つようだ。派遣社員も業界は派遣社員どころか正社員にまでリストラを行いそうな雰囲気が漂い始めている。デパ-ト業界も四苦八苦、株価も低下、銀行の貸し渋りで倒産する会社が続出しているという。

世の中は不景気感に満ちあふれ、失業者が続出している。このままではいくら日本人が平和主義者であったとしても暴動が起きないとも限らないような雰囲気すら感じられる。

政府の強力な効果的な施策が求められていることは間違いない。その意味で、補正予算の必要性は否定しないが、内容を読むと単なるバラマキで、来る選挙対策にすぎないのではないかという危惧すら感じるが・・・。

住宅購入などに限り、今年度末までの時限措置として贈与税の非課税枠を現行の110万円から610万円と約6倍に拡大するという案とのことだが、高齢者の生活が脅かされている事件が続発している今日、600万円もの大金を贈与できる人たちは限られた富裕階層の人たちだけではないだろうか。このような人々だけを優遇するのはいただけない。

登録から13年以上たった自動車を廃車にし、環境基準を満たした新車に買い替える場合、乗用車で25万円補助するというのも、自動車業界からの圧力を環境という誰もが反対しにくい論理にすり替えているのも気になる。それ以前に、マイカ-を買い換えられるのも富裕階層の優遇以外何ものでもない。

小学校入学前3年間の子どもを対象に『一年間限定』で、年3万6千円を支給するよう子育て支援制度というのは、以前宗教政党が選挙目的で打ち出した、名前を忘れたが子育て支援給付金と同じ発想。

入学前の3年間は幼稚園や保育園で保護者は経済的にも大変なことはよく分かるが、翌年にはこの恩恵に属せないとなると、きわめて不公平な制度であることは明らか、これを選挙対策と言わずして何と表現したら良いのだろう。

女性のがん検診への補助、高額医療費の負担軽減に向けた難病指定の拡大を追加経済対策などは常時行う必要があるはずなのに、今年度限りという。来年度に景気が回復したらこんな補助は必要ないという論理らしいが景気が簡単に回復するとは思えない。いやそれ以前に、生活補助世帯が増えつづけている現実に本当に目を向けているのかとはとても思えない。

補正予算の財源には『霞が関埋蔵金』から3兆円を捻出するという。国民の80%が批判的だった定額給付金の2兆円もこの埋蔵金から捻出するとのことだった。ごく単純な疑問だが、埋蔵金っていくらぐらいあって、いままでどのような使い道をされていたのか気になるところ・・・。

全額埋蔵金の総額など知られたくないらしく、追加の国債発行も10兆円余り発行するというから、要は国民の懐をあてにしているとのこと。行き詰まったら『消費税』という奥の手が残っていると考えているらしい。

『赤字国債』など景気が回復したらすぐに回収できると言っている経済学者もいるそうだが、国の借金が増えつづけている現実をどう説明するのだろう。現在でも1000兆円とも言われている、俄には信じられないような借金を抱えていることをマスコミはもっと知らせる義務があるのではないだろうか。

先日の朝日新聞は、今回のG20会合でアメリカ政府を援護するために日本政府が財政支出を決めたことに対して、おひざ元の米国の新聞が『カミガゼ支出』という記事を掲載して、日本の国家破たんリスクを指摘していると報じていたことを思い出した。

日本国民の貯蓄がある間は良いが、高齢化が進み貯蓄が無くなった時に、この巨大な赤字によって国家が破綻するのではという主張はよく分かる。唯々諾々とアメリカの言う通りカネ垂れ流しているのに、そのアメリカに心配されるのだから困ったものである。

選挙対策や富裕層や一流企業のためにではなく、本当に国民全体が恩恵を受けられるような政策を進めてほしいものである。そのためには政権の後退が望ましいのだが、どうもマスコミの煽動で生じた小沢パッシングによって、その期待も薄れつつあるのが気がかりである。(田舎親父)

2009年4月10日 (金)

