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2011年12月

2011年12月28日 (水)

暫定基準ってなんだったの?・・・

 『一般食品は1キロ当たり100ベクレル』、『乳児用食品と牛乳は50ベクレル』、『飲料水は10ベクレル』に食品に含まれる放射性物質の新たな基準値が変わるのだそうだ。

結構なことだと思う。が、今までの暫定基準という国の指標は何だったのだろうと言いたくなる。国は、原発事故後慌ただしく、ほとんど根拠を示さず一般食品は1キロあたり500ベクレルというあの暫定基準である。

その値に対して疑問を投げかける多くの国民の声には全く応じることなく、農水省や厚労省を始めとする国の関係省庁は、繰り返し・繰り返し『安全だ』と言ってきたはず。今では完全に国の出先機関となっている、大手新聞やテレビに洗脳されてしまった国民の圧倒的多数派、その『安全』という言葉を信じ、暫定基準値をよりどころとして、食品を流通させまた消費していた。

常識的に考えると、暫定基準はウソで本当は危ない値だったから変更するということなのだろうが、それならそうで正直にゴメンナサイと言えば良いものを、今後、文科省の放射性審議会へ諮問するほか、国民に意見を求めた上で、意見交換会など通じて新基準案の説明をするのだそうだから、誤魔かしの上に誤魔かしを乗せるつもりらしい。

しかも、新基準は原則、来年4月1日からの適用を予定しているという。直ちに適用するのなら、まだ話はわかるが、あと数カ月は、暫定基準は『安全』で、4月1日からは『安全でない』なんてことは道理にあわない。

さらに、コメと牛肉は市場や消費者に混乱が起きないよう周知が必要として、経過措置として来年9月30日まで半年間、暫定基準値を適用し、大豆は来年12月31日までとなると、無茶苦茶だとしか言いようがない。

新基準を割り出した根拠を発表している。それによると、基本の考え方は、食品からの放射性セシウムの許容被曝線量を、暫定基準の年間5ミリシーベルトから1ミリシーベルトに厳しくしたことだそうだ。

一番影響する飲料水の基準値を20分の1に下げて、発事故前の『世界保健機関(WHO)』で決められている1キロ当たり10ベクレルにするとのことだから、このこと自体全く異論はない。この数値を元に計算すると、1日2リットルの水を1年間飲み続けると、被曝線量は0.1ミリシーベルトになるのだそうだ。

ただ、許容される線量の1ミリシーベルトから飲料水による0.1ミリシーベルトを除いた0.9ミリシーベルトを一般食品に割り振ったというところあたりから何やらおかしな話になってくる。

年代や男女別ごとに平均的な食品の摂取量や放射性物質による影響度を考え、それぞれ許容される値を計算したところ『13~18歳の男性』で最も厳しい1キロ当たり120ベクレルだったが、より安全を見込んで100ベクレルにしたと厚労省は説明している。

しかしこの『13~18歳の男性』というのは何が基準なのだろう。一番活動が活発な年代なのだろうか。それとも食料をもっとも多く必要な年齢なのだろうか。中学高校生が活発なことは否定しないが、スポ-ツ選手などは年齢に関係なく活動的で多くの食料が必要だろう。また、最近の女性は男性より活発とも表現できるから曖昧この上えない。

『乳児用食品と牛乳』は特に子どもに配慮して、その半分の50ベクレルとしたという部分も、乗車券と同じで、半分にしておけば文句はなかろうと・・・というところとなると、大雑把過ぎて思わず笑ってしまう。

基準値が厳しくなることは消費者にとってはありがたいことに違いないが、生産者や流通業者にとっては大変な難題になることは間違いなさそう。すでに、米の放射性セシウムの値が500ベクレルを切っているから安全だと強引に出荷している地域もあると聞く。特に福島県産の米などは調べれば殆どが100ベクレル以上となり、『安全でない』と認定されて出荷できなるのではないだろうか。

今年は安全だとすでに流通。来年度も基準の適用日から考えると安全らしいが、再来年度からは安全でないとなるのだから、常識的に福島県産の米など危なくて食することなどできないが、これまた風評被害という言葉で曖昧にしてしまうつもりのようだ。

それ以前に、計測最低値が200ベクレルという精度の低い測定器具が出回っていることも問題にされ、一般に出回っている『ND(検出せず)』は、『この器具では検出できなかった』という意味だということも知られるようになっている。

まして100ベクレルとなると検出できない器具がほとんどだろう。この場合でも従来通り『ND(検出せず)』だとしたら、何のための新基準かわからなくなることは全くの素人の私でもわかる話。騙されてはいけないぞ・・・。(田舎親父)

 今年も押し詰まり、今日も含めて後4日。人並みにお正月休暇としてしばらくお休み。新年は4日ごろから書き始めたいと思っている。

2011年12月27日 (火)

石巻を歩いてみた(6)-最終-

 (繰り返すが)高台に続く小学校は珍しくないが、両脇に墓地だというのは全国的にあまり例がないのではないだろうか。墓は立派なものが多いのはともかく、倒れたものが少ないのに強い違和感を覚える。隣の小学校が3階の窓枠をえぐり取られているほど壊滅的に破壊されているのに、(低い位置にある墓ほど破壊され倒れているものが多いのはうなずけるのだが)同じ高さの墓にはさほどのダメ-ジを受けていないのが釈然としない原因である。

ボランティアの人たちが被災地のお墓の修理や掃除などをしていたニュ-スは観たことはある。実際に倒れた墓石などを片づけている業者の人を何人か目撃したが、上から順番に整理しているとはとても思えない。しかし、私が観た限りでは上にある墓は被害が少ない(というより無傷のものが多い)ことは確か。この疑問は今でも解けない。

破壊され門脇小学校のすぐ脇を墓地に沿って高台に出る小道がある。高台の様子もこの目で確かめたいので、方向的にそこを登って進めば市街に戻れるはずだと判断して先に進む。途中から海岸方向を何度も見るが、海岸まで全くといって何も無い。まるで、東京大空襲の写真そのものの何とも凄まじい風景が目の前に存在する。改めて津波の凄さを思い知らされる。

そしてそこから数十歩も登るとそこには全く異質な世界が広がる。恐らく3月11日にはそのあり一帯は避難する人で溢れただろうと想像するが、今ではそんなことなど感じさせないような平和な風景が展開している。

すぐ横の駐車場は今では車が並んでいるが、当時は避難者でごった返していたのではなかろうか。新築したような家は一軒も見当たらない。ということは地震で倒れた家はなかったことを証明している。この数十メ-トルの地形の高度差が天国と地獄を分ける境になったらしい。

買い物でもしてきたと思われる高齢の男性に出会い、おそるおそる『石巻駅はこちらで良いのですか』と訪ねたら、実に親切に『この道を少し登ったら急な下り坂になるから、道なりに歩けば良い』と教えてくれた。

しばらく歩くと、石巻市立石巻女子高校という建物にぶつかる。ここも全く被害にあっていないらしく、中から聞こえてくるピアノの音にホッとするが、今まで見てきた地域とここの違いは何なのだろうと、人間の運・不運というか、それぞれの人生について考えさせられる。

いよいよ私の石巻の訪ねる旅は終わったことを実感して、教えられた通り歩くと、石巻神社に遭遇。そして、石巻の街がこんなに高度差があるのかと思わせるほど急勾配の坂をおりると、石巻小学校にぶつかる。全国どこでもその都市の名前をついた小学校のあるところはその土地の中心であることから、駅も近いに違いない。

その横手にかなり立派なお寺がある。看板には曹洞宗・永巌寺とある。かなり格式のある寺院らしいので境内に立ち寄る。ここには見た目には被害を受けた様子はないから、津波もここまでは押し寄せなかったのだろう。

と思ったのだが、一歩外に出て、このお寺の参道になっているような商店街に出ると、様子は一変する。軒並みに津波の爪痕が残り、いまでもブル-シ-トに覆われた家や、シャッタ-がひん曲がった商店や家屋が多い。

開けている店もあるのだが、その数は極端に少なく、人通りも全くといってよいほど無い。商店街を出たところはもう市街の中心部。ホテルも近い。

時計を見たらお昼をとっくに過ぎていることに気がつく。7時半にホテルを飛び出して、水すら一滴も口にしないで5時間以上も旧北上川を中心にした地域を歩いたことになるが凄まじい光景に圧倒され空腹感は全く覚えない。

ホテルに戻りロビ-でコ-ヒ-を飲みながら、この5時間あまりの光景を、デジカメの再生機能を使って確かめる。撮り忘れたシ-ンが多いことも悔やまれるが、もう一度歩く気力は残っていない。

ホテルから出ると一段と雪が激しくなっているが、不思議と折り畳みの傘を広げる気持ちはなく、雪に身を任せながら駅に向かう。

折よく仙石線が停車中だったので乗り込む。被災地の様子を自分の眼で確かめたいという気持ちの旅もこれで終りだろうと思ったが、その終りはもう少し先に伸び、またまた想像を絶する風景にぶつかる。

仙石線は途中線路が津波で流され、現在でもバスで代行をしているので、矢本という駅で代行バスに乗り換えることになる。代行バスというから、列車に接続していると思い込みのんびりと改札口に向かったが、バスはなく人の列。舞い散る雪を避けて屋根のある場所で待ち、最後にバスに乗り込むが、車内はかなり混んでいる。

代行バスとあるのだから当然だろうが、駅舎があった場所を停車場としている。道は線路に沿ってあるとは限らないのでかなり入り組んだ走り方をするのは仕方ないが、もう少し急いだら・・・と動き始めはのろのろ運転には正直イライラする。

雪が降って視界が悪いのに加えて車内が暖かいので窓は曇り気味。しばらくすると、はっきりとはしないが、津波の爪痕だろうと思われる悲惨な光景の連続で、イライラなど吹っ飛び、むしろもっとゆっくり走ってくれ・・・と思ってしまうほど、松島海岸駅に着くまで窓から目を離せなかった。

ホ-ムだけが残る駅、線路が無くなっている所。殆どの電柱が倒れたり、傾いている風景の連続。ここは来春にでも改めて車で確かめなければと強く思う。

簡単に書きとどめておこうと書き始めたのだが、あんなことこんなこととデジカメの映像を見ると思い出すことが多く、ついつい饒舌な長い文章になってしまったことを反省しつつ終りとする。(田舎親父)

2011年12月26日 (月)

石巻を歩いてみた(5)

 近づくと凄惨さは増す。物凄い数である。数千、いや数万台はあるようだ。しかもここだけではなく、道路の向こう側にも海岸近くまで延々とも無造作に放り投げられた車が山積みされている。

ふと、もしやこの中に遺体は?・・・と、あってはならない空想がよぎる。恐らくこれらの信じられないような数の車は、全て津波で流されて放置されたいたものを、行政の意図でこの場に集められたに違いなかろう。

その際、車の中は改められているだろうから、遺体はもとより持ち主がわかるような遺留品は保管などは残されていないと思うが、それにしても、この作業は気が遠くなるほど凄かったに違いない。関係者のご苦労は幾許のものだったろうと改めて頭が下がる。

この道路向こう側はすぐ海岸が見えるが、完全に瓦礫置き場になっているようだ。しばらく歩くと信号があり、向こう側に渡る気になれば行けただろうが、その時は足がすくみ青信号を待つという気にはどうしてもならなかった。

ここまで観たら十分。というよりこれ以上は観たくないという気持ちの方が強かったのかもしれないが、信号で躊躇なく左折。石巻の市街地に向かうことにする。しかし、そこは、今まで観てきた以上の凄まじい光景が広がっていた。

左折してすぐ近くに、車の集積場の入り口がある。入り口といっても門があるわけでもない。プレハブの建物が一つあるだけでガ-ドマンが立っているわけではない。中には動いている人の姿があり、出入りする車もあるところから、管理している人がおり、今でも自分の車を探してここにくる人もいるようだ。中には、先程はあり得ないと否定したが、行方不明の肉親を探している人もいるのではないだろうか。

