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2013年10月

2013年10月31日 (木)

またまた食品偽装が大流行・・・

 数年前、外国産の米を国産と偽って小売り業者に回したり、クズ米と呼ばれる加工用のコメを主食用として販売することが大流行したことか記憶に新しいが、最近は監視が厳しくなり、業者のモラルせ改善されて、少なくなっているだろうと思っていた矢先に、久しぶりで大々的な米の偽装という報道が巷を駆け回った。

三重県四日市市の『三龍商事』という米の卸売会社が、外国産の米を国産と偽っていたほか、加工用を主食用として販売していたというから、モラルが向上したと思っていたのは私のような世間しらずだけで、実態は地下に潜っただけで、偽装がなくなったわけではないことを端的に示している。

先日、三重県警がこの会社を強制捜索する場面がニュ-スで紹介されていたが、アナウンサ-は、少なくとも先月までの3年間に、中国産などの外国産の米を国産と偽っていたほか、加工用を主食用として販売していたと読み上げていた。
 対象となる米の量は、4386トンに上っていたというのも凄いが、この会社はすでに株主総会で解散を決議しているというから、発覚することは覚悟の上で、金に魂を売った経営者の薄汚さが透けて見える。解散決議は、その場の言い逃れのためだろう。

 時を同じくして、阪急阪神ホテルズが運営する、関西を中心にした全国の複数のホテルのレストランなどでメニュー表示と異なる食材が使われていたという、偽装が発覚。中には、大阪では最高級のランクされているホテルも含んでいるというから会社ぐるみで行っていたことは明らかなようだ。

 具体的な偽装表示については、すでにマスコミが繰り返し流しているので、ここでは割愛するが、偽装を指摘された時、社長の、『この業界では、小さいエビは芝エビと呼び、大きいエビを車エビと呼ぶのが常識だったと』いう言い分には、『アホカ・・・』と怒りよりむしろバカバカしさが先に立ち、思わず笑いだしてしまった。

 その社長が、さすがに良心の呵責に耐えかねたのか(一時的に、世論を鎮静させるためだろうが)11月1日を持って辞任するとの記者会見の様子をテレビが報じていた。

 社長は、これまで『偽装』ではなく『誤表示』と強弁していたらしいが、世間空の非難に耐えきれず、再度調査した6種類の食品については『お客さまに誤解を与えかねないものだった。前回の私の説明は不適切だった』と、お馴染みの『ゴメンナサイ』スタイルで深々と頭を下げていた。

それでも『お客さまにおいては偽装と受け取られても仕方ない』と、奥歯にものが刺さったような表現は、明らかにできないドロドロとした裏事情があることをうかがわさせる。

さらに、『偽装とは故意に人を欺くことが前提。客を欺く意図をもって不当な利益を得ようとする考えはなかった』とここにきても偽装の意図を否定し、飽くまで『阪急阪神ブランドへの信頼の失墜を招いた責任』という名分で辞任という筋書きを通しているのも、後味が悪すぎる。

そして私が驚いたことは、グル-プの経営するホテルの調理人だろうと思う人物が、記者に向かって『小さいエビを一般的に芝エビと認識していた』と語っていたが、これはプロのいう言葉でないだろう。いまさらながら、このホテルの調理人の質の悪さに呆れを覚える。

番組では、良質な料理を提供する店のオ-ナ-や、複数の一流ホテルの調理顧問をしている男性が、今回の偽装に対して怒りをぶつけていたが、何となくだが、他のホテルや料理店からの、阪急阪神ホテルズに対する批判にいまひとつ盛り上がりに欠けるように感じてならない。このことは、全国各地のホテルのレストランの偽装が次々に暴かれていることからも明らか・・・。

その背景には、冷凍保存した魚を解凍して『鮮魚のムニエル』などと表示しても、食品表示を規定したJAS法に鮮魚の定義はなく、客からすれば騙されたと主張しても、ただちに違法とはいえないという、偽装をそそるような業界の体質が潜んでいるらしい。だとすると、困った話だが、このような偽装は『一般的にまかり通っている』と考える方が良さそうだ。

さらに、『生鮮食品』には解凍した魚が含まれ、食品衛生法(JAS法)上も冷凍の魚は『鮮魚介類』に分類されているというから、お上が偽装を後押ししていると表現しても良いのが現実となると、今回の事件は『氷山の一角』。

貧乏人の私にはホテルで食事など考えられないことだが、まずは疑ってかかることが必要のようだ。その前に、食材を見分ける舌がない人は、高級な雰囲気をウリにしているホテルのレストランなどには近づかないことが賢明らしい・・・。(田舎親父)

2013年10月30日 (水)

何をそんなに急ぐのだろう・・・

 昨日に続いて教育問題を・・・。文科省は、小学校の英語教育の開始時期を現行の5年生から3年生に引き下げ、5年生からは正式な教科にする方針を決めたという記事に、どうしてそんなに急ぐのだろうと唖然とする。

現行では週1回の英語の授業を、3、4年で週1~2回、5、6年では週3回に増やすという。世界で活躍する人材を育成するため、早い時期から、基礎的な英語力を身に着けさせるのが目的だとのことだが、学習内容さえ示さず、小学校で英語の時数だけ確保すれば世界で活躍できる人材が育つという考え方はどこから生まれるのだろう。

2020年度をめどに全面実施をめざすのだそうだが、英語を必須にしたのはつい2年前。学校現場の実態も調査せず、単に『世界で活躍できる』という言葉を、まるで金科玉条・錦の御旗のように使って、英語さえできれば良いという発想を押しつける姿勢に、強い違和感を覚えるのは私が英語に弱いからだけだとは思いたくない。

現在の英語の授業は、タテマエでは担任が指導することになっているが、小学校教師は英語指導を教員免許の必須としていないので、ほとんど(数的には全員と行っても差し支えない)日常の英会話すらおぼつかず、実際にはALTと呼ばれる英語圏の外国人を雇用して、『担任がALTの補佐して』英語の授業が行われていると聞いている。

当然、ALTの指導力や人柄に大きく影響されることはもとより、自治体が求める指導内容が曖昧なので、多くの場合は、歌やゲームなどを通じて英語に親しむ活動が主体で、読み書きはほとんど指導していないのが現状らしい。

英語を正式に教科にするとなると、通知表に評定項目が必要となり、そのためには。テストをして点数で表すことが義務化される。教科書検定で合格した、広域採択された教科書で授業が進むことになるのだろうが、そのためには指導要領の改定が前提。

今頃、国民には知らされていないところで、指導要領の改定に向けた議論が進んでおり、小学校の全ての教科の授業時数の割り当てや、英語の指導内容などが検討されているようだが、いつも通り、現場を無視してことが運ばれるかと思うとゾッとする。

英語については、恐らく指導内容は後回しにして、週3時間を確保することが前提になるに違いない。今でも現場は、授業時数の確保に苦しんでいるが、この上3時間をどうして染み出すのだろう。(まさか)今ある教科をなくしてしまえという乱暴な意見はでないと思うのだが・・・。

道徳も教科もこれ以上減らせないとなると、答は一つ。『総合的な学習の時間』や学級会などという『特別活動』の時間が狙われことになるだろうことは想像に難くない。しかし、この部分に手を加えるとなると、今でも各学校の特色などはないに等しいのが、今後は、単に『学力テストの点数が特色』とうたう学校が増えてくるだろう。

こんな無茶なことを国民的な議論もなしで決めてしまうのも許し難いことであるが、つい先日、マスコミ発表によると、文科省は『就学年齢を5歳に引き下げる』案を検討しはじめたというから、現政権は、英語の正式教科化と抱き合わせるがごとく、教育制度そのもの都合良く変えてしまう方針らしい。

 就学年齢を5歳からとなると、現在の幼稚園制度にも大きく関わる問題である。幼稚園と保育園と一緒にして『教育機関』と位置づけ、それをどう考えるという議論からはじまるならスジが通りそうだが、とりあえず年齢を下げればというは乱暴すぎる。幼児期の教育関係者にとっては寝耳に水の、はなはだ迷惑な話だろう。

 現政権は『有識者会議』が大好きらしく、政府の諮問機関の『教育再生実行会議』という組織があるのだそうだが、そこが、現行の学制のあり方を見直し、小中一貫教育を行う『義務教育学校』の創設や、就学年齢の5歳への引き下げなどについて、今月末にも検討を始めるとのこと。しかし、この会議を構成する委員は、全て政府の息のかかった人物だろうから、結論は始めからわかっているに等しいのでは・・・。

 衆参両院で多数を占めていて、しかも内閣支持率が高めで安定しているいつのうちにやってしまえという考え方ではないと信じたいが、教育改革(安保や経済も同じだが)について、何をそんなに急いでいるの・・・と強い言葉で諫めたくなる。

 突然話がそれるが、経済的な事情で高校進学を断念する少年が、全国でおよそ5万人にも及ぶという記事に心が痛くなる。奨学金があるのではと考える人も多いが、我が国の奨学金は名前とは裏腹の『奨学ロ-ン』と称してもよい代物。返済の義務があり、しかも無利子ではないのがほとんど。将来のことを思うと借りることすらできないのが現状だということは、私自身、苦しい生活の中から奨学金を返済してきたので十分理解できる。

 高校も義務教育であったら、進学をあきらめるという問題はなくなり、貧しい家庭の子どもたちにも、新しい希望の光が見えてくる。すぐに高校を義務教育にするのは無理な注文であることは十分理解しているが、5万人の子どもたちに夢を与えるためにはさほどの予算は必要ないだろう。

教育部門の有識者会議の場で、『アリバイづくりの議論をすすめるより、こちらが大切』だという発言する委員が生まれることを信じたいのだが・・・。(田舎親父)

2013年10月29日 (火)

文科省の邪悪なねらい?・・・

 八重山地区(石垣市、与那国町、竹富町)では、竹富町が他の2市町と違う中学公民教科書が使われていることについて以前も取り上げた記憶があるが、文科省はよほどこのことが気に入らないらしく、県の教育委員会に竹富町を強く指導するように指示(業務命令)を出したという。

地方の小さな町の、信念を持ってやっていることに対して、国が権力で押しつぶそうとするようなことは過去にあっただろうか。やり方が露骨すぎる。今までは正面切っての業務命令ではなく、からめ手というか、議会を動かしたり担当者を入れ換えたりして、いつの間にか文科省の思い通りにするというのが常套手段だったが・・・。

文科相が記者会見でこの問題を取り上げて、『教科書採択は教科書無償措置法に基づく必要がある。再三の指導でも改まらないため、是正要求の指示(法的措置)が必要と判断した』と述べていることに強い違和感を覚える。

 私は、本来はそれぞれの学校に実態にあった教科書を使うことが最良であるべきだと思っているのだが、文科省は『教員を信じない』というのがタテマエらしく、小中学校においては、どんどん採択権を広げ、現在は広域採択を法で規定している。

確かに『教科書無償措置法』には、同じ地区(広域採択範囲)では同一教科書を使うことが明記してある。しかし、これとて現場の反対を、『無償で配布してやるのだから、国の方針に従え』という論理で押さえつけた法であることは今更述べるまでもない。

『教科書無償措置』と『広域採択』は表裏一体。同時進行的に押し進められた政策であり、以前はかなりの数の教科書出版会社があったが、この政策が進むにつれて、中小の出版社が教科書から手を引いたことと深く絡んでいることは間違いないところ。

教科書が違うと転校生には不利だという。同じ教科書を拾い地域で共通して使えば、教員の研修なども合理的だということも言われる。確かにこの考え方は反論しにくいものがあり、世論受けするのだろう。結果的に採択権が学校からからはるかに遠くなり、時には『教科書を考える会』などという奇妙な組織を立ち上げている自治体もあるらしい。

少し話はそれるが、教科書の単価は公表されていないが、(30年ほど前のどこかからかの情報として)小学校理科の教科書は一冊200円(立ったように記憶しているが)で納入している聞いたことがある。当時でさえも、あれほどの細かな知識が満載された本が、たった200円という価格に驚いたが、それを出版社が唯々諾々と提供するのは、教科書を作っているというブランドという面と、教科書と同時に学校配布する『指導書』で幾分取り返しているのだ、という話にも驚いたもの・・・。

こんなに安価で納入するためには、量的に相当なものが必要なことは当然だろう。勝ち残りには、当然ながら広域採択がメリットがあることは論を待たない。結果的に、多くの出版社が教科書から手を引くことになり、現在は数社だけになっている。

八重山地区では2011年夏、『教科書を検討する協議会(冒頭に指摘したように、ある意図があると推察しても奇怪しくない)』という組織が、『育鵬社版』の採択を答申したそうだ。

この教科書は現在でもさまざまな問題を抱えている『新しい歴史教科書をつくる会』の趣旨ににあった編集をしていることに、竹富町(教委?)はこの町には相応しくないということで『東京書籍』の教科書を使っているという。

このところ歴代の文科相は『育鵬社版』の教科書がお気に入りらしく、現在のシモムラという文科相は、竹富町が採択しなかったことに怒り心頭らしく、『教科書無償措置法』に違反すると脅しをかけているという図式だろうが、竹富町はこの教科書を寄付でまかなっているのだから、法に触れることはない。むしろ、『地方教育行政法』は各市町村に教科書採択権を認めていることから、竹富町が独自採択を『正当』と主張しているのは正論である。

 もしもという仮定だが、八重山地区の『教科書を検討する協議会』が、『育鵬社版』でなく『教育出版』の教科書を答申したらこんな問題は起きなかったと推測している。さらに、それでも竹富町が『東京書籍』にこだわったとしても、文科省はここまで強い介入はしなかったことは間違いない。

 要は、文科省(シモムラ文科相)は『新しい教科書を作る会』の教科書を何としても広げたいという考えが背景にあることは確実だろう。

さらに、文科相は『無償措置法』と『地方教育行政法』の矛盾を突かれたことに対して『法をより明確にする改正』と言い出しているそうだから、どうしても全国の中学校の公民教科書を『育鵬社版』に持っていきたいらしい。しかし、これは本末転倒である。

 日本国憲法は『義務教育の無償』をうたっている。素直に解釈すれば、教科書はもとより義務教育でかかる全ての費用(例えば、遠足や見学、修学旅行など)は無償でなければならないのにそれはない。唯一、教科書だけが無償で配布されるだけとは、明らかに憲法に違反する。それに対して、大きな追求の声がでないのも変な話だが・・・。

 本来なら、特色のある教育を手がける国立や私立の小中学校では、校長が教科書を選ぶように、教育の多様化や自発性を促すためにも、(現在のシステムでは、現場をますます混乱させるだけだろうが)公立でも学校(校長)が決めるべきではないだろうか。

このことは別に述べるとして、法律を変えてでもどうして『育鵬社版』の教科書を遣わそうとする文科省(現政権)に、邪悪なねらいを感じる。(田舎親父)

2013年10月28日 (月)

消費増税で派遣社員が増える?・・・

 来年4月から消費税率が8%へ引き上げることがはっきりしたが、このことによって派遣社員がさらに増えるだろうという記事を見つけた。

消費税の増税が、今でも生活が安定しない派遣社員とその家族をますます追い詰めることは理解していたが、増税がどうして派遣社員が増えるのか、その関連が良く分からないので記事を何度も読み直す。

 記事の冒頭に『企業は派遣社員を多く受け入れるほど、納める消費税の額が少なくできる仕組みになっている』という文言が並ぶが、これだけでは経済音痴の私にはチンプンカンプンである。

 企業が納める消費税は原則として、売り上げにかかった消費税から、仕入れの時などに支払った消費税を差し引いた分を納税するのだそうだが、同じ取引への二重課税を防ぐためで、支払い分の対象に派遣社員を受け入れた際の派遣料も含まれるという。この部分は理解できる。

 企業にとっては、正社員、派遣社員とも雇えば人件費がかかるが、派遣社員分は経理上『仕入れ』ということになるという。凄い論理であるが、ここにも企業にとって派遣社員は使い捨て、言葉を選ばず表現すると『消耗品』という考え方であることが良く分かる。それを認める政治が根本的に間違っているのだろうが・・・。

 派遣社員の割合を増やすとどうなるか。なるほど『消耗品』なら消費税の処理の仕方はいろいろとあるだろうな、具体的な方法は思い浮かばないでも、何とか私でも理解可能となる。

消耗品はいくら増やしても生産に必要な労働力にはなり得ないが、派遣社員は企業にとっては重要な労働力。労働力を確保して消費税を減らせることになるということを、従業員200人の企業が年間で一人500万円の給料を払っているとするとどうなるか、一般的にありそうな例で解説をしている。