高速料金支払い体験記・・・

 地方の高速道路が土日祝日に限ってどこまで乗っても1000円という制度が先月の28日に始まった。翌日だったか、東名高速や中央自動車道の混雑がそれほどでもないというニュ-スが流れたが、そんなわけはないだろうと実際に走ってみることにした。

高速道路の利用料金が高過ぎるとは日頃思っている。税金を湯水のごとく使って、何故こんなに高速道路が必要なのか・・・と思うほど、利用されない道路が日本中に溢れているという。それでもまだ道路が必要だと主張している道路族という議員が存在するとのことだが・・・。

結局そんな赤字垂れ流し道路の穴埋めとして、利用率の高い道路の利用料が必要なのだろうが、払わされる方からすると何となくスッキリしないことおびただしい。

今回の2年間限定で、しかも土日祝日に限った上にETC装着車という条件が気になるが、一回の利用が最高1000円というのは庶民にとって有り難くないわけはない。が、土日祝となると渋滞が心配。丁度、先週の日曜日に長岡に出かける用事があったので自分で確かめてみることにした。

折角出かけるのだから、土日にかけてどこかの有名でない温泉でも楽しもうと言うことになり、それを上越の『鵜の浜』に決めて(最初から渋滞で動きがとれないことも予想できるので)食料など十分車に詰め込んで、朝6時に自宅を出る。

行きは中央自動車道を使うことにして八王子のインタ-に向かう。普段なら1時間程で着くのだが、さすがに入り口付近は渋滞しているらしく、実際には1時間半ほどかかってしまった。しかし、この程度は想定の範囲だろう。

中央道の側道に入るとスム-スに流れる。料金所が混雑しているのでは、と思ったがこれが意外空いていて、スンナリと本線に入ることができる。本線の流れも大したことはない。

だいたい私が遠出するのは平日、土曜日が混むのは当たり前という意識があるので少し多いかなという程度。かなり予想と違う。普段でも混雑している『談合坂』のサ-ビスエリアの状態を確かめたくなり、ここに入ってみる。

確かに混雑していることは間違いないが、駐車スペ-スがないわけではなく、探すとすぐ見つかった。途中いくつかのサ-ビスエリアも覗いたが同じようなもの、エリアが大渋滞という報道とはいささか違う。

そのまま北陸自動車道に入っても良いのだが、美味しいソバを食べたくなって、一旦、豊科インタ-で降りて、大町へ向かう。『そば神』という店で昼食を取り、大糸線に沿って糸魚川まで一般道路を走ることにする。

糸魚川から北陸自動車道に上越インタ-まで、これは普段では1300円程かかるらしく、実際の表示は650円。結局往路の高速料金は1650円。普通なら6000以上かかるはずだから、正直得した感じになってしまう。

日曜日の用事が終わったのは午後4時過ぎ。帰路は最短距離である関越自動車道を利用することにするが、この時間でもさほどの混雑はない。途中サ-ビスエリアで渋滞情報を確かめる。高崎や藤岡のジャンクション付近の渋滞は大きいらしいが、これは普段の日曜日では当たり前のこと。ところが練馬の料金所では発生していないという。

はじめから渋滞を予測しているので急ぐ必要がないのだから気楽なものであるが、これはちょっと予想外。今後物凄い渋滞があったら、圏央道を通って八王子に抜けて、中央道を逆に走って相模湖インタ-で降りれば良いだろうと最悪のコ-スを想定した。

確かに、途中はかなり渋滞しているが、日曜日のこの時間ではいつものことではないだろうか。高崎から何カ所かの渋滞を繰り返して鶴ヶ島の圏央道との分岐に到着、八王子出口の混雑はないとの情報を信じて、初めての道を経験しようとそちらに向かう。

圏央道はガラ空き。八王子の料金所を8時半ごろスンナリ通過。数カ所のサ-ビスエリアで休息も入れてここまで4時間半だから、普段とあまり変わらない。そして料金表示は当然ながら1000円。

前述したが、ETC装着車という項目には引っ掛かりがあるが、長野周りで新潟まで出かけて、利用料が3000円程度となると確かに車で出かける人は多くなるだろう。

日曜日に地方に出かけ、一週間ほど一般道路を利用してのんびり寝袋での旅、土曜日に帰れば交通費は往復2000円と少しですむことになる。夏休みなど家族4人で出かけたら、ガソリン代はかかるものの一人当たりたったの500円。これは魅力には違いない。

