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2014年1月

2014年1月31日 (金)

尊厳死と法律は似合わない・・・

 先月の末であるが、ネットで、末期ガンなどに侵され、回復する可能性がない患者の意思に基づいて延命措置を施さない『尊厳死』を法制化する動きが出ているとの記事を見つけた。

 随分前のことなので、記憶は殆ど忘却の彼方になっているが、川崎市の病院で、女性医師が末期がんで苦しむ患者の様子に、『楽にさせて上げたい』と、薬剤注射を打ったとか延命装置の電源を切ったとかという事件があった。当時『安楽死』や『尊厳死』という言葉と共に、世論を騒がせたものである。

確か、家族の願いだったという医師の供述に対して、警察は『殺害行為』ということで起訴したはずだが、人工心肺などの機械によって、脳波が動いている状態(生きている?)で回復の見込みのない人間(最近はペットにも適用している例もあるそうだが)を、医療技術による『延命行為』に疑問を持っている私なので、この医師の行為を単に犯罪だとする議論にはなってほしくないという思いでつぶやいた覚えがある。

尊厳死と安楽死教の違いは理解しているつもりである。薬剤注射となると安楽死という定義が当てはまるので、ここでは延命装置について話を進めたい。

『自分にとって大切な人、生きているということが心のよりどころ』という言葉を度々耳にする。気持ちは理解できるつもりであるが、自分がその状態になったとしても、いかに私を大切だと思ってくれる人がいたとしても、『延命装置』でベットに縛りつけてほしいとは決して思わない。

筋肉は衰えるのは仕方ないだろうから、自分の足で歩けなくなる日が来るのは理解できるが、死ぬ前日まで自分の足で歩きたいと日頃から鍛えているつもりである。脳も同様で自分で考え行動したいと思っているので、毎日このような駄文を書き、ネットに投稿しているのだが、もしも考えることができなくなったときは命の継続は望まない。いわゆる『尊厳死』を強く願い、家族にもそうしてほしいと言い続けている。

自分だけに当てはめるのではなく、『尊厳死』は人間としての最終的な権利であり、誰もが『尊厳死』を選ぶべきで、ベットに縛りつけられてただただ『オシロスコ-プの波長が動く』ことが生きている証だとすることには、明確に『否』という考え方を持っている。

だから楢山節考の世界観に通じる(冗談で口にする)『婆コロリ(3倍薄めると爺コロリ)』という特効薬を発明したいと願い、それを還暦のお祝いに渡してはと提言している。しかし、自分が自分であることすら分からなくなったら、死にたいと思うことすら忘れてしまうだろうから、何のための『婆コロリ』なのか分からなくなる矛盾まで考えているわけではないが・・・。

記事に戻るが、医師が患者の苦しむ様子をみるに見かね、そして家族も延命装置の電源を切ることを強く望んでも、延命治療を中止した医師は『殺人罪』に問われる可能性があるとなると、医療現場では患者らが尊厳死を望んでもやむなく延命措置を続ける傾向が強いとようだと述べている。

その通りだろう。そこで超党派の国会議員でつくる『尊厳死法制化を考える議員連盟』は、患者が延命措置を望まない場合、医師が人工呼吸器を取り外すなど延命措置を中止しても法的責任を問わない『尊厳死法案』を、今の通常国会に議員立法で提出する方針だとのことだという。

この法案では、末期ガンなどに侵され、適切に治療しても患者が回復する見込みがなく、死期が間近と判定された状態を『終末期』と定義。15歳以上の患者が延命措置を望まないと書面で意思表示し、2人以上の医師が終末期と判定すれば尊厳死を認め、医師は刑事、民事、行政上の法的責任を問われないと定めている。また、意思表示の撤回はいつでも可能とし、本人の意思が確認できない場合は『法律の適用外』としているとのこと。

外野的には面白いが、延命装置すら選択できない経済的弱者には、こんな法案は無意味だろうから、法律で『死の選択』という考え方に反対する気持ちも生まれてくる。

単に国会で提出して、医学や倫理学の素人の集団である、国会議員だけの多数決で決めるものではないことだけは間違いなさそうだ。(田舎親父)

2014年1月30日 (木)

個人の幸せを無視する国・日本・・・

 東京都知事選が佳境に入ったらしく、マスコミは連日その様子をつたえているが、その伝え方が偏っているように感じるのは私だけだろうか。

 予想するのは自由だろうが、あたかも自社の世論調査が絶対と自信を持っているかのごとく、『世論調査によると』という枕詞を掲げた上で、誰々が有利という結論づけをしているのが気にかかる。

 同じ社の世論調査では、原発再稼働反対が60%、秘密法案に至っては68%が反対というのに、全て新聞がゾンビ・マスゾエ氏有利と掲載している。繰り返しになるが、この御仁は自民党に後ろ足で砂をかけて逃げ出した人物。

自民党は当初は応援に距離を置いていたが、ゾンビ氏がアホベさまに『ゴメンナサイ』と言ったと推測しているが、このところ自民党はシャカリキになって、ゾンビ氏を応援しているのは、アホベ内閣の施策を全て了承したということに他ならないことを証明している。

ということは、原発は推進する。NHK会長と同じく、秘密法案は通ってしまったのだから仕方ない、いやいや、むしろ都としてもこの法案は都合が良いと思っているのも間違いなさそうだ。さらにオリンピックは、都民のオアシスである神宮の森を切り倒しても、史上最大の派手さを追求すると言っていると同じこと。

こんなに愚弄されても立ち上がらない。そこまで都民がアホなのだろうか。そうは思いたくないのだが・・・。

マスコミ報道で知りうる限り、消費税については都知事候補者の口から聞こえて来ないのも気がかり。4月から実施されることが決まっているのだから、今更反対をいっても仕方ないと判断しているのかもしれないが、『消費税は上げるが法人税は下げる』という矛盾をわかり易く都民に訴える努力に欠けているように思えてならない。

 アホベ内閣は『景気回復』のためなら、原発再稼働はもちろん原発の輸出も当たり前という政策を打ち出している。グロ-バルという変な英単語を大連発させて、世界に打ち勝つ経済力をつけるという『国策』という名の元に、正規雇用を押さえてパ-トやアルバイト雇用を奨励し、派遣社員という雇用形態を定着させるどころかさらに拡大させ、企業の儲けを最優先してきたのは誰もが認めるところだろう。昨日のニュ-スては、派遣社員の期限を撤廃するというから、ますます経済格差が広がるのは間違いない。

このことは改めて述べにことにするが、それでも飽き足らず、今度は、『企業は利益を社員に還元する』という寝言のような理屈を平気でのたまり、企業にかけられる法人税の大幅な税率引き下げ、しかも、とりあえず減税してしまえという乱暴さ。私には、ウソで固めたウソがバレないようにさらにウソの上塗りするようにしか思えない。

 経済音痴の私には、法人税そのものの仕組みが良く理解できていないので、ここから勉強を始める。

 日本の法人税の実効税率(国税と地方税の合計)は新年度から東京都で35・64%なのだそうだ。これは、アジア近隣諸国や欧州諸国の20~30%台に比べてかなり高いので、大企業経営陣などが中心になっている経済団体(経済界)は、国際競争力や外国からの投資を呼び込むために10%程度下げろと要望しているのだそうだ。

ここまでは理屈にあっているように思えるが、日本の法人税にはさまざまな軽減措置があるので、実質的にはもっと低いことを知り、ウソで固めたからくりの概要が分かりはじめる。

 研究開発や設備投資などで実質的に税負担が軽減される租税特別措置は370余りあるという。総額にして一兆円は法人税の2%に相当する額だという。そんなことは一般国民には知らされていない。

 さらに、赤字決算となれば、その年だけでなく、赤字額を繰越欠損金として将来の課税所得と相殺できるというから、帳面面で赤字にしておけば、税は払わなくても良い仕組みになっているのだそうだ。不良債権処理で大赤字を出した大手銀行が何年も納税しなかったり、会社更生法を適用した日本航空は9年間で約4千億円の法人税を免れていることはそのためだと知る。なるほど・・・。

25年間にわたって震災復興のための復興増税を企業だけ前倒しで廃止するのも納得できない。個人の所得税負担は25年もの間、長きにわたって徴収されるのに・・・。

さらに、日本の企業がため込んだ内部留保(企業のへそくり?)は約250兆円を越え、経済規模が日本の2.5倍のアメリカと比べても比率的にははるかに多いことから、いかに日本企業が賃上げや投資に回さず自分たちの懐に納めていることが分かると、『企業の収益が上がれば、賃金が上がり』ということが全くのウソ・イツワリだと断定できる。

企業を儲けさせるというウソで固めた誤魔化しではなく、所得税減税の方がよほど経済効果は上がることはド素人の私でもわかる理屈。せめて、法人税の減税よりも、企業がため込んでいる内部留保金(隠し財産)への課税を検討するのが筋だろう。

 マスコミはもう少し踏み込んで、このような仕組みをわかり易く報じる義務があるのではないだろうか。そして都知事選に立候補している候補者も・・・(田舎親父)

2014年1月29日 (水)

DNA鑑定で父子関係とは・・・

 最近の世の中の変化についていけないと自認している私であるが、『この子は夫の子どもではない』と妻が父子関係取り消しを求める訴訟を起こして、最高裁で審議中というニュ-スには、驚きを通り越して、何とも言えない心境になる。

 最高裁で争われているということは、一審・二審があったということだが、大阪地裁と大阪高裁は、DNA鑑定は正確と結論づけて、子どもと夫の血縁関係がないことを認め、戸籍上の父子関係を取り消す判決を出していたということに、凄いことで争っている夫婦も存在するものと何とも言えない気にさせられる。

 法律には全く疎い私であるが、この子が出生した時点では、夫も妻も自分の子どもだということを認めて出生届けをしたことは間違いないはず。受理された時点で、夫は自分の子どもだと信じ、父子関係が成立していることを疑いなどもたなかっただろう。それを、ある日突然、妻から『実は、貴方の子どもではない』と言われたとしたら、そのショックは想像を絶するものがあるのでは・・・。

 記事によると、民法772条は『妻が婚姻中に妊娠した子は夫の子と推定する』(嫡出推定)と定め、この父子関係を否認する訴えを起こせるのは夫だけで、しかも、子の出生を知ってから1年以内に限られているとのことである。

 こんな法律があったことを始めて知るが、この子の本当の父親が誰なのかは、母親しかわからないはずなのに、父親(夫)だけに否認できる権利があるというからややこしい。

 この記事に付記してある解説には、<嫡出推定>として『民法772条は、妻が身ごもった時、夫の子と推定すると定めている。妻が夫に隠して別の男性の子を身ごもった場合も、この規定により法律上は親子となり得る。父を早く確定することが子の利益になるとの考えからだ。ただ、この規定ができたのは血縁の有無が科学的に証明できなかった明治時代。DNA型鑑定で血縁関係を確認するケースは想定されていなかった』とある。

 なるほど、女性の権利が著しく虐げられた明治時代につくられた法律が、今でも生きていることで疑問の一つは解ける。そして明治時代では、DNA鑑定など想像すらできなかったことからも当然だろうと納得する。

 現在は、互いに納得すれば離婚は極めて簡単に成立するようだが、いろいろと事情があって一方が離婚したくないと裁判に持ち込まれることが多いと聞く。多くの場合は慰謝料問題だろうが・・・。

夫が妻の浮気を疑り、『もしや自分の子どもではないのでは・・・』という悩みを持つことは、以前仲間うちの話として聞いた記憶がある。しかし、妻の方から『貴方の子どもではない』というのは、私が想像できないだけで、実際にはあり得ないとは言い難く、むしろ、どこにでも転がっているのかもしれない。

となると、鑑定の精度が急速に向上し、民間機関での鑑定も容易になると、最高裁が高裁判断を『是』としたとすると、父子関係が覆されるケースが相次ぐ可能性がありそうだ。これは社会に大きな影響を及ぼすことになりそうだ。

 この記事からふと、不妊に悩む夫婦は多く、『試験管ベビ-』という言葉が生まれて久しいことや、極端な場合は、他人の子宮を借りることなども日常茶飯事になっていることを思い浮かべる。

 努力?の結果、夫婦に子どもが授かり、自分たちの子どもであるという認識で出生届けを出し受理される。そのまま夫婦関係が続けば良いのだが、このような世の中になっては、途中で夫婦関係にヒビが入ることも多く、離婚の裁判も増えることはあっても少なくなることはまず考えられない。