200人の社員のうち、半分の100人を同じ金額で派遣社員にすると、派遣社員の給料の5億円は、経理的は『仕入れ金』として扱われることなるから、単純計算では消費税率5%で2500百万円、税率8%では4000万円の消費税を納めずに済むのだそうだが、またまた何だかキツネに騙されたような話になる。

制度としては派遣社員を受け入れた会社は、消費税分を含めて派遣会社に派遣料を支払う形になっており、派遣会社がその消費税を国に納めることになっているから、消費税分の4000万円は企業が派遣会社に支払わねばならないのだが、一般的に派遣会社の方が立場が弱いため、上がった分の消費税を派遣料に上乗せしにくいのだそうだ。

なるほど、なるほど・・・。企業側は事実上、負担は増えずに消費税の控除額だけが増え、消費税が上がった分だけ、社員を『派遣社員=消耗品』に取り替え、派遣会社を脅かせば人件費を経理上で処理できるという仕組みである。

 消費税率が3%から5%に上がった1997年以降、それまで20%前後で推移していた非正規社員の割合が上がったという。このことについて、税法に詳しい専門家の『5%への引き上げ時にも、間接的に派遣増加に影響を与えた。今回も企業が正社員を派遣社員へとさらに置き換え、雇用がもっと不安定になる恐れがある』という指摘は、記事を何度も読み直して分かる。

 さらに恐ろしいのは、これまでの例から考えられることは、派遣会社は決してすんなり増税分を納めるはずがなく、その分を自社の社員の給料に置き換えるだろうということである。

 消費税は貧富の差なく、ものを買えば(生活の全てに)かかって税金であることは今更述べるまでもないが、増税となると、正社員より劣悪な労働条件で雇用契約を結ばざるをえない派遣社員に重くのしかかる。

 大企業は法人税の大幅な減税を受けるので、消費増税などゴミのようなものだろうが、派遣社員を増やせばさらに儲けが増えるとなると、格差はますます広がり、まさに、大昔に誰かがのたまった『貧乏人はムギを喰え』という社会になりそうだ。

 そんな社会は経験したくないので、早くこの世からおさらばしたい気持ちがあるが、間もなく人類(日本国家)の滅亡があるのではないかと信じている私には、その瞬間に立ち会いたい気がして、今しばらくは生きていくことを選択しているのだが・・・。(田舎親父)

2013年10月26日 (土)

学テの二の舞になるだろうが・・・

 静岡県のカワカツ知事が突然狂ったように『学力テストの点数の悪かった学校の校長を公表する』と言い出したことに唖然としたのもつい最近のこと。結局は、県教委の抵抗があって、『点数の悪い学校』ではなく『良い学校』を発表したらしいが、学力テストの点数を一点でも上げて、静岡県の汚名?を晴らしたいという切実な重いがあることは確からしい。しかし、どう考えても情けない話である。

私に言わせればマンガの世界のようなことのように思えるが、こんな知事や市長などが輩出しはじめているらしい。文科省の調査(こんな調査より本業に取り組んでほしいが)によると、都道府県の知事と教委が学校別に公表することが望ましいという回答が40%以上あったことから、来年度のテストから自治体の判断に任せて公表を認める方向で動き出しているとのこと。何なの?と首を傾げてしまうのだが・・・。

2007年度だったか、今現在続いている全国一斉の学力テストを始めるに当たって、文科省は『学校別成績の公表は禁じる』と明言したはず。これは選挙の公約のようなものだと受け止めているが、消費税ではないが、唐突に約束とは違うことを言い出すのは、政党だけではなく省庁でも大流行らしい。

それぞれの学校の点数が公表されるとなると、全国全ての小中学校の点数一覧表ができることは誰の目にも明らか。来年の夏あたりには、一覧表を売り物にした週刊誌などが出版されて、爆発的に売れるという現象もほぼ間違いないのでは・・・。

するとどうなるか、学力テストの点数が(子どもの人格までをも含めて)全てではないと、多くの人が思っているにも関わらず、点数が『一人歩き』することは容易に想像できる。

その結果、(何度も指摘しているが)今以上に点数を上げろという声が大きくなり、この動きはあっと言う間に世に蔓延するだろうことも想像に難くない。そして『点数が全て』という価値観が学校現場に押しつけられ、点数を上げることが教育目標に掲げられることもあり得ない話ではなくなってきたようだ。

(小学校の例で話を進めるが)学級の中には、どうしても計算や算数の考え方をすることが苦手の子どもが存在することを(公表しろと迫っている首長ドノ達は頭では理解していると思いたいが)知ろうとしないようだ。恐らく、点数を上げることなど指導技術でなんとでもなると思っているのだろうが、そんな簡単な話ではない。

今日でも各学校の努力は凄まじいものがなると聞いている。その一つに、習熟度別指導という方式がある。簡単にいうと、点数別にクラス編成をすることである。同じレベルの児童を少人数で指導すると、かなり理解させられることはよく言われることだが、『できる子・できない子』と、子どもを強引に切り分けて編成すことには違和感がある。

それ以前に、少子化で子どもの数がどんどん減少している中、教科の時間ごとにクラスを解体して、習熟度別の指導ができる小学校の数は限られている。子ども人数によって教員の定数が決まっているので、小規模校では(一人程度の加配であっても)実現するためには大変な努力が必要になってくる。

また、教科ごとにクラスが分けられるのも子ども心理からは、あまり嬉しいことではなく、まして、点数別に分けられるとなると、人格まで否定されるような寂しさを持つ子どもも少なくないことも多いということを忘れてほしくない。

これまでも何度も述べてきたことの繰り返しになるが、『点数が一人歩き』を始めると、点数を求める競争が過激になることは疑いのない事実。学校間の競争はもとより、人格まで点数となると、子ども同士はもちろん、親の競争意識も半端ではなくなることも容易に想像できる。

競って塾へ駆り立てる気持ちになるが、そこに立ちはだかるのが経済という壁。裕福な子どもは幼児期から有名塾に通い、さらに加点する環境ができ、地元の学校ではなく点数の上位の学校に集まるだろう。こんな社会では、とてもコミニティなんて言葉は語れない。

そればかりではなる、上位校のある地域の土地価格は上昇し、学力テストの点数が、地域の経済的固定化を現在以上に大きくすることは、超がつくほどの経済音痴の私でも分かる話である。こんな当たり前のことを、一流大学を卒業した首長ドノや自治体の幹部諸氏が分からないとは思えないのだが・・・。

文科省が学力テストを始めた表向きの理由は、点数の競争ではなく、それぞれの子どもが持つ問題を把握することであり、より丁寧に指導するための手段だったはずだが、そのことすらすっかり忘れてしまっているようだ。

学校の点数を上げるためには、始めから平均以下の子どもをテストに参加させないことが一番手っとり早い。実際に成績の悪い児童をテスト当日休ませた小学校があったことが問題になったのはさほど昔ではない。テスト最中に、見回りにきた校長が答が間違っているとサインを送ったという話も・・・。

付け加えるが、学力テストの歴史は07年からではない。1956年から、学習指導要領の改善という名目で、小学6年と中学3の児童生徒を対象にした『全国学力調査(学テ)』を行っていたが、あまりに競争が激しくなったので66年に中止した経緯がある。

歴史は繰り返されると言われているように、やがて今回の全国一斉の学力テストが学テの二の舞になることは明らかだろう。

にも関わらず、今、とってつけたように、そんな愚を繰り返そうとしているのは、よほどはっきりとした邪悪な政治的な背景があるように思えてならない・・・。(田舎親父)

2013年10月25日 (金)

命の誕生まで人がデザインできる?・・・

 医療技術の発達が行き着くところまで行ったらしく、ips細胞を使っての再生医療という言葉も一般的には違和感も取り除かれ、ごく普通のごとく使われるようになり、医療という範疇を通り越して、生命そのものを人為的にコントロ-ルすることが大流行の感がある。

生まれる前に、異常の有無を調べるのも当たり前になっているというのも恐ろしい話だが、デザイナ-が設計図を書いてその通りの製品を作るがごとく、いろいろな遺伝子を集めて交配させ、思い通りの子どもを生み出すという技術があり、それを特許にして売り出す会社が出現したと知り驚くというより恐ろしさが先に立つ。

この技術で生まれる子どもを『デザイナ-ベビ-』と呼ぶのだそうだが、広く流行してほしくない言葉である。

ネット百科の定義する『デザイナ-ベビ-』とは、受精卵の段階で遺伝子操作を行なうことによって、親が望む外見や体力・知力等を持たせた子供の総称で、親がその子供の特徴をまるでデザインするかのようであるためそう呼ばれるとのことである。

最近は、(物珍しさの段階が通り過ぎて)実際に動物実験では可能になっているという『クロ-ン豚(牛など)』という言葉があまり聞こえてこなくなっているようだが、マスコミか取り上げる頻度が減っただけで、実際には深く静かに進行しているに違いない。そのうち『クロ-ン人間誕生』というニュ-スが駆けめぐるのではないかと危惧しているが、現実には『デザイナ-ベビ-』の誕生が先行しているというニュ-スに驚愕する。

『クロ-ン人間』の誕生には、国単位の政治的な駆け引きや、生命に対する宗教的な絡みなどで、議論が複雑になっているらしいので、すぐには誕生とは難しいことも想像に難くないので、(実際にはすでに誕生しているのかもしれないが)今日明日という問題ではなさそうだという専門家も多い。

しかし、その専門家たちでも、『デザイナーベビー』が実現する可能性については、もっと切迫した問題が影を落としはじめたという意見が大勢を占めているというから恐ろしい。

医学や生命倫理学などについては全く知識がない私であるが、『クロ-ン人間』という言葉の意味を探るために、新聞記事を丹念に読んだり、あるいは、優しく解説してある専門書的な文献に目を通したことがある。

その結果、『デザイナーベビー』はクロ-ン技術などいらないようだということは理解できる。しかしデザイナ-という言葉から、果てしなく、いろいろなことが頭に浮かぶ。もし、『デザイナ-ベビ-製造株式会社』なる組織があったとしたら、どうなるだろう。

(私の空想の世界である)その会社は、世界中の優れた遺伝子をもつ人間の『卵子』と『精子』を集めて、子どもを希望する親のニ-ズに応えることができるために設立された会社である。現代の社会にあっては、親の希望をかなえるという、会社設立理念は恐らく『合法』だという雰囲気があるのでは・・・。

そこに、超金持ちの夫妻が『これこれ、こんな顔立ちで、知能指数は○○以上、しかも抜群の運動能力を持った子どもがほしい』とやってくる。営業担当は、自社が集めた世界中のあらゆる分野の優れた科学者、一流のスポ-ツ選手、映画や舞台の俳優、芸術家などの遺伝子のサンプルを示して、『このようなお子さまでいかがでしょう』などと商談?が始まり、数時間(数日)過ぎてそれがまとまる。

この会社の『新しい生命誕の製造担当の技師』は、親のニ-ズに適合した卵子と精子を試験管の中で交配し受精卵として、注文主の母親の子宮に着床させ、やがて理想の子どもが誕生する・・・。その技術か世界特許となると、これも全て金儲け・・・。想像すればするほど恐ろしい。

実際に、先月末、試験管の中で作られた複数の受精卵から選び出した赤ちゃんを出産した女性があったとネットのニュ-スで知る。記事によると、遺伝子診断の結果から、この技術を行使した科学者たちが選んだのは、アルツハイマー病の早期発症という母親のもつ遺伝形質を受け継いでいない受精卵だったという。

アルツハイマ-になる可能性を取り除きたいという母親の気持ちはわからないでもないが、このことが許容されたら、私の想像するようなトンデモないことがまかり通ることになるのではないだろうか。

世界各国(当然日本にも)には『精子バンク』なる組織があることは、知識として知っている。なぜそんなことが必要なのだろうと危惧感が先に立つのだが、最近は、老化しない間に自分の卵子を保存する『卵子バンク(名称は不明)』があることもニュ-スが伝えているのも、女性の生き方の変化を写し出している。

登録されている非常に優秀な遺伝子をもつ卵子と精子を組み合わしたら、私の想像通りのことが可能になりそうだ。しかし、技術として生命を誕生させることは、人間が絶対に踏み入れてはならない分野だと信じている私には、これは全体に許すことができない問題だと捉えている。

『デザイナ-ベ-ビ』などが金儲けの手段になり、次々に生まれてくるとなると、もはや人類の存在価値がなくなることはまちがいないだろう。もしそんなことが通用する世の中になったとしたら、これは想像したくない。

こんな悲惨な結果の前に、全宇宙を支配している『絶対なる神』は、人類の破滅、そして絶滅という判決を出すだろうと信じたい。(田舎親父)

2013年10月24日 (木)

休校が仇・・・

 台風26号が襲った伊豆大島の惨状には目を覆いたくなる。まるで2年半前に東北を襲った大津波の後である。50年前の狩野川台風でも大規模な土石流があったというが、当時は『山津波』と呼んでいたという記事に納得する。

自衛隊を始めとする警察や消防などの救助隊が、1000人体制で、徹夜で必死に捜索しているが、未だに15名の不明の人が『山津波』の下敷きになっていることは間違いない。

すでに1週間過ぎたことから、恐らく生存者はいないだろうが、それでも関係者は、何かしら手がかりが出てこないかと祈るような気持ちで捜索を見守っているのだろう。運命とはいえ、自然の酷さ(人の奢りかも)を感じざるを得ない。

その大島に、今週末にも台風27号の襲来が予想されている。町長はじめ町役場の職員たちは、今度は住民を安全に避難させねばと、かなり綿密な避難体制をとっているとのことだから、もはや二次的な人的な災害はないと思いたいが、生まれ育った土地に愛着を持っている人ほど、一時的とはいえ家を空ける不安があることも容易に想像できるとなると、どこまで徹底できるかが気になるところ・・・。

このことは見守るしかないが、台風26号は全国の学校現場を震え上がらせる悲しい事故が起きた。荒れる海を見に行った神奈川県二宮町の小学生二人か行方不明になり、一人が遺体で発見され、もう一人は未だに行方不明になっているとのニュ-スである。

関東地方には、10年に一度の大型で強い台風が襲来するとあって、気象庁は前夜から大雨や暴風警報を発令し注意を喚起していた。襲来時が、通勤・通学時刻と重なり、事前に休校を決めた学校も多く、二人の小学生が通う小学校もその一つ。

もしも、休校にしなかったらこの事故は起きなかったに違いないが、10年に一度という前宣伝?が大きかったので、二宮町教委は前日には、『(学校の判断ではなく)全ての小中学校に休校校という指示』を出したことは間違ってはいるとは断言できない。

どんな事情があったのかは窺い知れないが、明日、学校がお休みということで行方不明になっている児童の家に同級生3人が泊まっていたという。ここまでは、暖かい家族に包まれたほんわかした話なのだが、誰かが言い出したのだろう『海を見に行こう』という声につられて出かけて筋書きが一変。

親(家族の大人)は『危ないから止めなさい』と反対したに違いない。なぜ子どもたちだけで海になんかへ行かしたのか・・・というこの親を責める声もあるだろうが、この年齢の男の子は冒険心が旺盛なことがある上、5人というグル-プではそんな反対の声など聞く耳はないに等しいだろう。

勇んで家を飛び出し、コンクリ-トでできた海岸への出入り口まで出かけたが、危ないと感じて、引き返そうとした時に高波に襲われ、最後尾にいた二人が逃げ遅れたと記事にある。

話は少しそれるが、この事故で、インフルエンザなどで学校や学級閉鎖が話題になることを思い出す。学校としては仕方なかい処置なのだろうが、インフルエンザに罹っていない児童や生徒に対して、よほどの適切な指導が徹底していない場合は、往々にして事故や事件に巻き込まれことが多くなることは誰の目にも明らか。そして、実際に起きた事例も数多い。

適切な指導というのは親の協力がなければできるはずがない。供稼ぎで両親が不在でしかも一人っ子という家族構成は、今日当たり前になっている。一人っ子に限らず、思わぬ『自分だけの時間』が与えられるのだから、退屈心や冒険心から何かやりたくなるのは子どもの心理として十分理解できる。

私は、現役時代からインフルエンザによる学校・学級閉鎖に疑問を持ち続けている。学校というのが子どもにとって一番安全な場所だと確信しているからであるが、台風などの災害時も同じで、休校ということはできるだけ避けるべきだと考え、実際にその方向で実践してきた。

学校教育法の施行規則には、災害などによって休校などの措置は各学校(校長)が決めることができると明記している。しかし、教委は『全て同じ』が頭から離れないことから、校長判断を嫌う傾向があり、今回のような災害時には一律に『休校』などの指示をするのが通例になっているようだ。

