« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »

2013年3月

2013年3月31日 (日)

 四月馬鹿であってほしいが・・・

 昔から年の始めの3ケ月を、『行く・逃げる・去る』と称し、アッと言う間に過ぎることを表しているが、今年は、桜の開花が2週間も早まったことから、特に3月の慌ただしさは予想以上で、まさに気がつけば4月となっている感じがする。

4月1日は、欧米では『エ-プリ-ルフ-ル』と呼んで、嘘(機転の利いた冗談)は許される日が日本にも伝わり、これを『四月馬鹿』と訳して、この日ばかりは『嘘をついてよい日』だと言われている。

幼いころの記憶である。自転車で通りがかったおじさんに『おじさん、自転車がバンクしているよ』と呼びかけると、ほとんどの人はびっくりして、自転車を降りて確かめることを経験的に知っているので、4月1日が日曜日になる年は、ワルガキが朝からたむろして、これを繰り返したことを思い出す。

日曜日でないと、こんないたずらはなかなかできない。騙されたおじさんが『コノヤロ-』と怒鳴り、時には追いかけるのだが、『四月馬鹿だよ、四月馬鹿・・・』と逃げながらとなり返すと、おじさんは自分の迂闊さに気付いて、追いかけるのをやめるのも常。ワルガキ共は場所を変えて、その種のいたずらを繰り返す・・・。懐かしい思い出である。

しかし、子どもたちが、(いたずらであろうとなかろうと)通行人に声をかけるなどという場面は最近見かけることは(絶対といってよいほど)ない。くしくも今日は4月1日、四月馬鹿の日曜日。こんな他愛な光景が全国いたるところで見られたら、平和を感じるのだが・・・。

変な書き出しになったが、以前にも取り上げた、妊婦の出生前診断が、いよいよ始まるらしいらしい。

繰り返しになるが、医師から『生まれる子どもはダウン症妊』だと告げられたら、妊婦はどんな気持ちでこの深刻な宣言を受け止めるのだろう。妊婦ばかりではなく、夫や両親はじめ身の回り人たちの心理は・・・。そして、どんな決断をするのだろう。

生まれてくる命を、母体から奪うことを願う人は少ないと信じたい。しかし、わかっていて障害を持つ子の親になれというのも酷すぎる。何故こんな検査が必要なのかと強く叫びたい。

昨日の新聞の記事が、妊婦の血液でダウン症など胎児の染色体異常を調べる新しい出生前診断で、日本医学会の認定・登録委員会が15施設を認定されたことを伝えている。

 15施設は『国立成育医療研究センター(東京)』を中心とする臨床研究グループで、具体名は日本医学会が、今日4月1日以降にホームページで公表するのだそうだ。以前取り上げた時点では、実施に手を挙げた組織・施設は17だったはず。2つの施設は、理由ははっきりしないが認められなかったようだ。

記事は15施設の一つが『昭和大学』だと明らかにしている。この大学の付属病院は私の住む横浜の片田舎に近く、横浜市の北部では、拠点病院の一つとして住民には欠かせない病院となっていることを知っているので、俄に身近な話題に感じる。

 昭和大病院の産婦人科は今日以降、検査の内容や精度などについて説明する遺伝カウンセリングの申し込みを受け付けるのだそうだから、明日あたり昭和大学病院の窓口に、心当たりがある妊婦たちがかなり押しかけるのではないだろうか。

 この話が四月馬鹿であってほしいものであるが・・・。(田舎親父)

と、ここまで書き進んで、迂闊なことだが、今日が3月31日であることに気付く。このところ毎日が日曜日のような気持ちで、近くの桜の名所をフラフラ歩いている生活が、頭まで日曜にさせてしまったようだと苦笑(悲笑かな・・・)。

今更、新しい話題を見つけるのもシャクなので、このまま掲載することに。(田舎親父)

2013年3月30日 (土)

高校の英語教育も変わる?・・・

 文科省は、今春から完全実施される高校の新学習指導要領に『英語の授業は英語で行うことを基本とする』という新ルールを盛り込んだそうだ。英語を重視する人々からは、ごく当たり前のように聞こえるが、現場は混乱しているのではないだろうか。

事前にこの方針は教科書会社にはこの方針が伝えられていたらしく、先日検定結果が公表された英語教科書の多くが、スピーチやディベートなど『コミュニケーション重視』を前面に出し、日本語の記述を減らしているそうだ。

『中学と高校で6年間も勉強してなぜ話せないのか・・・』という話はよく聞く。『世界標準』という言葉が広がり、『英語が話せないと国際社会では生きられない』ことが当たり前の価値観になった現代社会では、文科省が躍起になって『話せる英語』を進めるのは当然かもしれないが、母国語を排除して英語だけでの授業はチョット焦りすぎでは・・・。

『話せる英語』を標榜して、(現場の混乱を省みず)小学校から英語を必須にしたのだろうが、文科省の危機感はそれでも納まらず、高校での『英語』『オーラルコミュニケーション』『リーディング』『ライティング』に分けていた科目を『コミュニケーション英語』『英語表現』『英語会話』に再編するという。そして、そのことを教科書会社に通達。『話せる英語』を目的にした教科書が今回多数検定の場に出されたということのようだ。

検定で合格した教科書は、文章を速く読んで大意をつかませ、理解度を穴埋め問題などでチェックするスタイルが目立つのだそうだ。さらに、そのテーマで生徒にスピーチやディスカッションをさせるが、文中の文法事項は、それらの合間に挟み込む形で付随的に学ばせるものが多いというが、これらのやりとりを全て英語で進める?・・・。できの悪い子どもにとっては地獄の苦しみになりそうだ。

この方針は現場の英語の教師たちは批判的だという。高校の英語の教師が全て英語を自由自在に使えるかとなると怪しいのが現実では、出来の悪い教師にとっては、教師失格の烙印すら押されかねない。となると、ホンネとタテマエが入り混ざった不安や疑問の声がでるのは当然だろう。

ある新聞記事に、都立高校の50代の情勢教師の声として『文法が体系的に学べない。これでは生徒の頭の中に英語の形が整理されない』という危惧を紹介しているが、従来の英語教育を否定することに対する防衛意識が見え隠れしている。

高校の教科書は広域採択ではなく、それぞれの高校が選択しているはずだ。教科書はその高校の教師によって選ばれるのだが、(皮肉なことに)圧倒的に『文法重視』の従来型教科書の人気が高まっているということも(言葉は悪いが)教師の抵抗と捉えられないこともない。

実際に、高1対象の多くの教科書は11年度に検定を終え、今春から使われるのだが、このうち『英語表現1』(全17点)の採択では、従来のタイプに近い文法重視の教科書会社が出している教科書2点がシェアの46%を占めたという。

文科省の趣旨に沿った教科書を作った教科書会社は『まるで文法のワークブック』と酷評、新指導要領の趣旨からかなり外れているように見えるのに、なぜ検定を通ったのか疑問だと批判しているらしいが、その悔しさは理解できる。

しかし、教科書は『選ばれてなんぼの世界』。実際には現場が採択しないとなると会社の存続すら怪しくなる。検定に合格した以上、どの教科書を選ぶのは教師側の意見がまかり通るとなると、今後も従来型の教科書が幅を利かすのではないだろうか。

英語が大の苦手な私には無縁の世界のことだが、教科書に文法の説明がほしい教師が多いのが現状を、皮肉な見方をすれば、英語の文法を英語で指導できる教師でなければ、本当の『話せる英語』の習得は難しいのは多くの教師は自覚しているだろうから、その教師たちが『話せる英語』を指導する自信がないようにも思える。

さて、文科省はこんな自信のない教師に対して、どんな施策を考えているのだろう。このままでは『英語の授業は英語で進める・・・』との通達が全体に行き渡らず、また新たな格差が生じる結果となることは明らかだろう。(田舎親父)

2013年3月29日 (金)

原発に群がる輩ども・・・

 3月27日の東京新聞の一面トップに、5段抜きの太文字の『核のごみ 権益守る?』という衝撃的な見出しが踊っていた。

しかも、地図と相関図も入った記事の中程には、白黒反転の横文字で『最終処分場 町の一握り 誘致推進』という文言。特に『町の一握り 誘致推進』という部分が一番と大きな活字になっている。

これは面白いと読み進む。実名入りで、その利害関係なども赤裸々に表現している物凄さに驚く。よくぞここまで思い切った記事を掲載したものだと、東京新聞に敬意を表すると同時に、この記事を読んだ町民の気持ちを思うと複雑になる。

記事は、2011年秋、北海道北部にある人口約2600人の小さな町・幌延町(ほろのべちょう)の飲食店で、町議の佐々木忠光(62)が突然、『原発の事故があったばかりだぞ。何を考えているんだ』と声を荒らげた・・・という書き出しで始まる。

幌延町という名前どこかで聞いたことがあると思ったが、それもそのはず、町の活性化をうたい、町長などが『高レベル放射性廃棄物の中間貯蔵施設』を誘致すると言い出し、町を二分するどころか全国的な大問題に発展した町の名前であることを思い出す。

その話は白紙になったと思っていたが、転んでもただでは起きぬ輩たちの談合によって何やらうさん臭く感じられる、『幌延深地層研究センター』なる建物を建て、組織を立ち上げていたらしい。

このセンタ-が動き始めたのは2001年だそうだ。動燃は、言葉上、高レベル放射性廃棄物中間貯蔵施設の建設を棚上げして、『幌延町における深地層の研究』というタテマエで、建設された組織だとのことである。

『核抜き』という文言が入っているが、動燃が後ろ楯になっているとなると、俄には信じられない。記事も、『この町には、核のゴミの最終処分技術の研究をする日本原子力研究開発機構の深地層研究センターがある』と、動燃のねらいが『原発ゴミ』の処分場が作ることを見透かしている。

書き出しにある町議の佐々木という人物は、このセンターの『今後を考える』会に誘われ、この会が核ゴミの最終処分場の誘致も視野に入れていることから、会の仕掛け人である町長や商工会長への怒りの言葉を記者にぶつけたようだ。

 センターの研究期間は01年からおよそ20年とされ、あと10年もすればセンターは使命を終えることが、町長の宮本明(70)と以前は一緒に会社を経営したこともある町の商工会長、松永継男(65)には困るのだと、実名で記述している。

 あまりにも生臭い話である。意訳や要約ができかねるので、少し長くなるが記事をそのまま引用することにしたい。

(引用はじめ)松永が社長を務める警備会社『ほくせい』は、機構に職員住宅一棟を貸し、センターの警備も請け負う。創業当時は宮本が取締役を務め、町長に就任したとき、その座を息子に譲っている。

 宮本が社長を務め、町長就任時に息子に引き継いだ会社『幌延商事』も、機構に職員住宅を二棟貸している。

 二社が毎年、機構から得る収入は計2千万円以上。センターがなくなれば、新たに住宅の借り手を探すのは極めて難しくなる。『考える』会への動きは、そうなる前に、確実に借り手がつくよう準備することでもある。

 機構から幌延町内の業者に落ちる仕事の総額は毎年2億円ほど。町はこの数字をセンターがもたらす経済効果だとアピールするが、実際の効果は極めて限定的だ。

 機構の公表資料によると、12年度に受注した地元業者はわずか9社。その内容も、職員住宅の賃貸と運営管理、センターの警備、タクシーの契約、暖房用の燃料の納入など波及効果が小さいものばかり。