 試験管ベビ-と夫婦間のDNAとの関連は具体的には思いつかないが、犯罪の決定的な証拠になるDNA鑑定はいうものによって、父子関係(子宮借りの場合では、ひょっとして母子関係)が断ち切られるのは、砂を噛むような無情さを感じるのだが・・・。(田舎親父)

2014年1月28日 (火)

深海に異変が・・・

 東京都知事選が佳境に入ったらしく、連日、マスコミは、誰が誰を支持しているとか、FBではこんな情報が飛び通っているなどと姦しい。

それぞれが支持している人の人脈関係を図示する記事もあって、こんなつながりもあったのかと、それなりに興味深いと思わないでもないが、その複雑さは、世間知らずの私には全く想像もつかないものがある。

都知事選についてはしばらく静かに経過を見守ることにして、全く脈絡がないが、最近深海に住む生き物が、定置網に入ったり、沿岸部に流れ着いたりして人々を驚かせているという記事に興味が引かれる。

最近の科学は、信じられないような環境であっても適応して生息している生き物の存在を次々に明らかにしている。ダイオウイカという深海に住むイカの仲間もその一つ。体長が10メ-トル以上になるものも稀ではないというから想像を絶する。

一昨年だっただろうか、NHKのBS放送で、このダイオウイカを取り上げていた。凄い映像に興奮し、改めて地球という星の奥の深さを感じたものである。しかし、これらの映像は、NHKが組織を挙げて取り組み、撮影に成功したものであって、普段私たちが目にできないだろうと思っていたが、最近は度々沿岸に足が発見されたり、死骸が打ち上げられているという報道が続いている。

中でもつい最近、鳥取県岩美町の網代新港で、全長約3・4メートルのダイオウイカが底引き網にかかり、生きたまま水揚げされたという記事に興味を覚える。
 記事によれば、このダイオウイカは重さ100キロ超、大きさや形状などから雌とみられ、『触腕』という最も長い足が切れずに残っていれば、全長8メートルだった可能性もあるというから、まさに怪物。間もなく死んでしまったらしいが、底引き網を引き揚げた漁船員によると、『生きているときは怖いくらいの迫力だった』というから、長年海で生きてきた漁師さえ、その迫力には圧倒されたに違いない。

日頃から漁にでている漁師でさえ遭遇する機会が殆どないダイオウイカが、比較的浅い海に仕掛けられた定置網にかかること事態、異常という他はない上に、このダイオウイカが住む場所は、日本海溝などの南海の深海であって、日本海の定置網に入ることなど考えられないという専門家の意見は不気味である。

最近、『東海沖地震』という言葉の流通は少なくなってきたように思えるが、代りに『南海トラフ』という文言が多くなっている。日本付近の深海では、プレ-トが重なりあい、しのぎを削っていることは科学的に証明されているが、その動きが激しくなってきたのを深海の生き物が敏感に感じ取り、動きが慌ただしくなっているとしたら、そしてダイオウイカには、特にその動きを敏感に感じ取る能力があったとしたら、各地でダイオウイカが発見されるのは納得できる話。

プレ-トの動きが複雑に絡み合って、深海の海流の動きに変化が起きて、日本海に流れ込んだと推測している科学者もいるようだが、それほどの急激に大きな変化を起こしているとしたらと考えると恐ろしくなる。

一番考えられることは地震との関係。ここまで凄い変化が事実だとしたら、去年、高知県では最大30メ-トルの巨大津波との予報も頭から否定できなくなる。

『地球温暖化とも関係している』と指摘する学者もいるようだ。科学的根拠となるとはっきりしないようだが、何となくの説得力を感じる。

いずれにせよ、近い将来、日本近海で何らかの大きな変化が起きることだけは間違いなさそうだ。それが何時くるのか、そして防ぐ方策があるのかは全くわからない。

最悪の事態に備えよという意見はもっともだが、30メ-トル超の大津波に備えることはまず不可能。意識はしっかりもたなければならないが、自然に逆らって、どんな津波にも耐える防波堤を・・・という考え方だけは持ってほしくないものである。(田舎親父)

2014年1月27日 (月)

NHKが日本版『中央電子台』に・・・

 NHKの会長が代わったことは知っている。なんでもアホベさまのお友達だという人物らしい。あまりにも露骨なやり方に対して、前会長は抗議の意味で辞職という噂が漏れ聞こえてくる人事だという。

この会長交代で、いよこれで公共放送ではなくアホベ内閣お抱え報道機関になるのではという危惧を感じたものであるが、こんなに早くそれが実現化しているとは思いもよらなかった。

 昨日の朝日新聞の一面に、モミイという新会長の就任記者会見の記事があった。日韓両国の懸案事項になっている従軍慰安婦について、『戦争をしているどこの国にもあった』と述べ、補償は全て日韓条約で解決済みとの見解を示したというから、これはまた、新たな日韓問題に発展しそうな気がするが・・・。

 個人的にはどんな考え方あっても良いが、日本の公共放送のトップとして『戦争の産物だ』と、その在を必要なものと肯定するのはいただけない。さらにフランス、ドイツという国名をあげて、日本であったことは当然だという姿勢に加えて、『なぜオランダにまだ飾り窓があるんですか』と言ったというから、どうやらこの御仁は、極端な時代錯誤の世界観を持っているらしい。これは世界各国からから批判が起きそうだ。

 靖国神社への首相の参拝について聞かれると、総理の信念で行かれた。それをいい悪いという立場に私はないと肩すかしはともかくとして、昔の人は戦争に行くときに『死んで靖国に帰る』と送り出し,『千鳥が淵(戦没者墓苑)ではダメだという人が大勢いる』と発言の裏には、先の戦争は聖戦なのだから、首相の参拝は当然という姿勢以外何者もなく、国民の多くが、また世界の国々の危惧である『戦犯の合祀』など全く存在しないようだ。

 また、特定秘密法案に対してどのような考えなのかと質問を受けて、『国会を通ったのだから今更しょうがない』『国際放送で政府の考えと真逆になることはない』などと、まるでアホベさまの召使のような発言を連発していることから、はやくもその体質を表したというところか。

朝日や毎日、東京など各新聞社のネット版に、『会見の主なやりとり』として、その様子が掲載してある。これは重要で忘れてはならないことなのが、そのまま引用してみることにする。(引用はじめ)

会見の主なやりとり

 籾井勝人NHK会長の会見での主なやりとりは次の通り。

 【領土問題と国際放送】

 -国際放送の強化とは、政府見解を伝えることか。

 領土問題については明確に日本の立場を主張するのは当然。外交も絡むので、政府が右ということを左というわけにはいかない。

 【特定秘密保護法】

 -NHKスペシャルなどで取り上げられなかった。是非を幅広く伝えたほうがいいという指摘も。

 通っちゃったんで、言ってもしょうがないと思う。

 -議論を蒸し返さない方がいい?

 そういう意味ではない。必要ならやる。決まったことをしょうがないとは思わないが、世間が心配するようなことが政府の目的ということもないのではないか。

 あまりカッカする必要はないと思うし、変なことが起きるとは考えにくい。

 【靖国神社】

 -首相の参拝については。

 総理の信念で行かれた。それをいい悪いという立場に私はない。昔の人は戦争に行くときに「死んで靖国に帰る」と送り出した。こういう人が大勢いる。

 【慰安婦問題】

 -日韓間で取りざたされている。

 (慰安婦は)戦時だからどこの国にもあったことですよね?(個人の見解として)韓国がやっていることで不満なのは、日本だけが強制連行したみたいなことを言っている。補償は日韓条約ですべて解決されている。

 【放送と通信の融合】

 -東京五輪までに実現するのが目標か。

 いい悪いにかかわらずやらなければ、というのは変わらない。ただ、現実を聞くと一足飛びに行かない環境もあり、慎重にもう一度レビュー(見直し)したい。(引用終わり)

 その場にいたわけではないので雰囲気を想像するだけだが、良識ある記者の耳には『NHKは国の発表する情報をそのままつたえる役割があり、私はその通りのことを職員に求める』と聞こえたに違いない。

 まさに、日本国民から視聴料を徴収して運営している、国民のための『公共報道機関』という矜持を捨て、国家の言い分をそのまま国民につたえ、国家のやっていることは間違いないと宣伝する、中国でいう『中国中央電子台』や北朝鮮の『朝鮮中央放送』という報道機関になりますと宣言したようなもの。

 ある記者から、ここはNHKの新会長の岸か意見の場ですよと言われて、慌てて一部の発言を取り消すと言ったらしいが、会長として口に出したと時点で『公式発言』。取り消すという一言で通用することではない。ますます中国と韓国との関係が奇怪しくなるのは明らか。

アホベ首相は、現在の日中関係を第一次世界前のイギリスとドイツのような関係だと発言したのも恐ろしいが、NHKがあたかもそれが当然とばかり発信する。いよいよ、中国と一発触発という、国民の誰もが望んでいない事態が迫っているようだ。

野党はこの発言を徹底的に追求し、国民も内閣支持を激減させて、会長は即辞任せよという世論を作らねばと思うのだが、日本人全体が『カネ勘定』が最重要と考えているとなると、期待する方が無理なのかも・・・・。(田舎親父)

2014年1月25日 (土)

学習能力のなさに呆れる・・・

 原発事故で放射能に汚染された『指定廃棄物』の最終処分場候補地として、環境省が宮城県の3つの市町を指名し、受け入れを迫ったというニュ-スに、また始まったと、政府・環境省の学習能力の低さに呆れてしまう。

 『指定廃棄物』とは、福島第一原発事故で飛散した放射性物質が付着したごみの焼却灰や下水汚泥、あるいは稲わらなどをいい、原発から排出されるものに比べると、放射能の濃度は低く、全国各地で13万トン余りが仮置きされているという。テレビが度々紹介している、ブル-シ-トで覆って仮り置き(放置に等しい)している物質がそれにあたるようだ。

政府は国の責任で最終処分すると言っているがなかなか進んでいないのが現状。候補地の選定を担当する環境省が、突然、栃木県と茨城県の国有地を候補地とすると発表したことは記憶に新しいが、(当然のことだが)指定された自治体は、住民はもとより首長が即刻絶対反対を表明。知事も受け入れを拒否し、マスコミにさえ、国のやり方の強引さを批判されて、その案はウヤムヤに。

その反省から?国は、恐らく途方もない交付金を、受け入れる条件で与えるという従来の方法で手を上げる自治体を待っていたらしいが、どこからもその気配はないことに焦って、宮城県の3つの市と町を上げたというところだろう。相変わらず、札束で横っ面を張り倒す戦法が未だに効果的だと信じて改める気がないらしい。

福島には原発事故関係の大量の汚染物質が存在するとして、最終という言葉を使わずに『中間貯蔵地』という表現で、3ケ所に作ることを決め、これまた莫大な札束攻勢で、その土地の国有化を進めているらしいが、周辺県では、汚染物質をそれぞれの県で処理する最終処分場を一カ所つくるという方針だとのこと。

ここでも原発事故さえなかったらこんな問題はでなかったのに、いやそれ以前に、原発そのものが存在しなかったら・・・という思いは消えないが、実際に事故が起きてしまい汚染物質が溢れている現実からは逃れることができないとなると、どこかが受け入れなければならないことまでは仕方ないことには違いない。

しかし、お上のご命令だという、上から目線で住民の頭越し突如候補地として名前を上げては、沖縄県の名護市の辺野古を移転先に決めた因を同じくして、住民の気持ちを分断し、問題を複雑化するだけで、処分場の建設は遅れ、しいては東北の復興がますます遅れることは目に見える。

環境省は名前を上げた3つの市と町にある国有地は、人が住まず、訪れず、水源から遠く離れて自然への影響の少ない場所だと説明しているが、こと放射能となるとその影響がどこまで広がるのか、科学者でさえ意見が大きく分かれる問題なので、『はい分かりました』などと言えるはずがない。

 ごみ処理施設は、普通の家庭ごみでさえ立地が難しいことは、全国のどの自治体も、また住民も知っており、その成否は事業者(自治体)と受け入れ側住民との信頼関係なしで実現できるはずがないのは歴史が証明している。

新聞記事の文章を借りると、世界で初めて使用済み核燃料最終処分場『オンカロ』の建設が進むフィンランドのオルキルオト島でも、処分事業者は、全国を102所のブロックに分けて調査を重ね、選定までに18年をかけている。結局は、地元に原発があり、比較的原子力への抵抗感が少ないオルキルオトが選ばれたとあるように、大変な時をひたすらに信頼関係の構築に費やすことが不可避となることは明らか。