当初、高速道路料金の割引はとんでもない渋滞を引き起こすのでは、と思っていたが、実際に利用してみて差程のことがないことが分り、民主党の主張するように『無料化』と政策の正しいことに納得。割引がETC装着車に限り1000円という国交省の思惑は、ETC関連業界を潤すためが目的だということが確信できる。

地球温暖化が叫ばれている今日、公共交通機関の利用を呼びかけているのに、車を利用すればべらぼうに経済的になるという今回の2年間限定の料金値下げ。

裏を考えるとドロドロしたものがあることは間違いないが、実際に体験したことをそのまま紹介してみた。ETC装着などのことについての意見はまた別の機会に述べてみることにする。(田舎親父)

2009年4月 9日 (木)

児童生徒にトイレ掃除をさせる・・・(最終回)

 『児童・生徒のトイレ掃除』から始まった今回の学力の話題であるが、そろそろ、私なりのつぶやきを終わろうと思っている。

テストで計れない学力(社会性や自立性など)の大切と実際にその学力をつけるためには、家庭の教育力と世間さまの存在が不可欠なことはすでに何度も述べている。そして、家庭や地域社会の教育力が崩壊してしまった現在では、学校がその任務を引き受けざるを得ないこともこれまた述べてきた。

『トイレ掃除』が非日常の世界になっている子どもたちに、これを経験させる意味は大きい。テストで計れない社会性や自立性という学力を習得させるには間違いなく効果的であるが、学校の本来の目的が算数や国語などのテストで計れる知識理解という学力の習得が第一義となると、学校では簡単に引き受けられないことも確かである。

繰り返すが、学校は完全に教育委員会に人事権や予算を握られているので『トイレ掃除は児童生徒にさせろ』という命令には反対できないだろう。そんな命令がでたら、即刻、各学校ではそのための議論がはじまり、場合によったらトイレ掃除担当チ-ムなどを作り、マニュアル作りが始まるはずだろう。

恐らくこれが始まったら、当初マスコミは興味本位で大きく扱うだろう。日本人はマスコミの情報が正しいと信じてしまう傾向があるので、親はもとより一般的に『児童生徒のトイレ掃除』は情操教育(テストで計れない学力とは言わないはず)に良いことだと信じるだろうことも想像に難くない。

このことは私も否定しない。自分たちの使っているトイレを掃除することが当然と受けとめることができ、ごく普通に掃除ができれば(社会性や自律性というより、公共心や自立心と表現できる)テストでは計ることができない『学力』(本当は一番大切なことだと思うが)が間違いなく育つと確信しているからである。

しかし、先日のNHKの取り上げでは、教員が児童につきっきりでブラシの持ち方から水の流し方まで指導している姿を写しているが、ここまでしなければならないとなると、教員は大変だろうと簡単に納得できないものがある。

現在のように無菌状態が『是』である風潮では、衛生面でクレ-ムがつくと何一つ反論できない。高学年以上とはいえ、水を流して掃除することは時に遊び感覚になるだろうことは当然で、それなりに『楽しむ』ことは目に見える。

便器に流した水が跳ね返って身体の一部にかかることもあるだろう。そのことを夕食時にでも、何気なく面白おかしく話したとしたら、過剰反応するおやも一部あることも最近の風潮としてあるのではないだろうか。

教育委員会に『トイレ掃除より勉強に力を入れろ』と電話やメ-ルが届いた時『これは教育委員会が命じたことだから・・・』と、親を説得してくれるとはとても思えない。すぐに校長に電話して(あるいは呼び出したり、校長会の席上で)、『保護者からクレ-ムがつかないようにもっと指導を徹底せよ・・・』と通達するだろうことも容易に想像できる。

『子ども農山漁村交流プロジェクト』のところで述べたが、プログラムを実施するボランティア団体やNPOのような組織として、『トイレ掃除』などの教える『学校お助け隊』のような組織があったら良いのでは・・・と言うのが私の結論である。