 しかも、職員住宅は、ほくせいと幌延商事を含め特定の五社が随意契約を続けており、他社が入り込める余地はまずない。

 その一角を首長らのファミリー企業が占める状況は、機構との癒着を疑われるが、宮本は『契約は私が町長になる前の話で、何も問題はない』と意に介す様子もない。『職員住宅は建てるのに金がかかったし、修繕費もある。もうかる話ではない』とも言う。

 12年4月、松永の『処分場誘致の期成会を立ち上げたい』との発言が地元紙に大きく取り上げられた。反対派を中心に強い反発が出たため、現在は表だった動きはなくなっている。松永も『しばらくは無理。今は時期が悪い』と話す。

 ただ、宮本も町として誘致に乗り出すことは否定する一方、民間で誘致を進める動きは容認する態度を示してきた。幌延町は過疎化が進み、産業らしきものがないだけに、福島事故のほとぼりが冷めれば、また水面下で動きが出始めそうだ。

 そんな様子に町民の一人、岡本則夫(66)は複雑な思いだ。長引く不況で数年前、経営していた建設会社をたたんだ。町の活性化につながるかもしれない処分場誘致に一定の理解は示すが、懸念も感じる。(敬称略)(引用終わり)

 記事は、『一部の利害関係者だけで決めるような進め方では、とても合意は得られない』 とまとめているが、先日観た『渡されたバトン』という映画の筋書きがダブル。

 映画では、立ち上がった住民の団結で原発建設計画を退けたが・・・。(他人事のような表現になるが)私には情けないことだが、反対運動が高まり、町長たちの企みが消えることを心から願うことしかできない。(田舎親父)

2013年3月28日 (木)

大選挙区にすれば即是正できるぞ・・・

 最大2.4倍の『一票の格差』が是正されずに実施された昨年12月の衆院選をめぐる全国訴訟の高裁の判決は全てが『違憲』。中でも、広島や岡山は『選挙無効』にまで踏み込んだ判断に、各政党は大慌て、急いで綻びを取り繕うにやっきになっているようだ。

本来は、選挙制度を司法からの指摘を受けたことを重視し、一票の格差を2程度に抑えることが国会としての最低限の努めなのだろうが、そんなことは後回しにして、消費税導入を強行した結果、(党内が分裂したことから)苦し紛れに解散を強行したのだから、司法としては強いお灸を据える必要だと判断したこともうなずける。

世論は、汚染ドジョウ首相ドノのアホかと思われるような突然の解散権の行使によって行われた衆院選挙は解散前から『憲法違反』だと言われていたのだから、当然の結果だろうとシラッとしているように思える。私もその一人・・・。

 自民党は何やら奇妙な案を打ち出している。比例代表の定数180を30削減し、残り150議席を第一配分枠(90議席)と第二配分枠(60議席)に分け、第一配分は現行通り全党を対象にドント方式で各党の議席を決めるが、第二配分は得票数が最も多い政党を除いた第二党以下で、ドント方式により議席を割り振るという。

 そして、第二党以下が第一党の議席を上回る場合は、より得票の少ない政党に議席を与えるのだそうだが、今回のように自民党のように一人勝ちの場合ではさほど大きな混乱はなさそうだが、接戦となるとややこしくなるのは間違いなさそうだ。自民党の奢りなのか、それとも全く違う意図でもあるのではと勘繰りたくなる。

一見、少数政党には有利なように見えるが、第二配分では第一党に投票した人の意向が反映されないため、これまた『憲法違反』だと判断されるのではないだろうか。野党はこのあたりを根拠に自民党案に反対しているというが当然だろう。

 また、自民党案は小選挙区については、一票の格差を2倍未満にする緊急避難的措置として『0像5減』。これは基本的には従来の主張そのもの。また、人口格差は考えないで、最低限別枠で各県に一人を割り振る方式は、最高裁は『違憲状態』はして廃止するように促されていたはず。この部分はそのままとなると、最高裁は納得しないだろ。

 どんな有権者も等しく一票を持つ『一人一票』の考え方は民主主義の絶対的な基準であることは当然だろうが、ここまで都市部と地方との人口に差が生じているとなると、現在の小選挙区と比例代表というややこしい選挙制度を続け、究極的に単に数の上での平等ということになると、地方から選出される議員は限りなくゼロに近づくのでは、そして違う格差が広がるのではと昨日までは危惧していた・・・。

 今まで選挙制度について深く考えたことはないが、先程ふと最高裁がこのあたりを考えないで、こんな判決をだすはずがないと思い、現在の全人口を1億3000万人、衆議院の議員定数は480として、(小選挙区の区割りや比例代表などを無視して)あえてごく単純に人口比率で計算してみた。

すると、約27万人に一人の議員数で『一票の格差』はなくなり、小選挙区や比例代表などという分かりにくい区分けをせずに、このままの割合を議員数に当てはめたら、議員数がゼロになる県などないことに気がつく。

一番人口の少ない鳥取県でも2人の議員が選出されるではないか。現行の選挙制度では、議員が選出されない県があるのではと心配していたが、目から鱗・・・。

人口数と有権者数との違いがどれぐらいなのかは計算していないか、高齢化が進んでいることからあまり変わらない(むしろ地方の方が割合からすると多い)ような気もする。

現在の小選挙区などをなくして、(中選挙区では無理だろうが)都道府県単位という高校野球並の方式をとれば、一票の格差是正など簡単なこと。

国政を志す人ならば、地元の利益ばかりに走り回らないだろうと信じて(現在では信じられないが)、都道府県単位の選挙区で議員を選出する選挙制度を言い出す政党が出現しても良さそうだが・・・。(田舎親父)

2013年3月27日 (水)

カブトムシ条例について思う・・・

 北海道議会が国の外来生物法による規制がない動植物でも持ち込みや移動を禁じる『道生物の多様性の保全条例』を可決したという記事が何となく目に留まり、軽い気持ちで読み進めたが、『国の外来生物法による規制がない動植物』が『カブトムシ』のことであることを知りびっくり・・・。

 迂闊なことだが、もともとカブトムシが北海道にはいなかったことを初めて知ると同時に、幼いころにカブトムシを捕まえて、よく友人のカブトムシと相撲と称して争わせて遊んだことを思い出す。

 それほど私のような年代の男には(当時女の子はこんな遊びには見向きもしなかった)懐かしい思い出である。高度経済の成長に合わせて、雑木林が姿を消すことに反比例するようにカブトムシに関心が向くようになり、女の子までカブトムシが異常な人気になっているらしい。

 今では、都会でカブトムシを捕らえることなどは夢のまた夢。最近は、カブトムシを捕まえるツア-まで企画されて、親子の参加で賑わっているというから時代は変わったものである。初夏ともなると、デパ-トやペットショップではカブトムシやクワガタが大人気で、一匹数百円で飛ぶように売れているという。

 カブトムシの人気が大きくなると、これで金儲けを考える輩で出てくるのは世の常。堆肥の中に卵を産むというカブトムシの習性を利用して、夏場に雑木林の近くに堆肥の山を設け、昆虫たちが活動をやめる秋口に、堆肥の山全体に網をかけておけば、翌年成虫が出てくるのだから理屈は簡単。我も我もと参集したようだ。

 この養殖は全国に広がり、より大規模な養殖場をと、それまでカブトムシが生存していなかった北海道にその地を求めたのが昭和の40年代だったという。その養殖場の一つで、網を破られてカブトムシが大量に逃げ出したのが、北海道でカブトムシの歴史の始まりだという説はわかり易い。

 ペットとして飼われていたカブトムシが逃げ出したという説もあるが、今では稚内市や知床半島でも定着が確認されているらしいとのことだから、北海道全土に広がり野生化していることは間違いないようだ。

 北海道にはカブトムシの天敵が少ないらしく、大量に増えているおり、農作物などにも被害を及ぼしているというからこれは聞き捨てならない。また、樹液に集団で群がるなど、昆虫同士でのエサの奪い合いに強いため、北海道の固有の昆虫が駆逐され恐れも大きいらしく、カブトムシを道の外来種リストでは『生態系へ大きな影響を及ぼしており、防除対策の必要性を検討する』(A2)に分類されているという。

今回の道議会の決定で、飼育そのものまで規制する対象に挙がっているというから、小学生たちの夏の楽しみが一つ減るようだ。恐らく、闇で金儲けを企む輩が跋扈することは間違いなさそうだが・・・。

数日後、環境省が、生態系に重大な被害を与える恐れがあるアカゲザルなど特定外来生物の『交雑種』の飼育や輸入を原則禁止する方針を固めたという記事があった。

これまでは特定外来生物を飼育や輸入を規制していたことは知っているが、今回は対象としては特定外来生物同士のほか、同生物と在来種の間に生まれた交雑種をも想定しているというから、かなり踏み込んだ措置である。

千葉・房総半島で、アジアに生息するアカゲザルと日本の固有種ニホンザルが交雑し、固有種の独自性を脅かす事態が発生するなどしていることを重視したようだが、元を正せば人間の欲望がなせる業。

そして、人間界は国際結婚が大流行。アカゲザルの目から見たら、(細かく探せば、混血による弊害もあろうかと思うのだが)人間には外来種の適用はないのも変な話と映るのではないだろうか・・・。(田舎親父)

2013年3月26日 (火)

全員の高台移転は無理だと思うのだが・・・

 電気料金やガソリン価格など身の回り品を間では、十分値上げが起きていると思うのだが、日銀はじめ経済の専門家たちはこの程度では満足できないようだ。

諸物価を平均で2%上げるという政府の方針に異議を唱える人は少ないらしく、先日選任された日本の経済を引っ張る役割を担う日銀総裁や副総裁も、こぞって2%の値上げができなかったら辞任というほど、値上げに血眼になっているというから、世の中全体がインフレ傾向になることは間違いなさそうだ。

私のような貧乏人にとっては、物価の値下げは大歓迎なのだが、今日のように値下げ競争が過当になって、そのしわ寄せが店員など人件費の削減につながり、強いては日本全体の景気が右肩下がりになっている現状はないとなく理解できる。その結果、経済格差がますます広がっていることは何となく理解できるから、最近の経済の動きには何ともいえない複雑な思いが先にたつ。

(物価を上げるための操作ではないと思いたいが)先般、国交省が全国の地価を発表したが、景気回復という声に押されたのか、ずっと下がりつづけていたのが、ここにきて上昇気味なのだそうだ。

地価はバブル崩壊の影響で1992年から20年あまり下がり続けてきたという。この間、何度が回復傾向は見えたものの、リーマン・ショックで再び下落に拍車がかかり、下落はそのまま続いているとのことである。

ある新聞社説は、長く続いた地価下落が収束すれば、政府が最重要課題とする『デフレからの脱却』を後押しすることになるだろうと、この動きを歓迎しているようだが、なるほど税収が増えれば、政府としては万々歳だろう。

ところで、東日本大震災で津波被害を受けた地域の住宅再建について、政府がまとめた工程表の全容が発表されたのはかなり前のことである。住宅再建の見通しは、これまで市町村ごとに把握してきたが、地域ごとの進み具合にばらつきが生じてきたため、政府が一元的に状況を把握し、完成時期の前倒しを図るとのことで、2015年度末までに岩手、宮城、福島3県で災害公営住宅1万9260戸を建設し、民間住宅用地8514戸分を確保するのだそうだ。

 結構な計画である。ぜひその通り実現してほしいと願うが、復興住宅の建設は、土地や資材の不足などから計画通りに進んでいないのが現状らしいことは、マスコミ報道からも明らか。

