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2014年4月

2014年4月30日 (水)

高裁もボケ老人は座敷牢判決・・・

 昨年の8月のことである。名古屋地裁が『認知症の高齢男性が電車にはねられたのは、見守りを怠ったからだとして、電車の遅延の賠償金約720万円を遺族からJR東海に支払うように命じた』という判決に、エッと思ったのは私だけではないだろう。

 このことは小覧でつぶやいたのでよく覚えている。(繰り返すが)2007年の12月のある日の午後4時半頃、91歳の痴呆症の男性はディサ-ビスから帰宅、家族とお茶を飲んでいたが、家人の隙をついて自宅を出て徘徊を始めたとのこと。妻が気がついて、近所を探したが見つからず、1時間ほど後になって、JR東海が所管する東海道本線の共和駅で踏切に入り、電車にはねられて死亡したことが明らかになったという事件である。

最近の認知症絡みの話題から、さほど驚くほどのことはないのも寂しいが、見守る義務がある妻や息子の一方的なミスだとして、720万円というトンデモない額の賠償を求めた名古屋地裁の裁判官の意識に疑問を持ったものである。

賠償を命じられた遺族の長男は『常に一瞬の隙もなく見守るなんてことは不可能。家族でやれることはすべてやってきた』と主張し控訴したことは当然だろう。代理人の弁護士の『判決が認められれば、徘徊歴のある高齢者の家族は、すべて事故時に責任を負わされるおそれがあり、介護が立ちゆかなくなる』との意見ももっとも・・・。

この控訴審の判決が、先日名古屋高裁ででた。しかし、その内容が『見守りを怠った』という地裁の判決を肯定するものだったので驚く。一審では、63歳の長男にも見守り責任があるとしていたのだが、高裁は、同居している妻だけに責任があるとして、359万円支払いを命じたのこと。

踏切事故で死亡した91歳の夫は、常に介護が必要とされる『認知症高齢者自立度4』と認定されていたという。その夫を91歳の妻が介護している図は、私には気の毒でとても描くことができないが、世間的にはよくある話らしい。

脳的にはほとんどボケているのに、身体は丈夫で少しでも目を離すとすぐに外に出る癖がある夫を、91際の妻が四六時中面倒を見られるとはとても思えない。妻は精神的には異常がなく、思考も元気だとしても、91歳という老齢では身体がついていかないのは当然過ぎるほど当然だろう。

デイサ-ビスというものも,私には今一つはっきりとは理解できないが、受け入れる職員は送り迎えはしても、送り届けた後までの面倒は見る義務はないだろうから、後はよろしくとなるのも無理はない。

 妻は夫をいたわりつ・・・ではないが、帰ってきた夫と談笑している途中に、突然夫が立ち上がって、鍵を開けて外に出多として、妻がそれをくい止められるとは思えない。夫が動き出してしばらくしてのろのろと立ち上がり、外に出た時には夫ははるか先を歩いているとなると、妻にできることは、日頃から通っている老人施設に電話する程度しかない。

警察に届けることもあるだろうが、警察としても一度なら本気で探そうとするだろうが、二度・三度となると、その態度はおざなりにあることは、先日2年ぶりに身元が分かった太郎さんの零からも明らか。

そんな現実の中、妻だけに賠償責任を負わせるとは私には到底理解できない。夫婦が互いに協力し、助け合っていくことが大切なのは疑義がないが、配偶者というだけで常に責任を負わされるとなると、精神的にも、経済的にも追い詰められ、とても在宅介護など成り立つはずがないだろう。

 太郎さんはたまたま保護されたが、予備軍を含めて高齢者の三分の一が認知症だという現実では、同じような事故はほかでも起こる可能性は限りなく100%に近づくだろう。徘徊対策として玄関に開閉センサーをつけても、ヘルパーに頼んでも、行動予測の難しい人を二十四時間、一瞬も目を離さず見守ることは不可能。裁判官たちは、徘徊に因があるこのような事件を起こさないためには、『座敷牢』を作る費用を介護保険で負担しなさいというところらしい。

この判決が前例になれば、ほかの事故でも損害賠償裁判で責任を問われることになるのは明らかだろう。これでは在宅介護などという言葉すら無責任で無意味な響きを持つ。

 そうなると、(以前に述べたことの繰り返しになるが)認知症の夫(妻)を介護している人は、日頃から、徘徊癖のある夫(妻)には『衝突するのなら自動車だよ。間違っても踏切には近づかない』ということを、繰り返し言い聞かせることでは・・・。悲しいことだが、これが我が国の福祉介護の現状らしい。