これまでに原発の重大事故もなく、原子力規制機関への信頼も厚いフィンランドでさえそうなのだから、まして取り返しがつかないほどの重大事故を起こし、原発神話が崩壊している上に、事故収束のメドすら立たず、しかも規制委員会が規制ではなく政府の言いなりに近い我が国では、候補の選定そのものさえ不可能に近いのは当たりまえ。どうして国は、こんな簡単なことがわからないのだろう。

候補地選定にまずやらねばならないのは、放射能の影響について、全ての情報を包み隠さずに公にすることであろう。本当に安全であるならば、その一部を東京湾の埋め立てに使おうという意見が出てくるほどの雰囲気づくりが肝要だと思うのだか・・・。

今回名指しされた3つの市と町に対して、なぜここなのかという問いに、国が納得させられる答を出すこと必要なのだが、現実は、受け入れて地域発展をという意見が生まれることを待ち、住民間の溝を深めさせることによって活路を見いだす従来のやり方をくりかえしてはならない。国の猛省を促したい。(田舎親父)

2014年1月24日 (金)

民主主義を死語にしてはならない・・・

 19日の名護市長選挙の結果は見事だった。8時に投票終了。恐らくマスコミは萎縮して、いつものように終了と同時に『当確』は打たないだろうと、始めから当てにはせずネット情報に注目していた。

9時前に稲嶺市長の再選が確定という文言が流れ、ホッとすると同時に、これからが正念場、市長と市民には強烈なムチが投げつけられるだろうが、負けないでほしいと心から願いながら一日を終える。

 一夜明けた翌日、アホベ政権は早速、市民と市長に強烈なムチを振るいはじめたことにヘドが出るほどいやな気分に襲われる。この輩は、人間ではなく鬼、いや鬼にはまだ愛嬌があり親しみを覚えるので相応しくない。むしろ邪悪な心しかもたない悪魔そのものとしか表現のしょうがない。悪魔に支配される社会の不気味さに身が震える。

 それにしても酷すぎる。知事をカネで転ばせて埋め立て許可を出させたことに味をしめて、市長選の最中に、あの蛇のような何とも言えない嫌らしい目つきの御仁が500億円というトンデモ額の支援と言い出したのは、これぐらいのカネを積んだら市長はともかく市民の多くは納得するだろうという、卑しい気持ちがあったことはミエミエ。

 しかし、市民は『カネより故郷、そしてその美しさ』を選択した。この選択を、尊重するのが、普通の日本人が理解している民主主義なのだが、アホベ政権は『民主主義って言葉があったの?』とばかり、民意を無視して、埋め立てに邁進。

 何がなんでも埋め立てるぞと宣言し、埋め立てや護岸の設計と、サンゴ類の分布・保全の調査や絶滅の恐れが高いジュゴンの監視など三件を公告し、沿岸部のボーリング調査なども入札に入るというから信じられない。3月中に業者と契約を結んで、作業を開始し、遅くとも11月までに設計と調査を終え、2015年早々に埋め立てと滑走路の工事を始める計画だと臆面もなく発表。

話が奇怪しすぎる。珊瑚の生息する海を埋め立てたら、珊瑚は死滅することは、3歳の幼児でもわかる当たり前すぎる話だろうに、『珊瑚の保全』とは、この輩に良心というものがあるのだろうかと疑ってしまう。まず期限ありきの埋め立て計画に、始めから『珊瑚の保全』など考えていないことは明らか。

選挙中に突然言い出した500億円。稲嶺市長の再選の翌日には、カネは出さないと手のひらを返したような対応にも、悪魔に魂を売った輩の焦りを感じる。これを『いじめ』と称さないで、何をいじめというのかと言いたくなる。この政権が言う教育改革が、『民主主義の育成』どころか、『お上にたてつかない国民つくり』と『いじめ撲滅』でなくて『いじめの奨励』であることは明らか。

 この暴挙に、ふと50年も前の成田空港反対闘争を思いだす。『カネよりも故郷・沖縄の矜持』を示した名護市民と沖縄県人は、成田空港反対闘争より熾烈な覚悟を決めているに違いない。私も何度も成田に出かけその闘争を目の当たりにした経験から、辺野古の埋め立て反対の行動が極めて先鋭化、流血の戦場になることは容易に想像できる。

成田は命懸けの反対を権力という暴力で押さえ込んで、一本だけの滑走路で運営を始めた。その際世論作りのために妥協した、離発着の時間制限というシバリが、その後、世界の趨勢から遅れたという声が強まり、『羽田は国内線』という地元との約束は一方的に破棄された現実と、今になって、本当に成田が必要だったのだろうかという声さえ聞こえてくるのは悲しい限り。

 成田空港は、無数と言っても差し支えないほどの機動隊に守られて工事を進めたのだが、運用開始が遅れに遅れたことは誰もが知っている。

話が飛躍するが、例え、辺野古の海が埋め立てられ基地ができたとしても、そのとき世界の情勢は今と同じとは限らない。アメリカ軍の沖縄基地が絶対に必要かどうかも不透明。中国との関係も今とは違ったものになっているはずだろう。

それ以前に、中国の一党支配が続いているとは思えず、民主国家が誕生したら、辺野古基地は不要になる確率は高くなる。

最悪のシナリオは、辺野古に基地ができたとしても、アメリカがすんなり普天間を返還するかもわからず、結局は、辺野古の美しい海岸がコンクリ-トに固められ、珊瑚は死滅しジュゴンが去る悲しい風景だけが残ること。

暴走する現政権を何としても止めなければ、我が国の将来は恐ろしいことになることは明らかなのに、誰も止められない現実が悲しい。

いや一つだけある。それが、東京という最大の自治体で、自民党が(現政権の言うことを聞くと約束したのだろうが)躍起になって支援しはじめているゾンビ知事誕生を阻止することである。

都民自らが現在の自民党政権と決別することが、辺野古の流血を避け、沖縄の人々の心の支えとなる唯一の方法ではないだろうか。今回の都知事選ほど、都民の良識が問われている選挙はない。(田舎親父)

2014年1月23日 (木)

こちらの老人問題も深刻・・・

 昨年10月にも取り上げたが、私の住む横浜の片田舎のJR横浜線の中山駅近くの踏切で、(恐らく、認知症か自殺願望だったと思っているが)横たわっている年寄りを助けようとした女性が電車にはねられ死亡という事故があった。

年寄りを助けようとした女性の勇気には無条件で敬意を表したいが、自分が命を落としてしまったら何にもならない。その現場には2ケ月間ほどは献花や手を合わして冥福を祈るひと人々の姿は絶えなかったが、現在ではその場は閉鎖され、時に手を合わす人がいる程度になっている。

私は事故後、何度もその場を訪れているが、その都度、(この事故には直接関係ないことではあるが)ホ-ムに到着する前に遮断機が降り、電車が通り過ぎても開かない踏切の存在を許しているJRや行政に、大きな違和感を覚えると同時に、何とかならないのかといらだつ気持ちが押さえられなくなる。

先日、その踏切を通り、やはり『もう少し、合理的に遮断機操作ができないのか』と思いながら帰宅、いつも通りコンピュ-タの電源を入れて、ネットニュ-スを開くと『認知症またはその疑いのある人が列車にはねられるなどした鉄道事故が、2012年度までの8年間で少なくとも149件あり、115人が死亡していたことが分かった』という文言が目に飛び込んできた。

踏み切り事故との直接の関連はないが、現場を見てきたときだけに、この数字の凄さにも驚くが、事故後、複数の鉄道会社がダイヤの乱れなどで生じた損害を遺族に賠償請求する事実は、当事者に責任能力がないとみられる事故で、どう安全対策を図り、誰が損害について負担すべきかなど、超高齢社会への新たな課題だと気持ちが暗くなる。

 鉄道事故については各社が国土交通省に届け出て、同省は『運転事故等整理表』を作成しているという。その整理表と各事故の警察発表などから、『認知症』という言葉が介護保険法改正で取り入れられた05年度以降の事例を調べた数値だとのこと。当事者が認知症であることを記載していない届け出も多いだろうから、この数値はさらに膨らむ可能性があるのは十分推測できる。

 いろいろな事例が並ぶ。それぞれの事例の引用はしないが、認知症の症状が進んだ症状の老人は、およそ考えられないような行動で、踏切に立ち入り、電車にはねられることが多いことを知る。

事故原因で一番多いのが、いわゆる認知症による徘徊や、危険性を認識しないまま、フェンスなどの囲いがない場所や踏切から線路に入って事故に遭遇するのだそうだ。中には、線路を数百メートルにわたって歩いた人や、通常は立ち入れない鉄橋やトンネルで事故に遭った人もいるというから、いやはや重度の認知症とは私が想像していた以上のようだ。

 認知症の人による鉄道事故を巡っては、名古屋地裁判決が昨年8月、『家族が見守りを怠った』いうJR東海の主張を認めて約720万円の賠償を遺族に命じたことは記憶に新しい。この判決には私も少覧で取り上げ、『一瞬の隙なく見守るのは不可能』であることは明らか、それこそ縛っておくことしかないという矛盾を述べたことを思い出す。

この判決には遺族側は控訴しているらしいが、記事は、このJR東海の事故を含め、被害者の氏名や所在地が判明した9社10件の事故について触れている。請求されない場合もあるようだが、未だに裁判で争っている例もあるという。

 その例として、JR東海のほか、東武鉄道が2件、近畿日本鉄道と名古屋鉄道が各1件で約16万〜137万円を請求している(していた)ことを上げている。約137万円のケースでは会社側が事故で生じた社員の時間外賃金や振り替え輸送費などを求めていたという。この事故を含む2件は双方の協議で減額されたが、4件とも遺族側が賠償金を支払っているとのことである。

どれぐらいの減額なのかは記事にないが、賠償責任が問われるとなると、介護する側にとっては、認知症という言い訳は通用しないことになる。認知症の年寄りを抱えている人の責任となると、私がいつも悩んでいる、どこまで介護が必要かという問題に行き着くようだ。

(不可能なことであるが)例え、全て立体交差化で全国から踏切をなくせば、かなりの事故は防げそうだが、縛りつけておかねば徘徊するような重度の認知症老人か存在しては、電車やバスなど公共交通機関との接触事故は皆無にできるはずがない。

縛りつけるのはもっての外。かといっても私がいつも冗談で言っている『婆コロリ』はもっと無理。となると、せめて国はこのような重度痴呆症の徘徊老人が起こす事故に対しての、賠償を補うほどの手厚い保険制度の整備は急務だと思いたい。(田舎親父)

2014年1月22日 (水)

このままではトンデモ事態に・・・

 東京オリンピックの大会組織委員会の会長に、あの『鮫の脳味噌』氏が就任したのだそうだ。他の御仁は『日本は神の国』というトンデモ発言で周辺諸国はもとより、世界各国から顰蹙をかったことは記憶に新しい。

 こんな御仁をオリンピックの大将に担ぎ上げるのはよほど人材がないというところに違いない。マスコミ報道では、莫大な予算が絡むことから経済界の重鎮にお願いしたのだが、候補者の全てから固辞されたことから止む得ない人選だったらしい。中には、この御仁から売り込んだ節があると報じるメディアもあるというが、当たらずとも遠からじというところか。

 今日からいよいよ本格的に東京都知事選が始まる。ホソカワ-コイズミラインが掲げる『脱原発』が争点の一つになって盛り上がることを期待しているのだが、アホベ政権はなんとしてでもそれをくい止めたいと、表で裏でさまざまな工作がなされていることは想像に難くない。下司の勘繰りかもしれないが、いま一つ『脱原発』か争点になっていない事実から、マスコミへの報道規制がなされていることも考えられないこともなさそうだ。

 組織委員長に就任?したくだんのだ御仁は、俺に任せろとばかり『オリンピックは膨大な電力が必要になる。もし原発が動かなかったらオリンピックは返上だ・・・』という意味の発言をしたという報道には驚きを通り越して、さすがに『鮫の脳味噌』と言われる男だと変な意味で納得する。

 本人としたら、都知事選の争点にしたくないというより、ゾンビ氏の応援という意味で発言したのだろうと推測するが、もともとは招致の条件には、『原発が全て止まっていても電力は心配ない』という、日本政府のお墨付きが決めての一つになったことは周知のこと。すでにこの発言は全世界に知れ渡っているだろうから、『神の国』以上に、諸外国からは物笑いの種になるのではないだろうか。