政府としては、今後、工程表を3カ月ごとに更新することで、それぞれの地区ごとの工事の進み具合を点検し、用地の取得を早めたり、資材の確保を図ったりすることで、建設を終える時期を早めることを目指すというが、果たして政府の思惑通りに事が進むとはとても思えない。

 経済音痴の私には、何となくとしか表現できないが、今回の全国地価の発表をみる限り大都市圏には経済効果があるようだが、被災地では今後ますます格差が広がり、復興が妨げられる要因になるのではないかと懸念している。

 現実に、全国地価の発表以前から、岩手や宮城県では地価の二極化が進行し、生活再建の行く手を阻む結果となっていることが大問題になっていることを各新聞が報じている。

記事によると、津波で浸水した地域のほとんどは建築してはならない地域として自治体が買い上げる方針だそうだが、高台や被害が限定的だった地域は価格高騰に加えて物件が不足しているのが現状だという。

被災者が住めなくなって自治体に買い上げてもらう所有地は値段が下がり、買いたい土地は高くなっては、よほどの富裕層の人しか高台に自宅を建てる事は難しくなることは明らか。その上、建設業の人手不足や資材高騰で住宅価格も上昇し、追い打ちをかけるとなると、政府の掛け声が虚しく聞こえてくる。

以前も述べたが、津波で被害を受けた地域を一律に建築禁止とするのではなく、自己責任で建築も可能とするべきではないだろうか。

価格的根拠は全くないが、これほどの大津波が同じ地域をすぐに襲うことはないという持論を持つ私には、再び津波に襲われるまでには、少なくとも100年ほどの時間的な余裕はあると信じたい。

海を生活の場としている人々は、今回の措置で高台に自宅を建てたとしても、数年後には必ずや海の近くに仕事の場を持つに違いない。その意味では、全員の高台へ野強制移転は、始めから無理があるように思えるのだが・・・。(田舎親父)

2013年3月25日 (月)

沖縄はアメリカの占領地?・・・

 サンフランシスコ講和条約が発効したのは1952年4月28日。昭和天皇の誕生日に合わせたのもアメリカの戦術だったとしか思えないが、アベ政権は『主権回復の日』として初めて祝賀の式典を開く事を決定したとのこと。しかし、アメリかさまのご命令には絶対に逆らわない(逆らえない)歴代日本政府の態度を見ていると、『主権回復』という言葉の意味を首をひねりながら考えてしまう。

特に酷いのが沖縄はじめアメリカ軍基地の問題。厚木基地周辺の人々から比べると、比較にならないレベルであるが、横浜の片田舎のわが町の上空は、戦闘機の爆音で会話すら途切れるほどの騒音に悩まされることも稀ではない。

厚木基地のようなアメリカ軍基地が日本各地に点在するが、沖縄に比べるとその密集度はそれほどでもないので、耐えきれないほどの影響を受ける人々の数は限られていることもあって、なかなか基地問題が表にでにくい傾向がある。

ところが、表面上はアメリカの支配からのがれ、国際的には主権国家だと大きな顔をしているが、沖縄には在日アメリカ軍専用施設面積の74%を押しつけられているというから、沖縄に限っては事実上の占領は続いていると言っても差し支えないようだ。

基地は治外法権で日本の司法は届かず、基地外であってもアメリカ兵に対しては警察権すら限定的であり、入れ代わり立ち代わり兵士たちの不祥事が報じられている。そのたびに、在日軍の司令官が一応謝罪、時に、夜間の外出を止めたり飲酒禁止令を出しているが、それらの効果がないままに、いつの間にか元に戻っているのが現状のようだ。

普天間基地の返還は当面では沖縄県民の悲願であるが、代替地があれば返還してやろうというアメリカさまの温情?で選ばれたのが同じ沖縄の名護市辺野古のキャンプシュワブ付近一帯の海岸周辺を埋め立てて2本の滑走路を造るという案。

一説によると、アメリカ政府筋もガァムへの全面移転を検討していたにもかかわらず、辺野古への移転が決まったのも変な話であるが、アベ政権は民主党政権でぎくしゃくした対アメリカ関係を修復するためには、辺野古の海を埋め立てるしか方法がないと明言、脇目もふらずまっしぐらにその方向につき進んでいる感じを受ける。

海が埋め立てられたら即生活に困るのは周辺の漁民たちであることは私でも想像できることであるが、不思議なことに、このタイミングを計ったように、辺野古周辺の漁業権を持つ漁協が総会を開き、圧倒的多数で埋め立てに賛成したという。これは何を表しているのだろう・・・。裏で、政府と漁協との間に何らかの取引ができているのではないかという想像は決して下司の勘繰りではないだろう。

辺野古の海を埋め立てるためには、知事の認定が必要らしい。政府は、絶対反対を表明している名護市への説明などせず、この計画を進めるために22日に辺野古沿岸部の公有水面の埋め立て承認を沖縄県知事に申請し、翌23日には沖縄担当のイッタと呼ばれる首相のコシギンチャク大臣を派遣して、条件提示に持っていったとの報道に、カネを積んだらウンというだろうという思惑がミエミエ。

申請がでた場合、知事には門前払いにする権限はなく、法律上、内容が適正かどうか審査しなければならないという。そこで知事は名護市などの意見を踏まえ、8カ月から1年程度かけ可否を判断するのだそうだが、この知事ドノはかって『移転やむなし』という判断をしている人物であることから、どこまで突っぱねられるか疑わしい。

名護市長は絶対反対の姿勢を持ち続けているとのこと。当然だろう。知事と市長、そして沖縄の41の自治体の組長がこぞって反対している現状では、埋め立てられるはずがないと信じたいが、知事に拒否権がない上に、申請書に沿っての審査の結果が出る来年の1月には名護市長選挙があるというから、アメリカさまの意向にそう面々の筋書きが見えるようだ。

そんな輩が牛耳る政府・自民党が交付金や公共事業など、従来の札束で横っ面を引っぱたくような懐柔策で翻意できると考えているなら、これは県民をバカにしていることに他ならない。しかし、これまでの歴史がその方策を許してきたことは事実であることから、来年1月の名護市長に、現市長に替わって容認派が選ばれない保証はない。

『県外移転』は保守革新を問わない沖縄全県民の声だと信じている。しかし、10ケ月の間、その声を小さくするほどの条件が提示され、漁協に続き農協や経済組織などが次々に妥協するのではという場面は想像したくないが、正直、何となくあり得るような感じもしないでもない。(田舎親父)

2013年3月24日 (日)

札束でひっばたく方式が復活・・・

 アメリカは各国の交渉責任者に『日本には正式な参加国になる前に一切の素案や交渉経緯を見せられない』と念押しし,さらに『日本には一切の議論の蒸し返しは許さず、協定素案の字句の訂正も許さない』と述べているにもかかわらず、アベ首相が『参加する』と明言したTPP。

こんな不平等な条件で協定に参加することは、国益を損なわないどころか、国を売るとしか思えないのだが、地方から農民代表として送り出された自民党の議員たちは自分の利益(当選)しか考えない輩が多いらしく、『絶対反対』を選挙公約にしてことなどすっかり忘れて、いつの間にか自民党全体が『TPP参加』集団化しているようだ。

その意味では、『消費税絶対反対』や『原発廃棄』を徹底的に主張して、結果として追い出されたオザワ氏とその仲間である『現生活党』の方が筋が通っているという意味では評価したい。

分裂した民衆党が惨敗。結果的には、自民党は濡れ手で粟の政権復帰に加え、長年の消費税の増税までいただくことになる。しかも、自民党の強力な支援団体である農協などが絶対反対を叫んでいるTPP参加を決めても支持率が下がらない?。こんな不思議なことが現に起きている。

先日ある農協の方とおしゃべりする機会を得た。この人は、騙されたと悔しそうに語っていたが、だからといって民主党に戻そうとは思っていないとも・・・。騙されても自民党の方が我々農民の事を思っているというのである。

変な話だと思っていたが、昨日の朝日新聞の一面に『TPP減収農家に補填』という見出しが踊ったことで、何となくそのからくりがおぼろげながら見えてきた感じがする。

記事によると、TPPに参加した場合に備え、農水省や自民党が、打撃を受けた農家の収入を補填する仕組みを検討しているとのことである。

あくまで私の想像だが、アメリカさまのご命令には逆らえないアベ首相たち現政権幹部たちは、TPP参加は農家に打撃になることは折り込み済みで、『TPPによる減収分を補填』という約束を農協幹部には伝えられて、すでに妥協が成り立っているのではと思いたくなる。

その額は年間5千億円超らしく、この金額を農家が農地を維持していれば払い続けるという言い回しがうさん臭く感じる。『農地の維持』とは、売れなくてもよいから何か農作物を作っていろとも聞こえなくもない。

こんなことで農家のモチベ-ションが上がるはずがなく、間違いなく農村の衰退は目に見えるのだが、農協の幹部たちは、すでに日本の農業を見限っているのではと思いたくなる。

この動きは、先日沖縄全体があれほど反対している普天間基地を辺野古沖への移転問題で、一番反対しなければならない、地元の漁協が『埋め立て容認』と決議したことに通じるようにも思えるが・・・。

関税がなくなるというから、安い農作物が国内に流通することは私にでもわかる当たり前の話。品質で勝負すれば良いという意見があるようだが、経済的な格差が大きく広がっている現在の日本において、品質の高い(価格も高い)農作物を購入できる人々が果たしてどれほどの割合で存在しているのだろうと考えると、ますます格差を広げる結果になることは明らかだろう。

さらに、昨日の段階で、TPP交渉参加をめぐる日米両政府間の事前協議について、自動車関税と保険分野に加え、保険以外の『非関税措置』に関する協議の決着も、オバマ政権が議会へ通告することが前提だと日本の外務省が明らかにしているのだから、国益を守るということ自体空論のようだ。

国益など何のその、自分たちの利益を得ればよいということで、反対派を切り崩すために,一部にカネをばらまき、反対組織を内部から分裂させる。この方式は戦後脈々と続けてきた古い自民党のやり方そのもの。

美しい国を作るのに、こんな汚い方法はそぐわない。(田舎親父)

2013年3月23日 (土)

『無理偏に無理』な避難計画・・・

 東電福島原発の使用済み核燃料プールの冷却などが同時多発の停電でストップした事故は、やっぱり収束などとはほど遠いことを端的に表しているが、東電の事故への対応は相変わらず隠蔽体質が続いているらしく、関係諸機関への通報そのものさえ迅速性にかけていたというから困ったものである。

記事に添付された写真でみる限り、屋外に設置された配電盤という設備・施設は、トラックの荷台のような物の上に乗せられたチャチなもの。使用済み燃料を保管するプ-ルの冷却は、廃炉へのステップとしては極めて重要な作業であるのにかかわらず、私が散歩の途中でよく目にする、中小の工場の配電設備程度のような物だったとなると、本気で事故の収束と廃炉を考えているのかさえ疑わしくなってくる。

停電の原因がネズミらしき小動物の死体の写真を示して、小動物が配電盤に入り込んで『高電圧端子に触れ異常な電流が流れて事故につながった可能性』と発表しているが、何かうさん臭い感じがぬぐえない。

屋外に架設した、どこにでもあるような簡易な配電盤で、まかり間違えば大量の放射線物質を排出しかねないプ-ルの冷却を管理していたということも信じられない思い。百歩下がって、今回の事故が、ネズミが原因だということが事実だったとしても、ネズミが簡単に出入りできる配電盤でよくこれまで同じような事故がなかったことの不思議さはぬぐえないのだが・・・。