真っ直ぐな道が、前方の小高い丘にぶつかるまで続いている。石巻市街はその丘の向こう側にあたるようだ。遠くからだから丘の上の様子ははっきりわからないが、丘までのおよそ500メ-トルほどの一面の平地には、完全な建物は何一つない。

今まで観てきた対岸では、更地になっている部分も多かったが、壊れた建物も点在していた。しかしここは、建物全てが津波に飲み込まれて破壊されたらしく、残骸すら残っていない家が多い。9ケ月過ぎたとはとても思えないほど、完全に当時の様子を残している風景。まさに荒野という表現がピッタリする。

私の直感だが、対岸は工場地帯であったが、こちらは住宅街が広がっていたのではなかろうか。何の脈略は無いが、ふと湘南海岸の風景を思い浮かべた。震災前にはこのあたりは湘南海岸と同じように、海岸から道路までは松林が広がり、道路から500メ-トルほど先までの平地は住宅街が広がっていたと思われる。

津波の危険性はある程度指摘されていたに違いないが、頑丈な堤防に完全に守られているという気持と、過去の津波の記憶が薄れ、この地を住宅街に変貌させ、むしろ風光明媚な環境が好まれて人気があったのではないだろうか。

道路からすぐに、窓ガラスなどは目茶苦茶に破壊されているが、壁やベランダなどの様子から少し手入れすれば住めそうな白と明るいブル-を基調にした3階建ての瀟洒なマンションだと思わせる建物はその象徴のように思える。このマンションの後ろだから残ったのだろうが最近建てられた近代的な木造の共同住宅も、その作りから若い人たちには特に人気の土地だったのではないだろうか。

しかし、それ以外の建物はほとんどない。重機が入った跡のキャタピラも見当たらない。水たまりもあちこちにあるところから、繰り返すが、このあたり一帯は津波で根こそぎえぐり取られ持ち去られたままなになっているようだ。

枯れかけた松の木が2本立っているのは、周りに樹木が一本もない荒野になっているだけに随分目立つ。この松も陸前高田の一本松と同じで、津波に耐え人々の勇気を与えたに違いないが、茶色になりかけた葉は、私には雪まじりの冷たい風に耐えきれなくなり、断末魔の悲鳴を上げているように思える。

道路は車道の部分だけはアスファルトで整備されているが歩道部分はない。松のある場所には広く土がならされて車が出入りできるようになっているところから想像すると、この松は、このあたりで家を失った人たちが集まる場所になっているのではないだろうか。そしてすでにこの松を復活させに取り組みが行われているに違いないと信じたい。何とか生き返ってほしいと願うのみ・・・。

私が歩いている歩道が未整備の道路の真正面に、遠目からでも完全に破壊されていることがはっきりわかる小学校らしい建物が見える。(帰宅して調べたら門脇小学校ということが判明)

近づいて見ると、その破壊が半端でないことが明らか。3階の窓は、窓ガラスはもとより窓枠ごと何もない。2階はガラスが残っているのが不思議な気がするが、津波の波先が3階を直撃したのだろうか・・・。それにしても凄い光景である。

門脇小学校は両脇が、かなり大きな墓地が高台へ続いている。私は職業柄全国のたくさんの小学校を見ているが、両脇が大きな独立した墓地という小学校というのは珍しく、ちょっと異様に感じる。

そのどちらか一つは私の視界に入った大きく傾いたお寺のものだろうが、もう一つは?。この小学校を作る時に、偶然二つの墓地の間に空き地があったのだろうか・・・などと変なことを考えてしまった。

この見聞録は歩いている途中記録をとっていないこともあり、記憶を頼りに書いているので、その都度、あんなこともこんなこともと思い出すことが多く、なかなか先に進まない。今日で終結するつもりだったが、時間的に難しいので今日はここまでしておきたい。(田舎親父)

2011年12月25日 (日)

石巻を歩いてみた(4)

 信じられない光景が目の前にある。とてつもなく膨大な瓦礫の山。その頂上付近で数台の重機が忙しく動き回っているが、ただ単に中にガスが溜まらないようにかき混ぜているのではないだろうか。

ダンプカ-がかなりの頻度で行き来しているが、出て行く荷台には瓦礫らしき物体はないところから、むしろいまだに瓦礫をここに運んで来ているようにも思える。それにしても、この瓦礫をどう処分するというのだろう・・・。

石巻の瓦礫からも放射性セシウムが検出されていると聞く。放射能の恐怖がなければ、全国に運べば何とかなると思うのだが、量的にどれぐらいかはわからないが、原発事故当初から、何とかあいまいな数値を並べ立てている国と東電が出す安全基準など信用できないとなると、この瓦礫を引き受けるに手を挙げる自治体があっても住民の同意は難しいのは確実。そして、さらに瓦礫が増えていく・・・。

旧北上川河口の対岸を結ぶ大橋が目の前に近づいてきた。近くから眺めると巨大な橋である。自動車専用道路ならば歩道がないことも考えられるが、とにかく近づいて見ることにする。

周りは完全に破壊し尽くされている。9ケ月過ぎてこの状態なのだから、震災直後はどんな様子だったのだろう。そして、どれぐらい過ぎてから重機が入り出したのだろう。今の自分には想像もできない惨状が広がっていたことは間違いない。

河口付近の工場地帯だったと思われる場所にでも一般の住宅があったらしく、真新しい家が住めない状態に破壊されている姿があちこちに残っている。(市の復興計画の内容は全く知らないが)更地にしなければその計画は進まないだろうと思うのだが、ここでも、愛着があって持ち主が壊すのをためらっているのか、それとも、大震災のモニュメントとして意識的に残しているのか、あるいは、市に整理するゆとりがない?のかはわからない。

奇妙な形で残っている家があった。一階の半分がえぐり取られ、二階部分が不安定に乗っかっている。これでよく残ったものだと感心するが、この建物こそ、早く整理しないと少しのゆれで倒れてしまうのではないだろうか。もっとも、近所には何もなく、倒れたとしても危険とは言い難い現状では、当局はそれを待っているのかもしれないが・・・。

更地になっている部分は、瓦礫を取り除き重機で踏み固めただけなので、靴がめり込み歩きにくいがとにかく大橋の道路にでたいので強引に横断する。やっとの思いで道路に出ることができた。ここも石巻大橋と同じで片方に歩道がつけられているが、歩道そのものが破壊されているので、出られたとしても歩ける代物ではなさそうだ。しかし、橋の部分までたどり着くと何とか歩けそうなので、車道を迂回して出ようとしたが、狭い道路をスピ-ドを出している大型車が多いので危険きわまりない。

仕方ないので、瓦礫を乗り越えて橋そのものの歩道に出ることにする。反対方面(女川方向)にはものすごく大きい円形のタンクのような物が横たわり国道を塞いでいるように見え、道路そのものがこの邪魔物を迂回しているようにも見える。

取り除けば通行が楽になるのにと思うが、簡単に除去できないわけがあるのだろう。この時、橋の歩道に出ることが最重要課題だったので、カメラを向けるゆとりがなく、橋の途中で振り返り、(肉眼ではある程度邪魔物の姿を捉えられたので)シャッタ-を押したが実際に写真を見ると邪魔物の正体がはっきりわからないのが残念である。

道路の向こうも同じような光景だが、被害がかえって小さかったのか、かなりの人が集まり黙々と整理をしている。この方面は、明らかに復興の動きがはじまっていることを感じたが、カメラを向けるゆとりがなかったのは重ね重ね残念で情けない。

この橋は対岸を大きく高くまたいでいるので登りはきつい。しかも相当痛めつけられており歩行も制限されているようだ。しかし、完全に遮断されていないのはありがたく、高度が上がるにつれて視界は広がり、惨状の全てが見渡せる。

先程は瓦礫の山からこの大橋を眺めたが、今度はこちらから瓦礫の山を見渡すことができ、そのあたりの地形が良く分かる。きっとここら辺りは、大きな工場が建ち並び、活発な経済活動がされていたところだろうと想像できる。

やっと頂上までたどり着く。海面からここまで50メ-トルほどあるのだろうか。雪が降っているので視界は著しく悪いが、天気のよい日なら、そして震災前であれば、ここからは素晴らしい眺望を楽しめたはず。石巻の市街地も一望できたに違いない。(実際には小高い丘が市街地をとり囲んでいる様子が良く分かる)

道路を隔てた反対側には太平洋が広がっている。大津波が襲った時、ここを通っていた車があったのではなかったろうか。首都高ではないので渋滞ということはなかっただろうが、運転手たちは頂上で止まって待つという判断ができただろうか。ひょっとして、瞬間的に危険を感じ、猛スピ-ドが駆け下り、結局は津波に巻き込まれた人も多かったのではなかろうかと悲しい想像は広がる。

この橋が津波で破壊されなかったので結果論になるが、津波がきたらとにかく高い場所に逃げること。この場に立って改めて実感する。

そんな感傷は、橋を下りはじめてすぐ吹っ飛んだ。ものすごい量の車が目に飛び込んだからである。しかもその車は全て廃棄車。そこは車の墓場とか表現できないほど衝撃的な光景である。

今から出かける用事があるので今日はここまでにとどめておきたい。(田舎親父)

2011年12月24日 (土)

石巻を歩いてみた(3)

 右手に見えるド-ム状の建物は石ノ森漫画映画館だと後で知る。この建物は遠くから見る限り損傷は少ないようだが、あまりにも周りの景色が酷過ぎるので、強い違和感を覚える。しかし今後、石巻の復興に役立つような気もしないでもない。

目茶苦茶に壊れた家が多過ぎるが、それでも無事のように見える車も多い。整然と駐車している車もあるところから、人が住んでいると想像できるが、このあたりには人影は見当たらない。小雪が舞い散る悪天候では外に出ないだけかもしれないが・・・。

そんなことを思っていると突然天候が急変、太陽が顔を出す。朝から歩いている途中でも何度が経験することだから、太平洋側といいながらも北国の当地では珍しくないのかもしれない。それでも横浜の片田舎ではめったに経験できない雪の合間の一時的な太陽の日差しは、何よりも嬉しい。

古畳を見つけた。家の基礎だろうと思われるコンクリ-トの固まりも散在しているが、基礎部分がこんな形になるのだから、その上に建っていただろう建物は完全に倒壊したに違いない。それらの建物は瓦礫としてどこかに集められているのだろうと思うと気持ちが滅入る。それでも道路は何とか車が通れるほどには整理されている。

どこまで壊れた建物が整理の対象になったのかはわからないが、何とか原形をとどめている家屋は、相当な痛み方でも、また傾いていても存在しているのもショック。ここまで壊れた建物でも愛着があって残したいのだろうか。それとも、行政にはその能力がなく、放置したままになっているのだろうか。それならあまりにも虚しくなる。

一角全く何もない場所もある。そこからは対岸の風景が見て取れるがここに人が住んでいた建物があったことは、建物の基礎がわずかばかり残っていることからしかうかがい知れないのも悲しい事実。

川岸に近づくと、応急処置で積まれた大型の土嚢が並んでいる。それらを覆うブル-シ-トは破れたまま放置されているのは、一応は応急の護岸ができたのでお役目御免になったものだろう。あたりの光景から、壊れた建物も処分できないのだから土嚢が放置されているのもうなづけるが、破れているブル-シ-トの風景は壊れた家を見る以上に荒涼さを感じさせる。

突然、放置してある船が目に入る。かなり大きな漁船だと思わせるが、そのまま使えるのではないかと思うほど綺麗な船体のように見える。近づいてみると、道路を完全に遮断して乗り上げている。