 この発言で、アホベ政権がいかに、都知事選に神経を使っているのか、そしてオリンピックの成功を争点にしたいのかということか良く分かる。しかし、こんな発言が飛び出すと、かえって事故原発のその後はどうなっているのだろう改めて危機感がつのってくる。

事実、昨日の朝刊に、福島事故原発3号機の原子炉建屋一階の床を、大量の汚染水が流れているのが見つかったという記事が掲載されていたが、これではアホベ首相がIOCで『原発は完全にコントロ-ルされている』との発言が全くのウソで、実際は、危機的状況になっていることが良く分かる。

ロボットか発見したとのことだが、今頃になって新たな汚染水が見つかったという内容に、相変わらず異変を小出しにする東電の体質は生きていると呆れるしかない。

素人の私でも、建屋の床に水があふれることは、重大な事態になっていることぐらいは理解できる。記事には、作業用ロボットが撮影した動画で確認された汚染水は、30センチ幅で床を流れ、排水口から地下に流れ込んでいたとある。大浴場に注がれるお湯のような勢いだったという表現にも驚くが、それほどの汚染水が大量に川のように流れ出している光景が想像される。

放射性セシウムの濃度は1リットル当たり240万ベクレル。これは海への放出が認めら国の基準の1万6千倍だったというから驚きである。

東電は、建屋の床で大量の汚染水流出が確認されたのは、事故後初めてで、格納容器から漏れた水との見方を示しているらしいが、格納容器には使用済み燃料がまだぎっしりつまっているはず、水がなくなると大爆発は避けられずまさにこの世の終わりのような事態も想定できるとなると、補給水と漏れ出す汚染水とのイタチゴッコが続くことになりそうだ。

 現場近くは放射線量が高く、人が近寄れないというから、全てはロボットが映し出す映像だけが唯一の情報源。メルトダウンしていることは以前から明らかになっており、地下に漏れ出していることは確実。今回、建屋の床にまで流れ出しているということは、さらに危機的状況になっていることは間違いなそうだ。

 こんな状況では、再稼働はもとより、即刻全ての原子炉を廃炉にして、トンデモ事故を繰り返さないようにすることが最大の課題であることは明らか。『原発がなければオリンピック返上』などとのたまう鮫の脳味噌氏の退場を強く望む。(田舎親父)

2014年1月21日 (火)

ウイルスに負けない体質を・・・

 名護市長選挙で敗北した自民党政権は、名護市民の気持ちなど全く無視して、すぐに埋め立てに動き出すと宣言。明らかに公約違反の県知事は『もう決まったことだから』とまるで他人事。

 何と情けない輩が、この国を、そして沖縄の指導者になっているのか涙が出る。その言い分が『このままでは普天間が固定化する』とは、リ-ダ-としての任務を放棄し、ただただアメリカさまへの義理立てだけで突き進むという姿を明さまに出しているが、恥を知れと叫びたい。

 今まではアベでとなく濁点を抜いてアヘ首相と、私なりの批判的な名前で文を進めてきたが、あまりにも冷酷で独断的な態度に、かってカン首相をアホカン、ノダ首相を汚染ドジョウと称してきたように、今後はアベ首相をアホベと呼びたいと思っている。

 アホベ首相サマは名護市長選の敗北については官房長官や幹事長に任せっきりで、外遊にこれ勤め、あっちで10億、こっちで20億と国民から搾取した税金のバラマキ。まだまだ続けるらしく、外遊費の増額とは、国民をバカにする甚だしい。それでも、支持率が落ちないのはなぜだろうと考えると、自分の頭が奇怪しくなる。

 名護市長選のことは改めてつぶやくとして、今大騒ぎになっているノロウイルスについての話題を・・・。

先日、浜松市の幼稚園や小学校で大勢の児童が嘔吐や発熱で欠席というニュ-スに、瞬間的に、一カ所で給食を作っているシステムが原因だと確信。やはりこのシステムには効率的だというメリットがあっても、一歩誤ると被害が拡大することに、危なさを改めて感じたものである。

 しかし、すぐに続報として、浜松市はそれぞれの学校や幼稚園で給食を作り提供していることを知り、キツネに騙されたような気になるが、それでも、給食が原因だという予測は揺らがなかった。

 そして翌日、どうやらパンが犯人(犯物)らしいとの報道に、なるほどと納得する一方、何か釈然としない気持ちが残り、以来、何となく感じる不気味さを払拭できないでいる。

 教育委員会の発表では、浜松市では給食に出す全ての食材は熱処理をしているという。野菜も生では出さず、必ず熱を通すのだが、牛乳とパンだけはそのまま児童に与えていることから、パン犯人(犯物)説が浮かび上がったそうだ。

 牛乳ならば全市でさらに被害が拡大するはずなのだがそれはないとなると、残るはパンしかない。さらに絞り込んで行くと、被害がでた小学校や幼稚園に同じ製パン業者が納入していることが分かり、その事業所に立ち入り検査をしたところ、ノロウイルスを検出したというから間違いなさそうだ。

 先週末の続報では、製パン会社の社長の話として、11日朝、パンの包装を担当する男性従業員が腹痛を訴えたため、12~15日の間を出勤停止にしていたとのこと。下痢や嘔吐の症状があり、15日にノロウイルスの検査をしたが検出されなかったため、16日から仕事に復帰させたという。ウイルスを検出したのは女子従業員トイレのドアノブで、出勤停止の男性との因果関係はわからないのも変な話。

男性からノロウイルスが検出されなかったということは、この男性はシロ。例え女性従業員と何らかの接触をしていたとしても、ウイルスそのものが男性の体内外から検出されなかったとなると、常識的に推理すると、女性従業員の誰かが持ち込んだものではないだろうか。

事実、昨日の続報では、女性従業員3名からノロウイスルを検出したという。しかし、3名の女性は健康状態には全く異常ないとの報道で、最初に疑われた男性が気の毒と思うもののノロウイルスが体内に入っても異常を感じない人が多いことも明らかになる。どうやら私が抱える不可解さがこの当たりにあるようだ。

原因となった給食パンを製造した製パン業の社長は『心からおわびします。真摯に受け止め、反省している』と謝罪しているとのことだが、ノロウイルスの混入の事実経過をどこまではっきりつかんでの謝罪なのか見極める必要がありそうだ。

それにしても、ノロウイルスとはやっかいな代物。いつごろから、このやっかい者が現れたのだろうと記憶をたどるが、(自信はないが)少なくとも20年ほど前までは、その名前も聞いたことがないような気がする。

20年ほど前というと、今でも時々現れるが、『O-157』という、当時では始めて聞く名前の病原菌のいたずらが頻繁に現れるようになり全国的に被害が広まった頃ではなかっただろうか。このあたりから、聞き慣れないノロだとかロタという名前のウイルスが出現し、今日の乱暴狼藉につながっているように思える。

近年は医療技術が飛躍的に発達し、ほとんどの病気の原因を特定できるようになり、医薬品で退治するという考え方が主流になる過程で、いろいろなウイルス(突然変異は除いて)の存在がはっきりし、そのウイルスに名前をつけているのだが、(素人の当てずっぽ的な推論だが)昔からウイルスそのものは存在していたのではと想像している。そして、ウイルスが起因する病気は、『現代病』が多いのではと思えてならない。

この季節になると、今回のようなノロウイルスなどの食中毒、あるいはインフルエンザの流行期になり、『感染症対策は、予防と拡大の防止が重要だ』という言葉が大流行。具体的には、うがいや手洗いの励行ということが叫ばれるようになる。

そのことは否定しないが、ノロウイルスが体内に入ったとしても、今回の女性従業員の例から明らかなように、全てが発症すると思えない。むしろ、発症する人の方が少ないのではと考えると、まず私たちが心がけなければならないのは、ウイルスに負けない体力・体質作りではなかろうか。

私と同年配の人の中には、『下痢をしても正露丸で一発』という人も少なくない。そんなことを言うと、時代後れと一笑に付され、そして非難の嵐が襲うだろうが、少しの異常を大袈裟に騒ぐ、現在社会のひ弱さを感じてならない・・・。(田舎親父)

2014年1月20日 (月)

若者たちのデモにエ-ル・・・

 昨夜の9時前には名護市市長選挙の結果が判明。いつもながら、開票と同時ぐらいに結果がわかるのは不思議な気がするが、今回だけは、どうしても稲嶺市長の再選を願っていたので、そんな疑問はすっ飛ぶ。とにかく良かったと一安堵。

 これで、普天間の辺野古移転がかなり難しくなったことは間違いない。本来ならば、すぐにでもこの計画は白紙にして、国外に移転という方針を出すのが民主主義のル-ルだろうが、民主主義など頭から飛んでしまった自民党政権はアメリカの脅しを拒否できないとなると、今後さまざまな形で市長・市民への圧力が高まるだろう。しかし、稲嶺市長と名護市民には、何としてもこの圧力と戦ってほしいと願う。、

投票率は75%超。他の自治体の選挙と比べでかなた高いが、それでも4人に一人が棄権と気がかり。投票数も5000票程度しかない。恐らく国は、この数字を元に総意ではないと切り崩しにかかるだろうし、結果を突きつけられたのにもかかわらず、辺野古移転を進めると声明している知事の姿も不気味である。

このことは後日つぶやくとして、最近得た心強い話題に移る。

『脱原発』のスロ-ガンを掲げて、毎週金曜日に行われている国会周辺で抗議活動は、最近はすっかりマスコミが取り上げなくなったが、今でも続いているという。

私も何度か出かけたのだが、デモそのものが、学生時代経験した日韓・原潜での行動とあまりにも違い過ぎるギャップに違和感を覚えたことに加え、(日和見貧乏人の習性だと軽蔑されそうだが)交通の便とその費用を考えてしまい、いつの間にか足が遠ざかってしまっている。

ところが、若者たちの感覚はまるで違い、この国会周辺の抗議集会が、彼らの琴線に触れるところがあるらしく、この場で交流の輪が広がっているというから、場違いだと感じる老体から見ると羨ましい限り。

実際にその光景を見たことはないが、最近では十代の若者が抗議活動の中心になり、堂々と登壇して自分の主張を述べて、集まった老若男女から大きな声援を得ているという。

学生が社会の動きに一番敏感なことは世界共通だと以前から思い続け、現在でもそう信じている私には、どうして今日の学生が行動を起こさないのか、そして不満をストレスとして自分の中に溜めて、ある日突然、自殺や通り魔的などとの問題行動となって表面化することにいらだちを覚えている。

『日米安保条約反対』が社会のうねりの中心となった頃、私は高校生。それも京都の工業高校という、極めて政治とは無縁のロ-カルな環境にいたので、安保そのものが何をもたらすのかほとんどわかっていなかったが、当時東大生だった樺美智子さんが運動の先頭にたち、機動隊に踏み殺されたというニュ-スは衝撃的。依頼、体制に対して必ず?をつけることが常の体質を持つようになっている。

高校卒業と同時に富士通に就職したのだが、そこでまず行ったことは、600名の同期の高卒者員のうち350名の仲間と共に『思友会』という同期の会をつくり、大勢の仲間たちと歌声喫茶で歌ったり、休日のハイキングなどを楽しんだものである。しかし、会社は親睦団体とは捉えず、危険分子と見ていたらしく勤労課から呼び出しを受けて『お前は共産党員なのか』と疑われたことを思い出す。

時は移り、学生になってまず影響されたのは、日韓・原潜問題。たちまち、学生運動くのめり込み、国会周辺でのデモの指揮に情熱を傾けたことも懐かしい。

金曜日に続いている国会周辺の抗議活動に話を戻すが、参加している若者の中に、自分たちも行動で示そうという動きが広がり、秘密法案に対して反対する、名付けて『秘密はいやだ! U-20(アンダー・トゥウェンティ)デモ』を呼びかけているという記事を19日の東京新聞で見つけ嬉しくなる。

 『理不尽な政治に十代も黙っていられない-。昨年12月に成立した特定秘密保護法の問題点などを多くの同世代と共有しようと、若者でにぎわう渋谷と原宿両駅周辺で26日日にシュプレヒコールをあげる』との書き出しの記事に、思わず『ガンバレ・・・』という日頃はめったに使わない言葉が飛び出す。

記事は、中心になっている女子大生と女子高生が紹介している。デモを決意したきっかけは、昨年12月の特定秘密保護法の成立にあるという。懸念する国民の声が無視されたと感じ、さらにアヘ首相がその翌日に『嵐が過ぎ去った感じがした-』語ったと知り、『だったら、もっと大きな嵐を起こそう』と決意したというくだりは頼もしい。