原因はこれから解明するとのことだが、焼け跡とネズミの死骸を示したのは結論ありきの世論の誘導にしか思えず、大流行の第三者委員会を立ち上げて(不思議に原発事故ではこの組織が立ち上がらないが)解明を試みても、これ以外の結論は出てこないような気がする。

東電はこの事故で放射能が外部に漏れ出した形跡はないと断言した上で、『原子力の世界では、外部に放射性物質が出て、影響を与えるようなら事故だが、そうでなければ事故とは呼ばない』との認識を示したというから呆れてものが言えない。

話は変わるが、今回の事故を『苦い記憶を忘れ、再び原発依存に迷い込むことへの警告だ』とする、昨日の東京新聞の記事に目が留まる。

『私たちは原発に頼ってしまっていいのだろうか』との書き出しで、京都府の防災担当責任者の『事故収束を急ぐ現場で、いまだにこんなことが起きるのか。とんでもないない』と驚く声を紹介して、避難についての問題点を指摘している。

 記事によれば、国の新指針で原発事故に備えた防災対策を進める区域がぐんと広がった結果、京都府内に原発はないが、福井県の高浜市にある関西電力高浜原発の30キロ圏に宮津市など7市町が避難の対象になり、避難対象の住民は従来の1万2千人から10倍以上の13万人にまで急増したそうだ。

 これだけ大勢の人々をどうすれば、早く逃がすことができるかを前述の防災責任者が業者にシュミレ-ションさせたところ、『バス600台を集め、ピストン輸送すれば、10時間半で13万人全員の避難が完了する』との答えが出たという。ただしその前提は、バスは避難を決める前に集合場所の小学校に到着しているというのでは、いかに現実離れした条件であるかはよく分かる。

この地域もご多分に漏れず過疎が進んでいるから、住民の足は主に自家用車だろう。もし原発事故が起きたとしたら、このままでは間違いなく自家用車で避難することになるだろう。各自が車で逃げれば大渋滞となるのは、福島事故で証明されているとなると、あながちバスで避難というアイデアも笑えない。

担当者は、現実離れは承知の上で、『そもそもバスを本当に確保できるのか?』との疑問をバス会社にぶつけたのだそうだ。その結果は惨憺たるもので、協力はするが実際に難題バスを提供できるかは白紙にしてほしいとのことだという。

もっともなことである。事故が起きた時点でバスが空いていれば、運転手の放射能被爆の問題はあるだろうが,とりあえずそのバスは確保できるが、とてもではないが600台の確保は(漢字があればの話だが)『無理偏に無理』と書くようなものだろう。

国の命令で防災計画を立てなければならないのだから、防災の責任者にはむなしいシュミレ-ションしなければならない。こんなことに多額の税金を投入すること自体漫画的だとしか言いようがないが・・・。

それでも原発再稼働や新造を進める政府・自民党、そして金儲け命の輩達は、このような徒労だと知りながら、日夜努力している人々の存在を知っているのだろうかと改めて怒りが込み上げてくる。(田舎親父)

2013年3月22日 (金)

強風被害が続いている・・・

 かなり古い話になるが、10日の日曜日に伊豆に出かけての帰り道のこと、東名高速の厚木を過ぎたころ、突然横浜・東京方向の空が黄土色になり視界がガクンと落ち、すわっこれは黄砂とR2・5のダブルパンチではないかと不安になる。煙霧という現象だと後で知るのだが、強風被害はその後も続いている。

びっくりしたのは自転車電線に引っかかっている写真。首都圏に強風が吹き荒れた13日午前、東京都台東区で、カバーとともに強風にあおられた自転車が空を飛んだのだそうだ。

 現場は、浅草と上野を結ぶ、台所用品の問屋街として知られる『かっぱ橋』付近の交差点。午前十時過ぎに住民から警察に通報があり、すぐに東京電力に連絡して、2時間後に自転車は無事撤去されたという。

停電やけが人などの被害はなかったようだが、金属でできている自転車が、写真で観る限り電線をまたいでぶら下がっているのだから、よくぞショ-トしなかったもの。カバ-は飛んでしまったように見えるが、うまい具合に絶縁物になっていたのかもしれない。それにしても、電線にぶら下がって止まったからよかったものの、もしもそのまま落ちていたら、珍事だと笑ってすませる事件ではない。

自転車の所有者は歩道裏手のマンションの住民で、以前、一階に自転車置き場に止めていたところ、盗難に遭ったことがあんたので、それ以後は七階の自宅ベランダに持って上がっているのだそうだ。

総重量十キロほどのロードサイクルで軽量なうえ、カバーをかけていたので、強風にあおられ空を舞ったらしいが、まさかベランダから自転車が風邪にあおられるなんて想像もしなかったのではないだろうか。気持ちは理解できるが、警察からきついお叱りにひたすら頭を下げるだけだったようだ。いやはや自転車を飛ばす風とは尋常ではない。

さらに驚くのは、クリ-ンエネルギ-の象徴とも言うべき巨大風車が風車を取り付けている先端部分から折れて落下という事故が同じ日に起きたこと。風車の羽が折れる事故や、強風のために故障ということは過去にも数度報じられていたが、本体が折れるとは普通ではあり得ない。

記事によると、京都府伊根町に設置している太鼓山風力発電所で、風車1基の先端部分が高さ50メートルから羽根や発電機ごと落下したとのことである。落下部分は重さが計約45トンあり、羽根は長さ25メートルで3枚あったが、付近に人家はなく、けが人はなかったことにほっとするが、信じられない事故である。

 京都府の担当者は『切断部は風の力を受ける場所で、金属疲労の可能性がある』と説明しているらしいが、この風車の運用は2001年というから、本格的に稼働したのは13年程度では寿命としても少し早すぎる。

情報によれば、この風車は国産ではなくヨ-ロッハの国製だったらしい。中国製となると手抜きもあるだろうが、風力発電には伝統のある国の技術となると、手抜きでは片づけられないだろうから、日本の地形や風の性質を十分考慮した設計ではなかったものを京都府は、ブランド名に引かれて導入したのではないだろうか。

風車1基あたりの建設費は約1億7800万円で、耐用年数は17年で計算しているらしいが、寿命ってそんな短いものなのだろうかと唖然とする。

17年間動いてくれたら、元が取れるとしたら、風車で発電する電気がべらぼうに高く感じる。この発電所は、6基ある風車のうち、4、5号機は落雷などで故障していたというから、尚更である。

原発のように放射能をまき散らさないので、事故そのものの影響は限定的だろうが、この事故は考えさせられる。

こんな想定外の事故が続くとなると、今年の強風は異常とだけではとても済みそうもない。いやむしろ、年々気象の以上は拡大しているように思えるから、高層階のベランダの自転車はしっかり縛りつけることで防げるとしても、外国製の風車は全て徹底的に検査する必要がありそうだ。(田舎親父)

2013年3月21日 (木)

物価が上がると暮らしが良くなる?・・・

 徳島から高知を経由して、私の生まれ故郷の愛南町に出かけていたため、一週間ほど文章作りをさぼってしまったので、なかなかペンが進まない。というとかっこいいが、実際にはキ-を打つのだから、何と表現したら良いのだろう・・・。

出かける少し前には、ニューヨーク株式市場のダウ工業株30種平均はアメリカの景気回復期待が続き株価は上昇し続けていた。日本はアメリカがクシャミをすると風邪をひくほど従属関係になっているらしく、日本の株価も上昇が続いていた。

私は一歩自宅を出たら、基本的には全ての情報をシャットアウトし、社会から隔離し非日常生活を楽しむようにしている。当然、携帯電話以外のIT機器には一切触れないようにしているので、どうなっているも関心外・・・。

昨日帰宅して為替相場を見ると、96円と円安傾向が続き、株価も上方安定しているらしい。円安になると、車業界を始めとして、貿易関連業種はウハウハ状態になることは大分理解できるようになったが、トヨタは今年の春闘で年間一時金(ボーナス)を労働組合の要求通り満額回答。ニッサンやホンダも一時金を増額し満額回答と、こんなにも儲けが上がるのかと改めて驚く。

電機業界も業績は好調らしく、かなり景気の良い声が続いている。このことは悪いことではないが、地方では車が必需品。なのにガソリンの値上げはものすごく、1リットル当たり160円台の看板を掲げているスタンドがほとんど。となると私には、ますます格差が広がり、庶民の生活には物価高の方が影響しているように思えるのだが・・・。

先日、内閣府が2月の消費動向調査の結果を発表した。それによると、国民の財布のひものゆるみ具合を示す『消費者態度指数』は、前月を1.0ポイント上回って44.3となったとのことで、2カ月連続で上昇し、リーマン・ショック前の2007年6月以来の水準に達したとある。

株高や円安で企業の収益が改善するという期待が広がり、『暮らし向き』をはじめ『収入の増え方』など四つの指標がすべて上昇したとのこと、本当だろうか。また、『物価の見通し』についても、1年後に『上昇する』と答えた世帯の割合が前月より4.2ポイント増えたそうだ。

調査対象は全国6720世帯だという。選んだ基準には触れていないので、経済的にどの層が多いのかはわからないが、この数値を信じれば、2%の物価を上げることを目指している政府の思惑通りに進んでいるようだ。

収入が上がれば購買力が大きくなり、物の流通は激しくなることは理解できるが、『もったいない』という考え方とは相反するようで、私にはこの政策が正しいとはとても思えない。不必要な物を買い込んで、押し入れに眠らせるのが関の山ではと思ってしまう。

私には、物価が上がると暮らしが良くなるとはとても思えないのだが。『物より心』の重要性に気づき、贅沢が『是』という社会への反省はどこに消えたのだろう。(田舎親父)

2013年3月15日 (金)

『良い子度』を点数で?・・・

 アベ首相の肝入りで作られた『教育再生実行会議』の動きが不気味である。先日、『いじめ対策』の目玉として、道徳の教科化の提言を上げたという報道に強い危惧感を覚える。

 現在、全国の小中学校で行われている『道徳の時間』は、週一コマ、年間で35時間組み込まれている。各学校では、教科書会社の副読本に加えて、国が配布する『心のノ-ト』や自治体が独自に作っている副読本を使って授業が行われている。

 3種類もある副読本の全てを授業で取り上げること自体無理があるということは、先日も皮肉を込めて取り上げたが、文科省や教育委員会の後押しもあって、道徳に力を入れる学校が多くなっていることは確か。このことが、いじめや不登校などとリンク、教育再生会議が食いついたという図式だろうが、道徳を教科するなど誰が考えても無理な話だと思うのだが、権力を持った大人どもにとってはそこが面白いのかもしれない。

 算数や国語などの『教科』は、点数でその達成度が計れるという性質があるので、評定が義務づけられている。何度も述べているが、学力と言われるものには、このように点数で計れるものと、思いやりや感謝の気持ちなど、人間として生きるための大事な資質などテストで計れないものがあり、これも大切な学力であることは誰も異論がないのではあるまいか。

 昭和33年頃だったと記憶しているが、学校現場の強い反発にもかかわらず、『道徳』という授業を学校に導入した当時の政府の表向きの理由の一つとして語られたのは、日本人として『豊かな心を養う』だったはず。

 当初、教科書はもとより副読本もなく、学校独自の教材で指導を許されていたのだが、教える内容に共通性が必要という理屈と教科書会社の思惑が一致し、副読本という名の教科書を使うように義務づけられ、いつの間にか、自治体独自の副読本に続き、国の検定道徳教科書というべき『心のノ-ト』まで用意されるようになってしまった。