この船は大津波でここまで運ばれたのだろうが、横転もせずうまく止まったものだと、不謹慎ながら感心してしまう。船に知識のない私には、まだ十分使えるのではないかと思うのだが、放置してあるのは修理が不能なのだろう。それにしてももったいないと思ってしまう。

また太陽か厚い雲に隠され降ってきた。急激に気温が下がるのを肌で感じる。船が放置されている傍には、3階建ての共同住宅。この建物はよほど頑丈に作られているとみえて、外見はしっかりとしている。しかし、一階部分は完全に無くなってしまい火災の後のように黒ずんでいる。この黒ずんでいるのは壊れた建物に共通するところから、津波の後の特徴のようだ。

女川へ向かう国道方向に道を変えると、そこは、震災前は整った住宅街だったらしく、更地になっている中に、一見、何とか修理すれば住めるのではないかと思うほど立派な家が数件残っている。中には近くに駐車してある車の状態から、確実に人が住んでいるのではないかと思われる住宅もある。

驚くことに、向こうの方で理髪店のマ-クを示す赤白青がクルクルと動いている。こんな場所で理髪店?と驚くが、近づいて見ると、奥の家で確かに営業している。ということは利用する人がいる証拠。確かに、この一帯には時には乗用車も見かけるので人が生活している気配を感じる。こんな廃墟と化した街に果たして何人が暮らしているのだろう。

経営が成り立つほど大勢の人はいないだろうに、それでも営業しているのは、儲けなど関係ないという経営者のど根性か・・・。頭が下がる。思わず理髪店のシンボルマ-クに手を合わせてしまった。

その近くにはいろいろな店もあったのだろう。実際にタバコ店の看板が残る壊れた家もある。階段だけ残っている光景にギョッとするが、恐らくこの階段は木造のアパ-トの一部で、本体は流されたに違いない。

信じられないことだが、子どもの声が聞こえてきた。近づいて見ると、そこは保育園らしく、保護者に付き添われた子どもたちが存在している。横には数台の車が駐車しているところから、ここまで送られてきたのではあるまいか。

保育園らしい建物を見ると、かなり痛んでいるようだが、ここでも人々がたくましく生きている姿を見ることができ、何となくホッとする。営業している理髪店と保育園に集まる子どもたちの姿は、今回の旅で唯一、希望が湧く光景である。

時計を見るともう10時前、気にしなかったがもう2時間以上歩いている。気分が立ち直ったので、遠くに見える河口を横断している大きな橋の麓まで歩くことを決心してノロノロと歩きはじめる。周辺には湊郵便の建物があり、小さな鳥居もあるところから、このあたりは町の中心部だったに違いない。

再び川に向かうと、すっかり荒れ地になった場所に横転した船がみえる。残った門柱からここは『ミツワ製氷冷蔵』という会社の敷地であることがうかがえる。ネットの地図でも名前があるのでかなり大きな会社だったようだから従業員も多かったに違いない。その人たちは今、どうなっているのだろうと心配になってくる。

そこを過ぎるとかなりの人たちが忙しく働いている。おはようございますと声をかけたら、一人だけオッ-っという声が帰ってきたが、私のような者には興味がないらしく、その人以外は全く無関心。ここは造船所らしく、慌ただしく船体の修理をしているところからこの態度ももっともだと納得。邪魔をしてはいけないと急いで立ち去る。

そしてそこに突然、現れたのが瓦礫の山。瓦礫の上で作業している数台の重機の音が鳴り響く。この瓦礫の量は半端ではない。目測でも10メ-トル、いやそれ以上かもしれない。その上で重機が動き回っているのだが、何をしているのかはわからない。大型のダンプがかなりの頻度で行き来しているところから、(今までの惨状から)瓦礫を運んで来ているのではないだろうか。

それにしても、9ケ月過ぎてもこの状態であることに愕然とする。マスコミは復興が進んでいると伝えているが、その言葉が虚しく感じる。今日はここまで・・・。(田舎親父)

不定期に連載。

2011年12月23日 (金)

石巻を歩いてみた(2)・・・

 旧北上川の河口付近の風景は、雪が舞うどんよりとした感じが一層、北国の厳しさと被災地という寂しさを増しているようで、何かトンデモナイ辺境の地に紛れ込んだ錯覚さえ起こしてしまう。毎日のように歩いている横浜の片田舎の恩田川(鶴見川の支流の一つ)とは大違いである。

歩いている人の姿は当然ながらほとんどない。時に通学途中の中高生が自転車で通り過ぎていくが、寒空のなか一人トボトボと歩いている私を見ても全く興味を示してくれない。

道は当然ながら応急処置を施した砂利道で、北上川の流れをくい止めるかのごとく1メ-トル程度の真新しい護岸が延々と続いている。護岸の向こうに一人の老人が黙々と何かを探すように歩いている。『おはようございます』と声をかけたが反応がない。

護岸のすぐ向こうは流れがあるはずなのに、ほんの少しの歩ける場所があるらしい。確かめると、護岸と流れの間に上流に行くに従って広がる枯れ葦ある。護岸を乗り越えてこんな場所を歩いている姿には、それ以上声をかけるのをためらう何かを感じる。津波で流されたものを必死に探しているのではないかと想像し、見つかりますようにと祈って先に進む。

猛烈に冷え込んで雪が強くなって来る。快晴の中ホテルを飛び出したので、折角リュックに入れた折り畳み傘を忘れ、雪を防ぐのはマフラ-だけ。一瞬ホテルに引き返そうかとも思ったが、『この程度の寒さが我慢できなくてはどうする。当時の被災者はもっと厳しい寒さだったことを考えろ・・・』という声が天から聞こえたように感じ、被災者の人の気持ちを考えると歩くしかない。

上流に向かって歩く先に、大きな橋が見えてくる(帰宅後地図で『石巻大橋』だと知る)。近づくにつれて、この橋は水面よりかなり高いことがわかる。そこは幹線道路となっているらしく車の行き来が激しい。

そして、このあたりから、今までは1メ-トル程度の護岸があるものの、水面と民家の高さはほとんどなかったのが、急に盛土の堤防になり、大きく回り道をしないと橋にはたどり着けない仕組みになっている。

橋の下をくぐると、堤防に登れる道が現れ、私を堤防の上へ誘ってくれる。堤防に登ると視界は一挙に広がる。今は枯れて残骸だけが残るが、震災前の夏場は豊かな葦原が広がり、雄大な北上の眺めと涼しい風が受けられたのだろうと想像できるが、今は水鳥だけが群れる一見平和な風景。だが、私には荒涼とした広がりだとしか感じられない。

どれほど歩いただろうか。ここまで歩くと、堤防の下の道に沿った民家の被害は比較的少なかったらしく、小学校の校庭には子どもたちが元気に飛び跳ねている姿も見え、人々の生活が戻りつつある雰囲気を感じる。

流れが大きく曲がる地点で引き返す。行きは気づかなかったが、石巻大橋に登る階段を見つける。登ってみると片方だけに歩道があるので、対岸に歩くことにする。大橋と名付けられるだけあってかなりの距離がある。この橋も津波で痛めつけられたらしく、至るところに段差があり、車も走り難そうだが、歩道も同じで風景に気をとられていると足元がおぼつかない。

北上の流れを渡るとかなり急勾配の下り坂を進むと、やっと対岸の交差点。私にとっては下り坂であるが、石巻の市街地の高校生には大変な難所らしく、真っ白な息を吐きながら学校に急ぐ自転車にすれ違う。

この交差点は歩行者には厄介で、そのまま右折して川岸の道路を進むための横断歩道はない。仕方なく道路をわたるが、前の建物の駐車場が30センチ以上道路から落ち込んでいることを発見する。今回の地震で陥没したに違いないが、それにしても凄まじい威力を見せつけている。

こちらの被害は対岸より酷そうだ。更地が多いのはすでに瓦礫を撤去し、重機がならしたのだろうが、壊れたままの民家もポツポツと現れる。突然、新築したのではなかろうかと思われるマンションが現れる。駐車した車の多く、人の出入りもある。ここには確実に人々の生活はあることはわかるが、新築が許可されるのだろうか?・・・。それとも新しいので震災を免れたのだろうか?・・・という疑念が浮かぶ。

道路を渡り川岸に近づいて見ると、こちらはまだ護岸工事中らしく黒いシ-トに覆われた護岸の一部らしき形骸が続いている。下流に進むにつれて被災情況は凄まじくなる。かなりの高度を持つ小高い丘の岸壁がズタズタに崩れ、断崖になっている場所も数多いところから、地形的に地震の影響を大きく受け、さらに津波が被害を大きくしたと考えられる。

それでも女川街道にかかる橋までは比較的冷静な気分で歩けたが、歩道橋を渡海辺の町に入ったとたん、信じられないような光景に度肝を抜かれ、足がすくみ歩みはノロノロになる。それでも映像だけは残したいと必死にシャッタ-を押すのだが・・・。

時間がなくなったので今日はここまでにしたい。不定期に続く・・・。(田舎親父)

2011年12月22日 (木)

石巻を歩いてみた(1)・・・

 大津波から9ケ月過ぎたが、まだ一度も現地に足を運んだことがない。直後からずっとボランティアで出かけたい気持ちがあったのだが(現在もある)が、年齢を考えたらかえって足手まといになるだけだろうという躊躇が先にたつ。若い人たちが現地で活動している姿を見ると、うらやましくなるが手を挙げる勇気はなく今日に至っている。

結局、私ができることはささやかなお金を郵便局の義援箱に入れるだけだが、その募金も被災者の皆さんには満足に行き渡っていないと聞くと、何やら虚しさも感じる。さりとて何ができるかと問われると応えられないのが歯がゆい限り・・・。

随分以前から、現状を自分の眼で確かめたかったが、ただ見に行くだけでは失礼になるだろう気持ちの方が強く行動に移せず、大津波と原発事故から9ケ月、悶々としながらなすすべもなく過ごしてしまった。

しかし、今回八戸に出かける用事ができたので、そのついでとは言ったら現地の人には失礼になるが(最近は映像も少なくなったのも気掛かりで)、実際の復興を自分の眼で確認したいという気持ちが強くなり、そっと確かめるだけなら許されるだろうと思い、やっと見つけたホテルを予約して20日の夜遅く石巻に入り、翌日の早朝から自分の足で石巻市内の海岸付近を中心に歩いてきた。

石巻の駅の到着時、改札を出るとまず目に入るのが居酒屋の看板。というより居酒屋しか照明が入っていないという表現の方が正しい。それでも、その明るさに石巻は元気なんだと感じるが、居酒屋の名前を見たらそれらは全て全国のチエ-ン店。私の住む横浜の片田舎でも間違いなく出店している全国的に知名度のある居酒屋ばかりであるのがなんとも虚しくなる。

その土地の人がやっている店は少なくとも駅前にはない。全国チエ-ン居酒屋でも石巻の夜を明るくし、人々が出入りしていることで元気を与えていることは間違いないが、私には強い違和感・・・。

夜も遅く一人だったこともあって、町を歩き回って地元の飲み屋を探すのもおっくうになり、駅前の『庄屋』という全国チエ-ン店に飛び込む。カウンタ-で座らされること以外は、東京の店と全く同じで、目の前には美味しそうな映像のメニュ-のカタログ。適当に頼むが、そこには石巻の香りも味もない。何となく被災地に展開しているように思えるこれらの居酒屋チエ-ンに、何となくハゲタカを連想するが、このことに関しては別の機会に廻すことにしたい。

腹ごしらえを終えてホテルに向かう。最近営業を再開したというホテルだが外見はなかなか立派で、接客態度などには震災の影響は全くないようだ。ここまで旅人の受け入れ体制ができていることは、無条件に良かったとつぶやく。フロントにお見舞いを言ったらかえって恐縮されてしまった。