そのような地域の大人が、子どもたちにトイレ掃除の必要性などを言い聞かせながら、時には教師と一緒にトイレ掃除をすれば、きっとテストで計れない学力は身につくのではないだろうか。

学校が簡単にこんな組織を受け入れるとは思わないが、最近では地域のボランティアの人たちが子どもたちの登下校の様子を見守る姿が当たり前のようなに目撃できることからその下地は十分できているような気がしてならない。

家庭や地域の教育力が低下しているが、『子どもを見守りたい』『何か学校のお手伝いをしたい』という人が確実に増えていることも間違いない事実。特に高齢者の人たちにはその思いが強く、近くの小学校ではこんなに大勢の高齢者が必要なのと思うほど、そろいのジャンパ-を着て嬉々として子どもたちの通学の様子を見守っている。

こんな人たちの力を利用し、学校と上手にコ-ディネイトできる人が存在し、組織ができたとしたら、トイレ掃除だけでなく学校内外の掃除や、給食時のお手伝い、あるいは遠足や校外指導の付き添いなど、教員の分担はかなり軽減されるのではと考えている。

先程のニュ-スで、新1年生の児童が降りたバスに轢かれて死亡するという悲しい事故が報じられた。早速学校や行政が安全を確かめる人間を増やすと言っているらしいが、そんな人員など簡単に確保できるのだろうか。子どもが亡ったらすぐに、急場だけを凌ぐ解決策を示して責任をとったように言い繕う体質が悲しい。

トイレ掃除とは本質的に違うが『学校お助け隊』が存在していたら、こんな事故は間違いなく防げただろうと思うが、いかがだろう。(田舎親父)

2009年4月 8日 (水)

体験型プログラムは子どもにとって魅力

 『農水省はかなりこの『子ども農山漁村交流プロジェクト』には気合を入れているらしく受入れ先として14の先導型受入れモデル地域と39の体制整備型受入れモデル地域を認定しており、この数を今後500まで増やすと言う。

先導型受入れモデル地区(それ以外にあるはずだが)には、すでに学校と農山漁村の間をコ-ディネ-トするためにNPO組織や地方自治体が後押しする会社組織ができて、修学旅行を中心にかなり充実した『体験型』のプログラムが用意されているようだ。

現在のところ、中学校や高校が中心らしく本来の目的である小学校にまで即拡大には様々な問題もあるだろうが、文科省との末合わせがうまくいけばかなりの可能性が期待できそうだ。

修学旅行が中心となると、都会の子どもたちを地方で受け入れるということが主体になることは否めないが、地方の子どもたちにとっても『体験型プログラム』は魅力であるに違いない。

便利で快適が『是』である現在の価値観は都会に限らない。地方には折角その土地に息づく文化や伝統があるにも関わらず、都会型のこの価値観が流れ込み、その良さを捨て去る傾向かある。

地方の活性化が叫ばれている。そしてその流れが、どうも都会の人間を勧誘したり、特産品の開発や産業を誘致することが主体になっているように思えてならない。しかし、それ以上に大切なのは、そこで育つ子どもたちが、その地の良さに気づき誇りを持つことであり、定住しようと思うことではないだろうか。

そのためには(すでに行われているとは思うが)、先導型モデル地域(に限らないが)の大人たちは、自分たち教育地域の学校と連携して、魅力ある『体験型プログラム』を子どもたちに与えてほしいと望んでいる。

地方も(都会以上に)テストで計れる学力の向上は必定命令だろうから、簡単に学校との連携ができるとは思えないが、『体験型プログラム』がテストで計れない学力の向上には必要なことを、きちんと理論武装して学校に理解させる努力が大切ではないだろうか。

話は少し飛躍するが、そのためには、地方の学校の修学旅行が東京や大阪という大都会へ出かけ、しかも有名遊園地での『遊び』になっていることを改める必要があるのではと思っている。