しかし、さすがの文科省も教科書を作るまでで、ここで教える事柄は点数では計れないと認識していていたらしく、教科としてではなく領域として示し、評価・評定を義務づけることはなかった。

教科と領域との根本的な違いは何らかの尺度で到達度を計り評定し『評価』を義務づけるかどうかであると受け止めている。道徳を教科に格上げとなると、担任(道徳担当教員という危険な思想が見え隠れするが)は、点数で評価することを強制されることになる。

現在各学校で行われている道徳の授業のねらいは、俗っぽい言葉で表すと、いわゆる『良い子』を育てることである。となると、『良い子度』をペ-パ-テスト的な手法で計り、通知表に記載することに・・・。

将来的には高校入試時の内申にも影響することもあり得ないことはない。こんなことになれば、子どもたちは本心とは裏腹に『良い子』を競う結果になることは明らか。今でさえ表面的には『良い子』なのに、影では・・・という子ども(大人はもっとだろうが)も多いことが問題化されているのに、こんな子どもを公教育で作り上げるとは・・・。考えるだけでぞっとする。

提言は、いじめ対策のために道徳の授業を強化するという。充実した道徳教育が行われるかどうかは『学校』や『先生』によって左右されるから、国として教材を見直して教科として位置づけ、指導方法を打ち出すのだそうだ。

道徳を教科にすればいじめがなくなるというように聞こえるが、道徳の授業の充実は以前からやっていること。実際に、いじめが原因で自殺したとされる大津の中学校は道徳教育の推進モデル校だったそうだから、道徳の授業の充実といじめとの関連性については全く説得力がない。

子どもが成長に応じて思いやりの気持ちや規範性など道徳性を身につけることは大切であることには異論はない。社会の構成員として高い徳性を培うための教育そのものに反対するものではないが、教科としての道徳の授業では検定教科書が用いられ、心のありようがテストされて順位づけされ、国の価値観や考え方が押しつけられる・・・・。これは怖い。

 国語や算数とは違い、道徳とは体系立てられた知識や技術を習得するものではない。子どもが学校や家庭、地域で褒められたり、叱られたりして考え、感じ取って、周りに助けられて身につけていくものである。今行われている学校での道徳の授業はその一助であるはず。

 再生会議の委員たちが、もし本心から道徳を教科にすればいじめがなくなると思っているとしたら、それこそ、もう一度小学校・中学校で、道徳の授業を受け直して、まっとうな考えができる大人になってもらいたいものである。(田舎親父)21日まで休載します。

2013年3月14日 (木)

検証結果としてこれは酷い・・・

 12日の朝のNHKテレビは、(以前取り上げた)調布市の小学校で5年生の女の子が給食でチ-ズ入りのちじみを食べて死亡した事件を検証する、市の教育委員会の検証委員会の検証結果をまとめたというニュ-スを報じていた。

食事をとりながら観ていたので、詳細はつかみきれていないが、全ての責任は学校にあるような表現をしていたのに驚き、すぐにネットで朝日・読売・毎日は当然、かなりの新聞に関連記事を探したが見当たらない。

この事件は、(新聞社の感覚では賞味期限が切れた食品ごとく)価値がないのだろうかと愕然とするが、気を取り直してして『NHKニュ-ス 調布 小学校』で検索したところヒットし、次のような文面があったのでそのまま引用してみる。

(引用はじめ)去年12月、東京・調布市の小学校でチーズなどにアレルギーのある女の子が給食を食べたあとに死亡した事故で、市教育委員会の検証委員会は事故の原因について、学校の教職員の情報共有が不十分で、危機管理意識が欠如していたなどとする検証結果をまとめました。/調布市の富士見台小学校では、去年12月、チーズなどの乳製品にアレルギーのある5年生の女の子が、給食のおかわりとして担任の男性教諭からチーズ入りのチヂミを誤って手渡されたあと、ショック症状を起こして死亡しました。/ 医師や弁護士などからなる検証委員会は、事故の原因や再発防止策について検証を進め、このほど報告書がまとまりました。/ 報告書では、事故の原因について、どの料理を食べてはいけないのか、調理員が女の子にはっきりと伝えていなかったうえ、担任も専用の書類で確認を怠ったと指摘しています。/また、担任や養護教諭がショック症状を和らげる注射をせず、初期の対応を誤ったなどとして、教職員の情報共有が不十分で危機管理意識が欠如していたと指摘しています。/ そして、再発防止策について、保護者、栄養士、養護教諭、校長などがあらかじめ面談し、詳しい症状などについて情報の共有を徹底するほか、教職員全員がアレルギーへの理解を深める取り組みを強化するなどとしています。/ さらに、学校給食でアレルギー事故を防ぐための具体的なマニュアルを国が率先して作成するよう求めています。/ 検証委員会は、12日、この報告書を教育長に提出することにしています。/ 今回の報告書について、食物アレルギーのショック症状で亡くなった女の子の両親は、「事故の背景には、学校現場だけでなく、文部科学省や教育委員会も含めて学校給食でのアレルギー対策の意識の低さがあったのは明らかです。事故を繰り返さないため、国や教育委員会がどのような対策を取るのか、今後も見守り続けます」と話しています。(引用終わり)

 この日はさしたるニュ-スがなかったのか、NHKは夕方7時にニュ-スでも取り上げていたが、あまりにも一方的な結論になっていることに強い危惧感を持つ。

『どの料理を食べてはいけないのか、調理員が女の子にはっきりと伝えていなかったうえ、担任も専用の書類で確認を怠った』や『担任や養護教諭がショック症状を和らげる注射をせず、初期の対応を誤った』などとの文面に対しては特に違和感を覚える。

この問題は、1月末にも取り上げた。私は、強い批判は覚悟の上で、乳製品を食べさせれば死に至るほどの強いアレルギ-反応のある児童に対して、『口にさせない』ことを学校だけに任せてしまっている現在の方法を改めない限り、同じような事故・事件は起こるのではないだろうかと繰り返したが、このたびの検証委員会は私の心配をあざ笑うかのように、責任は全て学校にあるがごとき文面であることに強く抗議したい。

子どもの食物アレルギ-について一番知っていなければならないのは両親(特に母親)であることは誰も否定しないだろう。また、(先日も例に出したが)食物アレルギーがある子どもの母親のうち、特にアレルギーの対応を行っていない母親が4割を超えるという調査結果があるほど、母親の意識が低いことを検証委員たちは知っているのだろうか。

両親(母親)が日頃から『乳製品を絶対に食べてはいけない』『食べたら死ぬ』と、強い危機感を持って躾として徹底していれば、(知的な障害がない限り)5年生の子どもが理解できないはずがない。

学校側にも責任があることは否定しないが、全てを学校の責任として、しかも『学校給食でアレルギー事故を防ぐための具体的なマニュアルを国が作成』となると、学校現場の負担と混乱は果てしなく膨らむことになる。

検証委員会は弁護士や医師などで構成されているようなだ。あまりにも学校現場を知らなすぎることも、このような結論になったのだろうと想像しているが一方的すぎる。

改めて、食物アレルギ-がある子にとって『ひょっとして死にいたらしめないとも限らない』食物が入っている食事を、指導という名で教科や道徳と同じように、教室で全員揃って食べさせる『学校給食』のあり方を考えたい。(田舎親父)

2013年3月13日 (水)

保育園が増えているが・・・

 『子どもを認可保育所に入れたいという母親たちの熱意が、行政をまた一歩動かした』という見出しが目に留まる。

記事によれば、この動きは杉並区から始まったという。母親らの異議申し立てを受けた杉並区は、今月の初めに、既に公表していた既存の認可保育所の受け入れ枠をさらに拡大し、新たに三施設を来年4月に設置することを柱とした緊急対策を区議会に示したとのこと。この動きは杉並区から足立区に広がり、大田区でも母親たちも異議申し立てを行ったというから、今後さらに増えるようだ。

 杉並区の緊急対策は、当初の新設や増設計画などと合わせると、今後一年ほどの間に認可保育所で受け入れる定員を計666人増やすのだそうだ。記事には細かな数値が並ぶが、私には何のことだか理解できないことが多いので省略するが、この動きの背景には横浜市の行ってきた保育所不足解消の努力があることが読み取れる。

そういえば、数年前まで横浜市の待機児童数が全国で最悪だと大きく報じられていたことを思い出す。

当時は横浜の片田舎でも保育所不足の話題が聞こえてきたものだが、この問題の解決を公約の一つにした女性市長が誕生し本気で取り組んできた成果として、2010年には1500人を超え、全国ワースト1だったが、2年間で200人に減らし、今春はさらに定員を増やし、ゼロになる見通しだというから、市長のやる気が感じられる。

最近では『あれこんな場所に保育園ができている・・・』と思うことも多く、ちょっとしたスペ-スをうまく使った新たな保育園が誕生していることに驚く。

我が家の前にある3つの老人施設にも(多分従業員のためのものだろうが)保育園が併設されているらしく、森へ続く道路を保育士が数人の園児の手を引いて歩いている姿を目撃することも毎日の日課になっている。

また、私が毎日のように散策している四季の森公園でも、保母(今は保育士)さんに連れられて大勢のヨチヨチ歩きの園児たちの姿を見ることが日常的な光景になっていることなどからも、いろいろなところで保育園が増えていることは実感できる。

 横浜市は市内全区に保育情報を提供する専門員『保育コンシェルジュ』という聞き慣れない名前の職を配置し、定員を増やすため、市有地を無償で貸し出すなどして民間保育所を誘致、既存の認可保育所は園舎を増築するなど努力をしているという。

また、交通不便な保育所で定員の空きが目立つことから、保育所までの送迎拠点を駅前に設け、入所しやすくするなどしているのだそうだというから、思わぬ場所で保育園を発見することも、なるほどと納得する。

このような『横浜方式』が、大勢の待機児童を抱える自治体に影響を与えており、杉並区などの異議申し立てに少なからず影響をしているのだろうが、むやみに保育園を増やすことには、時に保育園の火災や事故などの報道があると、大丈夫なのという疑念が浮かぶこともある。

 このことについて、東京新聞が2月19日の社説で、『保育所に入れない待機児童の解消に横浜市などが成果を上げている。子どもの預け先に困っていた親への支援になるだろう。しかし一方で、子どもの安全が置き去りにされていないか、課題が残る』という書き出しで、国の基準を超えた子どもの詰め込み保育が一因で起きた事件の、国の動きについて取り上げている。

 例に出しているのは、愛知県の認可保育所で2010年10月に起きたという『おやつ』を喉に詰まらせて死亡した事件である。当初、保育に問題はなかったとされたが、両親が保育所や搬送先の病院へ何度も足を運び、国の基準以上の詰め込み保育がされ、保育士の見守りが不十分だったことが判明。

その後、県と市が調査委員会をつくり報告書を出したが、時間が経過しており解明できない部分も多かったとのことを受けて、厚労省が長男を亡くした遺族に対し、事故の報告を保育所に義務付けることや原因調査の仕組みづくりを国の審議会で検討する考えを明らかにしたことを受けて、現在のシステムの欠陥について警鐘を鳴らしている。

 この社説を読んで、事故報告の義務がなく、責任の所在が明らかにされない事例も多いことを初めて知ると同時に、横浜市も広さが国の基準に満たない施設も許可し、待機児童の対策を進めているのではという危惧が頭をよぎる。

園児たちを連れて歩く保育士たちの笑顔と、園児たちの元気な挨拶を受けると、心配はないようだが、万一事故でも起きたら、また保育士の責任と騒がれるのではと一抹の不安はぬぐえない。