妻が上告するのは当然である。最高裁の裁判官たちが、在宅介護の現実をしっかり調べて、国民が納得できる判決を出してくれることを望みたい。(田舎親父)

 

2014年4月29日 (火)

過労死が当たり前の世の中に・・・

 一旦話が消えたと安心していた『残業代ゼロ』という経営者が大喜びする政策がゾンビのごとくよみがえり、首相の諮問機関と称する『産業競争力会議と経済財政諮問会議』という組織が、本気で打ち出してきたことに激しい怒りを感じる。

今『ブラック企業』が世間の耳目を集めている。誰が考えても、報酬につながらない残業を強い成果が出るまで際限なく働かせ、それでもノルマが達成できないとなると、『お前の能力がない』と責め、自主退職に追い込む、ブラック企業と呼ばれるこんな企業が存在して良いわけがないのだが、現実には次々と現れている。

最近は、『グロ-バル』という言葉が絶対に『是』で、これに反論することは世の中全てを的に回すことになっているらしく、この言葉の前にはいかなる言い訳は通用しない。『世界経済に打ち勝つためには、会社に協力するのは当たり前』という論理が当たり前のごとく通用している。

個人の事情などは全て考慮の対象にならずという社会が実現したらと、想像するだけでゾッとする。しかし、今回、政権が打ち出そうとしているのが、そんな危惧をますます増大するような法案のようだ。

こんなものが通ってしまったら、今でも、サラリーマンの長時間労働が常態化し、毎日のように過労死や鬱病、あるいは自殺という話題に事欠かない現実なのに、ノルマを課して達成を義務化することが『法律で是』となれば、悲惨な結果になることは火を見るより明らかである。

以前、年収が最低でも1000万円を超える、いわゆるホワイトカラ-と呼ばれている一部の高級サラリ-マンを対象に、勤務時間をなくして自分の仕事を達成できる労働形態を『ホワイトカラー・エグゼンプション』と名付けて打ち出したことは記憶に新しい。

その時は世間の理解を得ることができず(内閣が倒れた)、その言葉は過去のものとなっていたと思っていたが、今回はホワイトカラ-だけではなく、対象を一般社員に拡大して実現しようというのだから正気の沙汰ではない。

『産業競争力会議と経済財政諮問会議』が本気で打ち出した基本的な考えは、働く人が労働時間を自分で決める代わりに、残業代や深夜・休日勤務などの割増賃金をもらえなくするものであることは疑いのないところ。

現在の労働基準法は労働時間を『一日八時間、週四十時間』と定められている。それを超える場合は、役員や管理職を除き、残業代の支払いを企業に義務付けているが、この規制を外すとなると、労働者は企業の奴隷になれという宣言に等しい。

百歩譲って『成果さえ出せば短時間で仕事を切り上げられる可能性はある』という意見を認めたとしても、現在の社会は使用者側である会社の立場が著しく強く、会社としての成果や、それに値する賃金などは経営者のさじ加減できまることは、誰の目にも明らか。結局は労働者が成果を求められ、過剰労働が当たり前になることは疑いのないところ。文句を言えばすぐに『ならば、お辞めになったら・・・』とくるのだから、想像するだけでこれは地獄。

今求められているのは、誰もが希望の持てる社会の実現でなければならない。なのに、時代に逆行するがごとき、こんな法案を遠そうとしているこの政権は、アホベという男は、まるで江戸時代の悪代官という役所。

金儲けのために、媚びへつらう悪徳商人から,多大な賄賂を得て,庶民の苦しみなどもろともしない筋書きは、まるで安物の時代劇を見ているような感じすらしてしまう。このたぐいの時代劇の筋書きは、間違いなくギリギタの場面で『正義の味方』が現れて、悪代官を誅し、庶民を苦しみから救うのだが、今回の法案には『正義の味方』は存在しない。

それどころか、ますます貧しい生活を強いられる貧しい庶民は虐げられていることに気付かず、『支持率』という絶対的な切り札を悪代官に与えているのだから、悪代官はやりたい放題という筋書きになっている。

困ったものだとしかつぶやけないのがもどかしい・・・。(田舎親父)

 

2014年4月28日 (月)

ダウン症の子どもが増えている?・・・

『ダウン症で生まれる赤ちゃんの数が過去15年間で約2倍に増えているとする推計が、日本産婦人科医会の全国調査の分析をもとにまとまった』というニュ-スにショック受けた人も多かったのではないだろうか。