『体験型プログラム』を実施するNPOや会社組織に属する大人たちは地域の保護者であるはず。保護者の立場で学校にそのことを訴えて、修学旅行の在り方を従来の都会思考ではなく、例えば農村なら漁村で『体験プログラム』を用意している先導方モデル地域に出かけてはいかがだろう。

子どもたちは日頃体験できないこのようなプログラムを楽しむとともに、自分たちの地域で展開しているプログラムについて興味を示すに違いない。すると子どもたち自身が自分たちの地域の良さを見直すことになるのではないだろうか。

簡単に学校との連携ができるとは思えないし、たとえそれができたとしても短期間で成果が出るとは思わないが、このような地道な努力を全国に発信することによって共感が広がるのではないかと思っている。(田舎親父)

2009年4月 7日 (火)

学校を助ける組織が必要では・・・

 既述のように、文科省が農水省と総務省と共同に立ち上げた、莫大な予算に裏打ちされた『子ども農山漁村体験プロジェクト』という壮大な計画を各学校が行うことがきわめて困難となると、何が原因なのかをしっかり分析し学校が手を挙げやすい環境を作る必要がある。

教員の質が悪いのだ・・・という声が聞こえきそうだが、決してそんなことはない。確かに一部怠慢な教員や、誰かさんが口にする日教組的体質をもって『何でも反対』と騒ぐ教員の存在は否定しないが、それはごく一部。

毎日の授業や学校行事に追われながら、子どもたちの日々の生活に対しても細かな目配り気配りで神経をすり減らしている教員が圧倒的多数であることは、身近の教員の生活を少しでも好意的な眼で観察すれば理解できるのではないだろうか。

新しいことに挑戦しない学校の閉鎖的な体質もあるだろうが、現実には様々な課題や問題が学校に持ち込まれ、その解決に苦労して教員の勤務が加重になっていることは間違いない事実。

つい数年前には近所の小学校では放課後子どもたちとドッチボ-ルなどして遊ぶ教員の姿を見かけることができたものだが、今ではそんな光景は望んでも見られない。

何故こんなに教員が忙しくなったのだろう。ここにメスを当て、教員にゆとりを持たせなければ、折角の素晴らしい構想も『これ以上忙しくなるのはゴメンだ』という意識が働くことも当然で、全て学校に責任を全て追わせるのは酷である。

我が国の教員の勤務が如何に大変なのか、フィンランドの教員との勤務時間を比べたデ-タを(何を目的にしている期間であるかは理解していないが)『国民教育文化総合研究所』という組織が発表した資料がある。

それによると、我が国の小中学校教員の1日の平均勤務時間(休憩を除く)は11時間6分だという。これと比べて、国際的な学習到達度の学力調査(PISA)で高い学力を示すフィンランドの教員は6時間16分。何と5時間近くも我が国の教員は学校に縛りつけられているとのことである。

教育システムの違いがあるのは確かであり、欧米諸国は家庭と学校との棲み分けがきちんとしているので、学習指導が主だということもあるだろう。

それに比べて日本は、文書整理や部活、学校行事などに追われている。極端な表現をすれば、日本の学校は行事の合間に授業をしているといっても良いほど様々な行事をつつがなく処理しなければならないという事情があるのも事実。その上に、テストで計れる学力の向上が至上命令となっていることからも理解できる。

テストで計れない学力をつけるのは家庭の教育力と世間さまの存在が不可欠だということはすでに述べて。が、それが崩壊しているとなると、学校が受け持たねばならないことは確かであるが、学校の教員にゆとりがないとなるとこれは悩ましい。

『自然体験』や『実体験』が素晴らしい教育的効果があることは事実なのだが、忙しい学校にそのまま受け持たせることは難しい。となると、第三の枠組みを考える必要があるのではないだろうか。その受け皿は地域のボランティア団体やNPO組織ではないかと思っている。

こんな団体や組織に属する人たちが学校と協力して子どもたちの教育に携われるシステムを作ることを提案したい。

その前に教員たちがこの人たちと協力する意識を植えつけるという困難な作業があることは間違いない。数年前すでに『コミュニティスク-ル』として活動をはじめた地域もあると聞いているが・・・このノウハウはどこに行ってしまったのだろう。