 何がなんでも保育園へという風潮にはついていけないが、将来を託す大事な命を、きちんと守れる環境作りには疑義はない。

園児と保育士たちの行列に会う度に、『今日も元気で・・・』という意味を込めて、『おはよう・こんにちわ、げんきだね』と挨拶を返している毎日である。(田舎親父)

2013年3月12日 (火)

65歳定年企業が出現したが・・・

 年金支給が65歳になったことで、雇用関係にさまざまな歪みが生まれている。60歳から5年間収入がないとなると、今まで通りの生活ができなくなるのは当たり前で、人生50年の昔と違い、今の60歳は若者をしのぐほど元気な人も少なくないのが現状となると、何とか収入の道を得なければならなくなる。 年金支給が65歳になったことで、雇用関係にさまざまな歪みが生まれている。60歳から5年間収入がないとなると、今まで通りの生活ができなくなるのは当たり前で、人生50年の昔と違い、今の60歳は若者をしのぐほど元気な人も少なくないのが現状となると、何とか収入の道を得なければならなくなる。

 そこで考え出された施策が『再雇用』という制度。定年制度ができたのはいつの頃か正確な資料を持ち合わせていないが、公務員に60歳という定年制度が正式に発足したのは、20代前半の頃には、60歳を超えても現役の人たちが何人かいたと記憶しているから、およそ40年ほど前だったように思える。

 当時は60歳になると年金が満額受け取ることができたので、60歳定年は還暦と合わせて人生の第二の門出としてお祝いの意味合いがあり、現在のようにどうしても仕事を求めるという風潮はさほど広がっていなかったような気がする。

ところが、元気な60歳が激増するようになり、再就職を望む人が多くなると、何とかその願いかなえなくてはならなくなり、『嘱託』という名前での再雇用制度が生まれたようだ。それでも、定年と同時に年金が満額受け取れることもあって、嘱託を希望しない人も少なくなかったらしいが、年金支給が60歳からずれ込み始めた頃から、嘱託を望む人たちがほとんどで、今では嘱託を希望しない人が稀になっている。

『嘱託』という名で雇用する条件は、私が知っている当時では月13日程度の日数と15万円程度の俸給で再雇用するというものだったと記憶している。

平均月給が40万円程度受け取っていた人たちを、日数は一週間ほど短くなるものの、三分の一超の賃金で雇用。しかも、定年とはいえど、仕事の内容には精通している人たちを、これまでの共済年金ではなく国民年金に加入させるというやりかたは、誰が考えたのか知らないが実にうまいやり方だと感心したものである。

 嘱託制度が定着すると、それに重なるように『65歳定年』という動きが出始め、ここ数年はいつ始まっても奇怪しくない雰囲気になっていたが、ついに関西の大手私鉄の一つである『京阪』が4月から12年かけて定年を60歳から65歳に段階的に延長する方針を固めたのだそうだ。

 この背景には、企業(雇い主)は、65歳まで働くことを希望する人全員の雇用が義務づけられることになるという『高年齢者雇用安定法(高齢法)』が4月に改定施行されるという事情があるらしい。

この改定で、各社は定年制の廃止や定年の65歳までの延長か、定年後の再雇用のいずれかを選ばねばならなくなる。京阪としては、ならば再雇用という中途半端な制度より、はっきりとした社員として待遇するという方針を打ち出し、労使が合意したものだろう。

しかし、単に定年を65歳に延長しては人件費はべらぼうに高くなることは誰の目にも明らか。そこで、京阪が導入する制度は、60歳までの賃金カーブを抑えて61歳以降の給与の財源とする仕組みで、生涯の賃金の増え方を抑えようというもの。

カーブの抑制は、具体的には46~55歳の昇給幅を圧縮し、56~59歳は横ばい、あるいは微減にして、定年を延長しても現状を上回らないようにするのだそうだ。実際に定年が65歳になるのは2025年というかなり先の話になるが、法律が改定された以上この動きは業界に広がりそうだ。

企業としては、法の改定でやむ得ない面もあるが、熟練社員の確保という視点からは魅力もあるようだ。社員としても、定年延長は生活のための切実な要求に違いないので、この合意は双方のねらいが一致した結果だろう。

しかし、定年の延長はそれだけで若い社員の雇用の場が狭くなることは明らか。となると、何となく違和感を覚える。定年延長は高齢者社会ではやむ得ないことは理解できるが、高齢者を支える若者たちの職場がなくなることになってはならない。

年金も今のままでは立ち行くはずがなく、すでに70歳支給などという話が現実味を帯びている。となるとこの動きはいたちごっこ、ますます若者の働く場が狭くなる社会になるようで、気が重くなる問題である。(田舎親父)

2013年3月11日 (月)

脱原発の声はどこへ消えた・・・

 3・11が今年もめぐってきた。一昨年12月だったと記憶しているが、時の民主党政権は早々と、原子炉が『冷温停止』にはほど遠い状態なことは確実なのにもかかわらず、『冷温停止状態』という曖昧な言葉で、安全な状態だと言い繕って『収束宣言』をしたが、実際には収束とはほど遠いのが真実だろう。

満2年近くたった先月、当時の国の調査機関の立ち入り検査を拒むために、東電は『建屋の中は真っ暗で立ち入れない』と虚偽というニュ-スが流れたように、中の様子は誰もが想像するだけで、実際にはどうなっているのかわからないのが現実。

なのに、1年以上前の『冷温停止状態』という言葉が一人歩き。日本人の特質なのかもしれないが、たった2年前のあの凄まじい事故をすっかり忘れてしまったかのように、最近は(昨日今日はさすがに違うが)『脱原発』の動きがストップしたどころか、巻き戻されている。

民主党政権は国民に絶望しか与えなかったが、それでも『原発を危険なもの』だと認識したことは間違いないらしく、2030年には全て廃炉にするという方針を出していた。もっとも、大飯原発を際稼働などから判断すると、国民を欺くための偽りの約束だったにすぎなかったのかもしれないが・・・。

自民党は去年暮れの衆院選挙では原発政策をほとんど口にせず、時に『できるだけ早い時期に原発に頼らないエネルギ-を確保』という、実に曖昧な文言で通したことは記憶に新しい。多くの国民は『できるだけ早く』との文言を聞いて、民主党のように2030年という期限は区切らなかったものの、ゆくゆくは原発を廃止する方向なのだなあ・・・という印象を受けたのではなかっただろうか。

結果的には民主党の自滅が自民党の圧勝。民主党は存在価値すらないほどに壊滅的な打撃を受け、いまだに立ち直る手がかりすらない状態が続いていることは今更いうまでもない。

初めて国政に参加し予想以上の議席を獲得した『日本維新の会』という烏合の衆的な政党は、前身の大阪維新当時は『脱原発』を明言しながら、日本維新の会と名称を変えると同時に『脱原発』の言葉は消え、自民党政権とベッタリとなっているのも許せない話であるが・・・。

アカンベ首相は、支持率が高いことから、そろそろ本音を出しても大丈夫と見たらしく、所信表明演説で、民衆党が掲げていた『2030年の原発ゼロをゼロベ-スで見直す』と明言。さらに、『安全が確認できた』という断り書きを入れてはいるものの、『躊躇せず再稼働する』と表明したことに、この首相と自民党、さらに維新の会などを含めた保守勢力に、今後の日本の舵取りを任せてはならないと強い危惧感を持つ。

この発言を境にして、脱原発の動きははっきりと逆戻り、『推原発』の動きが加速しはじめている。先日には経産省のエネルギー基本計画をまとめる有識者会議を一新し、民主党政権時代に『脱原発』を主張してきた有識者らを『推原発派』と思われる人物に入れ換えると発表。

環境省も環境行政の基本方針を審議する中央環境審議会(中環審)の委員に、脱原発を主張する少なくとも3人がいったん内定したが、大臣の意向で内定を取り消し、推進派と思われる人物に入れ換えるという、露骨な動きが報じられている。

少し古い話になるが、朝日新聞の全国定例世論調査(電話)で、原発の今後について5択で聞いたところ、『やめる』と答えた人は合わせて7割を超えたという見出しが目に留まり、その記事を取りおいていた。

記事によると、『原発を今後、どうするか』という質問に対して、『すぐにやめる』は13%、『2030年より前にやめる』は24%、『2030年代にやめる』は22%、『2030年代より後にやめる』は12%で、時期はともかく『やめる』が71%で『やめない』は18%だったとある。

新聞社の世論調査ほど当てにならないものはないと思いながらも、あれほどの事故を経験したのにもかかわらず、原発を『やめない』と答えた割合が約2割もいることにびっくりするが、逆に70%という数値は最低このぐらいだろうとは納得する。

世論の7割以上が原発は危険なものだと認識し、将来的には『やめる』と答えているのにアベ内閣と自民党は、世論を無視して『原発推進』は、まさに国民に対する裏切り。

なのに、NHKはじめマスコミの世論調査の結果は、内閣支持率は65%を上回り、今後も上昇の気配と報じるのも変な話である。

『政権の評価は原発政策だけではないのだぞ』という声が聞こえてきそうだが、少なくとも原発は大きな評価項目だと確信している私には、日本人総体として今までとは違った考え方に引っ張られはじめたように感じてならない。認めたくないが・・・・。

今日は原発事故発生の日。朝刊やテレビはこぞってこのことを報じているが、この姿勢を今日今日だけの単なるイベント記事にしてはならないと強く思う朝。(田舎親父)

2013年3月 8日 (金)

海外での事件事故の補償は?・・・

 親戚の結婚式に出席するために当地に来ていた女性二人が死亡するという、ガァムでの無差別通り魔事件報道にはギョとする。さらに犯人として逮捕された男は、刺したことを認めていながら『無罪』を主張しているときことに、エッと驚くと同時に、場合によってはそれもあり得るのかもしれないと危惧感すら覚える。

事件発生当初は、マスコミは連日競って、犯人の背景など推測も含めて報じていたが、エジプトでの気球の墜落で日本人4人が死亡というが事件が続いたこともあって、最近は忘れてしまったのかあまり騒がれなくなっている。

 熱気球事故であるが、ピラミッドという途方もない建築物を建てたエジプトの古代王朝には誰もが魅力に映るらしく、連日世界中からの観光客で溢れているという。ルクソ-ルはその中心的な都市で、空から雄大な風景をみられるというので人気があるらしく、複数の業者がこの観光熱気球を運営しているそうだ。

この事件では日本人4人を含む19人が死亡したという。けがをしたものの助かった人もかなりいるらしいから、少なくとも30人程度は乗れる熱気球だったらしいと想像しているが、こんな大がかりなゴンドラを着陸時は操縦士が投げるロ-プを地上で受け止めて停止させる方式だったとの報道に、すぐには信じられない思い。

操縦士は火が燃え広がった瞬間に飛び下り、大怪我はしたものの命に別状がないという。その行動をみて外国人の数人が続き助かったとの報道に、助かった数人を除いては、乗っていた観光客のほとんどが外国からの高齢者観光客だったのではないだろうか。

亡くなった日本人4名も60代の夫婦二組。高齢者にとって、10メ-トル以上の高所から、しかも瞬時にどんどん高くなっていくゴンドラから飛び下りことは難しいだろう。そして爆発、恐らく苦しむ時間もなく即死だったことが責めての慰みとして、お悔やみを言うしかない。

ガァムとエジプトでこのような悲しく重大な事件があったが、両国への日本人観光客の数は減っていないそうだ。ガァムでの犯人は法廷ではこともあろうに無罪を主張しているということと、エジプトでも事件の検証はそっちのけで気球の運行を再開するという動きに対して、何の疑問を持たないで海外に出かけて良いのだろうか。いらぬお節介かもしれないが、何か引っかかる・・・。