すぐに横になるが、夜中水音で目が覚める。時計を見ると午前3時。隣室でシャワ-でも使っているのだろうと思うが、水音が消えないのは困ったもの。フロントに電話でもと考えたが、こんなに長く使っている人もいないだろうからこれは変。このホテルも被災し営業再開は8月からとのことだから、施設が完全に復旧できていないのかもしれないと思い我慢すると共に、ひたすら眠りに入る努力を重ねる。

しかし、完全に目が覚めたらしく寝つくことは無駄なこと。開き直って、白々と明けていく北国の空を小さな窓から見続ける。朝焼けが実に美しい。これは幸とばかり、テレビの金総書記に関するニュ-スなどは意識外。7時から朝食を大急ぎ食べて快晴の町に飛び出す。

まずは旧北上川に向かう。まず目につくのは空き地の多さである。恐らく津波で壊され家を取り壊して、更地になっているのだろうが、まだ手をつけられていない壊れた家も歩く先につき次に現れ始める。そしてその近くは早朝にも関わらず重機が動いている姿がセットになっているのも悲しい現実。

しばし歩いたら目の前には小高い岡。その麓にはかなり歴史のある雰囲気の大島神社が建っているが、ここもかなりの被害があったらしく、参道が浮き上がっている。この神社に沿って歩くと北上川にぶつかり、荒々しい北上川の河口の風景とは違和感のある小さな赤い橋が目についた。

神社の名前から、ここにはかなり大きな島があったのではないだろうか(実際に地図を調べると島が描かれている)。そこは大島神社の一角の聖域として人々できっと賑わっていたことが想像できるがその面影は全くない。島全体がほとんど津波にえぐり取られたらしく残っているのはごく小さい岩の固まりのように見える。

橋の色だけが新しいのは、震災後塗り直されたのかもしれない。しかも、仮設の護岸により全く島とは切り離された存在になっているため、人々がこの小島(震災前には護岸はどうなっていたのだろうという疑問は残るが)を訪れる術はない。仮設の護岸が完全に橋の存在を遮断しているので、私の目にはこの赤い橋は聖地への信仰の架け橋ではなく、ただ復興のシンボルとして大急ぎで復旧したように思えてしまう。

そこに根を張っていただろう松は、その枝振りの良さはわかるが完全に枯れてしまっているのはこれも津波に痛めつけられたのだろう。が、私の頭には、大河の中に浮かぶ島というスケ-ルではないが、ふと鎌倉の鶴ケ岡八幡宮の源平池に浮かぶ小島の風景が浮かんで来る。

このあたりで天候が急変し粉雪がちらついてきた。気温は当然零下だろう。こんなに気象が激変するとは予測しなかったので唯一の防寒具であるマフラ-で耳を覆わなければ我慢できないほど痛くなる。

こんなことも思い出しながら書きはじめたが、この見聞録は時間がかかりそうだ。写真を整理しながら時間を追ってまとめたいので今日はこのあたりにしておこう。不定期的に続く・・・。(田舎親父)

2011年12月17日 (土)

地元神奈川の話題二つ

 予測通り、汚染土壌首相は6時からの記者会見で『原発事故収束』を得意そうな顔で宣言していたが、原発の内部の状態さえ全くわからない状態でよくぞこんなセリフが口から出せるものと呆れ返る。

さすがの朝日新聞でもこのことに対してと批判的で、社説まで拙速だと書いているのだから、いかに今回の終息宣言がいい加減な政府のご都合主義そのものだと言うことが良く分かる。これではますます諸外国から笑われるのではないだろうか。

そんなことを思うと、今日は何となく文章が進まないので、最近感じている地元神奈川の話題を2つ・・・。

その1。高速道路を歩く人がいる?・・・。全国の高速道路で人が車にはねられて死亡する事故が11月末現在で30件に上り、昨年同期と比べ倍増しているという記事。この記事の見出しを見て、高速道路を歩く人がいるのか・・・と驚いたものだが、内容を読むと、事故を起こして車から降りていた時に事故に巻き込まれた場合が一番多いことを知り、そうだろうな・・・と納得する。

ところが翌日の神奈川新聞によると、事故を起こして車から出て路肩にいる人とは違い実際に高速道路を歩く人が後を絶たないのだという。その数は県警が捉えているだけで、過去1年年間で500件以上というからビックリ。

しかし、保護された人の半数以上は65歳以上の高齢者で、認知症(この場合は特に痴呆またはボケと言った方が適切だと思うのだが)の人も多く、死亡事故につながるケースもあるとのこと、ここにも痴呆老人問題が根っこにあることを改めて感じる。

この記事を読んで、改めて近くを走る東名高速を調べに出かけた。さすがにこの高速は人間が立ち入れないように、また物が落下させないように、陸橋には細かい頑丈な網が張られしかも目隠しが施されている。これでは痴呆症の老人が立ち入る隙はない。

となると、東名高速に立ち入れるのはインタ-からだけだろう。確かに、ETCのすき間から歩いて立ち入ることは可能だが、東名高速は一般道路から本線までのアプロ-チが長く、その間に誰かに発見されるはず。

どうやら東名高速に痴呆老人が入ることは難しいとの結論になったが、県内の保土ヶ谷パイパスや横浜横須賀道路、あるいは厚着小田原道路などは、一般道路から直接本線に入れるようになっており、そのアプロ-チは短かく、また車の少ないインタ-もあることから、このような高速道路に、自分が何をしているのか認識できない痴呆老人が立ち入ることは十分可能になる。

これでは県警が訴える『高速道路には人がいないという認識を改め、注意して運転してほしいれという呼び掛けはもっともだが、変な時代になったものである。

その2。『鎌倉への14メ-トル大津波・・・』の記事にも驚く。今回の東北大津波で全国各地では原則的に津波に対する想定を見直しているが、神奈川県が、県内の津波の高さなどを独自に試算したところ、過去、同県を襲った巨大地震と同等の地震が発生すると、鎌倉市で14メートル超に達する可能性があることが判明したという。

これは鎌倉大仏から鶴岡八幡宮まで津波に丸飲みされる恐れがあるというから衝撃的であるが、鎌倉大仏(高徳院)はもともと大仏殿のなかに収っていたが、『明応地震(1498年)』による津波で大仏殿が流され、露座の姿になったと歴史が教えていることから、14メ-トル急の津波が襲う可能性は十分考えられる。

先日、『引地川』という、県内の人にもあまり知られていない湘南海岸にそそぐ川岸を湘南台という小田急の駅から歩いて下ってみた。途中までは小高い丘などが入り組む変化に富む風景や、親水公園と名付けられた広い遊水池があってなかなか楽しいウオ-キングだったが、湘南海岸に近づくとほとんど丘らしい場所もなく、平坦な土地には空き地が全くないほど家が立て込む。

そのあたりまで来ると、流れは全くない。恐らく潮の満ち引きで逆流する時間もあるに違いない。川岸は完全にコンクリ-トで固められているが、水面まではおよそ5メ-トルほどだろうか・・・。

ここに10メ-トルを超える津波が襲ったらどうなるのだろう。逃げるといっても近くの高層ビルしか安全な避難場所はないだろう。しかし、この川の流域にはそれほど高い建造物が見当たらない。空は広いのは素晴らしいことだが、津波を考えるとそんなのんびりとした考えが消えてしまう。

自分の足で確かめた全く異質な二つの話題。改めて、危機管理と防衛本能について考えさせられる。(田舎親父)

(おことわり)政治の話題はゾッとすることばかり。とはいえ、他の独り言の材料を探すのが難しくなったので、しばし頭を冷やしたいと思っている。

2011年12月16日 (金)

曖昧な判断の横行は・・・

 先日、東京都杉並区の区立小学校で使用していた芝生の養生シートから1キログラム当たり9万600ベクレルの放射性セシウムが検出されたというニュ-スに、愕然とするも、今頃になってなぜ?・・・という素朴な疑問がわいてくる。

このシ-トは区内の小学校が数年前から校庭を天然芝に代えたため、冬季に天然芝の養生のために覆っていたもので、この小学校では4月上旬にそれを剥がして体育館脇に積み上げられていたものだという。

『福島第1原発の事故後、シート表面にセシウムが付着した可能性・・・』という説明を待つまでもなく、3月11日から数日の間に首都圏に高濃度の放射性物質が降り注ぎ、それがシ-トに付着したことは明らかだろう。私が疑問に思うのは、当時校庭の放射線値が問題になっていたはずなのに、このシ-トにはだれも注目していなかったのだろうかという点。

そんなことはあるまい。杉並区の住民はかなり意識が高いと聞いているので、保護者のなかには心配する声が起き、測定してほしいという声もあったことは想像に難くないが、当時の都内はじめ首都圏の行政機関には測定器機がなかったこともあり、積極的に測定する自治体は少なかったことを思い出す。

区の測定がはじまった頃には、養生シ-トは取り払われていただろうから、基準以下という結果(養生シ-トに覆われていたので当然だが)に、保護者のほとんどは胸をなで下ろしたというところではないだろうか。

それでも意識の高い人たちは、養生シ-トに注目して、区に厳密な測定を迫っていたらしく、今回区が重い腰を上げて、積み上げられているシート上の空間放射線量を測定したところ、高さ1センチで毎時3・95マイクロシーベルトという高い値だったことから詳しく調べ、9万超ベクレルという数値を発表になったようだ。

しかし、これは大事である。杉並区の小学校(中学校もだろう)は全て天然芝に張り替えたはず。杉並区に限らず、天然芝に張り替えるのは時代の流行とあって、都内の多くの公立の小中学校は先を争うように天然芝に張り替え手いるはず。その全部は冬季には養生シ-トをかけるように義務づけられているだろう。

次年度のためにこれらのシ-トは校内のどこかに積み上げられているはずだから、この小学校と同じように、測定すればトンデモナイ値が出てくることは明らかである。

区は、シートは表面積が大きく、原発事故直後に広く放射性物質が付着したのだろうが放射性セシウムの濃度測定はキログラムで換算するため、『シートが軽い分、高い数値』が出たと説明しているそうだ。

環境省も『シート1キロに対し他の廃棄物1トンを混ぜて焼却すれば放射性物質は十分希釈される』という見解で、焼却処分をしても差し支えないという認識らしい。区はこれを受け焼却するのだそうだが、この小学校だけではなく同じようなシ-トを集めれば膨大な量になる。それを焼却して大丈夫だとはとても思えない。

話は飛ぶが、土壌に放射性物質の蓄積が確認されている福島県の水田の一部で、除染をしないまま、土をかき混ぜる『田起こし』が進められているらしいというニュ-スを知ったのはだいぶ以前のこと。

国などによる除染の実施時期が不透明で、雑草が茂り土地が荒れるのを恐れた農家が行っているのだそうだが、そんなことをしたらかえって表土近くに積もっている放射性物質を拡散するだけ。土壌の中に入って作物が吸収することを考えると、拙いことになるのではという疑問を持ったものだが、農水省は『田起こしをして下の土に放射性物質が混じっても根さえ汚染土に触れないよう深く耕せば、問題ないのではない』と黙認しているそうだ。

放射性物質を根が届かないほど深くに埋め込む、なるほどそんな気もするが、農家はそこまで徹底して掘り起こしているのだろうか。

今回の高濃度汚染された養生シ-トは軽いから、何かとまぜて全体に重くして燃やせば問題はないという考え方と同じで、問題を曖昧にして後年起こりうる様々な問題の責任の所在を分かりにくくする方便のように思えてならない。(田舎親父)

2011年12月15日 (木)

 冷温停止状態?・・・

 福島原発事故の収束作業について政府が、工程表の『ステップ2』の終了を決めるのだそうだ。

1~3号機の燃料は安定して冷え放射性物質の新たな外部放出が抑えられているなど、ステップ2で目標とした原子炉の『冷温停止状態』となり、その維持が可能と判断し、当初は『年内』としていた終了時期を達成すると報じられている。