 今回の台風は、横浜を基準に考えると、午前8時頃には雨が上がり、ほぼ平常に戻っていた。二宮町教委が校長の自主的判断としていたら、そして『天候が回復したら登校』という措置が台風時に通例になっていたら、今回の事故は回避できていたに違いない。

 台風26号では、都内の区教委の対応が違ったという記事があった。区教委の考え方の違いがよく分かる記事なので引用してみる。(引用始め)小中学校11校が休校になった千代田区教委では『電車で通う子どももおり、15日の午前中に小中学校で休校を決めた』と説明する。これまでは各学校の判断に任せていた中央区教委も『今回は通学時間帯の台風だったため、区教委で対応を決めた』という。/府中市では『午前10時までに暴風警報が解除されなければ休校』という基準に基づき、16日午前に小中学校全33校が休校を決めた。/一方、豊島区教委は各学校に『学校を休んでも一律に欠席扱いにしないように』と周知。区内の小中学校31校中28校が授業の開始時間を2~3時間遅らせた。小学校1校、中学校2校は『平常通り』としたが、子どもの登校時間に幅をもたせ、共働きの家庭に子どもだけ取り残されないようにした学校もあったという。/学校選択制を導入し、学区外から徒歩通学する小学生もいる葛飾区教委は『各学校で事情が違う。それぞれの校長が判断した』。その結果、小学校で休校6校、繰り下げ23校、平常通り20校と対応が分かれた。(引用終わり)

 なかなか面白い。他の区教委のとった措置は記事にはないが、私としては、豊島区教委と(学校選択性だから仕方ないのかもしれないが)葛飾区教委の判断が、事故や事件に巻き込まれる可能性が低いように思われるが・・・。(田舎親父)

2013年10月23日 (水)

教委の改悪に異議あり・・・

 学力テストの公表問題や教科書採択などで、教育委員会と自治体の首長が対立することがこのところマスコミが面白奇怪しく取り上げている。

特に大阪府や大阪市の場合は、その深刻さが伝わってくるが、多くの場合教委側が白旗を上げることが多いのも特徴である。さらに、府教委の内部会合では、『維新の会に遠慮』などというトンデモ発言が飛び出しているらしいから、教育委員会の中立性などは教委自らが放棄しているのではないだろうかと思いたくなる。

国もこのままでは混乱に拍車をかけかねないと判断したのか、(私に言わせれば)悪名高い、『中央教育審議会(中教審)』がこの問題を取り上げて、二通りの改革案を示したという記事があった。

もっとも中教審がこの問題を取り上げたのは、政府の『教育再生実行会議(いわゆる有識者委員会だろう)』が4月に、『民意を担う知事や市町村長が教育長を選び、教育行政の現場責任者に据える』との提案したことの後追いであることから、教育行政の決定権を首長に移すか、教委に残すかという議題での議論とはいえ、誰が考えても、すでに方向は決まっていると言っても過言ではなさそうだ。

この問題が急に大きく取り上げられるようになったのは、最近の『いじめや体罰』、あるいは『子供の自殺』という事件・事故に対して、教育委員会が責任逃れとしか思えないような、あまりにも不甲斐なさを露呈したことからだと言うのが一般的な見方のようだ。

しかし、以前から指摘しているが、教委のいい加減さの大本は、自治体における教育委員の選定が、一人は校長OBを入れるのが慣習(この選び方も問題があるが)になっているらしいが、残りは地域の医師会や町内会の顔役など、いわゆる名誉職的になって教育問題を議論するに相応しい場となっていなかったことを、議論してこなかったことではないだろうか。

首相の私的な諮問機関である『有識者委員会』という下請機関に甘んじて、中教審が首長直轄にすれば問題が解決するかのような短絡的な議論を続けているらしい。まあ、この審議会自体がすでに形骸化して、時の首相の意を酌んだ御用機関になっているのだから仕方ないのだろうが・・・。

 繰り返しになるが、現在の教育委員会制度は、委員の席は医師会とか校長OBとか、すでに利権のごとき席が決まっているのだから、その組織から送り出されることになる。高齢者(老齢者)が多いのは当然だろう。

しかも、行政の教育トップである教育長は教育委員の一人であり、他の教育委員は非常勤となると、持ち回りで決まる教育委員長が決まった日にちに会合を召集するものの、会議は教育長がリ-ドするのは致し方ないところ。

さらに合議制が前提では形骸化するのも当たり前であることは論を待たない。それでいて教育委員長が最高責任者であるというのがタテマエとなると、今頃になって、危機管理能力が損なわれていると言い出すのも変な話である。

確かに首長が任命する『教育長』に責任を委ねる仕組みにすれば、『責任の取り方』ということではスッキリするだろうが、選挙で選ばれる首長が替わるごとに、首長の意志で教育行政がその都度変わることになる。

また、中教審の主要案らしい、教委のトップを教育長として、首長の教育行政の『執行機関』として決定権を与えるとなると、教育委員会は首長の『付属機関』となり、諮問に答申したり、建議や勧告をしたりする存在に格下げされ。その上教育委員は相変わらずの名誉職となると、学校教育の『政治的な中立性』なんて言葉すらなくなることになる。これはどう考えても拙い。

マスコミ報道では、中教審はアリバイ作りのためだろうが、対案として、『教育委員会を執行機関』とし、教育内容や教科書採択などの重要事項に限って決定権を持たせるという案を用意しているとのことである。しかし、これとて教育委員会は存続し、一応は首長からの距離は(形だけは)少しは保てそうな感じを持たせるが、実質は首長の思いのままになることは間違いない。

 最近、どこかの自治体では宗教色が強い政党に所属する人物が首長に選ばれたらしい。すると、憲法や歴史、道徳、原子力といった多様な意見を伴う分野に加えて、宗教まで学校現場に影響しないとは誰も断言できない。想像するだけでゾッとするが・・・。

 拙速に結論を出すのではなく、まず、教委を『教育問題を議論するに相応しい場』にして、出された結論に責任の所在を明らかにして対処できる組織にするためにはどうするか考えてほしいものである。

そのためには、教育委員を組織の利権にその席を与えるのではなく、独立性を保つためにも住民の選挙でという発想も議論すべきだと思うのだが・・・・。(田舎親父)

2013年10月22日 (火)

スマホ条例いう声が出ても・・・

 今年の5月だったと思うが、小学5年生の男児がJR四ツ谷駅のホームで、スマホの画面を見ながら歩いていてホ-ムに転落する事故報道があった。恐らく、周りの様子に全く気づかず、自分の世界に浸りこんでいたのだろうか、私のような古い人間には俄には信じられないことである。

この事故は、直後に電車が進入したが、幸い、男児は(偶然だろうが)線路とホ-ムの隙間にホームと電車の隙間にいたため、あごをけがしただけで済んだという。

この事件はマスコミがかなり大きく取り上げたので、スマホの扱いを少しは考えるきっかけになるのではと思っていたが、深く詮索はなく、その報道で全て終わってしまったことには、拍子抜けというかがっかりする。

実際、次の日には、横浜の片田舎のたいした人通りのない町中を歩いていたる私でも、危うくスマホ夢中人間にぶつかられそうになったほどだから、この事件はスマホ命の人たちにはなんの警鐘にもならなかったことを実感する。

これではトンデモない事故・事件が起きると思っていた矢先に、東京都内で16日夜、スマホを操作しながら歩いていた男性が踏切に進入し、電車にはねられ死亡するという常識では考えられないような事故が起きたことを知る。

 警察の発表では、死亡したのは区内の無職の47歳の男性だという。現場は東武東上線大山駅に隣接する踏切で、事故当時、左右両側から遮断機が下り、警報機も鳴っていたとのことである。この男性はスマホを操作しながら、中央部分に数センチ開いた遮断機の隙間を通り抜けて電車と衝突し死亡したとみられるというから、自分で死を選んだのではと思わないでもない。

 しかし、自殺する人の気持ちは正直わからないが、電車に飛び込んだり、ビルから飛び下りたりするのは、一瞬の判断というか、『今だ・・・』という思い切りの心理が働くのではないだろうか。

死を覚悟していて、平然と迫りくる電車に向かって歩けるとは思えないことから、どう考えても自殺の線は薄そうだ。実際、警察が男性の家族に事情を聴いたところ、『自殺する原因は思い当たらない』と明言しているというもの、そのことを裏付けている。

また、近くにある飲食店の男性店員の話によると『同僚が事故を目撃した。警笛が鳴り、男性は踏切の中で驚いた顔をしていたそうだ』とのことなどから、『スマホの画面に気を取られ、誤って進入した可能性がある』という警察の判断は妥当のようだ。

話は少し飛ぶが、先日、私の住む町のJR横浜線の踏切で、働き盛の女性が自殺志望?の老人を助けるために、踏切に飛び込んで電車にひかれて死亡する事故が起きたが、これとは全く質が違う。

踏切がなければこんな事故は起きないのだが、スマホの画面に夢中になり、踏切に入ったとなると、横浜の事故後に、少し盛り上がっていると聞こえてくる『踏切をなくせ』という動きにはつながりそうもない。

 スマホをめぐる事故を受け、鉄道各社は車内放送やポスターなどで注意を促すキャンペーンを始めているという。確かにそんな校内放送を聞いたこともあるが、都会では雑踏に紛れることが多く、聞き取れないことが多い。

それ以前に、こんな警戒放送は、ほとんどの人には無用なもので、大事な行き先とか乗り換え案内を期待している人にとっては邪魔以外にない代物で,ますます注意が散漫になり、かえって逆効果にもなりかねない。

 それでも事故が起きると鉄道会社の責任が問われるとあって、注意を喚起しなければならないのだろうが、何と無意味なことに手間とカネをかけねばならないかと同情すると同時に、こんな世情を嘆きたくなる。

 スマホの画面に夢中になってホ-ムから転落することや、踏切に立ち入って死亡することに対して、『アホか・・・』という発言があってしかるべきだと思うのだが、人権云々という壁が厚くなかなか言い出せないだろうが、これも変な話である。

 話は変わるが、東京千代田区などの都心を歩いていると、歩き煙草をする人を見かけることはまずない。条例で罰金がついているからという人もいるだろうが、喫煙習慣のある人の多くが、歩き煙草は迷惑だと認識しているから、条例が遵守されている野だろうと推測している。

 煙草とスマホを同じとは思わないが、『歩きながら・・・』となると人に迷惑をかけることになる事は共通している。ならば、歩きながらスマホを『条例で禁止』という声がでても奇怪しくないと思うのだがいかがだろう。

何でも法的に規制することには疑問なことは私も同じで、今後徹底した議論は必要だとは思うが、法で規制するしかこの種の事故はなくならないような気がするが・・・。(田舎親父)

2013年10月21日 (月)

災害を大きくするトップの判断と対応・・・

 台風26号で大きな被害を受けた大島町は一昨日の夕刻、町内2地区の住民に避難を促す『避難勧告』を発令したという報道に、当然だという思いがある一方、何となく違和感を覚えた人も多いのではないだろうか。

 私もその一人。あれほど大規模な土石流がおき、復旧がほとんど進んでいないことから少しの雨でも危ない個所があることは素人でもわかるが、対象が全島民のほぼ3分の1の2300人というから、思わず耳を疑ってしまう。

 素直に解釈すれば、町(行政)は、3分の1の住民が住む地域を危険だと判断していることになるが、それにしては台風26号での対応がずさんすぎる。いや、それ以前に住民に『あなたの住んでいる土地は大雨で流される恐れがありますよ』と教えていたのだろうかという疑問がわいてくる。

 専門家たちはこぞって、『事故後』に、大島の火山灰が降り積もった特色ある地形に原因があると分析しているが、そのことを町に知らせていたかというと大いに疑問で、事前には察知し危険だと警鐘を鳴らしていた専門家は少なかったとしか思えない。

実際に、昨日遅くまで大雨が降り続き、避難した人も多かったらしいが、何とか二次災害は回避、今朝は青空が広がり避難勧告も解除されるというから一安心。

今回新たに避難勧告がでた泉津地区も含めて、大島には何度も訪れ,その土地の人たちは話し合う機会を持っていたが、今回の大災害を知るまで、大島と土石流との因果関係など想像もつかなかった。

 ところが、翌日の新聞記事で、大島では1958年の『狩野川台風』で死者1人、行方不明者1人を出したことを初めて知る。しかも今回同様に、元町地区が被災し、全壊55軒、半壊49軒の被害を出したとのことである。

規模的には比較にならないのかもしれない。50年以上も前のことだから、住民の記憶から消えてしまっていたのかもしれないが、その教訓は生きなかったようだ。当時は『山津波』と呼ばれ恐れられ、町は対策事業に力を入れてきたという。しかし、記事から受ける町の対応の印象は、そのことはすでに遠い過去のこととして、町の歴史から消えてしまったという感じさえ受けてしまう。

ところで、町長と副町長はそろって島外に出張だったと伝えられているが、このことを問題にしているマスコミ記事はほとんどない。しかも、メディアによって、留守を預かるトップが教育長であったり総務部長だったりというもの変な話である。

町長は住民から選挙で選ばれて、緊急のときは住民の立場で物事を考え行動する責任と義務を負っている。公務があって島の外に出かけることも多いことは想像できるが、不慮の事態に備えて、副町長が最高責任者として存在するのは常識だと思っていたが、今回は副町長まで不在。そのことがあまり問題にならないことが、私には不可解に思えてならないのだが・・・。

話は横道にそれるが、学校においては、校長と教頭(副校長)が同時に校外に出かけることを極端に避ける努力をしている。万が一そろって留守をする場合は、不慮の事態に備えて万全の体制を組むことはもちろん、夜中であっても緊急の場合は、どちらかがすぐに駆けつけられる体制をとっている。

今回、町長あるいは副町長のどちらかが島にいたらこのような災害は起きなかったとは言わないが、事件事故も含めて今までの不慮の災害では、トップが不在ということがしばしば起きているのは決して偶然ではない。万一、起きたとしても、恐らく現況より小さくなることはあっても、大きくなることなかったと確信している。

さらに気象庁や都の対応も極めてずさんであるとしか言えない。気象庁や都は大島町に危険情報を出して、前日の午後6時頃には、『避難勧告』などの『要請』をしたと、災害直後は報じられていた。このことを私は瞬間的に、責任逃れの常套手段だと感じたが・・・。

それほど危険なことが予測されているなら、『特別警報』を出せば良いのに、広域にならないという理由で発令されなかったのも頷けない。こんな理屈が通ったら、離島には『特別警報』は出せず災害を避ける手だてがなくなることを、気象庁内部では議論されなかったのだろうか。

実際には、気象庁は大島に連絡事務所をおいているのだが、当日,所長と職員はさっさと帰宅し、本庁からのファックスを放置していたというから呆れる限り。

大島町職員も職務意識が低かったようで、都も気象庁も町へ指示のファックスで送ったということだが、留守を預かる総務部長以下職員たちは、それすら見ていなかったというから何をか言わんやというところ。もっとも、ファックスで指示を出したら出しっぱなしで、電話やメ-ルでの確認もしない気象庁や都の態度も無責任としか言いようがないが。

また、災害が起きた16日に、イノセ都知事がマエダという副知事をトップとする現地対策本部の設置を表明し、マエダ副知事と都総務局の防災担当部長、東京消防庁防災部長の計3人がヘリコプターで現地入りし、午後3時前に対策本部を設置したが、17日にイノセ知事が日帰りの視察を終えると、3人も夜までに帰京したというのも許し難い。

オリンピックの招致にはあれ簿と張り切って『俺がオリンピックを連れてきた』と大見得を切っていたのに・・・である。これが、この男の本質なのかもしれないが、こんな人物がトップである都民(大島住民)が哀れである。

自然災害は仕方ないことは私にも十分理解できるが、それを最小限にとどめる努力をするのが行政の努め。特にトップの判断と行動は重い。(田舎親父)

2013年10月19日 (土)

オスプレ-を自衛隊に導入?・・・

 このところ、マスコミの報道からオスプレ-という言葉を聞くことが少なくなったと感じていたが、先日、普天間基地に配備されているオスプレ-の日米共同の県外訓練が滋賀県の自衛隊の基地で行われたと、久々にかなり大きく報じられていた。

 滋賀県のカダ知事が『終わってホッとした』というようなことを話していたことから、知事も了解しての訓練だったことはうかがえるが、なぜ、滋賀県に白羽の矢にたったのかという過程を知らない私にはどうも釈然としない思いが残る。