私もほんの数回海外に出かけたことがある。出かける前には事件に巻き込まれることや事故に合うことなど、まず考えないので一応『旅行保険』に加入はするが、それは単なる安全のための気休め程度が常である。

今回の事故(事件)で、保険から幾ばくかの金額は支払われるだろうが、それ以外の補償はどうなるのだろう。旅行会社が主催する海外ツア-(国内でも同じだろうが)では、必ず取り交わす同意書という契約書の中に『万一の事故があっても、責任はとらない』という意味の一文があるのだそうだ。

おぼろげながら、初めて国内ツア-に参加した時の契約書にそのような文面があったような気がする。しかし、契約書の文字は極めて細かく、詳しく読んだ記憶はない。恐らく誰もが同じだろうが。そしてこれもはっきり覚えていないが、多分押印あるいは署名したに違いない。

今回のエジプト観光ツア-を企画した大手の旅行社も『万一事故があっても、一切の責任を負わない』との同意書を事前に用意して、ツアー客にサインを求めていたとのことだから、(私が心配しても仕方ないことだが)今後の補償など気にかかる。

操縦士が客より先に逃げるとは・・・日本人的に解釈すれば許されない行為だろうが、私が日本人だからそう考えるだけであって、エジプトでは『まず自分が助かることを優先』だったとしたら、操縦士の過失は問えないことになりそうだ。安全に対する配慮も、当然解釈が違うだろうから気球の運営会社の責任をどこまで問えるか疑わしい。

となると、旅行会社が(ゼロ回答はないにしても)『一切の責任はない』との一文を少しでも楯にとって補償交渉に臨んだとしたら、亡くなった人はまさに『死に損』ではないだろうか。これを全て自己責任として良いのかもしれないが・・・。

自分には関係ないと思っている人が圧倒的多数だろうから、今頃、事故などあったのかしら・・・と思わせて営業している熱気球に、日本人が押しかけているのだろうと思うと、チョット考えさせられる。(田舎親父)

2013年3月 7日 (木)

混合医療という曖昧な言葉の裏に・・・

 一般的には『TPPとはなんぞや』という議論が盛り上がっていないのにもかかわらず『TPP』という言葉が一人歩き。アベ政権は『グロ-バリズム』という、これもよく分からない言葉だか思想の元、『国際的に取り残されないために』というアジテ-ションだけで、アメリカさまのご命令通りがTPP参加にひた走っている感じを受ける。

関税が撤廃されると恩恵を受ける部門が数多いことは何となく理解できるが、第一次産業である農林水産業に従事している人々にとっては、まず『自営』ということが不可能になる可能性があることは(超の字がつく経済音痴の)私でも想像がつく。

『自営などは時代後れのことを言うな』とお叱りをうけそうだが、人間であるもっとも人間らしい生き方は『自分の手で生きる』、すなわち自主性であり、その生きざまとして言葉で表現すると『自営』であるはず。これを否定するのは人間としての尊厳をも否定することになるのではないだろうか。

そのことは別につぶやくとして、最近TPP議論でよく出てくる『混合診療』という言葉があるが、その後ろにはかなり危険な意図が隠されているように思えてならない。

この分野にもど素人であるので、『混合診療』の詳しい内容は理解できていないが、国が厳重に管理している現在の『国民皆保険制度』を根本的に覆す方式であり、もし『混合診療』が当たり前になったら、ますます経済格差が広がり、今以上にカネがモノ言う世界になることだろうことは間違いなさそう。

病気で治療を受けると健康保険(公的医療保険)から、その何割かの治療代や薬代が支払われるシステムなので我々患者の負担はかなり軽減されている。この制度がほとんどの国民にとって生まれついた時から当たり前となっているので、健康保険のない社会など考えられない。

どの治療や薬を保険適用とするかは値段も含めて国が厳重に管理しており、それ以外の『自由診療』は患者の自己負担となっていることは私でも知っている。中には医師から『この治療は保険適用できない』と言われることもあるそうだが、私のように普通に通院している者にとっては、他人事のように聞こえる。

『外国では公認されている治療なのに何故日本ではできないのか』とか『こんな良い薬があるのになぜ認可されていないのかされていないのか』という声があることは、時にマスコミが報じる。そこで、『混合診療』が全面的に解禁になると、私なりにどんなことが起きるのか考えてみた。

海外で使われているのに国内では未承認の医薬品や先進的な医療技術に意欲的に取り組んでいる医師も多いと聞く。現在の治療法や薬に不満を持っている患者も多いだろう。製薬会社や医療機器メーカーはもとより、民間保険会社も『金儲け』の絶好のチャンスとばかり諸手を上げて歓迎することは想像に難くない。

 しかし、医療の分野では患者は医師の言い分を聞くより仕方ない立場であることから、医師から『未承認で費用もかかるのですが、効果があると思われる薬品(治療法)がありますが、どうしますか』と言われたら、藁をもつかむ思いで、費用のことを瞬間的に考えるが、何とか工面できそうだとなると『お願いします』と口走るのではないだろうか。

 家族としても、助かるのなら・・・という切実な思いで、借金をしても頼みたくなるのが人情だろう。その結果がどうなっても・・・。有効性や安全性の判断は最終的に医師に委ねるしかなく、結果として死に至り残ったものは借金だけとなっても、その効果や副作用を後で患者が検証することは不可能に近くなる。『白い巨塔』の一場面を思い浮かべる。

 公的医療費は年々増えて、医療費抑制という声が大きくなっている今『混合診療』を解禁したら、『自由診療』と勧める医者が増えることは間違いないだろう。

毎日多数の患者を診察して疲弊している現場の医師が(特に地方に)多いという。保険を使わない治療法が公的な医療費削減になると、『混合診療専用』とい看板を掲げて自由診療を求める患者を選べば肉体的にも楽になり実入りも多くなるのでは。

これを医師のモラルの低下だけに位置づけることも難しい。今でさえ医師不足や医療崩壊が叫ばれているのだから、『保険診療』しか受けられない患者は医師探しに苦労することになりかねない。

TPP参加で混合医療が当たり前になったら・・・。想像するだけで恐ろしくなる。

私でも想像できることを平気で進めようとしている自民党政権に絶望を感じるが、国民から批判の声が聞こえず、逆に支持率が上がっているという現象が不思議でならない。

それ以上に、なにもできない自分が悲しく情けなくなるが・・・。(田舎親父)

2013年3月 6日 (水)

残業を計数させない巧妙な制度・・・

 先月末の東京新聞に『裁量労働制』という言葉を見つけた。何のことだかわからないので解説を読むと、一定時間働いたとみなし、仕事の手順や時間配分を従業員に任せる制度だとのことである。どうやら、残業代を始めから賃金に含めるという発想らしいが、教員の勤務対応と似ているようだ。

 教員の場合は、仕事の内容が多岐にわたることはもちろんだが、どこまでが仕事なのか線引きが難しいこともあって、本給の4%を『特別勤務手当(だったような気がする)』という名目で、最初から給料に組み込まれている。

 昔は、これが大変美味しかったらしく、4時になると勤務が終わりと見なされていたので、それからは自由行動。子どもたちを集めて野球やサッカ-で遊ぶ教員もいれば、すぐに職場を離れて、趣味の時間に走る教員も多かったようだ。中には、即刻焼鳥屋へしけこむという猛者までいたこともよく聞く話であった。

 しかし、年々管理が厳しくなり、最近の教員は放課後子どもたちと遊ぶなどは夢のまた夢、趣味に走るなど口にしたとたん、『お前何様・・・』と管理職から冷たい視線がみられるのがおちで、その日の授業の反省記録や明日の指導の準備などで、8時9時までは当たり前になっているとのこと。実際に、職員室や教室の明かりが消えないことは、多くの人が目撃している。

 毎日のように3~4時間の残業は当たり前が現状なのに、すでに4%が上乗せされているという理由から残業手当など一切ない。そして、教員には退庁時刻を打ち込むタイムカ-ドなど必要ないことなので、いまだに出勤簿に押印するだけだということはあまり知られていない。

 今まであまり気にしてなかったが、教員の4%の『特別勤務手当』も『裁量労働制』の一つの形態なのだろう。しかし、この制度は現状に合わないことは明らかなのだが、このような残業代込み勤務体制である『裁量労働制』をとる企業が急激に増えているのは大変気になる。あるデ-タによれば、このような方式をとる企業は、2011年に全国で初めて9千件を超え、過去最多になったのだそうだ。

企業は残業など勤務形態を労働基準監督署への届け出る義務があるのだそうだが、労働基準監督署のデ-タを厚生労働省によると、11年は、前年より432件増の9356件と大幅に増加。

その内訳は、研究開発などの特定業務に適用される『専門業務型』が7339件、本社勤務のホワイトカラーなどに適用される『企画業務型』が2017件だったという。届け出数は増加傾向にあり、専門業務型は過去10年で3倍、企画業務型は04年の適用要件緩和で、翌年は2倍に膨れ上がったという。

裁量労働制は、労働時間だけでは成果を評価しにくい働き方に対応するために設けられたことは私でも理解できる。研究者にとって、カネなどいらないから自由な研究をしたいという気持を持つことも十分理解できる。日夜、その分野の研究に没頭する研究者に残業時間などという概念はないことも想像に難くない。

その意味で、職種によってはこの制度は間違っていないだろうが、いくら働いても労使で合意した労働時間分の賃金だけを払えばいい方式を、製造やサ-ビスの分野にまで導入して良いはずがない。労使で合意という形をとっているが、雇用条件にあるだけで、合意とはほど遠いのが現実だろう・・・。

管理職は経営者という解釈が成り立つらしく、どの業界でも課長職(係長職も含まれる場合もあるようだが)以上には、何がしかの『管理職手当』で残業代を棒引きにしているのが現状。

このため管理職にして残業代を払わないという『名ばかり管理職』が横行し、特に、外食やコンビニ業界などでは、管理職に任用された人たちの間で鬱病が蔓延、その挙げ句に自殺に走る人が多発という、今日的な悲しい事件が日常的に報じられている。

規制緩和による経済成長を主張する経営者側の団体は、『裁量労働制』の適用拡大を求めるようだが、こんな制度がどの業界にも広がっては、『際限のない残業』につながることは明らか。その結果、今以上の鬱患者が増え自殺に走る人たちが多くなるのも当たり前ではないだろうか。

残業代削減の逃げ道として、裁量労働制が利用されてはたまらない・・・。(田舎親父)

2013年3月 5日 (火)

高齢者の1割が認知症・・・

 現在、百歳以上の高齢者は全国で5万人超という数字にびっくり。

数年前、親父の50回忌という案内を長兄からもらったが、享年65歳で死亡は当時当たり前、誰も『若くて・・・』などというセリフはなかったが、最近では70代でも『早死に』の部類に入るというから、近年の寿命の延び方は尋常ではない。

その長兄は2年前85歳で人生を閉じ、一作昨日はその3回忌ということで亀岡まで出かけてきた。85歳は現在では当たり前らしいから、単純に考えてもわずか50年で20歳以上寿命が延びたことになりそうだ。なるほど、毎日のように高齢者問題が取り上げられるのは当然で、今後ますます深刻になることは目に見える。