最近とみに東電や保安院あるいは原発担当相などの口から『冷温停止状態』という言葉がでるが、『冷温停止』とはっきり言い切れば良いのに『状態』をつけて、何となく曖昧ながら事態が良くなっているような流れを作り出しているような感じがする。

『冷温停止』という言葉が持つ本来の意味は、定期検査などで原発の運転を止め、密閉された原子炉の中で冷却水が沸騰していない安全な状態のことだという。その意味からは『冷温停止』が『確認』されているので『安全な状態』という表現ならわかるが、『確認』という言葉を省き、似て非なる二つの言葉をくっつけるのは、意図的な意識操作と言っても奇怪しくない。

最近は原子炉建屋の映像をマスコミはあまり報道しなくなったが、1号機は覆いをかぶせて内部がうかがい知れないようにしているらしい。が、3号機と4号機は、建屋が大破したままだろうから、原子炉の密閉性が失われて『高濃度汚染水』が大量に建屋内に残っているのが現状。これは『冷温停止』の『安全な状態』とは言えるはずはない。

『冷温停止状態』を例にとったが、原発関係では曖昧な表現が目立つ。その一つが『老朽化』とは決していわず、『高経年化』という言い回し。全国には、運転をはじめて30年以上たつ原発が20数基もあるという。これはごく当たり前の感覚では『老朽化』であるのだが、政府の担当者は『高経年化』と言い換えている。

このことをある専門家は原子力業界では『古くなった部分は取り換えるから、(原発に)老朽化はあり得ない』という考え方が常識としてまかり通っていると指摘しているが、古い部品を換えられても原子炉そのものを取り替えることは不可能だからこんなバカな表現が通用することが奇怪しい。これを『老朽化』と呼ばずして何と呼ぶ。『高経年化』とは恐ろしい笑い話・・・。

以前はよく使われていた『高濃度汚染水』という言葉も最近はあまり聞かれなくなった。建屋にはまだ大量の放射能濃度の高い『汚染水』があるはずなのだが、この水はずっとそこに溜まっているということで、いつのまにか『滞留水』と呼ぶようになったようだ。

誰かがツイッタ-で発信していたが、プルサ-マル計画で使われる『MOX燃料』はウランに毒性の強いプルトニウムを混合しているのが最大の特徴なのに、プルトニウムを現す『P』あるいは『Pu』の文字はないのも、私は今まで考えてみなかったが、何となくプルトニウムを隠したいとの発想に違いない。

改めて『MOX燃料』という意味を調べてみたら、『モックスと読み、混合酸化物燃料の略称』とある。その意味は『原子炉の使用済み核燃料中に1%程度含まれるプルトニウムを再処理により取り出し、二酸化プルトニウム(PuO2)と二酸化ウラン(UO2)とを混ぜてプルトニウム濃度を49%に高めたもの』であり、MOXとは(Mixed OXide)の頭文字を採ったものであるという。どうやら、プルトニウムの毒性を十分認識していたからこそ、単に混ぜ合わせた燃料という言葉を作ったというところのようだ。

ところで、福島原発の『滞留水(高濃度汚染水)』の処理システムのうち、淡水化するための蒸発濃縮装置の建屋内で約45トンの水漏れが見つかったことが明らかになった。建屋外にも漏れており、約5百メートル先の海に流れ出た恐れもあるらしい。

このシステムではストロンチウムは除去できず、漏れた水は、海水に放出できる基準の約百万倍という高濃度のストロンチウムを含むとのことだから危険この上ない。

この事実からも、『冷温停止』にはほど遠い状態なことは確実。なのに『冷温停止状態』という曖昧な言葉で、あたかも原子炉が安全な状態だと言い繕っている。こんな方便を誰が信じるのだろう。(田舎親父)

2011年12月14日 (水)

これは普通の通り魔事件とは違うぞ・・・

 最近の事件報道は、どうしても個人のプライバシ-という要素が前面にでるので仕方ないのかもしれないが、犯人(関係者)の身内のことになると何となくオブラ-トに包まれたように曖昧になり、事件の背景が読みにくくなっている。

先月に埼玉県の三郷市で女子中学生が何者かにナイフで襲われた事件は、またわけのわからない輩が徘徊し出したものだと思うと共に、やはり女の子の一人歩きは危ないことを世間に教えたもの・・・との程度の認識で読み流してしまった。

しかし、それからいくばくもたたないうちに、江戸川の対岸の松戸市(この名前もこのところ度々登場するものだが)で、白昼小学4年生の女児が、下校途中にナイフで刺されたという事件報道に、恐らく犯人は同一人物だと思うと同時にその犯行の手口に背筋が寒くなる。

最近はあまり聞かなくなったが、以前は下校途中に小学校の低学年の女児が連れ去られる事件がよく報じられていた。私がこの『独り言』をはじめのも、日光で小学1年生の女児が連れ去られ、翌日遺体が茨城県の山の中で見つかったという事件がきっかけだったが、この事件の犯人はいまだに掴まっていない。

このことは別にして、数日後この通り魔事件で逮捕された通信制高校2年生のことを報じる記事には疑問点が多過ぎる。

犯人の逮捕につながったのは『ナイフを持ち歩いている少年がいる』という住民からの通報がきっかけだったとのことだが、日常的にこの少年がナイフを片手にブラブラ歩いていたのだろうか・・・。何か変だ。

この少年は事件の少し前までは別の私立高校に通っていたという。首を切った猫を学校に持ち込んで大騒ぎになったらしいが、その直後に自主退学をしたと報じている。このあたりにも何となく曖昧さを感じてならない。

常識的にみて、首を切った血だらけの猫の死骸を学校に持ち込むという信じられない行為に周りが大騒ぎになったことは当然だろう。この少年が周りから阻害されていたのが原因だとしても異常過ぎる。犬や猫などの人間に近い動物を残忍な方法で殺害するのは、よほどのことがないとできないものだが、理事長や校長はともかく、この少年と関わっていた教師たちは『自主退学』という形で安心してしまったのだろうか・・・。

校内を騒がして満足したから『自主退学』をしたのだろうか。退学届けには保護者の同意が必要なはずだが、このあたりのことは、やはり家族のプライバシ-ということなのだろうが、何もない。

マスコミの恣意も入っているのだろうが、少年は『刃物の採集マニア』で自宅には数十本の庖丁やナイフなどがあり、なかには父親が買い与えていたものもあると報じている。こんなことがあるのだろうか。記事を読む限り母親の存在はないので家庭環境は全くわからない。わからないことばかりのオンハレ-ドである。

いわゆる『通り魔』事件はこれまでにも度々起きている。数年前には秋葉原やJR荒川沖駅であった通り魔事件の犯人は、不特定多数の人たちを襲い殺傷している。恐らく、生きる望みをなくし自殺を考えるが死への恐怖から、捨て鉢になり無差別殺人に走ったのだろうという心理は、何となく理解できそうだが、この少年の場合にはこれには類しない。

人目を盗み、下校途中の一人歩きの女の子ばかりをつけ狙ったということは、自分より弱い者をねらって『人を殺す』ということに生き甲斐を感じていたとも考えられる。これは時代小説によく出てくる辻斬そのもの。描写は簡単だが、私には想像を絶する世界。

またそぞろ心理学者や教育者という人たちが、動機や背景の解明は極めて重要だと騒ぎ出すことは火を見るより明らかだろうが、果たして真実を暴けるのだろうか。心理を追求して真実が明らかになったとしても、次の同じような事件を防ぐために使われなければ学問的価値はあっても、社会的には意味はない。

私は、健全な家族や地域のつながりがあれば、この少年のような心理にならなかったのではないかと思っている。しかし、では同種の事件を防ぐ具体的な方法は・・・と問われると、個々の家庭環境が違うので明確な答えを出せないのがもどかしい。(田舎親父)

2011年12月13日 (火)

汚染灰が帰って来た?・・・

 国の基準値を超える放射性セシウムを含む焼却灰が千葉県から運び込まれた秋田県大館市と小坂町で3日、首都圏などから運ばれ、仮置きされている焼却灰計245トンを搬出元の自治体に返却する作業が始まった・・・というニュ-スに、ある程度は想像していたが、すでに首都圏側は地方に汚染灰を持ち込んでいたことを確認する。

事故原発から放射性物質の流れが大きく分けて二つあり、その一つが南西側にほぼ直線を描いて首都圏に達する流れであることはすでに明らかにされている。科学的にははっきりと解明されていないのだそうだが、その終端付近が千葉県の松戸市や柏市、あるいは流山市付近らしく、かなり高い放射線量が観測され住民の不安が高まっていることもマスコミがセンセ-ショナルに取り上げている。

当然のことながらその地域の街路樹や落ち葉を洗い流した雨水は下水となり下水処理場に運ばれるのだが、それらには相当量の放射性物質が蓄積している。しかし、市としてはそれらをごく普通の汚泥としてしか扱い焼却するより方法がない。そのことも何度も報じられている。

そしてできた処理灰には高濃度の放射性物質を蓄積していることは、少し考えればすぐにわかること。低レベルのものは埋め立てて良いとしているが、住民は国の決めた数値など信じられないので、各地で激しい反対運動起きるので埋め立てなどできるはずがない。仕方なく自治体は下水処理場の隅に、処理灰をブル-シ-トでくるんで保管している状態なのだそうだ。

それが、いつのまにか首都圏の自治体と秋田の地方都市との取引が成立して運び込まれていたようだ。今回、どういう経緯で明らかになったかは報じていないが、7月に千葉県松戸市と流山市から基準値超のセシウムが検出された灰が運び込まれ、一部が小坂町の処分場で埋め立て処分されたことが判明したという。

秋田県の両市町は、それ以外にも千葉はじめ、埼玉、神奈川、栃木、茨城、静岡6県の6市町4組合から受け入れていたというから改めて驚く。それらの焼却灰は基準値以下だったが、両市町の処分場と関連敷地に仮置きされているのだそうだ。

両市町は財政的なこともあって受け入れを了解したのだろうが、恐らく住民には細かな経緯など、(市の広報の隅っこに小さな文字でこのことを書いているのかもしれないが)詳しく告げていないことは想像に難くない。ひょっとして、広報にも載せず行政の独断だということすら考えられないこともない。

7月に明らかになっているにも関わらず、今まで隠していたことから住民は怒り心頭だろう。基準値以下だと説明しても納まるわけはない。行政側は今後も受け入れを続けたいと住民を説得したそうだが、地元住民らが強く反発し今回の動きになったらしい。

翌日になって、また同じような話題が新聞紙上を賑わしていた。今度も依頼主はやはり千葉県流山市。北九州市のリサイクル会社に処理を依頼したごみの焼却灰の一部から放射性物質が検出され、この焼却灰が北九州市から流山市に送り返されたという。

送り返されたのは、流山市の清掃工場から出た焼却灰18トン。流山市は、焼却灰を

処理する施設がないため、ことし3月から6月にかけて、合わせて117トンの焼却灰を北九州市のリサイクル会社に送っていたのだそうだ。

3月から6月というのも期間も、下水処理場に保管するようになったのは、基準値を超える放射性物質が7月の時点で明らかになったから。結局は流山市も北九州市も、そしてその仲介をしていたリサイクル業者も、今までこのことをひたすら隠し通してきたに違いない。今回、隠しきれなくなって返却に追い込まれたという筋書きのようだ。

これは流山市や松戸市だけの問題ではないだろう。焼却灰を処分する処理場を持っていない(許容量を超えている)自治体も多いだろうから、今後、焼却灰の返却騒ぎは増えることは間違いなさそう。

このまま保管を続けることは不可能。福島県民には大変過酷なことだろうが、福島原発付近にとてつもなく深い穴を掘って、そこに埋めるしかないのではという考えさえ頭をよぎる。

故郷を追われた人々に対して、(カネで解決できるとは思わないが)ある程度納得できる金額と代替地を提示して、100年間は立ち入りを諦めてもらうという措置も視野にいれる時かもしれない・・・。(田舎親父)