この滋賀県での訓練については、沖縄県知事と宜野湾市長は『沖縄県の負担を少しでも軽減している姿勢は評価できる』と語っているらしい。沖縄の現状を想像したら、知事たちの発言は十分理解したいと思うが、本質からどんどん遠ざかるようで、また国のやり方に否応なく従わされていくような危惧感を覚えるのだが・・・。

沖縄県知事は、ある程度、理解できると述べたことに加えて、『訓練の県外移転に引き続き取り組むよう強く求めた』記者団に語ったというから、政府としては『してやったり・・・』というところだろう。

この発言を足掛かりにして、今後、全国各地の自衛隊の基地を中心に合同訓練を行う理由にすることは間違いなさそうだ。『沖縄の負担軽減』が何か金科玉条のごとくに祭り上げられて、アメリカ軍基地問題がどこかに消えてしまったような感じさえするのだが・・・。

 もともとオスプレ-という得体のしれない輸送機は、アメリカ国内で事故が相次ぎ、危険極まりないということで、アメリカ本土はもとより、ハワイでは訓練に対して住民の反対が大きく中止に追いやられたことが伝えられている。

 アメリカでは危ない代物なのだが、アメリカ軍(アメリカ政府の方針だろう)は、輸送量が格段に大きく、防衛状必要だということで日本政府を屈伏させて、日本国内に導入したことは今更述べるまでもないだろう。

 日本の防衛にはオスプレ-導入が何より要で、自衛隊との連携によって、中国などの周辺諸国の圧力を跳ね返すという方針で、沖縄の普天間基地に24機?配備し、早速訓練をはじめた。

政府はマスコミを通して、沖縄の人々が真剣に反対している様子を伝えさせ、『沖縄の人たちだけに負担させるのはかわいそう』という日本人の優しい心を震えさせ、『沖縄の負担軽減』という言葉で世論をせり上げる。

導入問題を棚上げにして、訓練場を全国各地に分散させる。そして、その場所選定がなによりも重要な課題のごとくに問題を転換させて、いつの間にか、『オスプレ-導入は仕方ない』という世論を作り上げるやり方は、いつもの手だが実によくできた筋書きである。

そして、これも始めからアメリカさまの命令なのだろうが、オスプレ-を自衛隊に導入する動きが加速しているらしい。

らしいというどころではなく、防衛省は2014年度予算の概算要求にオスプレイを陸上自衛隊に配備するための調査費1億円を計上し、導入目標を15年度と公表したというから、もはやオスプレ-は自衛隊機として採用することが既定の事実になっている。

 しかも、ネット情報によれば、自衛隊が求めたのではなく、政治が自衛隊に使うよう求めたそうだ。そんなバカなと思いたいが、一連の動きを見ていると、なるほどと思えるほど部分がほとんど。事実だったら(恐らく事実だろうが)これは許し難い。

 陸上自衛隊はオスプレ-の2倍以上の人員や物資を空輸できるCH47大型ヘリコプターを55機も保有しているという。なのに、安全性に問題がある輸送機であるオスプレ-を導入する。こんなことが通用する仕組みに無力感を覚える。

アメリカさまのいう『オスプレ-は安全だ』という言葉を追認して、『安全だからオスプレ-を導入する』という日本政府。私などが思いも及ばないような重く暗い背景があるのだろうとは思うが、日本人としての矜持は忘れてほしくないものである。

何度もの繰り返しになるが、それでも現政権に対する批判が盛り上がらない。なんとも変な話である・・・。(杉)

2013年10月18日 (金)

憲法改悪の布石が次々に・・・

 アヘ政権は何がなんでも憲法(特に第9条らしいが)を改定したいらしく、野党があまりにも弱すぎるために誤魔化す必要もなく、(政治用語を使って表現すると)まさに粛々とことを進めているように思える。

 集団的自衛権の拡大解釈はもとより自衛隊を国防軍に名称変更すると堂々と発言するなどはその典型だろう。情報の管理を厳重にするためと称して、その軽重などは二の次にして、公務員が少しでも政府に都合の悪い情報を流したと(権力が)判断したら、懲役10年という脅し法案の成立も視野に入っているようだ。

 (憲法改定などと頭の中になかったので、こんな項目があったことすら気づかなかったが)現行憲法を改憲するには、憲法第96条に衆参両院で3分の2以上の賛成をえて発議するとあり、この場合は衆議院の優位性はなく衆参両院の差は設けないとのこととある。

現在の自民党は昨年の衆院選挙で圧勝。公明党と合わせたら3分の2を越える議席を有している。しかし、参議院では与党として過半数を確保しているものの、3分の2の議席はないので、改憲の発議を出したくても出せないのが現状。どうやらこの一項が、改憲論者にはどうしても越えられない壁になっているようだ。

7月の参院選挙で3分の2以上の議席をとっていたら、すぐにでも改憲という動きになることを国民は肌で感じたらしくそこまでは勝たせなかったのだろう。それが悔しくて仕方ないらしく、何としても改憲に持っていくには3分の2ではなく過半数でと言い出したが、さすがにこれはハ-ドルが高いと感じたのか、最近は少しこの声が小さくなった感じがする。

さらに、改憲のためには例え改憲の発議ができたとしても、国民の意志を問うことが必須になっている。憲法改定という言葉だけが先走りしたとは思わないが、『国民の過半数が同意』という文言があるが、肝心の過半数の定義はないという。自民党の改憲論者たちはここにも注目したらしい。

自民党の『憲法改正推進本部』という部署が、改憲に必要な国民投票の手続きを規定する国民投票法改正案について、投票年齢を『18歳以上』に確定させ、今回の今回に提出するという。しかも、国民の過半数は、選挙と同じで投票数の過半数とするというからこれは聞き捨てならない。

まず過半数ということに対して、このことにさほど違和感を持っている人が少ないのだそうだが、憲法改定となると、国民の代表である議員を選ぶということとは次元が違う。今後、国民生活を基本的に縛る憲法となると、選挙でいう国民の過半数という言葉とはそぐわない。

賛否にはっきりした意志を持っている人は投票するだろうが、関心の薄い人はともかく、投票に行きたくとも行けない人を切り捨てて良いとは思わないこともさることながら、投票率が50%以下というのが最近の選挙の現状を考えると、その過半数となると、投票所に足を運んだ有権者の4分の1で改憲が可能となるのも納得しかねる。これはどう考えても不条理だが、改憲論者にとってはここが大事なのだろう。

さらに加えて、今回の『18歳以上』という言葉ももつ意味が重い。確かこのことは国会で議論し、成人年齢や選挙権との整合性を検討することが『宿題』だったはず。そんなことは構いなしで『18歳以上』とするというところに、改憲に向けた現政権の思惑がミエミエ。

最近の選挙では若い年代の棄権率が高いから、年齢を引き下げて、憲法に関する意識を高めるというのが表向きの主張だろうが、こちらも議員を選ぶ選挙が20歳以上なのに、それよりもはるかに次元が高い国民投票に対して、年齢を低く設定するのは不自然で到底納得できるものではない。

選挙権も18歳以上とし、現在刑法で定められている少年という定義も含めて、成人の規定を全て18歳以上とするなら話は別だが、今回はそのことには全く触れていないところに自民党のご都合主義がはっきりしている。もっとも、選挙権や少年法となると、その解釈と改定にはいろいろと難しいことが多く、議論尽くせないという言い訳を用意しているらしいが・・・。

話は飛躍するが、最近、高校の卒業式で国歌斉唱の場面で、教員の起立はもとより口パクまでもチェックすることが問題になっているが、その背景には『国家』を意識させる教育内容の強化という教育政策全体の流れがあることは衆目教育一致するところ。

このことと今回の自民党が提出する、国民投票の18歳以上という具体案とは、表面上はなんの脈絡もなさそうだが、私には妙に引っかかるのだが・・・。(田舎親父)

2013年10月17日 (木)

コイズミ新党に期待?・・・

 現在、国内の原発が全て停止状態となっているが、アヘ政権は原発の再稼働はもとより世界各国に原発を売り歩くという、全く福島原発事故を忘れたかのような、とにかく経済を建て直すという表現で傲慢な態度をとり続けている。

民主党が崩壊状態で、野党としてまともな意見を述べているのが共産党だけだが、この政党は政権を担う意志は全くなく、貧乏人が主体の党員からカネを集めて、勝ち目のない選挙を繰り返しているのでは国民の支持が集まりそうもない。

今回の参院選挙でも、ほんの少し議席が伸びただけで大勝利だと浮かれているが、共産党への支持が伸びたのではなく、入れる政党や人物がいなかっただけだろうということは衆目の一致するところ。現に私も共産党に一票を投じたその一人。

原発の話に戻すが、大飯原発の再稼働に反対して、毎週金曜日に行われている国会周辺で抗議活動に対して汚染ドジョウが『大きな声ですね』とまるで騒音扱いにしたことに、さすがのマスコミをこれは酷いと声を上げたが、その後はまた尻すぼみ。

このところツインタ-もFBも休眠状態の私には、どうなっているのだろうとは気になるものの、数回でかけた金曜日の、あの圧倒的な機動隊の数もそうだが、機動隊となあなあでデモ指揮をしているリ-ダ-たちにも違和感を覚え、出かけようとは思うものの、一人ではなかなか行動が伴わない。

そんなことを思っていると、原発再稼働を進める政府への大規模な抗議活動が13日、東京・永田町の国会議事堂周辺で展開されたという記事が、これまでほとんど取り上げてこなかった大新聞が報じていた。しかも、すっかり現政権に懐柔されていると思っていた朝日新聞が一面で報じているのには、オッ-という驚きの声が漏れてしまう。

朝日新聞姿勢が急に変わる訳がないのにこの扱い。明らかに変な話だが、コイズミ元首相の最近になって『脱原発』姿勢を打ち出し、公式の場でもはっきり『原発は全て廃炉』と明言していることと微妙に関係しているのではないだろうか。

この御仁は、みんなの党のワタナベ代表らと先月下旬に会談した席で『アヘ首相には勢いがある。首相が脱原発を決めれば前に進むのに、残念だ』と語るなど、脱原発の話題で盛り上がったとマスコミが大騒ぎ。昨日もテレビがゴルフ焼け?した浅黒い顔で演説している姿を映し出していたが・・・。

記事によると『脱原発は政治がリーダーシップを発揮しないと進まない。自分は数十年後には死んでいて、原発のない日本は見られないかも知れないが、それをするのが本物の政治家だ』と語ったというが、この御仁らしく、世情を読むのが速いことに感心する。

また、今年8月にフィンランドを訪れ、高レベル放射性廃棄物を地下に埋めて10万年かけて無毒化する核廃棄物最終処分場『オンカロ』を視察したことに触れて『フィンランドには原発が4基しかないが、日本には50基もある。いますぐ止めないと最終処理が難しくなる』との発言も出たらしいが、まさに正論。このことについて、堂々と反論できる原発推進論者は皆無ではないだろうか。

どこまで本気なのか、現在の格差社会を生み出した元凶人物であることから、その裏で何か別の思惑がありそうだ。俄には全面的に賛同すると危険だと思うが、まだまだ影響力は大きいだろうから、ひょっとして風向きが変わるのではと期待するところ大である。

一部では、野党の再編が行き詰まっているので『脱原発』を旗印に大同団結を狙っているのではという声もあるらしい。息子の復興政務官の就任と時を同じにしているのも気になるが、『脱原発』の発言を受けて、共産党のシイ書記局長は『赤旗に執筆してほしい』と言ったと伝えられているので、一時の民主党ではないが、ひょっとしたら政権交代もあるのではと思わせるム-ドも生まれる可能性もゼロではない。

話は少し飛躍するが、原発の再稼働を申請した北海道、関西、四国、九州の四つの電力会社が、原発30キロ圏の周辺市町村から、立地自治体並みの発言権を定める安全協定を結ぶよう求められたのに、いずれも拒否しているのだそうだ。

自社の原発が絶対に安全で安全ならば、周辺自治体だけではなく日本中の全ての自治体はもとより国民全体に『事故ったら責任持つ』と言えば良いのに、これでは始めから事故を肯定していることと同じである。電力会社のエゴだろうが、こんないい加減な姿勢は許せない。

それでも現政権は原発再稼働にGOサインを出すのだろうと思うと、それを阻止するためには、(毒薬であることの方が確率的に高いとは思うが)コイズミ新党を誕生させるのが手っとり早く確実だと思わせる。

しばらくコイズミ親子とそのシンパたちの動きに目が離せなくなってきた。(田舎親父)

2013年10月16日 (水)

子どもをタ-ゲットにする限り・・・

 携帯電話の呼び出し音もめったに鳴らないような、片田舎で仙人生活を楽しんでいる私には、最近はごく普通の主婦でも必需品になっていると聞いているスマホなどとは全く縁がないが、今やスマホは爆発的に普及し、小学生でも当たり前になっているという記事を目にして、思わずどうして・・・とつぶやいてしまう。

とはいうものの、私もつい10年ほど前まで(現職の頃)は、ITがこれからの社会の必需品だと信じ、仲間たちにも、(当時は携帯がインタネットにつながったことにも危惧感があって)使い方を間違わないことと、コンピュ-タは当たり前に使えなくてはならないと職員たちに説教までしていたこともあるのだが・・・。

当時から、ネットの恐ろしさには人一倍神経を使い、その無防備で且つ無秩序を普及には心を痛め、先日来述べているが『ネット社会と子どもたち』という、ネットの恐ろしさを考える人たちの集まりの一人としてとして活動したことも、懐かしい思い出になっている。

なぜ、この活動から身を引いたのか、今では正直言ってよくわからないが、組織内部の意見の食い違いが大きくなり、私の立ち位置がわからなくなったことが原因だった。その頃は現職から離れて間もなく、自分自身はIT機器を使う機会が少なくなるのに比べて、携帯などの普及のスピ-ドが速すぎて、IT業界で活躍中の皆さんとのギャップが大きくなったのではなかっただろうか。

そんな私でも、数年前にソ-シャル・ネットワ-クホシステム(SNS)と呼ばれる、『友人・知人間のコミュニケーションのためのツ-ル』は面白いと感じて、友人の指導でツイッタ-やフェイスブックをはじめ、時には発信することもあるが、親指シフトキ-ボ-ドからしか文字発信ができないこともあり、このところはご無沙汰続きになっている。

これらの投稿サイトはスマホからの発信が前提なのも、私に二の足を踏ませる原因なのだろうが、最近は、一見同年配の人でさえ器用に指先を動かして操作している姿を電車やバスの中で発見すると、私の価値観とは相いれないと勝手に思い込み、ますますスマホを持とうという気持ちがなえるのだから始末が悪い。

話を戻すが、小中学生にとっても無料通話アプリ『LINE(ライン)』は今や必要不可欠なコミュニケーションツールとなっているという記事を見つける。

『LINE』というアルファベット文字はこのところよく耳にする。一応SNSに登録し使ったことがあるので、大体の仕組みは理解できる。しかし、この『LINE』という代物は、(マスコミ報道によれば)多くの場合、凶悪事件やいじめがなどのきっかけとして使われているというから、まさにネットの負の部分を象徴しているようにも思える。

昨年12月、近畿2府4県と政令指定都市、各府県警、携帯事業者5社など45団体で構成する『スマートフォン時代に対応した青少年のインターネット利用に関する連絡会』という組織を立ち上がったと記事にある。関係者がこれほど大規模な連携を図るのは、全国で初めてらしいが、いかにスマホの影響が子どもたちに広がっていることに対して,大人たちの危機感を持っていることを裏付けている。

その第1回定期総会では、急速に普及する『LINE』への対応策に話題が集中したそうだ。中でも小学生の利用が爆発的に増えていることに学校や保護者の悩みや心配が集中しているという。

中でも、この連絡会議の座長の『学童保育が小学3年生で終了し、野球やサッカーなどのクラブ活動や学習塾通いが始まるのが4年生。このタイミングで子供に携帯を持たせる親が多いが、選ばれる端末はフィーチャーフォン(従来型携帯電話)ではなくスマホだ。だから、我々の主戦場はもはや小学4年生だ』という発言が気になる。

ここまで親の意識が変って来たのかと愕然とするが、子供にスマホを買い与える際、子供が『LINEができなくなる』と文句を言うため、フィルタリングを導入しない親が増えているという一文にはさらに驚愕する。

もっとも記事の解説によれば、フィルタリングは携帯電話会社の回線を利用するときには有効だが、Wi-Fi経由のネット接続には機能しないのだそうだ。このため、携帯電話会社は自社Wi-Fiに有効なフィルタリングを用意しているが、街中のコンビニなどにあふれるフリーWi-Fiスポットでは効果がないというから、スマホにおけるフィルタリングなどはあってもないに等しい存在らしい。これも初めて知る知識・・・。