75歳以上の高齢者のことを『後期高齢者』と、早く死んでほしいように受け止められがちな名称で呼ぶことに、一部から批判があるようだが、この文書を書いている途中、ふと『超高齢者』と名付けたらという考えが頭をよぎる。何となく『ス-パ-爺さん・婆さん』のようなイメ-ジで浮かび、反対する人は少なくなるような気がする。命名募集でもあったら応募する価値がありそうだと思うが・・・。

それはさておき、その百歳の方のほとんどがお仲間なのだろうが、『認知症(この表現は好きではないが)』の高齢者が300万人を超えたというニュ-スに、(今のところ私は大丈夫だが)この人たちのケアをどうするのだろうかと心配になってくる。

この数は10年前から倍増したという。現在65歳以上の人口は約3000万人だから300万人というと高齢者のおよそ10人に1人がこの病と直面していることになる。統計的には、2025年には470万人に達するというから、私も『なりうる病』と考えなければならないようだ。いや実際には物忘れも出始めているので危ない?・・・。

認知症は解説書などには『何も分からなくなる病気ではない』とある。症状にはいろいろあって、全くわからなくなっている人もいれば、一部の記憶が欠損しているだけで日常的には普通に生活できる人も含まれるとのことである。

一部の記憶が欠損などは身に覚えがあるので、私もその一人なのかもしれないと変に納得する。割合は明らかではないが、重度の認知症で目が離せない人も多いことはよく耳にする。症状が進めば、徘徊はもとより自宅でもトイレの場所が分からず失禁や、たばこなど火の不始末など、家族は一時も気が休まることはないと聞くことも多くなった。暴言や暴力もあって大変だとも・・・。

先日も新聞紙上に、夫を介護する70代女性は『自宅で一緒に暮らしたいが、時々早く逝ってほしいと思うことがある』と吐露する記事があった。そこには、ずっと寄り添いたい思いと、先が見えない介護の不安との間を気持ちの揺れ動気が読み取れる。

最近は『認知症』は不治の病ではなく、早期に発見できれば治療は可能らしいから、自分で怪しいなと思ったら、病院に駆け込めば何とかなるのだそうだ。しかし、この病気の特徴が『自分が病気だと思っていない』ことだというのではそれも難しい。

うっかり『あなたは認知症になったのだから、病院に行きましょう』など口にしたら、暴力ざたになることもあるだろうから、早期に発見ができても治療につながらないケ-スも少なくないようだ。

 厚労省は昨年『認知症』の対策として、ケアの考え方を入院から在宅へ転換したのだそうだ。治療のためには本人の意思を尊重することが大切だという考え方があり、その方針として、介護する人の負担を減らして在宅を支えることだとある。

 そして、次のような耳障りのよい文言が並ぶ。―――新しいケアのカギは『早期発見・早期治療』である。かかりつけ医に早く見つける力をつける。専門家チームが家庭訪問してすぐに治療につなげる。認知症の診断ができる医療センターも整備する。来年度から5カ年で進め、2万人を入院から在宅に移す―――などなど。

 確かに、早く病を見つけ治療や専門知識に裏付けられた生活支援をすれば穏やかに暮らせる人が増えることは間違いないが、課題は『誰が支援するの』という部分。このままでは絵空事に終わるのは目に見える。

 ますます寿命は延びて『人生90年』となることも目の前になってきた。支援できる体制作りが急がれるが、今のままでは支援医療機関の増える数より、認知症患者の方がはるかに増えるような気がしてならない。

何度も書いているが、老人看護施設や医療施設の充実などについては必要だと思っているが、私は自分が何者であるかわからなくなってから誰かの手によって医療施設に収容されてまで生きたいとは思っていない。

しかし、せっかく与えられた命を自らの手で終焉させたいとも思いたくないので、願わくば、命がつきる前日まで、毎日自分の足で歩き、さまざまな情報を集めて、自分で考えることを続けたいもの・・・と思う毎日である。(田舎親父)

2013年3月 4日 (月)

こんなところに遷宮の恩恵が・・・

3月4日  伊勢神宮が20年に一度社殿を建て替えるということを知った時、思わず『何と無駄なことを・・・』と口走ったことはいつの頃だっただろうか。

先日、(難しい言葉が続き理解は難しいが)装束神宝を新調してご神体を移す式年遷宮の『遷御』という儀式が、10月2日に皇大神宮(内宮)で、同5日に豊受大神宮(外宮)で、ともに午後8時から行うと宮内庁から伊勢神宮に、日時を定められる天皇陛下の『御治定』と呼ばれる通知があったとの記事を見つけた。

記事の中に、『式年遷宮』の意味の解説もある。それによると、『式年遷宮』は伊勢神宮で1300年続く祭事で、内宮・外宮の正殿をはじめ65棟の木造社殿、刀剣・調度品など1500点余の神宝類を、8年がかりで古式にのっとって造り替え、10月初旬の夜、ご神体を新しい社殿へ移す儀式が『遷御』とある。

62回目の今回の遷宮に要する費用は550億円で、すべて民間の寄付で賄うという。それほど伊勢神宮というか、天皇崇拝の思想が日本人の心に生きている現れだろうが、およそそんな思想とは無縁の私には、凄いものだなあ・・・としか表現できない。

今回の遷宮は2005年5月、用材の伐採と搬出の安全を願う『山口祭』から一連の祭事などが始まっているというから、すでに建物は完成しているらしい。

式年遷宮の思想的な意味については全く興味がないが、20年に一度神殿を建て替えることによって、その技術が伝えられることに合わせて、さまざまなものを儀式に沿って入れ換えることも伝統を伝えることとして重要だと知って、少なくとも遷宮に対して違和感は少なくなったのもかなりの昔のことになる。

20年というのは、人生50年といわれていた頃では、親から子へ、子から孫へと技術伝統を伝えるためには、一番適切な時間だということも同時に教えられる。今では30年か40年で良いのではと思いながら、これも伝統なのだろうと解釈するようにしている。

暗闇の中、ご神体を新しい正殿に移す『遷御の儀』は、式年遷宮の最も重要な祭儀とされ、20年前にもテレビで紹介されているので、自宅でこの様子を見ることを楽しみにしている人も多いのではないだろうか。

ところで、直接この儀式との関係ないが、役目を終えた旧社殿のヒノキなどの部材が被災地などの神社で使われるという記事を、かなり以前に目にしたことを思い出す。

 伊勢神宮は、伊勢市南部に広がる5千5百ヘクタールの宮域林にヒノキなどを植林しているのだそうだ。ここから切り出される『天皇御用達』の材木は特別なものとして、間伐材であっても外部には提供しない決まりがあるそうだが、3・11で被災した神社に無償で提供されているとのこと。何となくほっとする。

 宮城県石巻市雄勝町の新山神社はすでに昨年11月、津波で流失した建物と同じ約3坪の大きさで、資材はすべて伊勢神宮の間伐ヒノキを使って、一足先に本殿を再建したそうだ。雄勝町といえば、あの大川小学校があった地区だったはず。雄勝町では天皇崇拝思想がない人であっても、無条件に涙を流して喜んだに違いない。

 伊勢神宮で遷宮のたびに解体される旧社殿などのヒノキは、一万本分に及ぶとのこと。これらの材木は『古材』と呼ばれているようだが、千年も生き続けていると言われているヒノキであるから、20年ものは『古材』どころか、一番の油が乗っている頃と考えても間違いなさそう。各地の神社がありがたがるのも無理はない。

 伊勢神宮の遷宮が被災者の人たちの心のよりどころとなっていることを知って、久々に伊勢神宮に出かけて見たくなってきた。(田舎親父)

2013年3月 1日 (金)

尖閣はもとより沖縄までも・・・

 『未富先老』という言葉を初めて目にする。豊かになる前に老いてしまうという意味だそうだが、なるほど読んで字の如し。急速に高齢化が進む中国ではさかんにこの言葉が使われ出しているのだそうだ。

中国共産党・政府は、少数民族と共産党の一部の幹部を除いて、30年以上前から夫婦間では一人しか子どもを産んではならぬという、人間の倫理観を無視した信じられない法律を作って人口を抑制してきたが、さまざまな弊害が目立つことから見直しを迫られているという。私のような経済・政治音痴でも一人っ子政策の悪弊はわかるのに、よくぞ今まで続けてきた(こられた)ものだと変な意味で感心する。

二人の人間の間で子どもは一人しか産み育ててはいけないとなると、人口は間違いなく減ることは当然だが、男が社会の表面に出ることが多い中国(日本でもあまり変わらないが)では、女の子だとわかると堕胎するのが流行りとなり、結果的に男が数は圧倒的に多くなり、結婚相手を見つけることができない男が巷に溢れているそうだ。

またうまく結婚相手が見つかっても、双方の両親の老後を二人で面倒を見なければならないとなると、経済的にも倫理観的でも破綻するのは目に見えている。さらに孫の代には両親だけではなく、双方の祖父母までも世話義務が肩のしかかるとなると、こんな歪んだ社会がいつまでも続くはずがないのは自明のこと。

話はそれるが、中国では暴動が日常茶飯事だというのも、この政策に無縁ではなさそうだ。男の本能に闘争欲があり、男が多くなる社会は暴力的になるという学説があるらしいが、最近の中国民衆の反日デモなど見る限り、結婚相手が見つからない欲求不満がこのような過激な行動に走らせているという見方も、あながち間違ってはいない感じがする。

それはともかく、我が世の春を謳歌してきた中国共産党の幹部たちも、ここにきて急速に増える高齢者の社会保障が整わないまま、若い働き手が減り始め、体制を支える経済成長や社会の安定を揺るがしかねないことに気づいたのだろうが、『一人っ子』政策を緩和するよう検討しはじめたようだ。

記事によると、中国政府幹部は日本の新聞社の取材に『緩和するかしないかではなく、いつするかの問題だ』と述べ、すでに昨年から政策の転換を議論する党内の学習会が始まったことをほのめかしたという。数年後には第2子の出産まで認める『二人っ子』政策へ転換する案らしい。

人口約13億(公式発表?)の中国で、高齢者と分類される60歳以上は11年に1億8500万人で、毎年700万~800万人ずつ増加。13年末には2億人を突破する見通しだという。働き手世代である15~59歳は12年で9億3727万人と、前年比で345万人減っているという。実際の人口減はそれ以上だろうとなると、この数字はさらに膨らむのは間違いなさそう。

比率的には、中国の65歳以上の高齢者が8・9%と最高となる一方で、0~14歳は16・6%と最低で、1人の女性が生涯で産む子どもの数の平均(合計特殊出生率)は1・64だとある。研究者の間では、実際は日本より低い1・18まで減ったという説も出ているそうだ。

 『二人っ子』政策に転換してからの人口グラフを、共産党政権がどう描いているのかは全く読めないが、一人っ子に慣れている国民が、制度が改まったからといって、急に二人を出産するとは思えず、むしろ、女性が結婚相手を選択できる現状から考えると、より快適な生活を求める傾向はますます強くなり晩婚化は進むのではないだろうか。

 これでは遠い将来までは読めないが、ここ数年(数十年)単位では人口の急激な増加にはつながりそうもない。生産労働年代が減りつづけ高齢者ばかりが溢れる社会で、一党独裁体制を維持するためには、他国の領土を奪うしか方法がなさそうだ。

『尖閣はもとより、沖縄本島までも我が領土』だと中国政府高官か発言しているという情報も、単なる脅しではなく、そこまで実行しなければ体制維持ができないという本音かもしれないとなると・・・。

困ったものだが、アベ政権はこの挑発に乗りそうな気がするのが怖い・・・。(田舎親父)

« 2013年2月 | トップページ | 2013年4月 »

2017年12月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            
無料ブログはココログ