2011年12月12日 (月)

一人あたり8万円とは・・・

 文科省に『原子力損害賠償紛争審査会』という専門委員会があり、そこでは原発事故で自主避難した人に賠償するかどうかを検討してきたそうだ。

普通の感覚では、原発事故で大量の放射能が降り注いでいるとなると、何をおいても住民を避難させるのは、第一義には東電、さらに自治体や国の責務だろうと思うのだが、当時を振り返ると、避難命令を出した地域の風向きなどは無視した半径数キロという同心円上だったことも記憶に新しい。

文科省は『スピィデ-(たったと思うが)』という、放射能の広がりをシュミレ-ションできるシステムを有していたにもかかわらず、そのデ-タは隠蔽したままで、後になって同心円から大きく北東方向にそれている飯館村などの放射線値が以上に高いことを知らせて現地をパニックに陥らせたことも激しい憤りを覚えたもの。

東電と政府は結託したかのように『安全』を強調し、『人体に影響する量ではない』と繰り返していた。それでいて、政府や民主党の幹部たちは、ものすごい防護服を身にまとい物々しい警戒の元で現地視察する映像が何度もテレビで映し出されていた。その時対応し手いる地元の人々はマスクすらしない全くの無防備に、強い不信感を覚えたひとも多かったはず。

この映像だけでも、当時は地元自治体には正確な情報が知らされていなかったことがわかる。情報がない自治体が、住民を避難させるのが遅れたことはある意味理解出来るが、気の毒なのは住民たち・・・。

ネットで次々と情報が流れ、政府は『安全』と強調しているが、それがまやかしだとわかると、自分でできる限りの防備をしなければならなくなる。特に、子どもを持つ家庭や妊娠中の女性は放射能が及ぼす影響を考えて、より安全だと思われる地域に避難したのは当然の成り行き。

本題に戻そう。この委員会が去る6日、賠償対象に福島市や相馬市、郡山市など福島県の23市町村の住民を加える新たな指針として『実際に避難したかどうかにかかわらず、妊婦と子ども(18歳未満)は140万円、それ以外は8万円を目安にする』ということを発表したが、こんなスズメの涙ほどの金額がどこから出てきたのかと憤慨する。

避難したかどうかで賠償の有無を分けなかったのは当然だが、これは避難費用などを実費で計算すると事務作業が大変だという理由だというから、放射能汚染の責任の追及というより、とにかく住民の慰撫のための数値としか思えない。要は、慰謝料としてスムーズに支払いを済ませてチャラにしたいからだろう。文科省の計算では、対象者は約150万人で、賠償額は2千億円規模になる見通しだそうだが、いかにもみみっちい。

しかも対象となった23市町村は、県北、県中、相双、いわき地域のうち、既に賠償対象となっている部分を除いた地域で、会津や県南地域は対象外となったという。ここにも住民間を区別することによって、住民の間の感情に溝をつくるというダム建設などでよく使われる住民分断手法が見て取れる。

審査会は、放射線量の高さや自主避難した人数などを複合的に判断して対象地域を決めたと強調し、金額は、指示により避難した人の精神的損害に対する慰謝料額(月5万~10万円)を参考に、妊婦・子どもは健康影響が大きいことを踏まえ加算したと説明している一方、避難者には生活費の増加分などについて、勝手に請求しなさいとは中途半端極まりない。

この金額が決まる過程が紹介されているが、まるでセリのように金額が上下しているのも、委員たちは被災者のためというより、数値を出すことが任務だと思っていることが良く分かる。

ともあれ金額が示されたことによって、仕方ないという諦めム-ドが漂い、いつのまにか曖昧な形で支払いがはじまるのだろうとは思うが、もし我が身に降りかかってきたらどうするのだろうと、改めて被災者の立場を憂える。(田舎親父)

2011年12月11日 (日)

『汚染土壌』とは言い得て妙・・・

 ノダ首相のことを、自らを『ドジョウ』に例えていることに併せて、権力欲に汚染された姿を風刺して『汚染土壌』と名付けた人がいることをネットで発見したが、言い得て妙とそのセンスに敬服する。

確かに、ノダ内閣のやり方はアメリカさまの命令通り、辺野古の美しい海岸を埋め立てて新たな滑走路をつくるということにこだわっている姿は醜悪で、ひたすらアメリカの代弁者となっているとしか思えない。

こればかりではなく、国民生活に直結する消費税を中心に出来るものには全て増税するという発想は、まさに悪魔にとりつかれているような雰囲気。しかも、そのやり方は国民への説明は全くせず、国会で取り上げることすら嫌がって、外国との約束事のように印象づけ既成事実化とは卑劣としか言いようがない。まさに、放射能で汚染した『ドジョウ(土壌)』そのもの。

それにしても、何故ここまで増税に拘るのだろう。増税を『社会保障との一体改革』という言い方で、いかにも社会保障をバランスよく充実させる手立てのようにしているが、私には全て誤魔化しのように思えてならない。

現在の不景気感が蔓延しているが、こんな時に増税などしたら、ますます不景気になり、人々の心は荒み凶悪な犯罪が増えることぐらいは経済音痴の私でも予測出来ること。事実、毎日のように報じられる強盗や殺人事件。その手口の凶悪さなども以前にはなかったことばかり。

『税と社会保障』は避けて通れないことはわかっているつもりだが、今まで払い過ぎていたと称して(それほど多くもらっているとは感じないが)微々たる金額をむしりとる発想や年金支給年齢の引き上げ、また、外来患者の窓口負担の増額や高齢者の医療費の値上げ、更に、つい最近になって、またまたホソノという環境相は国際会議の場で、来年度から国民に環境税を押しつけると大見得を切っている。

年金をほんの少し払い過ぎ(本当とは思えないが)たと、さも大事のように騒ぎ建て、支給した以上の金額を減額したり、保障は遅らせたりされては理屈にあわない。取れそうなところからはいかに少額でもむしりとるというやり方は、何度も例えているが江戸時代の悪代官のやり方そのもの。

そんな声が届いたわけではあるまいが、国民の不満(実際には党内の不満分子をなだめるために違いないが)のガス抜きのため、景気が悪化すれば税率引き上げを一時凍結する『景気条項』を盛り込む検討に入ったとのこと。ノダ首相と内閣の閣僚たちは現在の不景気は、不景気ではないと思っているとしたら、私以上の経済音痴としか表現出来ないのだが・・・。

不景気感はますます大きくなる想像に難くない。来春大学卒業者の40%以上が就職先が決まっていないという。この先改善することも絶望だろうから、若者の気持ちはますます荒むことは誰の目にも明らか。そして、より弱い標的をねらった犯罪が多発する。高校生がナイフで中学生や小学生の女児を切りつける事件などはその典型だろう。

不景気でカネが回らないのだから貧乏人が多くなり、外食産業にみるように、価格競争がますます激しくなる。適正価格などあったものでなくなるが、そのしわ寄せは従業員の給与に跳ね返り、貧乏人はますます貧乏になるという格差は拡大する一方。こんな不条理がまかり通って良いわけはない。

こんな時には、金回りを良くして国民の生活を改善することが政治の最優先課題であるはずだろうに、この政権はそんなことは全くのスル-で、増税路線を突っ走る。このままでは国民の生活が破綻することは明らか。

民主党は既に民意を失っていることは確実。今、解散総選挙をすれば今の議席の半数もとれないだろう。当然与党というおいしい立場を追い出されるだろうから、尚更に政権にしがみ付くという悪循環。

4年間は増税しないと約束したことを思い出し、どうしても増税が必要だというのなら直ちに直ちに解散して国民の声を聞くべきだが、ドジョウ首相はそんな約束など全く覚えがないらしい。

いや、覚えているに違いないが、それを忘れているふりをしているとなると、なるほど『汚染土壌』という名に相応しい。(田舎親父)

2011年12月10日 (土)

凄い判決が出たものだ・・・

 だいぶ以前になるが、ネットのニュ-ス記事の中に『懲役60年を求刑』という言葉を見つけた。外国の例では懲役90年などということも有り得るそうだが、日本の場合は有期限の最高が30年程度ではなかろうか。

求刑された男は、逮捕された平成22年までの9年間に、女性9人を強姦致傷に至らしたという。こんな男が世にはびこっては大変なことになる。その意味では、面白い求刑だと軽く聞き流していたが、先日、『懲役50年』という判決が言い渡されたとのニュ-スに、実に凄い判決を言い渡したものと、新聞記事をまじめに読んでみる。

記事には、静岡地裁沼津支部で開かれたこの裁判で、裁判長は合計で懲役50年の実刑判決を言い渡したとある。この男は9件の犯行の間に、別の窃盗事件で確定判決を受けており、刑法の規定で判決前後の罪に対し、それぞれ懲役24年と26年の合計50年という判断なのだそうだ。

男は平成13~20年に5件、21~22年に4件の強姦致傷罪などで起訴され、『懲役60年』の求刑を受けていたが、(記事には)判決などによると、男は犯行時、車で女性を物色し『もうおめえは終わってんだよ』などと女性を侮辱しながら犯行に及んだとある。さらに、被害者の携帯電話や運転免許証などを確認して『住所を知っているからな』などと脅して、警察に通報しないよう執拗に隠蔽工作を図っていたのだそうだ。

これは明らかに冤罪ではなさそうだ。小説の世界のような悪質な犯行である。裁判長は『女性の人格を無視し、凶暴極まりない。再犯の可能性は否定できず、徹底した矯正教育が望まれる』と述べたとあるのは、よほど犯行の手口が凶悪で卑劣だっただったことをうかがわせる。

一方、被告人の態度として、緊張した面持ちで入廷した男は、判決文が読み上げられている間、じっと下を向き、時折、口を動かしながら物思いにふけるような表情を見せ、判決理由について裁判長から『分かりましたか』と問いかけられると小さくうなずき、退廷時には傍聴席に深く頭を下げたとある。この情況が間違いないとすると、反省しているようにも見えるが、本心かどうかは計り知れない。

この裁判は、いまや流行りとなっている裁判員裁判である。判決後に会見した40代の男性裁判員は『(犯行状況は)聞くのも苦痛だった。判決は妥当』と語り、50代の男性裁判員も『(懲役50年は)非常に重い。だが、いろいろな話し合いの中でこの量刑が出た。結果は妥当だ』と記者に述べているというから、この男の犯行の悪質さは十分認識していたことになる。

恐らく被害者からはこんな男が世に存在することも許せない、『死刑』にしてほしいと願っているのではないかと想像しているが、この判決は(そのまま執行されたとしたら)死刑以上に厳しいのではないだろうか。

この男は35歳だという。判決通り受け止めると、シャバにでられるのは85歳。死刑ではないので、死刑廃止論者からも異論はないだろう。強姦などという卑劣な犯罪の防止には役立つだろう。が、是非はともかく、ちょっと考えさせられる。

間違いなく、弁護士としてはこんな判決に納得出来ないだろうから、例え被告が控訴の意志を示さなくても、手練手管を持って控訴に同意させることは想像に難くない。

高裁は裁判員裁判ではないだろうから、プロの判事たちの判断を注目したいが、私はこの判決こそサリン事件などで死刑を言い渡された、オオムの一連の裁判の判決として相応しいのではないかと、ふと思う。

死刑反対論者はもちろん、無期懲役では納得出来ないオオムの被害者の皆さんも、いくら反省を繰り返しても決してシャバにでられない極限の絶望的環境で50年という時過ごさねばならないとなると、ある程度理解出来るのではないだろうか。

絶対に刑期途中での出所はないという前提で、死より恐ろしい何かを感じさせる刑があっても良いような気がするが・・・。(田舎親父)

2011年12月 9日 (金)