私もその一人。『推定』であって『確実』ではないという声も聞こえてきそうだが、最近、かなり多くのダウン症と思われる人々の集団を見かけることが稀ではないことからこのニュ-スに何か引っかかる。

私の見かけるのは赤ちゃんではなく成人が多いので、関連性は薄いとは思うものの、傾向的に、今後は今まで以上に出会う機会が多くなることは間違いなさそうだ。特に、近くの公園では、ほとんどの毎日、ある特定の施設の職員が引率しているが、ついついご苦労さまと道を譲るのが常になっている。

しかし、その施設というのが、このところ急速に規模を拡大しているらしく、あちらこちらに新しい施設を開設し、真新しい『日本財団』からの寄贈されたバスで送り迎えしていることに、少ないながら違和感を覚えている。

この違和感はどこからくるのだろう。どこかで誰かが障害者の人々を受け入れなければならないのは、老人対策と根は同じであり当然だろうとは思うが、それが民間に委託されて、ビジネスとして広がっているという事実を、そのまま受け入れたくない自分の存在だろう・・・。

このことはさておき、ダウン症に話を戻すが、ダウン症児の出生について、日本産婦人科医会が全国約330病院を対象に毎年実施している調査結果を、『横浜市立大学国際先天異常モニタリングセンター』が分析したのだそうだ。

 それを報じる記事によると、ダウン症で生まれた赤ちゃんの報告数は1995年が1万人あたり6.3人だったが、2011年は13.6人と、わずか15年で倍増しているというから驚きを通り越して恐ろしさが先に立つ。

 また、ダウン症を理由に中絶をしたとみられる数が、(推計だと断っているが)95~99年の中絶数を基準とすると、05~09年は1.9倍に増えていたという。この数値を元にして、中絶をしないでそのまま生まれたとすると、ダウン症の赤ちゃんの数は、11年は1万人あたり21.8人になったという。

調査では実数を出していないが、11年の人口動態統計の出生数に当てはめると、ダウン症の赤ちゃんは約2300人生まれるはずだったが、実際に生まれたのは約1500人で、その差の約800人程度が中絶されたとみられるという記述は、推定とはいえ生々しい。

 中絶の急激な増加の原因は、昨年4月から、妊婦の血液から胎児の染色体異常を調べる『新型出生前診断』が導入されたことだとあるらしい。導入から今年3月末までの1年間で7775人に上り、うち141人(1・8%)が胎児に病気がある可能性が高い『陽性』と判定されたという。前期に限っては、異常が確定した56人のうち9割以上が中絶を選んでいたのだそうだ。

 『障害なくこの世に生まれてほしい』とは親であれば誰しも願うこと。障害は全て遺伝だと言われていた時代では、己の遺伝子を呪い自分を責め、わが子を世の中から隔離して育てたという悲しい歴史を思い出す。

 時代は動き、障害が遺伝だけの原因でないこと、障害も一つの個性だという考え方だ少しずつ世間が受け入れるようになっているが、この世の中で生きていくために、障害を持っていることはマイナス要因になることは明らなことから、出生前にこのような検査が広まっているに違いない。

 気持ち的には十分理解できるが、ダウン症の原因のほとんどが高齢出産で、高齢出産を避ければダウン症児の出生数は減るとなると、早いうちから、高齢出産のリスクが大きいことを知らせることの方が先のように思える。(すでに遅いとお叱りの声も聞こえてきそうだが)

 高齢出産のリスクに関連して『卵子が老化』だということが広く知られるようになったのはつい最近のこと、リスクを知らせるにもその根本的な知識が、多くの医者ですら持っていなかったというから仕方なかったことなのかもしれない。

医学的に全く疎い私でも、生命の仕組みなどを考えると年齢を重ねると身体の全ての器官が老化するのだから、卵子の機能が低下し、それが異常な事態を生むことは推測できる。 しかし、この事実を学校や社会で学んだ事実はない。

どの段階でこのことを教えるのかは別にして、できる限り早い段階で、生命を生む源である卵子や精子も、年齢とともに機能が身体同様『老化』することを常識的な知識として得られるような社会の仕組みを作ることを大切にしたいものである。(田舎親父)

 

2014年4月26日 (土)

また一つ食物アレルギ-という難題が・・・

私の部屋の窓から黄色いカバ-で覆われたランドセルを背負って、新一年生が元気に学校に向かっている姿を見るのが日課の一つになっている。男の子に『学校は楽しいかい』と声をかけたら、『うん。友達もいっぱいできたよ』との返事が返ってきたので、うまくスタ-トを切ってくれたとホッとしたのは昨日のこと。