教育ということに関しては何でも俺たちの仕事だと思い込み、他人からの口出しを嫌うのは学校の体質であるが、このことを本質的に理解した上で学校や教育委員会とボランティア団体や地域NPOなどの組織を有機的にコ-ディネイトできる人がいれば決して不可能なことではないと思っている。(田舎親父)

2009年4月 6日 (月)

子どもプロジェクトを存続させたいものだ

 しばらくお休みしている間に、北朝鮮によるミサイル(実際には人工衛星ではないかと思うが)騒ぎで世の中が右往左往、その上政府が二度にわたって誤報で世界各国から嘲笑されるという事態が展開したことや、高速道路料金の実際に調べたくなり土日にかけて約800kmほど走り回っていたので、そのことを話題にしたいのだが、学校の実態も調べてきたのでもう少し『児童生徒のトイレ掃除』から始まった『子ども農山漁村交流プロジェクトについての話題を続けることにしたい。
 『子ども農山漁村交流プロジェクト』構想は全国の教育委員会に連絡されたことは間違いなさそうだが、学校が手を挙げたくなるような雰囲気がないと、折角の三省連携の壮大なプロジェクトも周知徹底できるわけはない。
 それでも昨年度、モデル校として認定された学校は、農水省の資料では全国で178校あることから、それなりに認識されていたことは間違いなさそう。しかし、農水省などが当初予定していた各都道府県から10校の470校にはほど遠い。
 10校以上認定している県もあるが、一校も指定されていない府県が10もあるのはどうしてなのだろう。こんなに温度差があっても良いものなのだろうか・・・と疑問を感じざるを得ない。
 これは各教育委員会の体質というか、学校が勝手に手を挙げたら命令系統がズタズタになることを恐れて、管下の学校に周知徹底しなかったか、あるいは選定は教育委員会が行うという通知で済ませたのではないだろうかと推測している。
 それはともかく、指定校と認定された178の小中学校は農水省が指定した受け入れ先に出かけて『自然体験活動』を行ったはずなのに、自校のポ-ムペ-ジにこの記録を残している例がきわめて稀なことも気になるところ。
 学校のホ-ムペ-ジが一時ほど話題にならなくなり、開設や更新がそれほど重要視されなくなったこともあろう。また、更新にはかなりの手間がかかり、教員の能力的なこともあって難しいだろうことも予想できる。
 が、少なくとも文科省のモデル校だとか指定行事となると力を入れることは、知る限り間違いないところ。それが形として現れないところを見ると、各学校は昨年度行った『自然体験』活動に価値を見いだしていないのではと・・・と思えてしまう。
 あるいは、モデル校そのものが教育委員会からのお声がかりの『一本釣り』。実際には取り組みたくなかったのに、仕方なく受入れ地域に出かけたとも考えられないことはない。各地の教育委員会は文科省の方針には逆らってきたことは今まで聞いたことがない。となると、どうも文科省が本気ではないのでは・・・という疑問を持ちたくもなる。
 当初から一部ではこの構想は文科省と農水省や総務省との思惑が少しずれて、計画通り進むかは疑問視されていたようだが、それにしても折角の素晴らしい企画が了承の不協和音で盛り上がらないことは実に悲しく、テストで計れない学力を重要視している者にとってはやりきれないところ。文科省が本気になってほしいものと心から望んでいる。
 来年度からのこの構想の行方が気がかりで、ぜひ参加したいと思っている学校がいたとしても、モデル校に認定されなければ補助金のメドがたたないとなると、各学校は独自でこの計画に参加することは難しくなる。
 親の意識からは『農山漁村交流』などは単なる遊びとうつるらしく、そんなものに費用など負担できない・・・というのが正直な気持ちのようだ。
 しかも、学校は授業時数というシバリのもと自然体験活動をどこに位置させるのが難しい判断を迫られ、また教員にこれ以上の負担がかかることも二の足を踏んでいる大きな原因となっている。
 この事業をモデル校以外の全国の23000校に普及させるためには、全ての学校に対してさらなる補助金が必要とともに、今まで述べてきたように学力にはテストで計れるものと計れないものがあり、計れない学力を育てるためには『実体験』が必要なことを、教員はもとより親も理解するようなシステムを文科省は本気で構築する必要があるのではないだろうか。(田舎親父)