しかも、最近の学校現場では、クラブ活動の連絡網もLINEで代替しているところが多く、『もはや必要不可欠なツール』になっているというから、まさに隔世の感がする。

極めつけは、この座長が総会に集まった人たちに『LINEを使ったことがない人は挙手を』と問うと、実に半数近くが手を挙げたというから、私と同じようなレベルの大人たちが、子どもの要求に負けてしまうという構図は10年前と変わりがない。

『子供のスマホ利用について、知らないのは大人だけだ。問題は日々変わっており、本人たちにルールを考えさせるしかない』との座長の切実な声はよく分かるが、子どもたちにどう教えるかとなると、座長自身もわかっていないのではないだろうか。

100人の子どもにスマホの正しい?利用法を教えるとしよう。物分かりの良い子どもたちばかりであっても、その教えを忠実に守り、そこからはみ出さない子どもはゼロではあり得ない。日々、進歩するスマホの機能に使いこなし、より面白い使い方や、新しいアプリを作り出す子どもがいても決して奇怪しくない。

ということは、ごく平凡な生活を送っている大人が、子どもに使い方を指導できるはずがないということ。大人が指導できるはずのないスマホなどを、より魅力的に宣伝し子どもをタ-ゲットに売り込む商法が、今後も続く限り、連絡会議の意味は時と共に薄れていくのは私も経験したこと。

今日も長く冗舌な文章になったが、『便利』という言葉の意味を考え直さねばならない時に来たように思えてならない。(田舎親父)

2013年10月15日 (火)

カメムシが大発生・・・

 13日のネット情報で、和歌山県のミカン農家がカメムシ被害で悲鳴を上げていることを知り、横浜の片田舎でも今年カメムシを見かけることが多いことと関連しているのではと(科学的根拠は全くないものの)変な思いにとらわれる。

 カメムシにもかなり多くの種類があるらしいが、共通しているのが、その身体に触れると、たちまち耐えられない悪臭を発することである。カメムシからしたら敵の攻撃を避ける必殺手なのだろうが、人間にとっては、これは迷惑としか表現のしようがなく、カメムシを見つけると即、殺さねばという発想を持つ人が多いのも理解できる。

 ここ数年、草花や野菜を種から育てることを楽しみの一つとしている私もこのカメムシは大の苦手だが、無農薬という前提で栽培しているので殺虫剤などあろうはずがない。軍手をはめていても、触ると強烈な最後っ屁をかまされるのでは思うと、仕方なく、近くにある小枝や竹串を使って払うようにしている。

 カメムシも小枝で身体を触られる程度では害意がないと判断するらしく、すぐに飛び去るのだが、今年に限っては、一匹を追い払ってホッとする間もなく、2匹、3匹と近くに見つけるものだから、悪臭は覚悟の上で、ゴム手袋をつけた手で掴み、地面に叩きつけて踏みつけることも少なくない。

 そんな思いを持ちながら、南紀新聞初の文面を読む。和歌山県紀南地方で8月下旬以降、果樹に被害を及ぼすカメムシが大量に発生し、収穫期に入っているミカンを栽培する農家は防除に苦労しているという書き出しに続いて、越冬したカメムシによる来年の梅の実への被害も心配しているとのことである。

発生しているカメムシの主な種類は、チャバネアオカメムシとツヤアオカメムシで、これらのカメムシは山林に生息してスギやヒノキなどの球果を餌に繁殖し、山林での餌が不足すると果樹園に飛来して果実を吸汁し、落果などの被害を与えるのだそうだ。

この地方は、私でも知るミカンとウメの産地である。ミカンは今からが収穫期。数匹のカメムシにも迷惑している私には、大量にカメムシに襲われたミカン農家の困惑ぶりは十分すぎるほど理解できる。

昆虫は明りに集まる招請があるので、夜間、青色蛍光灯を点灯させて集まった虫を捕殺しているらしいが、一晩でバケツ一杯分ものカメムシが入っていることもあるというから、その発生ぶりは想像以上のようだ。JAにもミカン農家からの相談が殺到し、営農指導員は農家の栽培しているミカンの種類によって、使える薬剤を紹介しているとのことだが、何か遠慮した表現は少し気になるところ。

記事には、捕獲したカメムシの数まで記載があり、みなべ町にある『県うめ研究所』内の水銀灯で集めたカメムシの数(1~5日)は、チャバネアオカメムシが3832匹(過去3年平均3匹)、ツヤアオカメムシが1万3586匹(同31匹)というから、その異常ぶりが歴然である。

営農指導員は『それぞれ対策をしているので実害は多くはないと思う』と言っているそうだが、対策とは薬剤であることは想像に難くない。農薬には(市販品の表示を読むとわかるが)『散布は収穫の○ケ月(日)前』という意味の文言があり、素直に解釈すると、その日数が短いほどほど弱いことになるが・・・。

私が心配することではないと思うが、一度の農薬散布で効かないとなると、2度あるいは3度ということも考えられないことではない。そして、生き残ったカメムシが越冬・・・となると、来年のウメ被害も言葉だけに終わりそうもない。

指導員は安全性を十分考慮して農薬などの種類や量などを助言していると信じるが、こんな記事が都会地の大新聞にでも掲載されたら、『農薬』という言葉に敏感に反応する人も多いだろうから、『和歌山のミカンは・・・』という、いわゆる風評被害が広がる懸念もあるのではと変にきにかかる。

カメムシの異常発生も、昨日話題にした『異常気象』の影響だとしたら・・・。これも私の杞憂であれば良いのだが。(田舎親父)

2013年10月14日 (月)

人類消失しかないのかもしれないが・・・

 世界各地から『異常』と言っても差し支えないほどの自然災害の報道が頻繁になったのはいつごろからだろう。大昔から、大雨による洪水や火山の爆発によって周辺各地に大被害をもたらすことは数限りない。また、長期間雨が全く降らず、大地が干からびて大飢饉に陥ったことも歴史は語っている。

しかし、数年前から我が国の各地で頻繁に起きてきる竜巻被害は、ほとんどの場合は今世紀になってからのことではないだろうか。ゲリラ豪雨や酷暑や厳寒も、ここ十数年来の特徴のように思えるが・・・。

このことは日本だけではなく、このところ世界各地では日常茶飯事になっている感すらある。専門家はそろって地球環境の温暖化をあげているが、10月になったにも関わらず、つい先日の土曜日までの異常な暑さを思うと、原因はこれしか思い当たりそうもない。

ここ数年の厳冬から考えると一概に温暖化とも言い切れないものもあるという意見もあるが、厳冬現象は酷暑の裏返しだと考えると、地球温暖化(人間のエネルギ-消費の限りない飛躍による地球環境の破壊)がその大本にあることは間違いなさそうだ。

人類の歴史の始まりは、いろいろな学説があるが、少なくとも現代の人類の祖先が誕生してから数十万年程度の時は刻まれているだろう。300年(人類の歴史からみると極一瞬)ほど前までは、争いごとは日常茶飯事だっただろうが、人々の生活のためのエネルギ-は、太陽や火山などから熱の利用であり、人為的なこととして木材を燃やすことだけだった。

たった300年の間に、人間はとてつもなく進化?し、化石燃料の利用はもとより、それをもとに電力を生み出すことに成功した。そのきっかけが、小学生でも習う『産業革命』である。

我が国にそれが伝わったのが、わずか150年ほど前の江戸時代の最終末。その頃から明治大将に至る社会情勢を考えるために、今、司馬遼太郎の『坂野上の雲』を読み返しているが、日本人の庶民の生活がいかに質素で我慢強かったかということがよく分かる。

エネルギ-をふんだんに使えるのは戦争のためだけで、その恩恵を受けるのは一部の特権階級だけだったが、現在は『平等』という概念が当たり前になり、全ての国民が『便利で快適』な生活を求め、それが当然のごとく受け入れられている。

欧米が300年、日本が150年、中国やインドなどの新興国が50年、そしてアジアやアフリカなどの開発途上諸国が今後追い求めるだろう『便利で快適』な生活のためには『電力』の獲得が何よりも必要となり、そのために地球全体がますます温暖化に走ることは容易に想像できる。

だからこそ原子力発電が必要なのだという声が聞こえてくるが、安全性を無視した原子力発電に傾き、その結果の悲惨さは福島原発事故でいやというほど教えられたので、核の平和利用などは幻想であることは論を待たない。

話は少し飛躍するが、地球の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)という組織があり、先日『第五次評価報告書』を発表した。

今回の報告では、2007年の第四次報告書にある、温暖化の原因は人間活動が原因である可能性が『非常に高い(90%以上)』という表現を『極めて高い(95%以上)』に改めているそうだ。その裏には、ここまで警告しても何もしないエネルギ-消費大国へのいらだちが読み取れる。

 報告書の概要はマスコミが報道しているので略すが、温暖化による災いを避けるためには、2000年から50年までの二酸化炭素(CO2)排出量を一兆トン以内に抑える必要があるという。

 気温が一度上がると、大気中の水蒸気は約7%増えるそうで、水蒸気の増加が大気の不安定につながり、今日的に世界各地で起きている異常気象現象を引き起こす要因だと警告している。

 実に説得力があるが、実現できるかとなると難しい。しかし、努力しなければその先に見えるのは破滅であることも間違いないとなると、今までふんだんにエネルギ-を使い便利で快適な生活を謳歌してきた我が国はじめ先進諸国は、少なくとも発展途上の国々と人々のためにも、破滅の日を少しでも延ばす義務があるのではないだろうか。

 決論的には簡単。私は『ほんの少しの我慢』をすれば良いだけだと思っている。ただ、日々を穏やかに暮らしている庶民に『ほんの少しの我慢』を押しつけるのではないということは言うまでもない。

 世界が努力をはじめたとしても、簡単には異常気象はなくならないだろう。ますます増えることもあり得るだろうが、自然災害を反面教師として、その都度、自分たちの周りの環境を考え直すことが必要ではなかろうか・・・。(田舎親父)

2013年10月12日 (土)

たれもアメリカさまのご命令?・・・

 嫌な記憶で思い出したくもないが、『消費税率アップに命をかける』と明言した汚染ドジョウのもう一つの重要な公約批判がTPP交渉参加だった。農水相だったヤマダという議員までも党から追い出して、強引に交渉参加を進めたことも許し難い記憶の一つになって、頭の隅にへばりついている。

消費税問題で完全に敗北した民主党政権に代わり、政権の座についたアヘ内閣。もともと消費税を上げたくてたまらなかったこともあって、全ての責任を汚染ドショウと民主党に押しつけ、美味しいところだけいただく方式で、国会内ではほとんどの反対もなく消費税の値上げを決めてしまったことは何度も語ったこと。

消費税に続いて、アヘ首相と取り巻き連達は、このTPP交渉でも、民主党は反対できる立場にないことを見越して、勝手放題。全てがアメリカさまの思い通りの展開になっているようだ。

自民党内の当初の約束事は『聖域を設けてそこには指一本も触れささない』で一致していたと報じられていた。そして、聖域とは何かと問われた時、コメ・ムギ・肉・乳製品・砂糖の5品目と実に明快に答えていた。

参院選挙でも『聖域なき関税撤廃には断固反対』という政権公約だと受け止めていたが、なぜか争点にはならず(ならさない作戦立ったことは明らか)ここ数日のTPP関連の報道を読む限り、この公約は日々意味が怪しくなり、どうやら『聖域』という定義そのものか根底から覆りそうな感じを受ける。

これは民衆党が『消費増税はしません』と言っていたにも関わらず、突如豹変したことに匹敵する重大な約束違反である。いや、消費税増税以上に国民生活に影響するほど大きな問題ではないだろうか。

当初の公約文面を常識的に解釈すれば、聖域とされるコメやムギなどには従来通りの関税は維持するということになるのだが、最近になって、重要5品目ではなく、(今まで国民には絶対に知られたくない情報として徹底的に隠していたようだが)5項目であり、その中には600近い品目があることが明らかになっている。

先日、インドネシアのバリ島でTPP交渉の首脳会議が開かれたが、アヘ首相は唐突に譲歩の姿勢を見せはじめ、年内妥結が重要で、聖域の見直しに言及したという。折しもアメリカのオバマ大統領が国内の経済問題で動くに動けない状態が影響しているのではないだろうか。

オバマ・・今回行けないので、アンタ、俺の代わりに会議を主導してくれないか。

アヘ・・・喜んで、閣下の意図をくみ取って各国の得るように奮闘しますのでご安心を。

なんて会話でもあったとしたら、下司の勘繰りかもしれないが、突然の譲歩の背景が理解し易い。

迂闊ながら、TPPの交渉団の対策委員長がニシカワという人物だということをはじめて知る。このことは(私が知らないだけだと思いたいが)多くの国民も知らなかったのではないだろうか。このニシカワという名前が、数日前から新聞紙上を大きく賑わしている。

ニシカワ委員長は、首相の命令があったのだろうが、記者会見の席上で、『聖域』として関税維持を求めてきたコメなど農産物の重要5品目について、関税撤廃できるかどうかを党内で検討することを明らかにしたという。

5品目ではなく5項目であり、その中にある約600品目のうち、関税を撤廃しても国益を損なわないものがあるから、検討するのだそうだが、約600の品目とは何かと問われたら、交渉に差し支えるから言えないとのこと。

アメリカさまのご命令とは言えあまりにもひどすぎる。この一つをとってもアヘ政権のいい加減さは明らかなのだが、自民党の幹部たち、特にイシバというアメリカさま命の幹事長の豹変ぶりはそれ以上に酷すぎる。

確か、イシバ幹事長は、今月始めの農業団体や消費者団体の大規模集会で、『重要5品目の関税は必ず守る』と大見得を切ったはず。その映像がテレビで流れていたが、ニシカワ委員長の発言が出ると『5項目の細目の中で、撤廃を検討するのは公約違反ではない』と居直っているというから呆れる限り。

党内事情があることは想像に難くないが、近い将来、TPP交渉がまとまりましたと発表された内容は今から容易に想像できそうだ。それでも自民党政権が続くとなると、ゾッとしているのは私だけだろうか・・・。(田舎親父)

2013年10月11日 (金)

大阪市教委の執念には驚愕・・・

 以前にも取り上げたが、大阪市教委は(誰かさんの命令なのかもしれないが)学力テストの点数にはひどく敏感で、常連下位の成績を少しでも上げることに異常な執念を持っているらしい。だからだろうが、校長の尻を叩き、『一点でも上げろ』とわめいている姿が想像できる報道が続いている。

先日は、今年の4月に小・中学校で実施した今年度の全国学力調査について、市内の全校長に対して学校別の成績(平均正答率)をホームページなどで原則公表させることを通達下との記事に、いよいよここまで来たのかと半ば呆れながらも、その執念の凄まじさに愕然とする。

 大阪市教委は学校運営の管理規則に『成績を速やかに公表する』という一項を追加したというから、校長は嫌でも公表しなければ処分の対象になってしまうようだ。

今月中に校長を召集して、この通達を徹底するらしいから、今頃、一部の良識ある校長は深く思い悩んでいるのではないだろうか。もっとも、市教委の方針がここまで徹底しているとなると、拒否することはもとより、思い悩む校長など存在しないという分析があるのかもしれないが・・・。

 この通達には、特別支援学校や、調査に参加した小6、中3が1学級しかない小規模校約80校は『公表しないことができる』のだそうだ。これも変な話であるが、迂闊なことに特別支援学校の児童生徒にも全国一斉のテストをしていたことを知らなかった。しかし、支援学級に通う子どもたちの個性は、普通学校のそれに比べて比較差が大きいことを考えると、ますます『全国一斉』に行わねばならない意味がわからなくなってくる。

 特別支援学校の成績は公表しなくても良いことは当然として、小規模学校は公表の対象にしないというのも何か含むところがありそうだ。うがって考えると、来春からはじめるらしい学校選択制度への影響と、2学級以上の学校では、今後クラス別の成績にも言及する姿勢が隠されているのではないだろうか。

 さすがの文科省はこの通達には驚いているらしいが、最近、『学校が保護者への説明責任を果たすため、自校の結果を公表するのは各校の判断に委ねる』という姿勢を打ち出したと報じられている。大阪市教委はこの判断を根拠にしているのだろうから、文句はつけられないようだ。