入学式から3週間。小学校ではそろそろ『慣らし給食』が始まる頃。まず,牛乳とパンと何がしかの副食が配られ、『いただきます』『ごちそうさま』という挨拶を教えられるのではないだろうか。

担任は、ここぞとばかり食事のマナ-も指導しているのだろうが、生活環境が個々バラバラの35人(実際にはそれより少ないだろうが)に、それを徹底するのはかなりの苦労を要する仕事。このことに気がついている保護者はどれぐらいいるのだろうと少し気になるのだが・・・。

担任の指導力にもよるが、多少の騒がしさを我慢できれば、なんとか楽しい給食の時間を過ごすことはできるが、牛乳を飲んだとたん、気分が悪くなり、最悪の場合その場で嘔吐でもしようなら、今まで楽しかった学級の雰囲気は一挙に崩れる。

ほとんどの人はこんな光景を想像できないだろうが、学校関係者、特に新1年生の担任を経験した教員は、一度や二度こんな場面にぶつかっているのではないだろうか。

牛乳が飲めないという子どもは昔から存在している。飲めないはずがないと、飲むまで許さないという教員(特に中年の女教員)がいたことも今は昔。今どき、そんな指導?をしようものなら学校には批判の嵐。校長はこの今は昔の例をとって、給食指導について1年担任、特に新採教師には徹底して訓示するのもこの季節の学校の知られざる風景である。

書き出しが長くなったが、食物アレルギーを抱える子どもが増えている。ある特定の食物が苦手な子どもは多いが、最近は、嫌いを通り越して、口にすれば気分が悪くなるのはまだしも、卒倒したり最悪の場合は死に至ることも稀ではないとなると、教員にとって給食の時間は楽しいなど思っていられない。

この小覧でも取り上げたが、一昨年12月に、東京都調布市の市立小学校で5年生の女子児童が給食を食べて死亡した事故が、社会の食物アレルギーへの関心を高めているが、それでも学校給食で、アレルギー食材を誤って食べてしまうケースが後を絶たないというから困った話である。

 先日、ネットで読んだ記事によると、文科省が昨年実施した調査では全国の公立小中高校で食物アレルギーのある児童・生徒が約41万人に上ったという。この数値は、2004年の前回調査と比較すると、20%も増えているのだそうだ。そして、専門家によればこの数値は今後さらに増えるとのこと。ますます学校の苦労が増えそうだ。

 アレルギ-を起こす食物は、これまでは卵や牛乳、エビ、カニなどが注意対象だったが、最近はソバや特定の果物など、場合によったらパンや野菜にも及ぶこともあるというから油断ができない。アレルギ-ショックを起こさないため担任は、子供の状況を正確に把握しておく必要があることは今更述べるまでもないこと。

 ところがアレルギーを持つ子供の保護者のうち、症状の特徴や注意点を記した担当医の診断書類を学校に提出していたのは、(これもネット情報だが)2割にとどまっているというから、新一年生の担任にとってこの季節の気苦労は想像に難くない。

 文科省は3月末に、診断書類を必ず保護者から提出させるよう求める通達を全国の学校に出したというが、果たしてどのぐらい徹底するのだろうか。

 入学式で『アレルギ-を持ちながら診断書を出さないお子さんの命の保証はしない』という教育長の署名入りの文面を配れば、その効果は期待できるが、果たしてここまでの徹底できる自治体がとれほど存在するのかも疑わしい。

 またどこかの学校で食物アレルギ-の事故が・・・。そこで責められるが学校だとなると、(いつものつぶやきになるが)ここまでして学校給食を続けなければならないのかという疑問にぶちあたる。(田舎親父)

2014年4月25日 (金)

意図的ならば大拍手・・・

 約224万人の小中学生が参加する全国学力テストが22日実施された。(今更私が述べるまでもないことであるが)これまでは学校別成績はその学校のみが知ることができても区市町村教委が一律に公表することは禁じられていた。しかし、かなりの首長たちの教育改善という名目で、『地域への説明責任が果たせない』というタテマエ論がまかり通り、公表する動きが加速してきた。

そこで文科省として(1)順位付けは行わない(2)改善策なども併せて公表する(3)事前に学校側と十分相談する-などの条件を付けた上で、区市町村教委が学校別成績を、都道府県教委が区市町村別成績などを、それぞれ公表できると決めたのだが、点数を発表したら、人々の目は点数に向き、点数が一人歩きするのはこれまでの例。例外はなく、点数による序列付けが行われることは当然といえはこんな当然な話はない。