2009年4月 2日 (木)

子ども農山漁村プロジェクトの登場

 両方の学力に『実体験』が必要なことはすでに述べてきたことから明らかであるが、家庭ではすでに生活体験すら経験させられなくなっているとなると、学校に求めるようになり、それが『総合的な学習』という形で表面的したのだが、『総合的な学習』の一部が英語という方向に流れ、教科として独立し当初の意図が薄れてしまったことはすでに述べた。

英語の教科化に関してはいろいろな意見がある。その是非は時が解決してくれるだろうが、少なくとも『総合的な学習』の時間が減ったことは、子どもたちに『実体験』の場を与えるというチャンスは少なくなり明らかにマイナスだろう。

『総合的な学習』の導入とその経過に関しては別の機会にゆずるとして、文科省も実体験の必要性は十分認識しているらしく、何とかその実現を考えていたのだろうが、農水省と総務省と3省合同で、小学校での自然体験(農家民泊など生活実体験ができる場)として、昨年春に『小学生の農山漁村での長期宿泊体験活動(子どもプロジェクト)』を実施すると発表した。

学校では宿泊を伴う学校行事として林間学校や修学旅行が行われている。しかし、子どもたちに『思い出つくり』の場としての位置づけが強く、体験重視と言いながら有名観光地に出かけての建物や史跡の見学や、折角の自然の中で行動できるチャンスでありながら黙々と列をなして歩くというのが当たり前の風景はよく目にするところ。多くの学校が横並び的になっていることは否めず、テストで計れない『学力』の育成を目指すものとは言い難い。

それでも、最近は一部の中学高校では、従来の観光目的の修学旅行を見直し、農村などに出かけて田植えや炭焼きの体験や農家民泊などを導入する中学校が現れるようになったのは好ましい傾向であるが、小学校においては武蔵野市一週間以上にわたって児童を農村に滞在させるという『セカンドスク-ル』の取り組み以外、ほとんど知られていない。

自然体験(農体験などを含む)が子どもたちに良い影響を与えることは、多くの教育関係者は確信しているところであり、教育課程に位置づけて恒久的な自然体験活動を学校行事に組み入れたいと考えている学校も多いが、教員の負担が増えるという声や学力低下、あるいは保護者の経済的負担などの理由で進まないのが現状である。

今回打ち出された『子どもども農山林漁村プロジェクト(ふるさと子ども夢学校)』構想は、文部科学省の『子どもたちの学ぶ意欲や自立心、思いやりの心、規範意識など豊かな人間性や社会性を育む』というねらいと、農山漁村の活性化をねらう農林水産省との意図が一致した結果だろうと推測している。

計画では、初年度である昨年はそれぞれの都道府県から10校程度の学校をモデル校として児童一人当たり5万円程度の費用をつけて実施、5年後には全国の23000の小学校の子どもたち120万人にこの体験活動をさせるという。

実に壮大な計画である。これが完全に実施されるとしたら素晴らしいと思うが、農水省はともかく、今でも『学力低下』などの声が大きい中、文科省が本気を出して進めるのか危ぶむ意見もあることは事実。

学校に対してこのプロジェクトのことは周知徹底されていないらしく、友人の校長も知らないというのは気がかりであるが、このあたりのことは調べて紹介したいと思っている。

調査などのため数日休載。(田舎親父)

2009年4月 1日 (水)

両方の学力に共通するのは実体験で身につく自主性・・・

 家庭の教育力が弱くなると、当然なことに、テストで計れない学力などを家庭でつけることは限りなく不可能になってくる。

本来ならば役割ではなかったはずの学校に、このテストで計れない学力をつけなければならない責務が課せられるようになるのは時代の趨勢。『総合的な学習の時間』なるきわめてあいまいな学習を学校に導入し、『生きる力』なる『新しい学力観』を提示したのは、文科省の危惧がそのまま表れたのだろうと捉えている。