 記事には、市教委は昨年度も公表を迫る姿勢は持っていたらしく、今では全国の小中学校では当たり前になっている保護者や地域有力者で作る『学校協議会』で検討するように指示していたという。しかし、その結果は、全小・中429校のうち、公表した学校は今年6月末で、たった19校にとどまったとあるから、校長たちも本気で,この方針を阻止していることをうかがわさせる。

 市教委はこの数をどう分析したのか知りたいところだが、来年度から学校選択制度を導入することを決めていることから、保護者がこの結果を基にして学校を選択するだろうと期待している?のではないだろうか。

 学校選択制度というのは保護者に選んでもらわなければその学校の存在がなくなるという、学校にとっては死活問題。各学校間の競争は激しくなることは、経験的に十分理解できる。

 10年以上前のことであるが、都内のある区で、『畑と英語とコンピ-タ』というキャッチコピ-で学校経営方針を明らかにし、動植物の飼育栽培活動や独自の体験学習を実践した小学校が、それまでは50名程度の入学希望者だったのが、学校選択性を打ち出した年から一挙に倍増し、3学級編成になった例がある。アエラにも『親が選ぶ小学校』として掲載されていた。

 校長が交代し経営方針が変わったことで、現在では入学希望者は年々少なくなり、単学級の可能性もあるというから、学校選択制度による、学校間の競争の結果は厳しいものがあるはっきりわかる例でもある。

 大阪市教委は、こんな情報をどこかから仕入れて、学力テストの点数ならば、校長にリスクをかけてまで特色ある学校作りは必要ないとと判断したのかもしれないが、テストの点数を争うことが、学校選択性で生き抜く手段だとするとあまりにも悲しく情けない。

学校間のテストの点数の比較が過熱し、序列化や過度な競争が起きるのではないかという疑念は現場の校長に強いとある。当然だろう。学力(テストの点数の低さ)に課題を抱える小学校は『あの地域は点数が低い』と判断されるとなると、子どもに跳ね返ることは間違いない。その結果、非行に走る児童生徒が増える可能性は否定できない。

何度も繰り返しているが、テストの点数が全てではなく、それぞれの子どもの個性を大事にする学校、それが教育の本質であることを忘れてはならない。(田舎親父)

2013年10月10日 (木)

風評被害とは嫌な言葉・・・

 『風評被害』とは、どちらの側に立つかによって、その意味が全く変わると言うと叱られるかもしれないか、実に面白い使われ方をする言葉である。

福島県産という表示があるだけで、放射能に汚染されていると感じ、買うことを控えるのは誰でも経験することだろう。実を言うと私もその一人のようだが・・・。

気持ち的には、買ってあげなければと思い、例え少しでも放射能が残っていても、たまに食べたとしてもたいした影響はないだろうという思いを持ちながらも、(原発事故後には)放射能検査済みとはいえ、どことなく不安で、同じ種類の品物があれば間違いなく福島県よりできるだけ遠い産地のものを求めていることに気づき、自分自身、いわゆる『風評被害』という一般概念に侵されていることに愕然とする。

しかし、(愕然としながらも)これを改めるとなると、なかなかすんなりいかないもどかしさも感じ、これは『風評被害』ではなく、実際にどこまで厳重な検査をしているかということに対しての不信感があるからだと自己弁明。さらに、あれほどの事故で、放射線の影響を受けていないことなどあるはずがないと言う気持ちが強く、結果的には、福島県産の食料を避けることに、あまり良心の呵責を感じていないのも正直な気持ちであることも否定しない。

恐らく、国民の多くは私と似たりよったりだろうと思うが、これでは福島県内で食品生産している人たちとしては生活できないことも十分理解できるから悩ましい。

生産者としたら、国の基準では安全・安心なのに・・・という気持ちを持っているのだろうが、消費者としたら、本当に大丈夫という一抹の不安心が消えないので、ついつい後ずさりしてしまう。互いの『風評被害』を風評でなくするためには、信用できる機関の『安全・安心』だという証明であることは論を待たない。

本来なら、国の証明がもっとも信頼できるはずなのだが、国の出す証明が頼りないから困ったものである。国民の信頼が得られないのは、当時の民主党政権が、情報を徹底的に隠蔽し、『人体に影響がない』と繰り返し、安全・安心という言葉の安売りしたことが背景になっていることも間違いないところ。

生産者は、検査しているのだから大丈夫だと信じて出荷しているのだろうが、県内でも、県内産の農産物を学校給食では出さないところも自治体も多いというから説得力が欠けるということになってしまう。これでは、福島県民が互いに風評被害をあおっていることになることになり、さらにこの問題を複雑にしている。

そんな風評被害を解消するために、福島市は昨年から県内産のコメを給食に出しているそうだ。しかし、これに反発している保護者も多く、中には『給食で出す以上、自宅では福島県と北関東産の食品を絶対に子どもに食べさせない』という家庭も少なくないという。

さらに、これらの保護者を支援する団体も存在し、『田畑の中でも、放射能の数値は一定ではない。精密な全量検査ができない以上、子どもに地元産の食品を食べさせるべきではない』との主張しているのだそうだが、これも頭から否定できない。

さらに『安心して食べられるには1ベクレルまで測り、除染に努力している農家を支援していくしかない』という人々も多いらしいが、これは正論。しかし、実際にこんなことが可能かというと、先は難しい。

生産者はこんなに苦労しているのも、絶対に安全だとの国のお墨付きがあって作り、広げてきた原発が、地震の前には無力だったことなのだが、いまだ核燃料すら取り出せず、事故の検証もできないのに、国内の原発の再稼働はもとより、現政権は海外に『日本の作る原発は安全で且つ安心』だと売り込むというのも許し難い。政治世界では、風評被害など全く意に介していないことになる。

『風評被害』という言葉をなくすためには、まず、原発事故を謙虚に反省し、誰の目にも明らかな測定方法で、事故原発周辺50キロに限らず、全国の放射線の値を一斉に検査し、事実のみを公表することだと思うのだが、よしんば現政権がそれを行ったとしても、完全に信頼できるかというと、これも怪しい限り。

どこからこんな予算が捻出できるのという声が聞こえてきそうだが、信頼できるデ-タを集めるためには、国民全員(各家庭)に高機能の放射線測定器を与え、徹底的に測定することしかないのではないだろうか。

ともあれ、『風評被害』という言葉は嫌な響きがあり、これ以上広がってほしくないものであるが・・・。(田舎親父)

2013年10月 9日 (水)

美談で終わらしてはいけない・・・

 バリ島で行われていたTPP交渉が終わったらしい。オバマ大統領が国内の経済問題で欠席、『アヘ、あとは上手くやってくれ』と言ったかどうかは定かではないが、早速アメリカのためならと猛烈に張り切ったようだ。『国益を守らない妥結はあり得ない』と大見得を切っていたが、聖域という言葉が聞こえなくなり、年内妥結という姿勢がいよいよ強くなっている。
 今日は、このことを話題にしようと思ったが、こちらの方と賞味期限のギリギリのようだから、あえて、人助けのため踏切で亡くなった女性の話題を優先したい。

 先日、私の住む横浜の片田舎で、自殺しようとしていた?年寄りを、一人の女性が身の危険も省みず、降りている遮断機をかいぐぐって老人を助けようとして、電車にはねられた事故現場にでかけ冥福を祈ってきた。

 三方が金網で囲まれた小さな空間には、献花台が設けられたくさんの花束が何段にも重ねられている。私がでかけた時間には人影はまばらだったが、ガ-ドマンが立っているところから想像すると、時間によってはかなりの混雑があったようだ。
 それでも、テレビ局のキャスタ-だろうと思うが、献花に来たらしい親娘にインタビュ-してその様子をカメラが捉えていた。近くには、新聞社の腕章をつけた記者らしい姿も数人見かけるところから、この事件にマスコミが大きな関心を寄せていることが読み取れる。実際に、続報が続いている。
 その翌日、亡くなった女性の通夜が冷たい雨が降り続いている中に、十日市場駅近くの斎場で行われ、そこに官房長官が首相の感謝状を持って訪問したというニュ-スがテレビ各局は大きく報じていた。私が見た画面にはなかったが、県知事や横浜市長も感謝状を持って訪問し、感謝状を贈り弔意を表したとのことである。
 国や県、あるいは市のトップが直接弔意を表すことには疑義はない。が、『感謝状』という言葉が何となく引っかかる。
 亡くなった女性の何に対して感謝するのだろう。自殺願望の年寄りを、身を挺して救ったことに対して国が感謝というのなら、あまりにも悲しすぎる。もし、この女性が亡くならなかったら感謝状はあり得ないだろう。だとしたら、命を失ったことに対して感謝?。これではますます感謝という言葉の意味がわからなくなりそうだ。
 仮に、県や市がこの踏切の危険性を早くから認識していた立体化を進めていたと仮定してみよう。何らかの理由があって進まなかったが、この女性が命を落としてくれたおかげで進展するとなると、かなり表現はきわどくなるが、ある意味『感謝』というのもわからないでもないが、感謝するのは踏切がなくなった段階で恩恵を受ける人々で、90%以上の市民、県民ととっては遠い話。
 繰り返しになるが、老人を助けるために身を犠牲にしたことに、行政が『感謝状』というのも何となくすっきりしない。まさか、県や市が、これでJRに対して強く要求できるという事情でもあるならは話は別になるが・・・。
 老人は踏切の中で線路に覆いかぶさっていたという。しかし、この女性が瞬間的に、線路の隙間に移動させたので大怪我をしたものの命は助かったと報じている。凄いという一言しか出てこない。一瞬の間に、非力な女性が老人とはいえ自分よりも重い男性を動かすとは、想像もできないが・・・。
  ところで、助けられた高齢の男性は、今頃病院の一室で何を考えているのだろう。ありがとうと素直な気持ちでいるだろうか。真偽はわからないが、自殺する意志があったとしたら、あまりにも女性が気の毒すぎる。
 このあたりもっと掘り下げて考えるべきだと思うのだが、ここにも人権という壁があるようで、この老人のことに関してマスコミの口は固い。もし、老人に自殺の意図がはっきりしたら、この事故は自殺者を救ったことになる。となると、この事故は全く違う問題の存在と課題が出てくるのでは。あとは口にしたくないが・・・。
 首相の感謝状を運んだ官房長官は、『勇気ある行動をたたえる。他人にあまり関心を払わない風潮の中で、自らの生命の危険を顧みずに救出に当たった行為を国民とともに胸に刻みたい』と語ったという。
 長官の言葉の裏には『こんな美談はない』という思いがあるのだろう。たしかに美談に違いない。道徳の教科書ですぐに取り上げても奇怪しくないほど、ある意味では最高の教材になるだろう。
 しかし、黄泉の国があり、この女性にインタビュ-できたとしたら、彼女は『教材などにしてほしくない』と否定し、『大事なのは、私の死を踏切という危険なものをなくすことに役立ててほしい』と答えると信じたい。
 冥福を心から祈るが、美談で終えてほしくない。まして、感謝状という形態で、課題を見えにくくすることだけはごめん被りたいものである。(田舎親父)

2013年10月 8日 (火)

何故 支持率か落ちないのだろう・・・

 数日前に、アメリカの国務長官と国防長官がそろって来日し、日本の外相と防衛相と会談したとの報道があった。この会談は,2プラス2と呼ばれるそうだ。

2プラス2は毎年行われているとのことだが、通常はアメリカで開催され、日本で行われることは17年ぶりだという。アメリカ側が二人の最重要閣僚を同時に日本に派遣することは、(アメリカのはっきりした意図があるのはミエミエなのに)政府は大喜びしているらしい。こんな姿勢では会談前から結果はわかっているような気がする。

 会談後に、両政府は指針の見直しや、アメリカ軍普天間飛行場の名護市辺野古への県内移設推進などを盛り込んだ共同文書を発表したが、恐らく、その内容となると、細かな部分は最重要機密になっていて、国民が知ることができないだろう、

マスコミ報道から推測する限り、アメリカ側の主張をそのままを、『従来から我が国で考えていたこと』とばかり、すんなり受け入れたものになっているような気がする。

日本とアメリカの防衛協力のための指針は『ガイドライン』と呼ばれ、日本が外国(当時のソビエトと中国・北朝鮮)から、直接武力攻撃を受けるたり、日本周辺で有事が起きた際の、自衛隊とアメリカ軍との役割分担を記したものだという。

『ガイドライン』は1978年に策定され、東西冷戦終結後の97年、朝鮮半島での北朝鮮を仮想敵国とした有事などの『周辺事態』を想定した現在の内容に改められたそうだが、専門家やよほどの軍事オタクでなければ関心もないのではないだろうか。私もその一人である。もっとも、知ろうとしても、軍事機密のベ-ルが覆っているので、知る手だてはないが・・・。

ともあれ、自国の防衛は当然だとしても、『アメリカ軍と同等な作戦を展開するのが、日本国防衛には絶対必要で、そのことが大国日本を世界が認める唯一のこと』だと信じて疑わない人々にとっては、世界各地に国防軍と名前を変えた自衛隊を派遣したくて仕方ないようだ。

しかし、『戦争放棄』を明確にうたっている日本国憲法の下では、我が国に対しての直接的な侵略行為に対してだけしか軍事行動が許されないとなると、憲法改定が絶対に必要だということは、私でもわかること。

アメリカ経済がかなり厳しいと連日報じられている。なんでも、アメリカでは法律で債務超過の額が決まっているのだそうだ。すでに、その額を突破しているというから、大統領としては超過額の引き上げが必要なのに、下院の野党共和党が頑強に反対しているというから、簡単には解決しそうにない。

まさか、このまま不履行騒ぎにはならないとは思うが、例え、何とかその場はしのげても、軍事予算の大幅な削減は避けられず、このままだとアジアでの軍事体制が維持できなくなる可能性があることは私にでも理解できる。

何とか日本に肩代わりさせたいのが本音だろうが、アヘ首相はじめ自民党の右寄り思想の議員たちは、アメリカの代わりに『世界の警察』になろうという野心があるらしく、この際一挙に、憲法改正という方向を描いているようだ。

 今回のガイドラインの見直しの背景には、中国の台頭や北朝鮮の核・ミサイル開発など日本周辺の政治的な不安定化を機に、自衛隊の能力と役割を拡大し、アメリカ軍により協力(究極的には取って代わりたい)しようとする意図がはっきりしている。アヘ首相が目指す憲法改正、自衛隊の国防軍化の動きと一体であることはミエミエ。

 政府内にはすでに、防衛大綱の見直しを進める『防衛力のあり方を検討する委員会』という組織と、集団的自衛権の行使を容認するための『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』という二つの諮問機関が動きだし、両方を兼任する委員長が『集団的自衛権を部分的に容認するのは法律の理屈としてあり得ない』という姿勢を明確に打ち出しているのも不気味である。

 国民に堂々と訴え、選挙によって衆参両院で3分の2以上の議席を確保するのは、さすがに無理と判断したらしく、このような首相の私的な諮問機関の提言を『錦の御旗』に、憲法の趣旨を変質させてしまうのは姑息としか表現のしようがない。

 なのに、このように軍事行動への道を切り開こうとするアヘ政権に対する支持率が落ちないのは何故なのだろう。私には、このことが不思議なのだが・・・。

せめて原発事故を完全に収束させてから、憲法改正に動き出すのならまだしもなのだが、こちらも、原発事故など忘れたかのように『安全基準』を厳しくすれば、安全・安心だと平気で言い出す神経も許し難いのに・・・である。(田舎親父)

2013年10月 7日 (月)

維持管理費を考えていなかった?・・・

 都民の中で実際に都庁に入ったことのある人の割合はどれぐらいだろう。全くの当てずっぽうの推測だが、半分にも満たないのではないだろうか。いや、それどころか10%程度以下ということもあり得ないことではないようにも思えるが・・・。

 というのは、区所属であっても身分的には都の職員であった私は、現職時代、実際に都庁の中に入ったのは、思い出すのも難しいほど。退職してから『ネット社会と子どもたち協議会(だったと思う)』のメンバ-として、その会合が都庁内であり、ほとんど毎回出席していたので、それと混同していることが多いが、正確には、一度か二度ではなかっただろうか。

 区所属の課長職待遇だった私でもその程度だから、ごく普通の職員が都庁にでかけるとなると、職務上、都の職員との打ち合わせの必要がある場合を除いては、名誉なことで表彰されるか、逆に懲罰で担当部署から呼びされることに限られているのではないだろうか。

まして一般都民となると、用向きは区市町村役場で全て完了するだろうから、都庁にでかけるのは、それこそ観光目的か、よほどの用件でなければ機会はない。このあたりを推察して10%程度という数値をはじき出しているのだが・・・。