それでも文科省は、『下位校で教育改善が進み、学力の地域格差が縮小することだ。成績公表で期待される』と強弁。文科省直属の国立教育政策研究所も『成績を公表することで保護者らの関心が高まり、各教委も教育改善に本腰を入れるようになる』と御用機関ぶりをいかんなく発揮している。
 全国の教委の大半は、公表には消極的だと言われているが、教委が首長の思い通りとなってしまっている昨今では反論も尻すぼみ。この政権の教育改革(改悪)によって、やがて否応なく全国の教委が公表に踏み切るのは間違いないだろう。

すると、我が県は全国で何番目、そして我が校は・・・という話題になり、上位の自治体や学校・保護者は鼻高々になるだろうが、下位の自治体では、当然猛烈な『点数競争』か始まるのは目に見える。そして、点数獲得の過当競争は児童生徒の心の教育には相応しくないとして、中止になった50年前の再現となるのでは・・・。

この県は別の機会につぶやくとして、今回の全国学力テストで、『愛知県刈谷市立衣浦小学校が実施日を誤り、児童がテストを受けていなかった』と、同日の夕方のNHKテレビニュ-スでキャスタ-の言葉を聞いて、驚いたというより、にわかには信じられないと不思議な気持ちになる。

同校は翌23日に学力テストを受けたという。結果は集計に反映されず、あくまで参考になるらしい。翌23日の朝刊に、実際の学力テストの問題がそのまま掲載されていたので当然だろう。

このことはマスコミの絶好の材料になるに違いないとは思いが、文科省はこんな不祥事を大々的に取り上げられたくないので、必至で幕引きをするだろうから、案外続報がないのかもしれない。事実、今日になってもその話題はどの新聞も取り上げていないようだ。

 (このニュ-スを振り返って見ると)市教委の発表では、同校では6年生62人がテストを受ける予定だったが、4月の行事予定表に学力テスト実施日が『23日』と誤って記されていたため、教員らが実施日を誤解していたという。

行事予定表は教頭が黒板に書いたのだろうが、校長はじめ教員全員が気づかなかったとのこと。同校からテスト終了の連絡が市教委になく、市教委が問い合わせて、テストを受けなかったことが判明したのだそうだ。

 今回の学力テストについては、(繰り返すが)結果が教委の判断によって、学校別、区市町村別の成績を公表できるようになったということで、数日前からかなりの頻度でテレビや新聞が取り上げていた。前日には『明日、全国学力テストが行われます』と、全てのニュ-ス番組で報じていたので、学校関係者でなくても知っていたはず。

 校長会でも繰り返し周知徹底が計られていたことは疑いのないところ。学力テスト関連の情報が、ここの学校の教職員だけが聞いていなかった?。そんなことはあるまい。

嫌というほど耳に入って北に違いないが、なぜか素通り。となると、常識的には絶対にあり得ない推測だが、これが校長が描いた筋書きだとしたらこれほど面白いことはないのだが・・・。

この校長は『児童と保護者の方々に非常に申し訳なく思っている』とのコメントを出ししたそうだが、『これで、わが子の通う小学校の順位づけがなくなった』と喜んでいる保護者もいるのではないだろうか。

一般の保護者の批判は当然としても、教委や同僚の校長からの非難は半端ではないだろう。下手すると、自殺に追いやられる可能性もあるが、筋書き通りだったとした、こんな度胸のある校長の存在にホッとするのだが・・・。(田舎親父) 

2014年4月24日 (木)

高校の入学式に出席するのは親の義務?・・・  

 埼玉県の公立の高校で今年度担任を受けた女性教員が、たまたまわが子と勤務先の高校の入学式が重なり、わが子を優先し、謹話先の高校の入学式を欠席したことの是非が、昨日の朝日新聞を読むまでもなく、大きな話題になっている。

 この記事を最初に知った時、『校長が、担任にさえさせなかったら、こんなアホらしいことで世間を騒がせなかったろうに・・・』とつぶやいてみたものだが・・・。

私の経験でも、これに類することはよく耳にした(現在もたまに聞く)。あくまで私の推測であるが、校長から担任の話を出された時に、この女性教師は『わが子の入学式と重なる可能性があるので、今年だけは担任を外してほしい』と断りをしたのではないだろうか。