この『総合的な学習』の根底に流れている考え方は、自分で考えて自分で解決する能力を養うことであるが、生まれてこの方、何一つ自分でやる必要がない現代の子ども(親の年代も同じだろうが)には、とてつもなく重い課題であることは間違いないところ。

文科省がこの時期に『総合的な学習』を導入したことは素晴らしいことだと評価している。しかし(繰り返して言うが)テストで計れる学力と計数できない学力という二つの学力を結ぶものが『総合的な学習』であり『新しい学力観』であるのだが、自らの課題などは、何よりもまず『実体験』をしない限り発見できるわけがない。

子どもには、そのための学力をつけるのだから育っていないのは当然だが、親はもとより教師自身も『実体験』が少ないとなると、学校が混乱したのは当然といえばこんな当然なことはない。

そこはぐっと我慢して将来を見据えた教育体系を作るのが文科省の仕事だろうが、『学力低下』という風潮と『総合的な学習』の目玉の一つにした『英語活動』が一人歩き、猫も杓子も英語・英語という雰囲気になり、本来の『総合的な学習』のねらいが惚けてしまったのは残念なことである。

小学校6年生を対象にした『全国一斉学力テスト』の算数に『約150平方センチメートルの面積のものを、下の(1)から(4)までの中から1つ選んで、その番号を書きましょう。』という問題がある。それを『(1)切手1枚の面積 (2)年賀はがき1枚の面積 (3)算数の教科書1冊の面積 (4)教室1部屋のゆかの面積』から選べ、というものであるがこの正答率が17.8%だというから情けない。

与えられた数値をもとに、面積を計算するのは得意なのだが、面積としての150平方センチメートルが何センチ×何センチかということが思いつかない。これでは折角算数の時間に学習したことが活用できないことになってしまう。つまり応用力が育っていないこと決めつけても差し支えなさそうだ。

さすがに切手の大きさは理解していると見えて(1)を選んだのは1.3%と少ないのは当然としても(3)が49.2%(4)が30.6%と、面積そのものの『量としての概念』がまったく育っていないことがはっきりしている。

数字を数字として計算することはドリル学習で慣れているのだが、その数字の持つ量的な意味が理解できない。数字を身の回りのものと連結して考えられないのはこれまでの生活の中で『実体験』が不足していることにほかならないと断言しても過言ではないのではないだろうか。

こんな問題も示されている。『約1kgの重さのものを、下の(1)から(4)までの中から1つ選んで、その番号を書きましょう。(1)空のランドセル1個の重さ (2)1円玉1枚の重さ (3)5段のとび箱全体の重さ (4)ハンカチ1枚の重さ』に対して、100人中33人もの児童が、間違ったというから、確かにテストで計れる『学力』は低下していると言われても仕方ない。

これは『綿1kgと鉄1kgとどちらが重い』と問われると、多くの児童が『鉄』だと答えるのと同じで、実際に量として自分で持ち上げた経験がないことからくる間違いであることは周知のこと。

話は変わるが、計数できない学力の一つに『危険を察知する能力』があるが、最近の児童・生徒の傾向から、ナイフを見て『危険なものである』という意識が少ないという。これは、危険なことを児童の身の回りから徹底的に取り除くことが『是』という親切心が影響していることにほかならないのだが、このことに気付く大人たちも多くない。

どこかで、ナイフの扱い方を知っていれば、ナイフというものは便利なものだが、使い方を間違うと危険なものになることが、頭の隅にインプットされる。この情報がナイフを見た時や、実際に使わなくてはならない場面に遭遇した時に生きてくるのではないだろうか。

これらはほんの一例で、危険察知能力という『学力』を身につけるためには、実際の体験が必要であることがよく分かる。『総合的な学習』の持つ意味がここにあり、自ら考え課題を見つけ解決する、というねらいの達成には『実体験』を抜き考えられない。テストで表すことができる算数などの『学力』も、計数できないが生きる上で必要になってくる『学力』も『実体験』が何より大切になることは間違いないことである。続く(田舎親父)

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