 変な書き出しになったが、都民にとっては都庁という建物は、雲の上(実際に雨が降っていたら、上階は霞んで見えない)のような存在に違いない。その改修に762億円の巨費を投じるというから、無駄という題材にピタリと一致する。

この都庁が丸の内から当時の淀橋浄水場跡に移転、威容を誇る建物が出現し、慌ただしく移転したのは、私の現職中のことだったので、その当時の記憶はかなり鮮明に残っている。

当時の都知事が世界的な建築家に設計し、(評価は分かれるが)当時から、世間から揶揄を含めて『バブルの塔』と呼ばれる豪華庁舎にはビックリしたものである。テレビの画面で紹介された48階建ての第一本庁舎、34階建ての第二本庁舎、7階建ての都議会議事堂の映像には度肝を抜かれた人も多いだろう。

それは1991年のこと。それからわずか20数年、はやくも大規模改修が必要なほど老朽化が進んでいるというから、まさに『バブルの塔』の名前に相応しい。

『ネット社会・・・』の会合で都庁に出入りしていた7、8年前にも、都庁に勤めている関係者の人から、空調などの老朽化が酷いと聞いた時には一瞬信じられなかったが、形が複雑で窓拭き一つ簡単ではない建物では保守管理が難しく、痛みの少ないうちに補修しないと、ダメ-ジが大きくなるとの説明に、何とまあ無駄な建物を作ったものだと感じた記憶が蘇る。

毎年、数億(だったかな)という金額をかけて保守管理しているのだろが、それでは間に合わず、いよいよ本格的に改修するそうだが、その費用が前述した通り762億円というから物凄い。

建設費が1569億円だといわれているので、たった20数年で、建設費の約半分の金額をつぎ込んで大修理をしなければならないことも問題だが、改めて、よくぞこんな無駄の象徴のような建築物を作ったのかという呆れが先に立つ。多くの都民の思いは私以上ではないだろうか。

この計画にはさすがに、前知事よりワンマンだといわれている現知事も気が引けたらしく、もう少し削減しろと命じたのだそうだ。都の担当幹部たちは、怒鳴り散らされてはたまらないとばかり、連日協議を重ね約60億円程度の削減計画をまとめたという。

その内訳を先日東京新聞が掲載していた。記事によると、第一本庁舎と第二本庁舎の照明や給排水機、トイレの便器など購入予定の備品の見積もりを見直し、より安く発注するという。一個当たりの削減額は少ないが、庁舎全体では備品は数千種類に上るため、削減額は数十億円分になるとのことであるが、どうやら今回の改修では、今使っている器具類全てを廃棄して新しく購入するらしい。

また、本年度に発注する給排水や空調の配管について、使用可能かどうかを精査。使える配管は徹底的に再利用することで、数十億円分を節約し、備品の見直しや配管の再利用などで計60億円を削減する計画だという。担当責任者はこれでギリギリと言っているらしいが、果たして怪しい限り・・・。

ワンマン都知事は大向こうを意識して、『今の金額は前提とせず、まだまだ精査する。詰めるところは詰めていきたい』と、更なる削減に意欲を見せているようだが、備品購入を含む改修工事に関する入札は既に終えているというから、これ以上の削減を入札業者が簡単に納得するとは思えない。

備品の品質を少し下げるだけ程度で60億円もの節約になるということは、裏を返せばそれだけ最初から相場よりも高い契約にしているとも考えられそうだ。それにしても60億円を節約できたとしても700億円超の修理費は莫大すぎる。

それこそ今流行りの『第三者委員会』でも設けて、根本的に洗い直してもらわねば,オリンピックが開催できたとしても、終わったら、都の財政はガタガタになっているのでは。

私の杞憂でなければ良いが・・・。(田舎親父)

2013年10月 5日 (土)

消費税増税の茶番記者会見・・・

 1日の夕方のテレビ各局は、テレビ東京のアニメ番組以外は全て『アヘ首相の消費税増税の記者会見』一色。その会見には、『苦渋の選択』という言葉とは裏腹に、『してやったり』という気持ちが顔に出ていたと感じたのは私だけだっただろうか。

 これで、来年4月から消費税の8%への引き上げが決まった。将来的には増税も仕方ないことだろうとは思うが、その前提には、何のためにという明確な説明が最低必要条件。今回の増税に関しては、それがない。

 何度も述べているので、自分でも食傷気味になっているが、このことについては許し難く、どうしても愚痴りたくなる。

ことは、民主党のアホカン首相が唐突に『マニフェスト』とは違うことを言い出したことから始まった。政権交代の波に乗った民主党は3年前の選挙で圧勝して、政権奪取に成功したことは改めて述べるまでもないが、その『政権公約(当時何故かマニフェストとカタカナだったことも今思うと粉飾ものだが)』には、はっきり『消費税増税をしない』と明記していた。

初代のハトヤマ首相は『私の政権では増税しない』と宣言、無駄をなくせば財源が出てくると、『仕分け』という手法を全面に出し、一時はそれが国民から大喝采を受けたことはもはや遠い過去のことになってしまった。

この政権の財務相に就任したのがアホカン氏。財務省の官僚から『消費税増税しか経済建て直し策はない』と吹き込まれたらしく、完全に増税派に鞍替え、たった1年でハトヤマ首相が降板すると、あらゆる手を使って自ら首相になるや否や、『消費税10%』とその数値まで言い出す厚顔無恥ぶりに、自民党はニンマリ。早速、裏での協議がはじまったというネット情報の記憶が蘇る。そして、このあたりから、国民の間には、やはり民主党では無理・・・という雰囲気が流れはじめる。

そこに東北大津波と福島第一原発事故か重なり、特に原発事故の対応に支離滅裂な動きをしたアホカン一家のデタラメさに国民の怒りが爆発、党内からも見限られ退陣に追い込まれた。ところが、アホカン内閣で財務相に抜擢したオセンドジョウという男がアホカン以上に財務官僚に取り込まれたらしく、さらに手段を選ばない代表選挙で総理の座についたのが国民の悲劇。

この男は、震災や原発事故の復興などは見向きもせず、『消費増税は命にかけても』などと信じられないことを言い出し、おおっぴらに自民党と組んで増税を決めてしまったことは周知のこと。

 これで国民の意識は全く逆転。『民主党ではダメだ』という雰囲気が圧倒的になり、政治劇には実力のある配役揃いの自民党にコロリと騙されて、解散という一番やってはいけない愚を選択し、結果的には壊滅的な敗北。さらに、先の参院選では党の存在価値すらなくし、アヘ内閣の支持率に積極的に寄与する体たらくに・・・。

 選挙上手の自民党(宗教政党はもっと上手いが)は、昨年末の衆院に続いて、7月の参院選では消費税増税は争点にすることを避けて、民主党の崩壊ム-ドを味方につけて圧勝。首相は国民の信託を得たと態度を強くして、すぐに消費増税法案の付則に『成長戦略や事前防災、減災などの分野に資金を重点的に配分する』と追記したことは、さほど古い話ではない。

 これで、消費税の使い道が社会保障に限るという、あのオセンドジョウ男でさえ最低限の国民との約束だと言っていたことが完全に破棄されて、公共事業など何でもありになってしまった。

 こんなことを許してはならないのだが、マスコミの報道が全てで、正しいとすりこまれている圧倒的多数の国民は、つい先日の共同通信の世論調査では、消費増の増税に賛成が53%というから、来年4月からの消費税8%にどのように対応するのかが重要になっているらしい。

 その一つに『駆け込み商戦』があるという。消費税の値上がりを見込んで、それまでに売り込もうという作戦である。百貨店やスーパーが品ぞろえの強化や季節商品の前倒し販売で消費者にアピール、来年だけではなく再来年以降の新入生のために勉強机やランドセルが飛ぶように売れているのだそうだ。

 9月中に契約すれば現行5%ということが影響しているのだろうが、散策途中で最近必ず見かけるのが建売住宅の新築現場。まさかこんなところには・・・と思っていた崖地なども何のその、切り開き埋め立てて、ギリギリ数軒から十数軒のスペ-スを作り出し、そこに一斉に家を建てている光景。これも駆け込み商法だと思うが、わずか2ケ月足らずで建てられた家では、大丈夫などといらぬ心配をしたくなる。

 マスコミ記事によれば 全国的に宝飾品や家具の売れ行きも好調で、売り手側は『駆け込み需要が始まった』とウハウハものらしいが、来年4月からは、購買意欲がばったりと途絶えるたらどうするのだろうとこちらも余計な心配をしてしまう。

 その反面、庶民の家庭では今から倹約ム-ドが高まっているという。先日も町の声を拾っていたが、一円でも安いス-パ-にとか亭主の小遣いを減らすとか、聞いていて涙が出てくるほど悲しくなる。

 言いたいことは山ほどあるが、国民をここまでいじめる自民党政権に対して、怒りを爆発させないどころか、内閣支持率が高く安定している?ことが、私にはどうしても理解できない。また、同じようなグチに照ってしまったが・・・。(田舎親父)

2013年10月 4日 (金)

義務を忘れた親たち・・・

 一月以上前のことになるが、窓のブラインドやカーテンに付いたひもが子供の首にかかり、窒息する事故が相次いでおり、昨年には男児が死亡していたことが、日本小児科学会の調べで分かったという記事を見つけ、そんなことがあり得るのかという疑問もあって、概要をメモしていた。

該当事故があったのは昨年11月のことである。生後6か月の男児が自宅でブラインドのひもが首にかかった状態で見つかり、死亡したのだそうだ。そばのベッドで寝ていてベッドから落ちた際、ひもがひっかかったとみられるとのことだが、目の前のブラインドを見ながら随分長い時間、情景を思い浮かべているのだが、その絵が描けない。

たしかに目の前の、上げた状態にしているブラインドからは3本のひもがぶら下がっている。そして下方でル-プ状になっているが、このル-プの幅は5、6センチ。いくら生後6ケ月とはいえ、この児の頭がすっぽり入るとは思えない。

ブラインドを完全に下ろして観察してみる。ひもは一本になり、下方でごく短い範囲でル-プの部分が現れる。が、頭が入るほどではない。さらに、真ん中付近で止めてみると、ひもは2本。この状態ではじめてル-プの幅が広がり、これぐらいの幅があればひょっとして頭が入るかもしれないと思わせるが・・・。しかし、ベビ-ベットから落ちるという言葉がひっかかり、やはり無理ではないかという結論になる。

ほとんど子育てにかかわってこなかったことは事実だが、私も一応2児の父親であるので、ベビ-ベットと呼ばれている乳幼児向きに作られている寝台の様子は知っているつもりである。

ベビ-ベットにもいろいろあって、豪華絢爛ものから、簡単な囲いの中に板が敷いてあるものまで格差は著しい。しかし、貧乏人の私の使ったごく安物のそれであっても、転落防止として、少なくとも乳幼児が立っても転落しないだけの高さの柵はあったと記憶している。高額なベットであっても、多機能で豪華なデザインになっているが、その仕組みは変わらず、高ささはまちまちだが、転落防止用の柵が義務づけられているのではなかっただろうか。

自作する人もいるに違いないが、転落防止の柵をつけないとは考えにくい。となると、自作のベットから転落とブラインドのひもという組み合わせには納得できそうもない。

記事にもあるが、ブラインドのひもによる死亡事故が明らかになったのは初めてだというのも当然だろうが、それにしても信じられないような事故が起きるものと、呆れを通り越して唖然とするだけ・・・。

しかし事実事故が起き、子どもの首が引っかかった状態で発見されている。生後6ケ月の乳児が、親が気づかない動きをしたのだろうが、母親(父親も同じだが)がわからなかったとなると、真夏の日中に車に子どもを置き去りにしてパチンコにうつつを抜かしていた親と(その無知というか愚のほどは)変わらない。

 何故こんな古い記事を思い出したかといえば、先月末の夕方、山口県萩市の市道で、大型ワンボックスカーのサンルーフから顔を出していた6歳の女児(6)がJR山陰線の高架橋にぶつかり、搬送先の病院で死亡したという記事を見たからである。

 たしかにブラインドのひもが首に引っかかるという不可解さに比べると、女児か立ち上がって車のサンル-フから頭を出すことは状況的には可能だろうが、そんな状態で高架橋の下を速度も落とさずに車を走らせるなんてことがあり得るのだろうかと、不思議さが消えない。

 高架橋には『高さ制限1・8メートル』と注意喚起する看板が掛かっていたという。これにも強い違和感を覚える。この種の看板を目にすることは稀ではないが、ほとんどの場合は歩行者専用道路ではなかろうか。時に車も通る道路もあるだろうが、道幅が極端に狭く徐行運転でしか通れないのでは・・・。

 通り抜けるのにも緊張するような狭く低い道路を、女児の母親はサンル-フから頭を出している子どもに気づかず通り抜けようとしたのだろうか。私には理解できないが、もしそうだとしたら、『親』という言葉の解釈を変えねばならなくなりそうだ。

 無知な親のしかも不注意で起きる事故であっても、最近はブラインドの作りが悪い、低い高架橋を放置しているJRの責任ということになんて、訴訟に発展することが多いのも気になるところ。

子育てが大変で支援は必然であることには疑義はないが、その前に、『義務』という言葉の意味を、国民的な議論ではっきりさせることが大事だと思うのだが・・・。(田舎親父)

2013年10月 3日 (木)

いじめを法でなくそうとする愚・・・

 少し話が古くなるが、いじめから子供を守るため、学校や行政の責務を定めた『いじめ防止対策推進法』という法律が先月28日に施行という記事が目に留まる。

この法律は、(私も話題にしたことがあるが)大津市の中2男子がいじめによるとされる自殺が社会問題として世間を騒がせたことをきっかけに、与野党の議員立法で成立したということは記憶がある。

しかし、運用に必要な国の基本方針作りが間に合わないとの報道があったので、施行は先だろうと思っていたのに、施行日の変更はできず見切り発射になったのだそうだ。関わった議員たちは立法化した時点で、この問題に関心が薄くなっているのは確実で、後は文科省の仕事だよ・・・という感覚のだろう。

任された文科省は、早速(仕方なくだろうが)8月に有識者や弁護士、小中学校長ら計14人で構成する『いじめ防止基本方針策定協議会』を立ち上げ、施行までに5回の委員会を開いて、この法律に対する国の基本方針を決める予定だったようだが、結局はまとまらなかったとのことである。

記事によれば、自治体、学校、教員の役割について国がどこまで踏み込むのか、いじめの調査メンバーをどうするのか、など意見がまとまらないまま会を重ね、不満を訴える委員もいたという。そして、先月施行ギリギリの26日の第5回会合でも集約できず、基本方針がないまま施行日に突入することになったようだ。

文科省は『いじめとは人の嫌がる行為』だという。こんな曖昧な意味づけで子どもたちの日常生活を観察すれば、いじめを受ける(与える)子どもは、(私に言わせれば)ゴマンと存在する。それだけ(文科省流の)いじめは日常的に氾濫していることになる。

文科省の定義では、いじめ行為の軽重についての文言がない。『今日遊べる』という言葉はごく普通に聞かれるが、違う友達と遊ぶ約束をしていて『ごめんね、○○ちゃん家に行くので遊べない』という答えも、注意して聞いているとかなり耳にする言葉である。

これをどうとるのか。声をかけた子どもは『自分の事を仲間外れにしている』と思い込んだら、この子からみればいじめである。そして、次の日には、その立場が入れ代わることも・・・。

しかし、『カネを持ってこなければ殴るぞ』となると、これはいじめというより恐喝という犯罪行為であることは誰も異論はないだろう。滋賀県の事件は、この段階になってしまい、自殺に追い込まれたものであることは明らか。

私は常々『大人の社会でもいじめがあるのだから、社会経験が少ない子どもたちの間にいじめが存在することは当たり前』と考え主張している。そして、『犯罪は許してはならない』ことは論を待たないので、いじめ問題を語る時には、『いじめと犯罪』を分けて考えることが前提だと強く訴えている。

犯罪行為にあっている被害者の様子に気づけば、事件は起きなかった可能性はあるだろうが、これを全て教師(学校)の責任だとなると、警察権がない教師がその証拠をつかむことは難しく、簡単に納得できるものではない。

『恐喝行為を知っていながら何もしなかった』のなら、教師(学校)の責任は当然追求されるだろうが、こんな行為が教師の目の前で起きるわけがない。被害を受けている子どもが、『恐喝されています』とはっきり言ってくれれば、すぐに次の手が打てるが、まず絶対にそれはない。