学校現場にはいろいろと事情があり、担任はどうしてもこの人物しかいないという場合も多々あること。教員には個人的に受けたくない都合があるのだが、校長としてはそれを承知でお願いする。

今回の場合、『自分の子どもの・・・』という理由を、校長は『分かった、入学式当日の休暇を認めるから受けてほしい』というセリフで押し切る話し合いの場が目に浮かぶようだ。その結果、予定通り担任としての入学式は欠席。しかし、校長も女性教員もこんな大騒ぎになるとは思っていなかったのではないだろうか。

この事件?を報じる記事を思い出す。●『ご子息の入学式のため欠席です』と、今月8日、埼玉県西部の高校入学式の担任紹介で、校長は新1年生を受け持つ50代の女性教諭について、生徒や保護者にこう話しかけた。●女性教諭は別の高校に進学した長男の入学式に出席するため、休暇届を提出していたが『大切な日に担任として皆さんに会うことができないことをおわびします』とあらかじめ作成された不在をわびる文書が生徒や保護者たちに配られた。●この日のうちに、欠席を問題視する匿名の電話が県教委に寄せられる。県教委の確認で、子供の入学式に出席するため高校の新1年生の入学式を欠席した担任が県内にほかに3人いたことも分かった。●『悪意の行動ではない。女性教諭も息子さんもショックを受けたようだ』と、県教委の関係者は戸惑いを隠せなかった。●県教委には15日までに147件の意見がメールなどで寄せられ、そのうち校長や教諭への批判が計82件、教諭の行動に理解を示す内容が65件となった。

県教委も複雑だろう。あらかじめ、校長から相談を受けたら間違いなく『今年の担任は外すように』という指示を出したに違いない。しかし、諸事情から校長が担任を命じたことも分かりすぎるほどわかっているはずだと思いたい。

しかし、『入学式の出会いは一番大事な行事。休暇届の受理はそれを踏まえた判断だったはず。それならば、より一層きちんとフォローすべきではなかったのか』と、後になって校長を責めるごとき教育長の発言はいただけない。

テレビなどで引っ張りだこの教育評論家は、『息子さんを第一に取り、職業人ではなく母親の行動を取った。単純な学力ではなく、人間教育も求められるのが教職。子供たちへの職責に反している』と、女性教員の教員としての資質を問うと手厳しい。

この御仁は、社会のさまざまな場面で学ぶ機会が増え、『学校の価値が相対的に落ちた』と語り,『世間の認識に甘え、教師自ら乗ってしまうようでは、さらに信頼を失う』と懸念を表明している。さらに『職責に真正面から向き合うのが教職。先生が尊敬を受けてきた理由について思いをいたさないとならない』と力説している。

私は入学式など人生の一コマだと思っているのだが、大学の入学・卒業式であっても出席するのが当然という価値観が広がり、両親はもちろん祖父母までも出席するのが常識のようになった現在。わが子の高校の入学式に出席した女性教師を責めるのはあまりにも気の毒。

すでに過去になったこと。この評論家の言いたいことは分かるが、そこまで教員を追い詰めるのではなく、これから彼女が学級の生徒との信頼関係を深めるだろう努力を見守る姿勢を打ち出してほしかったが・・・。(杉・田舎親父)

すでに過去になったこと。この評論家の言いたいことは分かるが、そこまで教員を追い詰めるのではなく、これから彼女が学級の生徒との信頼関係を深めるだろう努力を見守る姿勢を打ち出してほしいものである・・・。(杉・田舎親父)

 埼玉県の公立の高校で今年度担任を受けた女性教員が、たまたまわが子と勤務先の高校の入学式が重なり、わが子を優先し、謹話先の高校の入学式を欠席したことの是非が、昨日の朝日新聞を読むまでもなく、大きな話題になっている。

 この記事を最初に知った時、『校長が、担任にさえさせなかったら、こんなアホらしいことで世間を騒がせなかったろうに・・・』とつぶやいてみたものだが・・・。

私の経験でも、これに類することはよく耳にした(現在もたまに聞く)。あくまで私の推測であるが、校長から担任の話を出された時に、この女性教師は『わが子の入学式と重なる可能性があるので、今年だけは担任を外してほしい』と断りをしたのではないだろうか。

学校現場にはいろいろと事情があり、担任はどうしてもこの人物しかいないという場合も多々あること。教員には個人的に受けたくない都合があるのだが、校長としてはそれを承知でお願いする。