デモを計画している若者は6人。26日は午後1時に代々木公園のケヤキ並木に集合し、午後1時半出発。渋谷、原宿両駅の周辺を歩く予定で、同世代の参加を呼び掛けるという。リ-ダ-の女子大生の『私たちがデモをやることで、いずれ選挙権を持つ世代にも関心を持ってもらいやすいと思う』との言葉で記事は結ばれている。

26日は偶然、マイナ-な音学会に招待されて青山にある草月ホ-ル出かける日。時間的に難しいかもしれないが、代々木公園に経由して、集まりはじめているだろう若者たちに、気恥ずかしいが、『頼もしいぞ・・・』と声をかけたいと思っている。(田舎親父)

2014年1月18日 (土)

健康にも格差が・・・

 『健康』にも経済格差が影響し、アメリカやヨ-ロッパの諸国では、この『健康格差』が大きな社会問題になっているらしいという記事に目が留まる。

『健康格差』とは、言葉の持つ響きから、所得による健康行動や医療機関の受診の差だと解釈したのだが、アメリカなどで進んでいる『健康格差』とは、『生まれてから現在に至る過程で蓄積されるもの』だというから、考えてみる価値がありそうだ。

アメリカではオバマ大統領が重要施策として『国民皆保険制度』を掲げていることは知っている。私には素晴らしい政策だと思うのだが、アメリカには『自己責任』というか、自由診療が当たり前になっているらしいので、野党・共和党は反対。世論も反対の声が強く、大統領の主張はすんなり受け入れられないのが現実らしい。

それでも健康に関しては国民の関心は強く、単なる自己責任とか自由診療、あるいは皆保険制度とは別に、この『健康格差』の議論が起きているというから面白い国である。

『健康格差』の研究は1980年代から始まり、WHO(世界保健機関)も取り上げて、『健康格差の要因』についてまとめたレポートも出されているという。

その中に、経済的に貧しいほど死亡率が高いが、それは現時点で経済的に厳しいことだけが問題なのではなく、現時点では同じ経済レベルでも、子供時代に貧しい家庭で育った人、いわば『成り上がった人』は、大人になってからの死亡率が高いという一文があり、さらに、このことは、現役時代の職業階層による違いは、退職後の健康状態にも影響しているとされると続く。これは面白そうだと俄然興味がわいてくる。

そして、一昔前までは、教育管理職(特に校長職)経験者は、早死にするという言い伝えがあったことを思い出す。それを裏付けるように、退職後数年で訃報が回って来るのも珍しくなく、その都度『早いねえ・・・あんな良い人が・・・』との声が葬儀の場で流れたことも一度や二度ではない。

当時は、教員の年齢が高く、管理職を目指す人が多かったので、教頭を長くやって、定年前に数年間校長職ということが普通だった。校長経験者の早死には、教頭時代の苦労がつもり積もって、ホッとしたことによるという風聞が流れたが、なるほどと思わせるように説得力を感じたものである。

当時は『健康格差』という言葉が存在していなかったが、今思うと、校長にたどり着いた人は、言葉的には失礼だが『成り上がった人』。なるほど、退職後の早期の死亡率が高いという『健康格差』論に当てはまりそうだ。

しかし、いつの間にか、教員の年齢構成が若返り、あまり苦労しないで『成り上がれる』ようになり、40代で校長職も珍しくなくなった関係かもしれないが、最近は、退職後3、4年の訃報ととんと聞かなくなった。いや、それ以前に、早死に論が原因とは思いたくないが、管理職になり手がいないという別の問題が起きているというのも考えさせられるが・・・。

『健康格差』という言葉から、またまた意味不明の散文・拙文になってしまったが、記事は、EUでは国民の生存権・健康権の保障として『健康格差』の削減目標を掲げ、日本でも早めの対策が必要ではないだろうかと、締めくくっている。

一昔の校長経験者の話ではないが、福島原発事故の処理に従事している人々の『健康格差』など話題にすらならない現在の社会に、早くメスが入ることを願わずはいられない。(田舎親父)

2014年1月17日 (金)

築30年の家屋はゴミ扱い・・・

 このところ近所で引っ越しする人が増えている。数カ月前、ご近所の私と同年配の夫妻とその母親と娘の4人家族が、新しく建つマンションに転居するとのことで、この街を去ってしまった。その後も、高齢の親が心配で同居するとか、あるいは、子どもたちがここに住んでくれないので、売り払って特老施設に入ると去った人が続いている。

私の住む住宅地は完全に区画整理されて、区画数は400以上と大きく、一区画の面積は最低で50坪。電気水道はもちろん、都市ガスも本下水も完備。格子状に走る道路は6メ-トルと生活環境としては申し分ない。ただ、バス通りから遠く、一番近くのバス停まではかなりの急坂を10分以上下らなければならないのが、高齢者に終の住まいという気持ちをぐらつかせているようだ。

私は、時間もお金もかかることから、現役時代は毎日、家内に駅近くまで送り迎えしてもらっていたので、さほどの不便さは感じなかった上、退職後は歩くことが趣味のようになったので、バスに乗る習慣がないのだが、私と同年代の多くの人たちからはバス便がないと今後生活に支障がおきるとの声が高まり、誘致の動きが盛んになりはじめている。

周りのそんなム-ドに影響されたのだろうが、最近は住宅関係の新聞の折り込み広告に目が行くようになり、家の価格に興味を持つようになっている自分に気づく。

40年前に、この住宅地の売り出し価格は坪30万円前後だった。当時も貧乏人の私が、どうして金を工面したのか思い出せないが、超夏向きの我が家でも建てるのには1000万円程度は投資したに違いない。さらに、自分の書斎としている部屋も増築したことや、台所などのリフォ-ムも含めて、当初の倍ぐらいはかかっているかもしれない。

我が家は近所の住宅と比べて安物だということは一目瞭然。前のお家などは、大雑把な見当だが、当時の価格でも我が家の倍はかかっていると推定している。ところがどうだろう、その立派な家が、新聞折り込みでは2500~2700万円と、信じられないほど評価額は低い。

築年数が30年を過ぎた家は不動産的にはゴミだという。どう考えても納得できないことばかりだが、実際に買い手がないらしく、売れないので引っ越せないという声も聞こえてくる。

新しい家が良いのは十分理解できるが、最近の新築物件は庭という概念が必要ないらしく、敷地一杯に建造物が作られているのがごく普通というのも私には理解できかねる。さらに、駅から徒歩10分程度でも車のスペ-スは必要らしい。

最近はプライバシ-が最重点になっているのだろうが、駐車スペ-スをぎりぎりにとった、まるで規則性のない家屋が、あっち向いてホイ的に建てられている木造3階建ての住宅には住みたいとは思わない。しかも道は狭くくにゃくにゃと曲がりくねっているとなると、ますますその気はなくなるのだが・・・。

それでも、こちらの方が我が住宅地より人気があるらしく、3500万円程度でもすぐ売れるのだから私の価値観とはかなり異なる。もっとも土地代金が高くて、50坪となると5千万以上という価格になり、売れないこともあって、景観などはどうでも良く、売れさえすれば良いという不動産屋の戦術なのだろうが・・・。

土地は広いことに越したことはないのだろうが、最近の傾向として、スペ-スがあっても庭に樹木という需要はないらしい。むしろ、雑草の除去などが面倒という発想なのだろうが、樹木どころか全てをコンクリ-トや玉石で覆っている家も少なくないのも私には考えられない。

新聞折り込みには、戸建ての住宅よりもマンションが圧倒的に多い。それだけ人気が高いのだろうが、私が不思議だと思うのは、その価格が我が住宅地に建つ、中古ながらまだまだ十分住めると物件以上であることである。しかも、70平方メ-トル程度の中古マンションで、そして、駅から徒歩15分以上かかる物件であっても3千万円を越えるのだから、なぜと首を傾げてしまう。

マンションでは維持管理は全て人任せ、鍵一つで用が足り、しかも、近所付き合いなどしなくて良いのはわかるが、そのための月々の管理費はバカにならない。何より、日本の普通の鉄筋住宅の寿命は短く、築50年ともなると建て替えが必要になるそうだが、その時に、全員に了解をとるのが難しいという。こう考えると、築年数は古くても立派に住める戸建て住宅(しかも敷地が50坪以上ある)評価が低いことが、ますます納得できなくなる。

近所で事情があって転居を考えている人たちの住居は、それぞれが個性のある間取りと庭作り。その気になりさえすれば、すぐにでも住める上、価格的にもお手頃。なのに、評価格が低い。30年以上住んだのだから当然だという声も聞こえてくるが、なんだか虚しくなる。

古家は不動産的評価はマイナスらしいが、まだ十分住める家を壊してしまう。ここにも『もったいない』という発想が必要だと思うのだが・・・。(田舎親父)

2014年1月16日 (木)

諫早問題がグチャグチャに・・・

 誰が考えたのか、諫早湾に水門を作り海を埋め立て、広大な水田や畑を作るという計画があることを小学校の頃に聞いた記憶がかすかに残っている。

 その頃は、日本の国土が狭い上に急峻な土地が多く田畑が少ないことが、大きなマイナス要因として、私の頭に擦り込まれていたらしく、海を埋め立てるということに関しては、素晴らしいことだと思っていた節があったようだ。

 当時は日本地図を見て、東京湾の入り口に水門を作り、東京湾を全て埋め立てたら面白いと教師ともども授業で取り上げたことも一度や二度ではなかったはず。その後規模は小さくなっているが、東京湾はどんどん埋め立てが行われ、年々陸地が増え高層ビルが出現している。しかし、こちらはごみ処理という問題の解決に考え出された窮余の策だろうから、諫早の水門とは発想とは根本的に違う。

 実際に水門が完成したのは1980年代。当時のテレビのニュ-スは、水門が閉じられる様子が映し出していたが、その凄さにビックリしたことは鮮明に覚えている。当時は小中学校の頃とは違い、自然に逆らうことの愚かしさに気づいていたので、これは間違いなく海を殺してしまうことになると憤りが先に立ったものであるが・・・。

 事実、それから諫早湾の自然環境が一変。漁業関係者の怒りは膨らみ、水門を開けるための運動が繰り返され、漁業を守りたい佐賀県の漁民と、すでに埋め立てられた田畑で耕作を営んでいる長崎県の営農家との争いに発展。開けろ・開けないという大きな社会問題になり今日に続いている。

 数年前のことであるが、水門が海の生態系を乱しているという漁業関係者や佐賀県の言い分を『是』とし、排水門を5年間開いて環境への調査を命じるという福岡高裁の判決に、当時のアホカン首相が『開門』と明言したことは大きな話題になったことも記憶に新しい。時は移り、国はこの実行をしなければならないところだが、現政権はこの問題には関心が薄いらしく、何の進展もないようだ。

一方、干拓田が属している長崎県は、水門が開けられたら海水の影響を受けて、農作物に被害が及ぼすと、福岡高裁の判決を不服として、水門を開かないようにとの訴訟を起こしていたが、昨年末に、長崎地裁が『その通り』という判決を出したことから、政府はメンツをつぶされた形になり、開けないようにという仮処分決定に対して異議を申し立てたというからまさに異常事態。

開門を求める漁業者らは、福岡高裁の判決の義務履行を促すため、『1日1億円』の制裁金を支払うよう申し立てているという。佐賀県側としては、約束か違うと訴訟に踏み切ったことも当然だろう。

 『一日一億円』との訴えに対して、それを認めては垂れ流しになりかねないと考えたのだろうが、こちらに対しても異議申し立て。まさに、その場しのぎの裁判合戦になっている。

政府自民党のツ-トップは、秘密法案や集団的自衛権には、反対の声をテロだと称して全く聞く耳もたないのには憤りが噴出するが、諫早水門に関しては両県の大勢の国民の生活に直結する問題なのに、我関せずと人任せ。この体たらくはさらに許し難い。

 干拓田にすることに対して長崎県はもともとは『是』で、むしろ国の立場に賛成してきたらしい。水門建設に反対していたアホカン氏は、福岡高裁の判決に『待ってました』とばかり、長崎県側に何の連絡もなく、開門を決定したというから、長崎県側は『はしごを外された』と思うのももっともだろう。

 アホカン氏の私論としての水門建設反対は評価するが、その反対論はすでに遠い昔の話で、実際には水門が完成し、海は閉じられて田畑が広がっている現状では、福岡高裁の判決にホイホイ乗っかるアホカン氏には国の最高指導者としての資質がなかったのだろう。今更言っても始まらないが・・・。