周りの子から、情報を得て、恐喝している(されている)子どもに確かめても、両方そろって否定されたらそれまでとなる。これが学校の現実なのである。

確信かあれば、加害者と思われる子どもに強い指導するのは当然であるが、指導には親の協力が不可欠だがこれが難しい。親を呼び出して事実を告げたとしたら,ほぼ間違いなく『自分の子どもに限って・・・』と否定することも経験的に知っている。

現在の学校にはこれ以上踏み込んで指導する権限がなく、中には、裁判沙汰になることも稀ではないとなると、そこでこの問題がストップしてしまうことは、消極的ながら認めざるを得ない。

『いじめ防止基本方針策定協議会』には、小中学校の校長職もメンバ-になっているらしいが、その校長を誰が選ぶかとなるとこれも曖昧で、その過程を知る人は少ない。多くの場合、都道府県教委の推薦によるものだろうが、いじめ問題が明らかになっているような学校の校長が選ばれることは絶対ない。結局は、いじめとは対局にある『道徳推進校』や全国校長会の『道徳部長』などの肩書を持つ校長が選ばれることは想像に難くない。

残りの12人の委員は、学校現場には全くの素人。席を同じくしている校長の意見が全てと信じて議論を進めるのだから、協議会として国全体の基準作りなど始めから無理なことはわかりきっている。また一つ、こんな協議会そのものが、現場を混乱させる種が増えただけではと暗い気持ちになる。

私に言わせれば、自殺に追い込まれた事件を、後になっていろいろ検証しても子どもの命は戻らないのだから、まず、自殺に追い込まれない子どもをどう育てるかという事を議論するのが先だろうと思ってしまうが・・・。

その具体策の一つに、学校の権限を強化することはももちろんだろうが、もっとも基本になることは、テストの点数が全てという考え方を改めて、日常的に自ら体験する機会を多く作る環境づくりだと確信している。

このことについては何度も述べているので、今日はここまでにしたい。(田舎親父)

2013年10月 2日 (水)

平面交差の生み出す悲劇・・・

 昨日のことである。1時過ぎだっただろうか、いつもの通り、1日1万5千歩をノルマにしている散策の途中のこと、横浜線の十日市場駅の近くの『宝帯寺踏切』近くまで来たところ、踏切り待ちのかなりの車の列にぶつかった。

この踏切を通るたびに感じることは、電車が駅に着く前に警報機が鳴り出すから、とにかく待ち時間が長いこと。その上、通り過ぎてから、チンチンチン・・・と鳴りやまず、10秒以上過ぎてやっと警報音が鳴りやみ警報機が上がる仕組みになっているらしく、いつも『何故通り越したのに?』という気持ちにさせられる。

このため、この踏切が渋滞するのはいつものこと。丁度、警報機がチンチンと鳴っていたことから、今日は特別車が多いのだろうと深く気にかけずに通り過ぎようとしたが、タイミング良く上りの電車が踏切にかかったことからしばし立ち止まって様子を見ていた。

極端にスピ-ドが遅いながら電車は踏切を通り越すが、依然警報機は鳴りやまない。奇怪しいなと思っていると、また、上り線を電車が徐行運転で通り過ぎる。しかし警報機は鳴りつづけて開かない。そして数分後、またまた上りの電車が超徐行運転で通り過ぎ、やっと踏切が明く。

これはどこかで事故があったに違いないと、情報を得るために十日市場駅に着くと、『中山・鴨居間で人身事故が発生したため大幅に遅れている』との電光表示。私が乗るわけではないので、また飛び込み自殺でもあったのだろうかと暗い気持ちになりながらも散策を続ける。

帰宅して、何時も通りネットでニュ-スを見ると『踏切で高齢の男性救助の女性死亡 横浜、電車にはねられ』との見出しを見つける。写真があるので、この現場が中山駅のすぐ近くの『川和踏切』であることを知る。

記事によると、事故が起きたのは午前11時半ごろだという。となると、私が事故に気づいた1時過ぎまで横浜線はストップしていたに違いない。そして、やっと動き出した頃に、隣の駅近くの踏切で、渋滞風景を目撃したようだ。

この踏切で、取り残された高齢の男性を救助しようとしていた女性が電車にはねられたと通行人が110番したという文言から、大体の様子が想像できる。

書き出しにでてきた『宝帯寺踏切』同様、いやそれ以上にこの『川和踏切』は開かない。中山駅は快速電車も停車する。上り線なら、駅から数十メ-トルのこの踏切だから、停車してから遮断機を下ろしても大丈夫だと思うのだが、JRの 安全基準で決められているらしく、電車がホ-ムに入りはじめたらすぐに警報機が鳴り出し、遮断機が降りてしまう。

下り線はこの踏切の手前が大きくカ-ブしているため見通しは極めて悪く、事故が多発する踏切である。このためJRは電車が踏切のはるか遠くにいる位置で警報機が鳴らして遮断機を下ろす方法をとっているのだろうが、こちらも一度下りた遮断機は、電車が駅に着くまで下りたままになっている。いわば、最悪の踏切と言って差し支えない。

時に、この踏切で待つことになった時は、運転手や通行人の顔色をうかがうようにしているのだが、上り電車の場合は、ホ-ムで乗客の乗降の様子を見えている分、余計にイライラが募るらしく、例外なく、何とかならないものかという気持ちが顔に出てくる。

しかも、快速待ち合わせとなると、快速が通過してもホ-ムに各停電車が止まっているので、その各停電車が通過するまでの数分間はチンチン音が鳴り響いている。ここに、合わせたように電車が近づいてくるのはくるとなると、それの状況は・・・。

この事故を夕方のテレビ各局が取り上げていた。横浜線の、しかも中山という超マイナ-町の話題などをテレビで目にするのは珍しいのだが、その内容は各局が競って報道するだけあってかなり話題性がある。

当初、踏切に取り残された高齢の男性は、待ちきれなくて遮断機を潜ったのではないだろうかと思ったのだが、どうやら覚悟の自殺を試みたようだ。目撃者が線路に頭をつけるようにしていたというからほぼ間違いなさそうだ。

ところがその姿を見た40歳の女性が、果敢に踏切内に入って、高齢の男性を助けようとしていたが、そこに見通しの悪い方向から来た下り電車に接触したらしい。気の毒だとしか言いようがないが、また、年寄り絡みで若い命が亡くなった事実に愕然とする。

テレビの報道を見る限り、JR側には過失はなかったように思えるが、現場を良く知っている私から見たら、電車の運転手は見通しが悪いことは知っていたはずと思いたい。しかし、十分な時間遮断機が下りているからという意識があり、まさか自殺願望者がいるとは予測しなかっただろうから、発見が遅れたというところではないだろうか。上り線だったら、停車中の運転席からも踏切が見える距離なのでまず起きない事故である。

今日の朝刊各紙はこの事故を大きく取り上げている。亡くなった女性は仕事関係で父親の車に同乗していたが、踏切で老人がうずくまっている姿を発見して、父親を止めるのを振り切って車を降りて助けようとしたとのことである。正義感があり人情味豊か女性であったということに、改めて気の毒さ感じ冥福を祈る。

横浜線は極めてロ-カルな路線であるが、JR東にとっては山手線に次ぐ収益を稼ぎ出している路線である。しかし、八王子から繭を運んだ歴史を持つこの路線の沿線は開発が遅れ、線路は敷設当時のままの地形なので道路と交差する部分はほとんどが平面交差。その分、極めて長時間遮断機が下りている結果を招いている。

事故のあった踏切は交通量も多く、随分以前から立体交差の計画があると聞いている。もし、計画が実現していれば、今回のよう事故はなく、自らの命も省みず助けに走った女性を死なすことはなかったはず。

JRがどのような対応をするのか見えて来ないか、必要以上に長時間遮断機を下ろしている方針と、今回の自殺を試みた年寄り、そして瞬間的に助けねばと思う心理が、かなり複雑に絡み合っていると思えてしまう。

JR側は、このあたりも真剣にそして謙虚に検討して、危険を省みず踏切をくぐり抜けようと思ったり、まして自殺など考えさせないような、安心且つ安全を保証する具体的な改善(立体交差も含めて)を進めてほしいものである。(田舎親父)

2013年10月 1日 (火)

『解雇自由特区』とは世も末・・・

いわゆるホワイトカラ-と呼ばれる一定水準以上の給料を受け取っている事務職(管理職扱い?)の人たらを対象に、労働時間の規制は原則1日8時間という制度をなくして、深夜や休日にどれだけ働いても割増賃金を払わないことを認める『ホワイトカラ-ンエグゼブション』という制度についてはすでに取り上げた。

現政権はこの制度を作るためにかなりの知恵を絞ったらしいが、あまりにも大企業優先の悪法ということを世間が知るところとなり、また、それを知りながら手を挙げるには時季ではないと判断する大企業が多かったようで、一応,取り下げているが、手をかえ品をかえて『金儲け命』の輩に手を貸す政策を模索していることは想像に難くない。

予想通りでてきたのが、企業が従業員を解雇しやすい『特区』をつくるという話。労働時間を規制せず、残業代をゼロにすることも認める上に、企業側が主導権を持って作る雇用契約に違反したら解雇自由となると、『ホワイトカラ-エグゼブション』どころか、さらに一歩も二歩も『金儲け命』の輩に魂を売り渡したといっても良い最悪の政策である。

政府は企業に競争力をつけるためと称して『産業競争力会議』なる組織を作り、その答申として出されたのがこの『特区』だそうだ。その案は(1)解雇ルール・入社時に契約した解雇条件にあえば、どんな解雇でも認められるようにする。(2)労働時間・一定の年収がある場合など、労働時間の規制がなくなり、残業代が出なくなる。休日や深夜労働の割増賃金もない。(3)有期雇用 短期契約を繰り返す労働者が、5年超働いても無期転換できなくする契約を認める。(付帯事項)開業後5年以内の事業所は(1)(2)。外国人労働者の比率が3割以上の事業所は(1)~(3)だという。

 経済音痴の私でも、企業が従業員を解雇する場合、(時には無茶な解雇の例を聞くこともあるが)法的には、やむをえない事情がなければ解雇できないことは知っている。しかし、この文面を読む限り、契約時に取り決めがあれば、企業主の判断で自由に解雇できることになる。

『契約条件が合わなければ就職しなければ良い』という理屈はたしかに成り立つが、現実には働き口がないとなると、契約条件を飲まねば雇ってもらえない。これは恐ろしいことで、まさに生命保険の契約書のように、虫眼鏡を使ってさえ読みづらいような、細かな字で、ほんの些細なことでも受け取りようによっては正反対の意味になる文言が並ぶのではないだろうか。

(1)を取り上げると(ふと浮んだことだが)『30分以上の遅刻をしたら解雇』という一文が小さな文字で入ることも十分あり得る。通勤電車が何かの事故で遅れる場合もあるだろう、自分が交通事故にあう場合も皆無とは言えない。その時、会社と連絡がつかないこともあり得るだろうが、特区となるとそれを理由に解雇が法的に正しいことになる。

『産業競争力会議』は、『解雇へのハードルが下がり、トラブルも防げるので、企業が多くの人を雇ったり、高い給料を払ったりできるようになる』と説明しているらしい。見方によれば、雇用契約に、解雇の要件を明確に記すこと自体は間違っていないとも思えるが、全てが企業側の立場での契約が『是』という論理がまかり通ってはたまったものではない。

(2)となると、ホワイトカラ-エグゼグションそのもので、どうしても無賃金で長時間働かせたいという企業の論理を受けて、特区では何がなんでも実現させるぞという強い意志を感じさせる。特区だからといって、こんなことがまかり通ったら、うつ患者を多発させ自殺者を増やすことになりかねない。

(3)は、経済音痴私には、どう解釈して良いのかわからないところも多いが、たしか、短期の契約を繰り返す契約社員やパートが5年を超えて同じ職場で働いた場合、正社員のように無期契約で働けるようになったと記憶にある。特区ではこんなル-ルなど適用外となると、これも企業側論理の押しつけだろう。

今回の『解雇特区』政策を含めて、アヘ政権が打ち出している経済政策は、例外なく、大企業優先で、『貧乏人は、つべこべ言わず命令通り黙って働けばよい』という考え方から生まれていることは明らかなのに、首相と自民党政権の支持率が落ちない?。

私にはこちらの方が不思議でならない。こんな不思議なことがまかり通る社会が正常であるはずがないと思うのだが・・・。(田舎親父)

『解雇自由特区』とは世も末・・・

 いわゆるホワイトカラ-と呼ばれる一定水準以上の給料を受け取っている事務職(管理職扱い?)の人たらを対象に、労働時間の規制は原則1日8時間という制度をなくして、深夜や休日にどれだけ働いても割増賃金を払わないことを認める『ホワイトカラ-ンエグゼブション』という制度についてはすでに取り上げた。

現政権はこの制度を作るためにかなりの知恵を絞ったらしいが、あまりにも大企業優先の悪法ということを世間が知るところとなり、また、それを知りながら手を挙げるには時季ではないと判断する大企業が多かったようで、一応,取り下げているが、手をかえ品をかえて『金儲け命』の輩に手を貸す政策を模索していることは想像に難くない。

予想通りでてきたのが、企業が従業員を解雇しやすい『特区』をつくるという話。労働時間を規制せず、残業代をゼロにすることも認める上に、企業側が主導権を持って作る雇用契約に違反したら解雇自由となると、『ホワイトカラ-エグゼブション』どころか、さらに一歩も二歩も『金儲け命』の輩に魂を売り渡したといっても良い最悪の政策である。

政府は企業に競争力をつけるためと称して『産業競争力会議』なる組織を作り、その答申として出されたのがこの『特区』だそうだ。その案は(1)解雇ルール・入社時に契約した解雇条件にあえば、どんな解雇でも認められるようにする。(2)労働時間・一定の年収がある場合など、労働時間の規制がなくなり、残業代が出なくなる。休日や深夜労働の割増賃金もない。(3)有期雇用 短期契約を繰り返す労働者が、5年超働いても無期転換できなくする契約を認める。(付帯事項)開業後5年以内の事業所は(1)(2)。外国人労働者の比率が3割以上の事業所は(1)~(3)だという。

 経済音痴の私でも、企業が従業員を解雇する場合、(時には無茶な解雇の例を聞くこともあるが)法的には、やむをえない事情がなければ解雇できないことは知っている。しかし、この文面を読む限り、契約時に取り決めがあれば、企業主の判断で自由に解雇できることになる。

『契約条件が合わなければ就職しなければ良い』という理屈はたしかに成り立つが、現実には働き口がないとなると、契約条件を飲まねば雇ってもらえない。これは恐ろしいことで、まさに生命保険の契約書のように、虫眼鏡を使ってさえ読みづらいような、細かな字で、ほんの些細なことでも受け取りようによっては正反対の意味になる文言が並ぶのではないだろうか。

(1)を取り上げると(ふと浮んだことだが)『30分以上の遅刻をしたら解雇』という一文が小さな文字で入ることも十分あり得る。通勤電車が何かの事故で遅れる場合もあるだろう、自分が交通事故にあう場合も皆無とは言えない。その時、会社と連絡がつかないこともあり得るだろうが、特区となるとそれを理由に解雇が法的に正しいことになる。

『産業競争力会議』は、『解雇へのハードルが下がり、トラブルも防げるので、企業が多くの人を雇ったり、高い給料を払ったりできるようになる』と説明しているらしい。見方によれば、雇用契約に、解雇の要件を明確に記すこと自体は間違っていないとも思えるが、全てが企業側の立場での契約が『是』という論理がまかり通ってはたまったものではない。

(2)となると、ホワイトカラ-エグゼグションそのもので、どうしても無賃金で長時間働かせたいという企業の論理を受けて、特区では何がなんでも実現させるぞという強い意志を感じさせる。特区だからといって、こんなことがまかり通ったら、うつ患者を多発させ自殺者を増やすことになりかねない。

(3)は、経済音痴私には、どう解釈して良いのかわからないところも多いが、たしか、短期の契約を繰り返す契約社員やパートが5年を超えて同じ職場で働いた場合、正社員のように無期契約で働けるようになったと記憶にある。特区ではこんなル-ルなど適用外となると、これも企業側論理の押しつけだろう。

今回の『解雇特区』政策を含めて、アヘ政権が打ち出している経済政策は、例外なく、大企業優先で、『貧乏人は、つべこべ言わず命令通り黙って働けばよい』という考え方から生まれていることは明らかなのに、首相と自民党政権の支持率が落ちない?。

私にはこちらの方が不思議でならない。こんな不思議なことがまかり通る社会が正常であるはずがないと思うのだが・・・。(田舎親父)

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