今回の場合、『自分の子どもの・・・』という理由を、校長は『分かった、入学式当日の休暇を認めるから受けてほしい』というセリフで押し切る話し合いの場が目に浮かぶようだ。その結果、予定通り担任としての入学式は欠席。しかし、校長も女性教員もこんな大騒ぎになるとは思っていなかったのではないだろうか。

この事件?を報じる記事を思い出す。●『ご子息の入学式のため欠席です』と、今月8日、埼玉県西部の高校入学式の担任紹介で、校長は新1年生を受け持つ50代の女性教諭について、生徒や保護者にこう話しかけた。●女性教諭は別の高校に進学した長男の入学式に出席するため、休暇届を提出していたが『大切な日に担任として皆さんに会うことができないことをおわびします』とあらかじめ作成された不在をわびる文書が生徒や保護者たちに配られた。●この日のうちに、欠席を問題視する匿名の電話が県教委に寄せられる。県教委の確認で、子供の入学式に出席するため高校の新1年生の入学式を欠席した担任が県内にほかに3人いたことも分かった。●『悪意の行動ではない。女性教諭も息子さんもショックを受けたようだ』と、県教委の関係者は戸惑いを隠せなかった。●県教委には15日までに147件の意見がメールなどで寄せられ、そのうち校長や教諭への批判が計82件、教諭の行動に理解を示す内容が65件となった。

県教委も複雑だろう。あらかじめ、校長から相談を受けたら間違いなく『今年の担任は外すように』という指示を出したに違いない。しかし、諸事情から校長が担任を命じたことも分かりすぎるほどわかっているはずだと思いたい。

しかし、『入学式の出会いは一番大事な行事。休暇届の受理はそれを踏まえた判断だったはず。それならば、より一層きちんとフォローすべきではなかったのか』と、後になって校長を責めるごとき教育長の発言はいただけない。

テレビなどで引っ張りだこの教育評論家は、『息子さんを第一に取り、職業人ではなく母親の行動を取った。単純な学力ではなく、人間教育も求められるのが教職。子供たちへの職責に反している』と、女性教員の教員としての資質を問うと手厳しい。

この御仁は、社会のさまざまな場面で学ぶ機会が増え、『学校の価値が相対的に落ちた』と語り,『世間の認識に甘え、教師自ら乗ってしまうようでは、さらに信頼を失う』と懸念を表明している。さらに『職責に真正面から向き合うのが教職。先生が尊敬を受けてきた理由について思いをいたさないとならない』と力説している。

私は入学式など人生の一コマだと思っているのだが、大学の入学・卒業式であっても出席するのが当然という価値観が広がり、両親はもちろん祖父母までも出席するのが常識のようになった現在。わが子の高校の入学式に出席した女性教師を責めるのはあまりにも気の毒。

すでに過去になったこと。この評論家の言いたいことは分かるが、そこまで教員を追い詰めるのではなく、これから彼女が学級の生徒との信頼関係を深めるだろう努力を見守る姿勢を打ち出してほしかったが・・・。(田舎親父)

2014年4月23日 (水)

私は誰?・・・

 『私は誰でしょう・・・』というテレビ番組を覚えている人は、相当な高齢者だろうと笑って済まされるが、『2年前に大阪市の路上で警察に保護されたが、名前や住所など身元が全く不明』となると、この世はここまで情けが薄くなったかと嘆きたくなると同時に、この先どんな社会になるのだろうという不安さが先に立つ。

 当然年齢はわからない。この男性は重度の認知症を患っているらしく、自分の名前も全く覚えていないという。法律上は生きている以上名前が必要だというから、この男性を預かっている施設では、『太郎』と名付けているそうだ。当然苗字もいるだろうが、公表していないのは、先入観を避けるためだと推測しておこう。

 警察にはこの男性が該当するような行方不明届けはないというから、一人で生活していたか、あるいは家族が意識的に届け出ていないとしか考えられない。

 先日はテレビでこの男性の様子が映し出されていた。表情は全くないことから相当な認知症だということは分かるが、体力的にはかなり元気があるようにも見える。これでは目を離せないだろうから介護の大変さは想像するまでもないだろう。

 この話題はかなりの視聴率が得られるはずなので、何かあれば、マスコミは競って取り上げるはずなのに、続報がないところから見ると、身元などはまだわかっていないようだ。(なにかの事情があって、苦良い箝口令が出たこともないとは言えないが・・・)