 国と漁業者や干拓地の営農者らが法廷で対決する姿勢を強めていては、事態は混迷するばかりである。何とか、関係者が互いに話し合いのテーブルに着く努力をしてほしいと願っているが、両者の後ろには佐賀県と長崎県が控えているのだから、話はグジャグジャ。

 さて、自民党政権のツ-トップの指導力が存在するのだろうか・・・。(田舎親父)

2014年1月15日 (水)

こんな筋書きの小説が・・・

 スギモト某という20歳のワルが、検察庁川崎支部で弁護士との接見中に逃走したという事件は、私には未だに不可解そのもので、マスコミ報道を素直に信じられない。

事件の経緯は述べるまでもないが、(正式な接見部屋ではなかったとしても)『腰縄が緩んでいる』と言われた警察官が、その言葉を真に受けて、壁に向かわせて腰縄を閉め直している途中に、するりと外すなどとはまるで魔術師のやり方。

どこかに話の飛躍があると考えるのがふつうだろう。天才的な魔術師であっても、何らかの仕掛けがあるのだから、この男がまんまと逃げたことには、よほどはっきりとした仕掛けがなければ無理だと思うのだが・・・。

検察庁から裸足で脱走したとのことであるが、検察庁川崎支部のある場所が官庁街の一角にあったとしても、午後のあの時間に、全く人通りがなかったとは考えにくく、そこから裸足で走っている男を目撃した人には強い印象が残るはず。目撃情報が全くないというのも納得できかねる。しかも、マスコミはこの部分はまるで無視状態・・・。

偶然知り合いがバイクで通りかかったので、(当然ノ-ヘルと裸足)その友人を後ろに乗せて、裸足で運転して川崎の奥の多摩区まで逃走という警察の説明も不自然である。さらに、逃走の翌日には多摩区から横須賀に移っているのに、その手段などは全く白紙。昨日になって、別の友人がという説明にも不信感がつのる。また、なぜ泉区という横浜市の一番辺鄙な場所にということも強い疑問が残る。しかも裸足でとは・・・。

ある新聞の情報では、神奈川県警の捜査人件費は年額1500億円だそうだが、犯人逮捕までのまる2日に、県警が動員した捜査員は4000人。これは県警全体の4分の一に当たり、単純計算すれば2億円を要したという。

事件を神奈川県警と検察の単純なミスと片づけるのは簡単だか、2億円の税金の無駄遣いをしたにもかかわらず、県警の態度がでかいのも、検察もその後ダンマリを決め込んでいるのも強い違和感を覚える。普通ならもう少しお詫びの姿勢を出すのではないだろうか・・・。

結局、47時間の捕り物劇で存在するのは携帯のGPS機能という言葉だけ。携帯電話の電波を分析したことが逮捕につながったという事実が大きく報道され、携帯の『凄さ』を改めて印象づけている。この部分から、携帯というものの危なさを感じた人は少なく、むしろ逮捕につながったことに安堵する人がほとんどであろう。

ここまで、書き進めてきて、ふと、この逃走劇が、検察や警察よりはるかに上部の組織が描いていたら・・・という突飛もない思いが頭をよぎる。なぜ、そんなバカなことを思ったかというと、携帯の電波は全て管理されていることを広く知らしめるためにである。そして、そのことに疑問を持たせないどころか、監視が『是』という世論作りに・・・。

影の巨大な組織国はその気になったら、全ての国民の思想や信条、そして行動までも把握しようと思えば可能な状態になっているのではあるまいか。携帯の電波情報は識別できることは、今回の事件で明らかになったこと。コンピュ-タも特定できることも当たり前の知識になっている。

今日、私たちが当たり前のように使っている携帯(スマホ)やコンピュ-タは全て監視体制内におかれているとなると、私がいつ誰とどのような話をしているかも、その組織に備えつけられている超ス-パ-コンピュ-タのマウス操作で瞬時にわかる。

私が国にとってゴミのような存在なので調べないだけで、少しでも危険だとレッテルを張られた人にはすでに、個人デ-タが超ス-パ-コンピュ-タに登録され、常時監視され行動を把握されている?。ひょっとして、国が特定秘密法案を大慌てで議決したが、世論が納得していないことと、今回の事件との間に何か関係があるのでは・・・・。

こんな話を友人に話したら、彼は面白いと食いついてきた。数日後、彼から、お前の筋書きを知り合いの小説家の卵に話しても良いかと問われたので、良いよと答えたので、ひょっとして、近い将来、どのジャンルに属するかはわからないが、この事件をヒントにした小説でも出るのではと、淡い期待を持っている。(田舎親父)

2014年1月14日 (火)

『労働者の権利』という言葉が消えた・・・

 9日の東京新聞に『非正規 最多更新続く 安倍政権 正規減少の政策推進』という見出しを見つける。

 このところ、ブラック企業や過労死という、できれば耳にしたくない言葉が氾濫していることに、いつからこんなに労働者が虐げられ、経済格差が大きくなった世の中になってしまったのだろうと、そして何が原因なのだろうと考えている私には気になる見出しである。

 記事は、派遣社員やパートなど非正規労働者の数が過去最多を更新し続け、非正規雇用者は昨年11月時点で、1964万人になっているという総務省の調査結果を掲載している。

 この増加傾向は、アヘ政権が誕生してからますます大きくなり、政権発足直後の昨年一月と比較して1.9ポイント増の37.2%と過去最多になっているのだそうだ。私が現職を引退する10年前には、こんな数値は考えられなかったが・・・。

 現政権は、経済は確実に回復し景気は上昇しているとうそぶき、その根拠が、雇用の改善をあげている。確かに、雇用状況は良くなっているという記事を目にすることが多くなったが、良くなった分のほとんどが非正規労働者となると、経済音痴の私でも、経済の回復に『?』がつくのではと実態の危なさを感じることができる。

 記事には、全体の雇用者数が昨年1月から11月までの間に106万人も増えて、5274万人になったが、これは非正規にあたるパートやアルバイトが111万人増えたためで、正規雇用は逆に26万人減少したとある。

さらに、厚生労働省がまとめた有効求人倍率にも同じ傾向が見られるとして、昨年1月に0.85倍だった有効求人倍率は、11月には1.00倍に回復したことと、これが正社員に限れば0.63倍にとどまる半面、パートは1.30倍に上るとも書いている。二つの同じ傾向は、非正規雇用が雇用全体の倍率を押し上げていることが読み取れる。

 この傾向はますます大きくなることは私でも予測できるが、現政権は、さらに非正規雇用を進めるというから、今でも、外食産業はもとより介護や流通などほとんどの分野ではアルバイトやパ-ト社員が当たり前になっている現状をさらに押し進めて、正社員はほんの一握りという会社が増えることは間違いなさそうだ。

 経営側からみると、アルバイトやパ-ト社員ならば、必要に応じて採用・解雇が可能であろう。会社が負担しなければならない健康保険など各種の支払いも少なくなるのだから正社員はできるだけ減らしたくなるのもわかる。

さらに利益を追求することが企業の本質と考える経営者は、一握りの正社員にできるだけ効率よく働いてもらい、更なる利益をもたらしてほしいと願うのもこれも理解できる。となると、正社員には、過酷なノルマを課すのも当然といえば当然の理屈。ブラック企業や過労死が増えるのは当たり前だろう。

こんな社会が正常だとはとても思えない。経済の回復を願いたいが、この矛盾を解決することが先決だと思うのだが、現政権は、全てが経営者側に立った施策を進めているのがたら、世の中良くなるはずがない。

一昔前までは、労働組合が健全だった。賃上げはもとより、労働条件の改善にも、経営者側との交渉で勝ち取ってきたのだが、正社員が少なくなるとともに、労働組合が弱体化し、会社の方針を飲まざるをえなくなっているのが現実なのだろう。

ストライキという言葉も死語になってしまった。デモが労働者の権利として認められているのは世界の常識なのだが、人か集まって大声で訴えるのは『テロ』だという、無茶苦茶な論理の自民党の幹事長に対して、マスコミは批判すらできなくなってしまった。

労働者が存在するから世の中が成り立つことは、歴史が示す真理である。そのためには、最低限の『労働者の権利』が認められなければならないのは当たり前。この、当たり前のことが当たり前に考えられる世の中にしなければ、この国の未来はない。(田舎親父)

2014年1月13日 (月)

名護市長選の行方に注目・・・

 札束と恫喝に屈して、沖縄県知事が辺野古周辺の埋め立てを了解したことに、辺野古のある名護市長が強く反発。知事に対して『県民への裏切り』とまで言い切っているが、稲嶺市長の気持ちは痛いほど伝わってくる。

 さらに市長は、例え知事がゴ-サインを出したとしても、市長としての権限を使ってでも徹底的に抗戦すると明言しているというから、国が描いている辺野古屁の移転の計画図ははじめから描き直さねばならなくなるのではないだろうか。

 10日付けの東京新聞が、Q&Aの形式で、市長の権限を掲載していた。非常にわかり易いので、そのまま引用してみたい。(引用はじめ)

Q 稲嶺氏の考えは。

A 稲嶺氏は辺野古埋め立てについて「工事には市長の権限が必要なことも多い」と言っている。法的に認められた市の権限をできる限り使い、工事に入らせないようにする覚悟だ。市役所内の各部署に対して、工事に関係する権限がどれだけあるか洗い出すよう指示している。

Q 具体的にどんな権限があるのか。

A 基地を建設するために埋め立てる面積は百六十ヘクタール。東京ドーム三十四個分の広さになる。国は建設予定地近くの漁港周辺を埋め立てて、資材を置く作業場や取り付け道路を造る計画だ。漁港の管理者は市なので、使うには市の許可が必要。埋め立て時に海岸を使うのにも市の許可がいる。トラックやダンプといった特殊な大型車両が市道を通る際にも、許可がいる。市の権限は十項目ほどに上るとみられる。

Q 市が権限を使えば、埋め立てを止められるのか。

A 市に工事そのものを中止させる権限はないが、影響を与えることはできる。例えば市が漁港の使用を認めなければ、国は漁港を使わずに工事を進めなければならず、計画を大幅に変える必要に迫られる。もし市道を使えなければ、資材を埋め立て工事現場まで運べないため、国は使用許可を求めて裁判所に訴えなければならない。市にとっては国と全面対決することになるが、本気で止めようとすれば、工事の大幅な遅れが予想される。(引用

終わり)

 この記事で、我が家の真ん前に老人施設の建設が始まったころのことを思い出す。施行業者は東急建設。老人施設が建つらしいとは聞いていた。広大な森を切り倒してまで建設する必要に疑問はあるものの、老人施設の必要性は認識していたので、建設は仕方ないと諦めていたのだが、東急建設の突然の暴挙は許し難い。

 近所の住民とピケまがいの強い抗議行動に、東急建設は渋々説明会を開いたものであるが、全く誠意がみられない。私たちは、市役所に出かけて、市の権限で工事の差し止めを迫ったのだが、市はすでに許可を下ろしているので仕方ないとの回答。

 そこで、市の許可権限の大きさを知り、今回の老人施設の建設はこれ以上抵抗しても仕方ないと判断したのだが、この老人施設に連動して建設計画のあった隣接する二つの老人施設の建設には、資材運搬のための重機やトラックの市道の運行を許可しないように求め実際に、業者は迂回道路を造ったという経緯を経験している。

 稲嶺市長は本気だろうから、国は市道や港湾が利用できなることは間違いない。ハトヤマ首相の気まぐれ的な発言だったことは間違いなかろうが、その時点で、国会が全力を上げてその発言を支え、本気でアメリカと普天間の国外移転を交渉する姿勢を見せれば、当初は頑強な抵抗があっただろうが、少しは進展し、本当の意味での沖縄県の負担軽減が進んでいただろうに・・・。

昨日告示された名護市長選は、稲嶺現市長と推進派の候補者との一騎討ちになる。自民党政権は何がなんでもという選挙運動をするに違いない。信じられないような汚い方法が横行することも確実だろう。

しかし、国が埋め立てを進めるためには、埋め立て賛成派の市長が当選しない限り、埋め立て工事に入ることはできないという理屈になる。ここはどうしても稲嶺市長の再選を強く期待する。(田舎親父) 

2014年1月11日 (土)

『強い日本』とは危ないぞ・・・

 『強い日本を取り戻す』。自民党が一昨年に圧勝した衆院選挙のスロ-ガンである。当時日本全国津々浦々に、自民党のツ-トップの顔写真と共に、この言葉が印刷されたポスタ-がいやというほど目立ったものである。