今度は『幸福度』・・・

 先日ヒマラヤ山脈に囲まれた小さな山国『ブ-タン』から新婚の国王夫妻が国賓として来日。被災者の人たちに笑顔を振りまいている姿を新聞・テレビが連日大きく取り上げていた。

マスコミは決してブ-タン国内の事情や、国王夫妻に対するマイナス情報は(あったとしても)決して流さず、国民は全て国王を尊敬し平和な生活を営んでいるということばかり。当然のことながら、我が国の一般国民にとっては、ブ-タンという国は、経済発達は遅れているが心豊かな国だと頭から信じ込んでしまったようだ。そして、夫妻が帰国してかなり過ぎた今でも、ブ-タン熱は覚めないらしい。

特に、ブータンは『国民総幸福量(GNH)』というユニークな指標に沿って政策を行う国だと『幸福度』という言葉が強調されている。この尺度がはっきりしない曖昧な言葉が、日本人の琴線に触れるのか、このところ『貴方は幸福ですか』というフレ-ズをよく見、また耳にすることが多い。

恐らく、『自分が幸福だと思う基準は』と聞くと、健康・お金・家族・仕事・友人関係などを上げるに違いないが、これを全て満足出来る人はごく一部の限られるのではないだろうか。有り余るほどのお金があっても、病魔に苦しんでいては幸福とはほど遠いだろう。健康で経済的にある程度恵まれていても、家族や友人とトラブルを起こしている人、これも幸福とは言い切れない。

そんなことを思うと、改めて『幸福度』という言葉が持つ曖昧さが気になる。その基準は自分が幸福だと思うことだろうが、今の我が国の現状を思うと、芯から幸福だと実感している人はどれほど存在するのだろうかと思うと絶望的になる。

ところがブ-タンは国民の生来の気質、習慣、文化は、身近な人との関係を大切にし、深い信頼関係を築いているのだそうだ。家族も、友人も、近所の人とも仲良く、いわば地域が一つの家族のように支え合っているとマスコミははやし立てる。

実際にブ-タンに行った人たちも口を揃えて『国民は口を揃えて幸福だ』と口にしていると称賛し、なかには著書にそのことを書いている人までいるが、へそ曲がりの私には、江戸時代の町民にとって、侍身分は全く異質であり、視野に入らず考えの中に存在せず自分たちの生活をしていたと同じで、国王一族は雲の上の存在として、国民には国王たちの身分や生活には触れず、異質な尊敬の対象と擦りこまれているのではと思えてならない。

ともかく、治める側にとってはこんな便利な方法はない。日本政府は、ブ-タン国王夫妻の来日の前から、この『幸福度』という考え方を取り入れるために、国内総生産(GDP)で測れない豊かさを表す新たな『幸福度指標』という、訳のわからない指標をつくる研究をしており、有識者会議(この言葉もよく聞く)が最終報告をまとめたという。

それによると、『男性の子育て参加への女性の満足度』『ひきこもりの数』『人並み感』など132の指標をそれぞれ数値化し、国民が幸せかどうかの『物差し』にするのだそうだが、なんだかなあ・・・という気がしてならない。

さらに、『幸せですか』という質問に答える『主観的幸福度』に加え、学歴や望まない非正規雇用率などの『経済社会状況』、自殺者数や寝たきり高齢者などの『心身の健康』、家族生活満足度といった『関係性』の3分野を柱にして、世代の違いや国際比較も考慮した指標とし、大気汚染など環境問題に焦点を当てた『持続可能性』も取り上げるのだそうだが、総花的でますます曖昧さが増えるだけ・・・。どうやらブ-タン国王夫妻の来日は、このための仕上げだったらしい。

これに類することは今までもあった。毎年どこかが発表する都道府県の『幸せ度』というものである。今年もあったが1位が福井 2位富山、大阪が最下位・・・という。

福井は原発がもっとも多い県。もしも、その一つが今回の福島原発のような事故を起こしたら・・・と考えると、これは幸せどころではないだろう。こんな曖昧な基準の数値化に莫大な予算をかけることは無駄だと思うのだが・・・。(田舎親父)

2011年12月 8日 (木)

また一つ防衛本能を失わせる施策・・・

 今年度上半期(4~9月)に、全国の駅のホームとホーム下の線路(駅構内)で、乗客が列車と接触した死傷事故は109件起きたのだそうだ。この数字が多いとみるか少ないと感じるかは個人差があるだろうが、統計を取り始めた02年度以降で最悪になる恐れがあるとのこと。

この統計は自殺と見られるケ-スは除外しているという。今年起きた109のうち酒に酔った乗客の事故が約6割近くを占めたというから、ホ-ムでフラフラしているうちに線路に落ちる姿が目に浮かぶ。

最近では駅ホームではスマートフォン(多機能携帯電話らしい)や携帯ゲーム機の画面を見ながら歩く『ながら歩き』による事故も増えているのだそうだが、時に都会に出ると、電車の中でもこれらの器機を取り出しピコピクしている若者(オジサマ族も多いが)を見かけるのはいつものこと。さらに、『ほかの利用客にぶつかって、事故の巻き添え』という場合もあるらしい。これも想像に難くない。

今年度上半期の事故のうち7割以上が東京、埼玉、千葉、神奈川の一都三県、いわゆる首都圏で発生しているのも、人口の多さと飲む機会の多さからみてこれほど当然なことはない。

JR東日本や東京メトロなど首都圏の鉄道24社は、これからの忘年会、新年会シーズンとなる12月から1月にかけて酔客の事故が頻発する傾向にあることに危機感を持ち、ポスターを張り出すなどの『プラットホーム事故“0”運動』を今月1日から開始、注意を呼び掛けているという。

この『プラットホ-ム事故“0”運動』というのはポスタ-でも張ってあるのだろうか。あるいは車掌が車内放送で注意を呼びかけているのかもしれないが、酔客やゲ-ムに夢中になっている輩には見えないだろうし聞こえないとなると、効果のほどははかばかしくないのではないだろうか。

ここでまた話題になるのが、以前にも取り上げたことがあるホ-ムドアという発想。JR東によると、10年度に同社管内で起きた接触による死傷事故は77件あったとのことだが、そのうちの2割以上の18件が東京の山手線で起きているという。山手線でホームドアを設置しているのは、29ある駅のうちわずか2駅。ホームドアがある駅では同様の死傷事故は10年度は起きておらず、17年度までに全駅への設置を目指しているのだそうだ。

確かに、ホ-ムドアがあれば、まず線路に転落や電車との接触事故防止はなくなることは確実だろうが、ホームからの転落など想定しないで設計している現在のホ-ムは狭すぎる。特に山の手線のホ-ムは乗降人数からしても極端に狭い。ここに柵をつくればラッシュで混み合うホ-ムなどでは身動きがとれなくなることだけは間違いなさそう。場合によったら、違う事故が起きる恐れがあるのではなかろうか。

私鉄各社も転落事故が起きると、自社の責任を問われて裁判になることも稀でないことからホ-ムドアの設置に取り組んでいるようだが、一駅につき数億円の建設コストがかかるとなると、なかなか設置は進まないのももっともな話。

ホ-ムドアの設置には反対するものではない。転落事故はなくなり、ホ-ムで電車を待つ時に後ろを気にしなくてはすむだろう。しかし、観察力というか注意力はますますその必要性はなくなり、それに伴って防衛本能が衰えるのではないだろうか。

視覚障害の人が転落する事故の報道を聞くと耐えられないほど悲しくなるが、周りの人がほんの少しの気配りがあれば事故は無くせるはず。ほんの少しのホ-ムの傾斜が車椅子を線路へ転落させた事故もあるが、これとて、周りの人のちっとした注意があれば防げたのではないだろうか。

書き出しで述べたように、転落事故の多くは酔客である。酔うのは個人の勝手だが、そのための不注意が事故につながったとあっては、これは自己責任以外なにものではない。今以上酔客ののさばらないいなために、責任は全て酔客の方という世論を作ることが先決だと思うのだが・・・。(田舎親父)

2011年12月 7日 (水)

それにしても情けない・・・

 4日に行われた『福岡国際マラソン』で、埼玉県立高校の職員である川内選手が日本人トップという結果に何となく違和感を覚えた人が多いのではないだろうか。かくいう私もその一人であるが・・・。

遠い過去にはオリンピックで金メダルを獲得したこともあるほど、男子マラソンは陸上競技ではもっともメダルに近かったはず。私の年代では、瀬古、中山、谷口、森下など名選手が懐かしい。

しかし近年、国外ではもちろん国内の大会でも、よほど外国からの招待選手のアクシデントでもない限り『優勝』という言葉が死語になってしまい、『日本人トップ』というのが最高の栄誉になってしまった。

今回の『福岡国際マラソン』でも、マスコミははじめから日本人が優勝する可能性など視野になく、誰が『日本人トップ』になるかという話題が満載。

しかも、市民ランナ-で昨年の東京マラソンで『日本人トップ』でゴ-ルした公務員の川内選手が、再び『日本人トップ』になればとの願望と、箱根で山の神と言われた今井選手が福島県出身のこともあり、二人を絡めて視聴率を上げる記事が目立った。

結果的に、川内選手が『日本人トップ』で3位。今井選手が4位だったのだから、マスコミ的には御の字だろうが、川内選手の記録が2時間9分57秒とは寂しい限り。今井選手に至っては2時間10分の壁さえ破れていない。優勝したのがはじめてマラソンに挑戦したケニア出身の(日本の実業団に所属しているとはいえ)一般参加のダビリ選手だというのだから、どうなっているの・・・と首を傾げたくなる。

外国人招待選手の顔ぶれは、トップが2時間7分台のウクライナの選手。うがった見方かもしれないが、これは陸連の『日本人の優勝は無理だが、この顔ぶれだと7分台で3位あたりに入賞してくれるだろう。すると、すんなりオリンピック代表という話題作りになる』との作戦ではなかっただろうか。

川内選手の活躍は誰も異を唱えることはできないほど素晴らしい。定時制高校の事務員として勤務しながらでは十分な練習もおぼつかないだろう。彼の競技生活のテレビが紹介していたが、1キロも満足に走れない自分からしたら、この24歳の青年の努力にはただ頭を下げるだけ。

2時間10分を切っての『日本人トップ』の成績はオリンピック代表の一つの関門はクリアしたものの、陸連がつけたもう一つの関門である2時間8分台を大きく超えてしまったことから、川内選手は有力な代表候補に名乗りを上げたというところらしい。

確かにこの記録では、世界の強豪が集まるオリンピックでは6位入賞どころか、10位以内にも入れないことは間違いなさそうだから、即代表とはならない事情は良く分かるが2連破という実績から代表にしても世間は十分認めるだろうが・・・。

このあたり川内選手は良く分かっているらしく、『日本人トップは(2時間)7分、8分でゴールしていないといけない。そういう意味で寂しい』ととこぼし『東京では自己ベスト(2時間8分37秒)を更新してロンドンに行きたい』と力強く決意表明していると報じられている。

この言葉を他の実業団に所属する、いわゆる『プロの走り屋』たちはどう聞いたのだろう。陸連の幹部たちは悔しくないのだろうか。

川内選手は東京で決着をつけるというが、後2ケ月しかない。42キロ以上を2時間程度で駆け抜けるというのだから、その疲労は私が想像する以上に違いない。それでも自己ベストを出すという意欲に、他の選手たちの奮起を促したい。

川内選手が東京マラソンで自己ベストを出せれば良いが、かなり難しいことは事実。それ以上に、現在の実業団の選手の中では10分台を切れる実力者がいるだろうかと探して見ると、これも絶望的。

陸連の実業団選手を選びたいという意図はわからないでもないが、誰を代表にしてもオリンピックは『ただ出ただけ』になることは確かだろう。

今回の川内選手の活躍は誰もが称賛するところ。このことをよく考えて、メンツなど捨てて、他の選手の奮起を促す意味でも、彼を代表にしても良いのではないだろうか。(田舎親父)