当時の世情を思い出すと、民主党の最初のハトヤマ政権が、アメリカの普天間を国外にという方針を打ち出し、沖縄県民を喜ばしたのは良いのだが、すぐに『アメリカさまのお許しがでなかった』とあっさり退場。

次に生まれたアホカン政権時代、原発事故について、大事なことは全て隠蔽し、ウソをうそで固めたその場限りの対処で被害を大きくしたことは言うまでもないが、加えて、中国漁船と海上保安庁との尖閣諸島での衝突で、あっさりと船長を釈放に、自民党はもとよりマスコミからも弱腰との大批判が起きたことも記憶に新しい。

そして、汚染ドジョウの登場だが、この男はこともあろうに、『消費税上げない』という国民との約束をホゴにしたばかりではなく、『命をかけて消費税値上げ』と言い出し、予想通りあっさりと自民党に政権を戻してしまったことは、今思い出しても悔しい限り・・・。

そのことは別にして、(今思うと変な話だが)当時のイシハラ都知事が、『一部個人名義になっている尖閣諸島が、中国が買い取るという話が進んでいる。このままでは中国領土になり、このままでは日本固有の領土が危なくなる。国が買い取らなければ都が買い取る』と言い出し、実際に寄付を募集しはじめた。それに触発された汚染ドジョウは、すぐに『国有化』を発表。中国との関係が怪しくなる。

尖閣諸島が日本固有の領土であることは疑わないが、アヘ政権によって、世論が『強い日本』を印象づけるシナリオ通りに動かされ、結果的に中国との関係がさらに悪化。対話の道すら閉ざされてしまっているのが現実である。

『強い日本』というフレ-ズが、国民にとっては実に耳障りがよく聞こえるらしく、内閣支持率が不思議なほど落ちないのは、日本人の『強さ』に対する憧れがあるのかもしれないが、アヘ政権の後ろには、日本人の心理を実によく計算した、巧みな作戦を描いている軍師がいるように思えてならない。

支持率が落ちないことに気をよくした、アヘ首相は就任1周年の日に、靖国神社に参拝。アメリカからも『失望した』と呆れられた行為に対しても顔色を変えず、新年になっても、相変わらず『強い日本』の連発には、ある意味では凄い精神力を持っていると、妙に感心してしまうが、言い換えれば単細胞の恥知らずいうだけかもしれない・・・。

 ところで,『強い日本』とは何に強いのかと考えてみた。国民にとって強い経済力は安心して生活するために不可欠だろうから、経済に強い国を目指すのは当然だと受け止め、このことに関しての違和感はない。

しかし、軍事力で強いとなると意味が全く違ってくる。外国からの侵略には、国民を守るため、必要最小限度の防衛力を持つことも必要だろうが、この『最少必要限』という言葉の解釈が問題で、現在のアメリのように軍事力を見せつけて、世界の警察を演じる姿はいただけない。

アメリカのやり方は、言葉を選ばずに表現すると、『文句があるのなら戦争しようぜ』という姿勢であるが、我が国は敗戦国としての地位に、アメリカと真剣に交渉することなく甘んじ、広大な領土をアメリカに軍事基地として提供しているのが現実。沖縄の悲劇(神奈川も同じだが)の大本がここにあるのは間違いない。

 先の大戦での反省に基づいて、日本国第9条で『戦争の放棄』をうたい、この条文で、戦後の復興を得たと確信しているのだが、日本国憲法がアメリカから押しつけられたものだと捉え、憲法を改定する動きが急になっているのも気がかりである。

 戦後の繁栄は、(私は)『平和憲法』が心のよりどころとして心の豊かさを磨き、日本人の持つ優しい発想と勤勉さで磨き上げた技術力が、経済の発展の推進力になったと捉えている。

このまま、心が優しく平和な社会を築こうとする姿勢が、日本の更なる発展には不可欠だと思うのだが、現政権は、経済のためには武器も原発も輸出もするというのだから、世界の『平和』には逆流しているとしか表現のしようがない。

『強い』ことは相手を屈伏させることではない。正当で自由な競争によって勝つことであり、負けた時は潔く『負け』を認め、更なる努力を重ねることではないだろうか。しかし、現在の日本の現実は、生まれた時から富の格差がどんどん大きくなり、能力があっても自由な競争ができない世の中になっているように思えてならない。

本当に『強い日本』を作るのなら、まず、生まれながらの格差を是正することだと思うのだが、経済の格差には目をつぶり、思想心情の格差をなくすような現政権のやり方に、過ちを繰り返すのではという危なさを感じる。(田舎親父)

2014年1月10日 (金)

果たして都民は誰を・・・

 都知事選が後一月に迫ってきた。アオシマ都知事誕生以来、後出しジャンケンという言葉が示すように、公示日ギリギリになって、多くの人に名前が知られた著名人が立候補を表明することが流行っているが、今回はイノセの前代未聞の不祥事での退場を受けての知事選なので、ホソカワ元首相の動向が不透明ながら候補者の顔ぶれがほぼ決まった感じがする。

自民党は当初は女性候補擁立という話題性を狙ったようだが、人選がままならず、今では独自の候補を立てることは諦めて、ゾンビ・マスゾエ氏を支持するとことになったらしい。

しかし、これは筋が通らない。ゾンビ・マスゾエ氏は自民党が衆院選挙で敗北すると、幹部の責任を追求、それが通らないと『自民党は終わった』と啖呵を切って、自ら党を離れた人物。その時、自民党は『除名』という、政治屋さんたちにとっては『死刑』に値する最大限の処分で、『相手にする価値がない』過去の人物というレッテルを張ったことを国民は忘れていないはず。

常識的には、『マスゾエだけは絶対に許せない』というのが『除名』だった考えるのだがここにきて、宗教政党と組んでマスゾエ支持を進めているというのは、マスゾエ勝利を信じて、ともかく負けられないという焦りなのかもしれないが、情けないというか、いよいよ自民党の崩壊が始まったようで面白いと、これからの動きに目が離せない。

すでに、ゾンビ・マスゾエ氏とは水面下で話が付いているらしく、支持の条件として東京オリンピックに情熱を持って当たることと、都議会と上手くやっていくことの2項目の協定が結ばれ、すでにゾンビ氏は、自民党都議会議員に許してほしいと謝ったというからどちらもどちらである。

協定の項目には『原発』という言葉はない。これは自民党が一昨年の選挙公約にあった『再生可能なエネルギ-』という文言をいつの間にか外して、今や堂々と『原発再稼働』と『原発輸出』を党是としていることから、『脱原発』という言葉そのものを国民の頭から払拭したいからだろうと想像している。

ゾンビ氏も触れないのは、支持を得るためには『原発再稼働』は当然と考えているとみるのが妥当だろうから、ゾンビ新知事の登場では、ますます『脱原発』という声は小さくなり、都の発展のためには膨大なエネルギ-が必要として、再稼働では足りないとなると、過疎の海岸での原発新設まで進む可能性すら考えられる。

『脱原発』を争点にして、ホソカワ元首相が立候補するのではという話が広まっているようだ。この御仁が参戦してくれると私としては、今回の都知事選がますます面白くなりそうなので、ぜひコイズミ元首相との連携で実現してほしいと期待している。

ホソカワ氏は民主党が必至に口説いているのだそうだが、もし、ホソカワ氏が出馬しなければ、ゾンビ氏を支持するしかないとのこと。これでは、民主党という党そのものの存在すら危なくするどころか、党名そのものが消えるのではと、情けないを通り越してバカバカしくさえ思えてくる。

元航空自衛隊の幕僚長であるタノガミという御仁が、イシハラ前都知事の推薦を受けて立候補するというのも、私的には面白いと注目している。この御仁は、恐らく体質は自民党のツ-トップ以上のタカ派的な思想の持ち主だろうから、本来は現在の自民党が推薦すべき人物だろうと思うが、都知事選は負けたら内閣基盤が揺れると判断して、自民党外派閥におまかせしたというシナリオではないだろうか。

選挙にはお馴染みのドクタ-・ナカマツ氏も立候補するのだそうだ。この御仁の立候補は話題性としては面白いと思うが、都民が選ぶことは『絶対』にない。公示日までにはあと数人の選挙ではお馴染みの名前があがるだろうが、(ホソカワ氏の参戦次第だが)宇都宮対ゾンビの一騎討ちになると予測している。

昨日もつぶやいたが、今更オリンピック反対は意味ないが、このままの規模でオリンピックの計画が進んだら、都民のよりどころである神宮の森が危なくなることは間違いないので、オリンピックの見直しが必要だと確信している。

また、未来にツケを残さないためにも、原発に代わる、再生可能なエネルギ-の開発が急務であることを信条としていることから、ゾンビ氏の口から『オリンピックの規模見直し』と『脱原発』という言葉が、そしてホソカワ氏が立候補したとして、この御仁の口から『オリンピック見直し』という文言が出ない限り、両方に考え方が一致するウツノミヤ都知事の誕生を強く願っている。そして今回は、その可能性が高いと期待している。

もし、ボランティアで選挙運動のお手伝いができるのなら、駆けつけたいと思っているが、役に立たないだろうなあ・・・。(田舎親父)

2014年1月 9日 (木)

JSCのオリンピック便乗シナリオ・・・

 今更、2020年の東京オリンピック開催に反対を唱えても仕方ないことは十分承知しているが、今や当たり前になってきたオリンピックのためには何でもありという風潮は許し難いと憤りを感じる昨今であるが、また一つ、オリンピックに便乗して、自分の懐を肥やす輩の話題に腹が立つ。

 オリンピック施設の本家本元とも言える『新国立競技場』は、とにかく東京に招致するために、本来なら15メ-トル制限があった地域に対して突如として75メ-トルまでに大幅に緩和し、世界に対してアイデアを募集したことは今や明らか。

斬新なデザインがIOC委員たちの歓心を呼ぶだろうということで、イギリスの建築家の案を採用し、この完成予想図をコンピュ-タで美しく装飾し大々的に宣伝、実際にこれが大きな武器となり、東京招致が成功した要因の一つだとも言われている。

この奇抜なデザインの新国立競技場の建設には、明治神宮の森の一部を切り倒すことが前提になっているが、東京のオアシスと言っても過言ではない神宮の森の美観を破壊するなどとは誰が考えても納得できない話。

多くの著名人が、その規模の縮小を求めて抗議していることが伝えられていたが、このところその話題は、オリンピックが東京で開催されるという興奮の陰に隠れてしまったらしく、マスコミが取り上げることがなくなったようだ。

もっとも、この新国立競技場建設の旗振り役のイノセという男が、もっとも情けない人間失格行為で退場を余儀なくされ、新しい知事の登場まではこの問題は凍結されているようなので、マスコミ各紙・各局も新知事待ちというところなのだろうが・・・。

立候補を表明している宇都宮氏は、はっきりと計画変更と口にしている。当たり前の神経の都民なら、自分たちの心のオアシスである明治神宮の景観をぶち壊したくないはず、この一点だけでも、宇都宮知事の誕生は間違いないと考えたい。

しかし、共産党や社民党が推薦となると、党名を聞いて嫌悪感を持つ都民も多いと言われているので、先行きに一抹の不安が残る。

それはさておき、新国立競技場をイノセと共に進めてきたのが、日本スポーツ振興センター(JSC)という文科省所管の独立行政法人である。この組織は、国立競技場、秩父宮ラグビー場といった体育施設のほか、トップ選手の競技力向上を支援するナショナルトレーニングセンターなどを運営すると共に、Jリーグの試合結果を予想するスポーツ振興くじ(toto)も担っているというから、文科省の高級官僚にとっては数少ない天下り機関、何としても利権を守るために規模を大きくしなければならないようだ。

 そのJSCが、オリンピックのメーンスタジアムとなる新国立競技場の建設に伴い、自分たちのビルを移転するのだそうだが、それが何と、『巨大すぎる』と批判されている高さ70メ-トルの新国立競技場を上回る高さ約80メートルになることが、このほど正式にわかったというからふざけた話である。

現在のJSCのビルは築20年だという。これだけでも無駄な話だが、イノセと共にとの建築基準を都民のほとんどが知らない間に、15メ-トルから75メ-トルと変更した上で、新国立競技場と絡めた計画というから、はじめから計画されたお手盛りであり、オリンピックに便乗したシナリオである。

 明らかにされた計画によると、新ビルは地上17階地下2階だそうだ。新国立競技場の敷地確保には、JSCの入ったビルの取り壊しが必定なのだが、そんなことは今まで全く知らされなかった。ビル取り壊しが前提となるデザインを正式に決定し、おもむろに『やむを得ずビルの移設が必要』だと言い出す・・・。

 流石、日本の素晴らしい?教育を司る文科省には知恵者が多くいるものである。

これでは、何が何でも宇都宮知事を誕生させなければ、次々とオリンピックに便乗するこのたぐいの話が出てくることは間違いなさそうが、有権者は、それでもまだオリンピックそのものの派手な開催を夢見るのだろうか・・・。(田舎親父)

2014年1月 8日 (水)

ここにも不気味な動きが・・・

 道徳の教科化など、個性を伸ばすのではなく価値観までを統一的に規制するなど、我が国の教育行政は、フィンランド教育とは正反対の動きをしているのが気になっているのだが、ここにきて、私学の経営に強く介入する動きが強くなった感じがする。

 5日の朝日新聞に『私学経営、公的管理強化へ 立ち入りなど 法改正の方針』という見出しに、私には『私学の経営までも国家権力が介入しはじめたのでは・・・』と、危機感を新たにしながら記事を読む。日経では昨年暮れにすでにこのことを記事にしていたらしいことを後で知るが・・・。

 書き出しは、『経営破綻など問題を抱える学校法人の管理を強めるため』とある。恐らく先年、理事長の放漫経営ですでに財政破綻をしているのにもかかわらず、それをひた隠し生徒募集をしていた学校法人『堀越学園』の創造学園大学などへの改善命令などを指しているようだが、国や都道府県による『立ち入り検査や改善命令』などの措置を新設するという部分に、何となくキナ臭さを感じる。

『堀越学園』が文部省から解散命令を受けたことに関しては、私もつぶやいたことがあるので記憶に新しい。

『堀越学園』という名を聞いた時、真っ先に連想したのは東京品川区にある『堀越高校』である。ここは芸能人が多く在籍することで知られ、首都圏ではかなり人気が高い学校だそうだが、学校法人の『堀越学園』とは全く無関係だというから迷惑な話であろう。

学校法人を申請する時は、法人名はすでに認可されているものとは一字でも違えば受付可能らしいから、恐らく『堀越高校』とは似て非なる紛らわしいネ-ミングを選んだに違いない。あるいは、学校法人を得るのはかなり困難だと聞いているので、『堀越学園』は、学校法人名をどこからか買い受けた後で、当時の関係者に『堀越高校』と何らかの関連をもった人物が存在していたのかもしれないが・・・。

『創造学園大学』とはかなたいかがわしい名前であるが、最近の風潮としては、何としても大学卒という肩書が必要で、しかも群馬県という東京とは微妙な距離にあることに加えて、堀越高校との関連をうかがわせた誇大な文面に惑わされて応募する学生が当初は多かったようだ。しかし、時が進むに連れて、かなり問題がある大学であることが知られるようになり、入学希望者が激減したのだろう。

 そんないかがわしい大学を解散させるのは当然だと思いたいが、『創造学園大学』を認可したのは文科省であることを忘れてはならない。ふと、田中マキコ女史が文科相時代、認可しないと宣言したことを思い出す。結局は、それが元で罷免されたことも・・・。

 記事には、『文科省によると』と断り、問題を抱える学校法人に対する行政措置は、今は解散命令のみ。改正案では、経営危機や法令違反など重大な問題のある法人への立ち入り検査を可能にし、資産の横領など不正をした法人役員を解職させる措置も加えるとある。

 そして、学校存続が危うい事態にありながら生徒募集を続ける例もあるため、入学停止や在籍生の転学支援を行政が命じられる制度も新設。私学経営の独立性を保つため、行政措置に踏み切る際は有識者からの意見聴取を定める考えだと続いている。

 当たり前のことだと受け止める読者も多いだろうが、認可した張本人が、認可した責任には全く触れない文面が気にいらない。

 私が自分の能力に限界を感じて、富士通を退社して大学に進学することを決めたのは丁度50年前。経済的にも国立大学以外は目に入らなかったが、もし経済的に可能だとしても選べる私立大学の数は少なかったはず。

 現在はどうだろう、星の数とは言わないが、『えっこんな大学があったの・・・』と口走るほど数が多い。そして、その多くが入学生の減少に頭を抱えているらしいとなると、今更、認可したことをすっかり忘れて『立ち入り調査』とは納得できかねる。

行政措置には有識者から意見をとあるが、特定秘密法案でも分かる通り、有識者会議が政府・文科省の御用機関にすぎないことは明らか。一部の悪質経営者排除を世間は喝采するかもしれないが、これが教育内容の統一につながらないという保証はない。

フィンランド教育ではないが、文科省が制定している学習指導要領に沿わないカリキュラムで授業を進めている私立の小中学校が存在していることはよく耳にする話。

学習指導要領が国の教育の本質だとして、指導要領を改定し道徳まで教科にして教育内容の統制を計る政府・文科省の動きと、今回の、経営者の不祥事という名目での私立学校への介入とがリンクしているように思えるのは、うがち過ぎるのだろうか・・・。(田舎親父)

2014年1月 7日 (火)

一人の教師を思い出す・・・

 記憶の引き出しを開けてみると、私がフィンランド教育に関心を持ち出した30年以上も前のことだったようだ。と同時に、テストには100点という点数しか書かない教師がいたことを思い出す。

そのクラスには出席簿がなかったという。学校が楽しいと思えば欠席する子どもがいるはずがないというのが、彼の発想だったらしい。彼は最初の保護者会で、家族旅行が学校生活より楽しいと思ったら、そちらを優先するのは当たり前だからご自由にお休みなさいと宣言していたそうだ。そこまで言われたら、保護者としたら休ませにくいのも事実。実に高度な作戦だと感心する。学校が楽しくなれば、保護者としては学校を優先する気持ちになるのもうなずける。

当然のことながら、不登校などあり得ない。子どもたちは、学校を休んだら何が起こるか分からないという危機感もあるのだろうが、開門と同時に嬉々として校庭で遊んでいるのが日常だったらしい。

体調が多少悪くでも登校する。彼はそんな時にも、子どもというのは不思議な気力を持っているもので、周りが元気な環境に入ってしまうと、不思議に体調も戻ってしまうのだと語っていたことも今では懐かしい。

市販のテスト類は一切使わず、教えたことが確実に理解できているかということを、自分で作ったテストで確認するもの彼流だった。単元が終わるとテストをするのだが、『開始・終了』というのではなく、できたと思ったら提出させ、すぐに採点する。そこで100点をとれば後は好きなことをさせる。

100点以外は戻して、もう一度考えさせる。その時、考え方のアドバイスは赤で入れるそうだが、80点とか20点とか具体的な点数は書かない。二度三度挑戦して、答が合って、しかも表情から理解できていることを確認すると100点をつける。一発で100点をとる子と3回、4回とかかる子どもとの学力差は大きいが、気長に待つという。

そんなことをしていたら時間が不足するだろうと思うのだが、遅れている子どもには、できる子どもたちが競争で教え始めるという。彼が教えるよりも教え方が優れている子どもも多く、そんなチ-ムワ-クが広がると、4月当初は、全員100点までがとでもなく長かったのだが、学期が進むに連れて、その時間はどんどん短縮されるので、ト-タルとして他のクラスと変わらないのだそうだ。

今ではこんな考え方は通用しないかもしれないが、当時は、保護者も自分の子どもが持ち帰るテストには全て100点なのだから、反対の声が出しにくく、しかも学校が楽しくて仕方ないとなると、結果的に信頼が深まり、校長も認めざるを得なかったようだ。

東京新聞のフィンランド教育を取り上げた記事の中に、子どもたちは『勉強は自分のためにするもの』と教えられる。金曜日の小学校では、ある子は国語の書き取りに、ある子は計算問題に取り組んでいた=写真。『週内に十分に達成できなかったことを、それぞれが考えて補習している』と担任が教えてくれたとの一文がある。

なんだか、100点をとった子どもたちが、できない子を教えたり、また自分で課題を見つけて自主的に学習している姿を彷彿させる。30年前の彼が、フィンランド教育について影響されていたかどうかは知らないが、彼が実践していたことは、まさにフィンランド教育の神髄に触れることではなかっただろうか。

学力テストの点数だけを気にして、公開しろと教育委員会に迫っている首長たちに教えたいものである。(田舎親父)

2014年1月 6日 (月)

フィンランド教育について(その2)・・・

明けましておめでとうございます。

年明け早々の3日、有楽町の新幹線の線路脇のパチンコ屋などが入るビルから出火。6時間も新幹線が運転できなくなるというトンデモ事故が発生。丁度帰省客のUタ-ンに重なったことから、影響を受けた人は50万人にものぼるという。

新幹線だけではなく、山手線や京浜東北線、さらに東海道選もストップしたのだから、大なり少なり影響を受けた人は100万人にも及ぶのではないだろうか。JR東海と東日本が受けた損失も半端ではなかろう。鉄道各社は飛び込み自殺者の遺族にも損害賠償を行うというから、人的被害はないというものの、出火先のパチンコ屋などは倒産に追い込まれるのではないだろうか。

パチンコ産業はこのところ斜陽だと言われている。一時は駅前の一等地を占めていたバチンコ店が、しばらくご無沙汰すると、塾に変身しているという話も珍しくない。横浜の片田舎でもこの傾向が続き、塾と名のつく建物が駅前を占拠している。

ところで、今日からボケ防止の自分勝手な『つぶやき』をはじめたいと思っている。天声人語などの新聞のコラムには800字などという制限があり、その中で新聞社を代表する考えを述べなければならないのだから、言葉を選び、字数を切り詰めて、読者をうならせなければならないのは、いわば社命。その道の達人たちが、時には寝食も忘れて原稿用紙(今はパソコンだろうが)に向かうのだから、名文が生まれるのはもっともなところ。

しかし、私は文章的にも全くの素人で、しかも世間知らずときているので、時に(ほとんどだという声も聞こえてきそうだが)冗舌にてしかもトンチンカンな文章になるのも仕方ないと割り切り、読んでいただけるかどうかは別にして、ボケ防止の年寄りの遊びだと思って、今年も書いていくつもりである。

まず今年のはじめの話題として、新幹線のストップから塾を連想してしまったので、教育の話題を取り上げることにする。念頭から塾のマイナス部分を強調するのも何となく気が引けるので、前年末の続きとしてフィンランド教育についてつぶやいてみたい。

私がフィンランド教育に興味を持ち出したのは、30年以上前になる。フィンランドもバブルが崩壊し世界経済が冷え込み、財政難で教育予算も大幅な削減が求められたそうだが、当時の教育相は『教育の力で不況を切り抜けたい。むしろ予算を増やして人に投資すべきだ』と大胆な教育改革を行ったというから、我が国の教育行政担当の指導者たちは、フィンランドの教育相の爪の垢でも煎じて飲んでほしいものである。

 フィンランドではこの結果、教育の権限は国から地方へと移され、予算執行権も自治体にあるという。学習内容も国は大綱によって最低限の目標を示すだけで、具体的なカリキュラムや授業配分は自治体や学校が決めるというから、学習指導要領と検定教科書で学習内容まで国家が決めつけている我が国とは大違いである。

 現場の裁量は広がるとなると、教師にはより高い質が求められるようになるのは当然。 教職の人気は高くなり、大学の養成課程には意欲ある学生が集まり、ほとんどの学生は修士号をとるのだそうだ。

30年前、フィンランド教育の凄いところは、一部の子どもの成績を伸ばすという考え方ではなく、理解できない子どもたちの理解度を上げることに重点がおかれていると教えられたことがある。

その時は、そんなことは当たり前だと思っていたので、どこが凄いのと、さほど驚きはしなかったが、その後我が国の教育システムがどんどん変化し、『学力=テストの点数』という考え方が当たり前になり、世の中全体が一点でもテストの点数を上げることに血眼になりはじめて以来、改めてフィンランド教育の重要性を認識したものである。

昨年末の東京新聞の記事には『義務教育は日本と同じ9年。最後に到達度をはかる学力テストがあるが、それは公教育を競わせるためのものではない。学力差のある子らが同じ教室で学びながら、一人一人が目標にどう近づくのかが大切にされる。詰め込みや点数競争にさらされない子どもたちの姿はのびのびとしてみえた』という一文がある。

30年前の学校現場の思いは、まさに同じだったはずなのに、どこで狂い出したのだろう。このことは、改めてつぶやくことにしてみたい・・・。(田舎親父)

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