2011年12月 6日 (火)

普天間無条件返還へ本気の交渉を・・・

 結局は自ら辞任しなければ、問責決議案が通りますます悪い方向になるのはわかっているはずなのだが、それでも大臣の椅子にしがみつく、またしがみつかせるのが何なのだろう。
 ことの発端は、沖縄防衛局長の『これから犯しますよと言いますか』という発言。このことはマスコミが大騒ぎしているので取り上げる必要もあるまいが、こんなセリフが局長を囲む内輪の会(飲み会)で、ごく普通に軽く口から出るというのも、普段から防衛省内(どの省庁も変わらないだろう)では、これに類する言葉が行き通っているに違いない。
 この発言が明らかになった時点では、首相も防衛相も何が問題なのかわかっていなかったらしく、まる一日ダンマリを続けたのも危機管理能力の欠如だろう。翌日の夜になってマスコミから指摘に慌て出したのもみっともないが、局長を更迭という自分たちの身をいち早く守る動きは素早いもの。
 イチカワという防衛相は就任時には『私は防衛には素人』と発言し、周りを唖然とさせたことは記憶に新しい。こんな人物を防衛相に任命する首相も首相だが、政権の維持だけが目的化している民主党であっては、政策よりも党内の文句を少しでも押さえる方が大事とあっては、不適切大臣が出るのも当然かもしれない。いや、今後も次々に問題が明らかになり、大臣のドミノ倒しがおきそうな気配さえ感じる。
 それにしても『これから犯す前に犯しますよと言いますか』とは酷い言葉である。この『犯す』という言葉には、私のような世間知らずでも『レイプ』そのものを露骨に連想させる言葉である。明らかな女性蔑視ともとより、沖縄県に評価書を出すことに引っかけているのは、まさに沖縄を徹底的に貶めている。
 この局長は、普天間移転に伴って辺野古への基地建設が『沖縄に対するレイプ』という意味を持つことを十分認識していたに違いない。
 『レイプと同じだからやめましょう』というならわかるが、この場合はレイプに例えて『上手くやらなくちゃ・・・』ということ。繰り返すが、こんな言葉が普段から防衛省内では当たり前に行き来しているのも何となく想像がつく。これでは基地に限らず自衛隊の規律全体を疑いたくなる。
 ところで、『これから犯しますと言いますか・・・』という発言があまりにも大騒ぎになっているが、防衛局長はその前に『基地のない、平和な島』はあり得ないは発言し、『政治家は分からないが、(防衛省の)審議官級の間では、来年夏までに米軍普天間飛行場の移設問題で具体的進展がなければ辺野古移設はやめる話になっている。普天間は、何もなかったかのようにそのまま残る』と明言したと時事通信が報じているが、何故かマスメディアはダンマリを決め込んでいる。
 時事通信の報道が事実だとしたら(恐らく事実だろうが)こんな重大で非人道的な決定を官僚が一方的に進めていることにもっと大騒ぎする必要があるはずなのだが、飲み会の席で酒のつまみにしている発言を、琉球新聞の記者が明らかなしなかったら、このことは世間には全く知らされなかったということになったのだろう。
 朝日や読売も、毎日も日経もいただろうから、これらの大新聞社の記者も同じ言葉を聞いたはず。なのに、大騒ぎし出したのは随分時間が過ぎてから、それも普天間基地の恒久化を口にしたことではなく『これから犯す前に・・・』という言葉の方。
 民主党も自民党も本質的にはアメリカさまのご命令通り辺野古の海を埋め立てることに熱心で、マスコミもそれに迎合していることは明らか。基地問題を話題にしたくないものだから、なんとか『これから犯す前・・・』という失言だけで更迭したという印象つくりに必死になっているように思えてならない。
 自民党は防衛大臣の問責を出すという脅し、民主党は時間稼ぎ。そして裏取引で問責が出る前に防衛相のクビを切る。結局は局長の言葉が『失言』だったとしての、管理責任という決着にしてしまうのではないだろうか。
 民主党政権はアメリカ様のおっしゃる通りで、沖縄県民とは向き合おうとしない。普天間の国外・県外移設を提起する努力もせず、辺野古への県内移設しか選択肢はないと強弁しているが、この政府は日本国民のためではなく、アメリカさまの命令の方が大切のようだ。これではどこの政府かと言いたくもなる。(田舎親父)

2011年12月 5日 (月)

食料自給率アップが急務・・・

 『第8回 全国ほんもの体験フォ-ラムin滋賀』という、本物の体験で子どもたちに感動を与えたい、そして子どもたちのとの交流を通して地域を元気にしたいという熱意を持った人たちの集いに参加してきた。

地域活性化や教育旅行、あるいは自然体験を進めるというフォ-ラムやバネルディスカッション、あるいは講演会など数あるが、全国各地域から1500人を超える人たちが集うというイベントは少ない。少ないというより、農水省や文科省が組織を上げて動員してもたかだか数百人。1000人を超えるイベントはまずないだろう。

ものすごい熱気である。ゲストのフォ-クシンガの高石知也さんもおしゃべりをした後の交流会にも参加し、議会を終えて駆けつけてきたという滋賀県の嘉田知事と肩を組んで琵琶湖就航の歌を熱唱。会場全体もそれに唱和するなど、そこに集まる人々の連帯感の広がりを感じる。

実践者が行う事例発表は素朴な中に真摯な態度が聴衆の胸を打つ。その分野のスペッシャリスト達が語り合うパネルディスかションも中身の濃いものであり、翌日の私が参加した個別の分科会には200名ほどの人が集まり、パネラ-の意見にうなずき、また会場からの実践例などが発表された。他の分科会も、同じようにもり上がり、終わってから主催者が用意した一拍二日の体験ツア-に、滋賀県各地に別れていった。

第9回が来年度の3月というから、2013年の3月に徳島県で開かれる。興味がある方や、民泊や農業体験などで地域を活性したいという個人や組織、あるいは自治体の関係者は一度参加してみることを勧めたい。

このことはまた話題にするとして、帰宅して中国の事情に詳しい友人から、こんな記事があるぞと紹介するメ-ルが届いていた。

それによると、『中国当局は12次5カ年計画(2011~2015年)に第二子の出産を全面的に認める政策を盛り込む考えを明らかにした』という。これは大変な政策変更で世界的な影響が考えられそうだ。

人口抑制策で漢民族においては結婚した夫婦には子どもは一人しか認めないという法律ができたのは、正確には覚えていないが1980年ごろだったと記憶している。これは、増えつづける人口を抑圧するにはこの方法しかないのかもしれないと思いながらも、こんな非人道的な政策がまかり通る中国という国に対する恐ろしさを感じたことを思い出す。

はじめから無茶苦茶なこんな政策が続けば矛盾が吹き出すのは当たり前。実際に、生まれる子が女子の場合は闇に葬るとか、第二子を認めさせるために汚職などがはびこっていると聞こえて来るが、もっと恐ろしい実態は日本以上にはやく進む高齢化だという。

具体的な数値を示されなくても、親二人が一人の子どもを産み育てる。一人っ子のこどもはやはり一人っ子のこどもと結婚し一人の子ども生み育てる。4人の祖父祖母に孫はたった一人。これは、考えるだけでも恐ろしい社会。

友人のメ-ルに書かれている内容はこれだけではない。『中国は今後の食糧確保のため、アフリカの大地に熱い視線を注いでおり、アフリカとの農産物の貿易額を増やす一方で、広大な土地の開墾に乗り出し、自国の食卓に上る食糧の生産を進めている』という文面にトンデモナイ事態になりそうだという恐怖を感じる。

すでに中国国内の食料生産では、国民全体の食生活の変化に伴い『食べられるもの』から『より美味いもの』という意識変化が起きていることは、その経験を知っている日本人にはわかり過ぎるほど良く分かる。

特に、富裕層といわれる中国は都市人口の増大と収入の増加のため、食糧の消費量が急速に押し上げられ、現在でも食料消費はアメリカに次ぐ世界2位だという。都市化と工業化が進む中国では、耕作地が工場や住宅に奪われていることも経験上十分理解出来る。

農村は疲弊し農業の衰退は既定の事実。食料はどんどん必要になるのに国内の生産が追いつかないとなると、それを外に求めることもこれも当然。日本が経済発展途上の中国や東南アジアに食料を求めてきた(これは現在進行中)と同じように、中国から見た開発途上のアフリカの国々にそれを求める。

近い将来、食料の奪い合いが始まり、さらなる格差が広がることは誰の目にも明らか。それを防ぐためには、各国がそれぞれの国で食料を確保し食料の自給率は100%に近づけることしかないはず。なのに、実態は・・・。

全国のひたむきに生きる熱意ある人々と語り合い、再会を約束した日のこのニュ-ス。我が国の食料の危うさを改めて考えさせられる。(田舎親父)

2011年12月 1日 (木)

もう風評被害という言葉は通用しない・・・

 福島市の東部の大波地区から国の暫定基準値以上の放射性セシウムが検出されたのはつい最近のこと。福島県は、原発推進派知事の御身大事政策の一環として、いい加減な検査で全県のコメの安全宣言をしたが早くもボロがでたというところか。福島県産のコメは危ないという風潮をさらに強めてしまった。

県としては、絶対にボロがでないようなシナリオを作ったつもりだったのだろうが、想定外の農家の自主検査という事からこの筋書きが狂い始めたらしい。いかに強固に作られている堤防でも、一旦水が漏れ出したら止めることはできず、当然のように福島県内各地では米の安全性が話題になり、県の担当者は頭を抱えている違いない。

追い打ちをかけるように、今度は福島市に隣接する伊達市の一部地域で農家三戸が収穫したコメから、国の暫定規制値を超える最大同1050ベクレルの放射性セシウムを検出したと発表したというニュ-スが流れる。

すでに、このうち9キログラムが同市内の直売所で販売されたという。それだけではあるまい。農家は最近になって消費者に直送する販売ル-トを開拓していると聞いているので、直売所に出す以上にその販売網が確立しているのではないだろうか。

事実、次のような農家の主婦の発言がNHKで紹介されている。『国や県が作っても良いと言ったから作った。国も県も収穫したコメは安全だと保証したから、お得意さんに渡したが、今更、安全でないと言ったらどうなるのだろう。福島県はウソツキだと言われる。これは風評被害とは言えない』と言う意味のものであるが、その深刻な気持ちは良く分かる。

県は対応におおわらわ。農林水産部長が記者会見し『複数の市町村にまたがっていたことに、大変大きな衝撃を受けている。県全体が安全ではないとは考えていないが、コメの安全性については再度調査を進める必要がある』と、しどろもどろになって応えている姿に慌てぶりがよく表れている。

さらに、今回のことを受けて、県内のすべての農家を対象にした検査を行う自治体を増やし、安全性の確保を進めることを決めたとのことだが、ここにきて、まだ『全農家を対象にした自治体を増やす』という表現が解せない。

今更自治体を増やしても、隣の自治体のコメからセシウムが検出される確率はゼロではない。ますます福島のコメは危ないという風評が広がり、検査対象を限りなく広げていかねばならない結果になりそうだ。

国も県もここらで腹を括り、県内全農家のコメを全て買い上げ、徹底的な検査をすることしか、今後のコメ農業を守る道はないはず。コメだけではなく、野菜やキノコ生産農家の不安を取り除くためにも、これらの全品検査をするべきだろうが・・・。

正確な検査が行われたら、単に自治体や地区という単位でなく、地形や気象条件によってセシウムなどの放射性物質の分布が明らかになるだろう。これを数年続けてはじめて、この地区のコメは安全だと言えるのであって、今回のコメにみるように、ごく少ない(セシウムが出ないだろう)地点を選んだ検査で全県安全を宣言したことを潔く反省してほしいものである。(田舎親父)

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