 保護されたのは、正確には2012年3月11日午前8時前、日曜の朝だという。大阪市の西部にある住宅街の歩道でしゃがんでいたところを警察に保護され、水色のダウンジャケットにグレーのスエットズボン、黒の運動靴。身なりに汚れはなかったとの記述に、つい先刻までは、あまり遠くない場所の室内で生活していた様子がうかがえる。

 しかも、保護された際にはズボンの下に『介護用の紙パンツ』をはいていたという。一人で介護要のパンツをはくこともあるだろうが、介護を専門にしている職員も『介護なしで生活ができるレベルではなかった』と証言しているところから、日頃から誰かにどこかで介護されていたことは間違いなさそうだ。

所持金も持っていないのも少し気になる。独り暮らしの年寄りなら、外に出かける時は本能的になにがしかの金銭をポケットにでも忍ばしておくだろうに、それすらないことからも、普段から誰かに頼りきった生活を送っていると推察できる。なのに、2年以上、この老人に関する情報が届いていないとは,世の中全体が信じられなくなる。

 大阪市がこの施設に預けるのせ大変だったらしい。記事には、30ヶ所以上の介護施設に入所を依頼したが,この施設以外は全て断られたという。名前も年齢も、過去の記録も全くないとなると、受け入れに躊躇したくなるのは十分理解できるが、なんともやるせない話である。

 受け入れている施設は、容姿などから70歳と推定し、生活保護を受けるために、仮の生年月日も決めたようだ。現在の推定年齢は72歳。仮の生年月日は、昭和16年埋まれということになる。

 ほとんど私と同年齢。この太郎さんのようなはケ-スは特殊と考えたい。しかし、認知症介護研究の専門家に言わせると『超高齢社会では人ごとでなく、同様のケースが身近で増えることは確実だ』と断言している。しかし、この専門家の言う『これまでも太郎さんのような存在と対面している』という話は俄には信じがたい。

その上で、『一刻も早く本名を取り戻し家に戻れるように、国や自治体が本格的に対策に乗り出すべき時期だ』と語っているが、具体的な示唆ができないところに、この分野の専門家の底の浅さを感じると同時にこの問題の歪みや深さがうかがえる。

太郎さんの要介護度は『3』だという。あまり介護に関心がない私でも、介護度が1~5に分かれており、受けられる介護の度合いが違うことぐらいは知っている。

しかし、ここまで重症だと思われる太郎さんにして『3』とは。これは他人事だと思えなくなる・・・。(田舎親父)

2014年4月22日 (火)

たれでは『支援』でなく『誤援』では・・・

  福島原発事故に伴い避難住民の帰還に向け、個人被ばく線量の実態を調べるという名目で、内閣府に『原子力被災者生活支援チーム』という組織があるのたそうだ。

いろいろな組織がありすぎて、その実態はおよそ霞の中。何をしている組織なのかほとんど伝えられでわからないのが現状。この組織も似たりよったりと言うところだろうが、少なくとも『支援』と名をつけている以上、避難者側に立って物事を進めるのが基本だと思いたい。しかし、ここでもお上の都合のよい方向で進めされている実態が、明らかになったという。

4月1日に国の直轄除染が終了しと、田村市都路地区が避難指示が解かれて、住民の帰還が許されたことは以前も取り上げたが、ここで、こともあろうに、この組織が昨年10月にまとめた中間報告書をずっと秘匿していた事実が、東京新聞の調べでわかったというから許しがたい。そこには、避難住民が帰還の判断基準にする放射線値など重要な数値が記載されていたというから、『支援』という名前はタテマエですぎない。

避難指示解除にあたり、国は住民帰還の前提となる除染が終わったと宣言したはず。それを信じて早速都路地区の自宅に戻った65歳の男性は『解除は時期尚早だった。私たちはだまされてきた』と怒りを表しているが、気持ちはよく分かる。

 話題は変わるが、国は、福島原発事故で避難している住民をサポート(支援)するために、『相談員制度』を作り、避難先に『相談員』を配置するという。今更という思いはぬぐえないが、この分野には専門的な知識や技能が必要なことなので、その分野に明るい相談員を配置することに関しては疑義はない。しかし、この『相談員』の研修や助言業務を、電力会社や原発メーカーの幹部らが役員を務める公益財団法人『原子力安全研究協会』に発注したとなると話が違ってくる。

この団体は明らかに原発を推進する側。当然、『原子力の安全性』を強調する情報が発信されるだろうことは想像に難くない。

東京新聞の記事によれば、この制度は、国が全員の帰還を目指す方針を改め、各地に相談員を配置し、線量計の使い方や、低線量被ばくによる健康への影響、被ばくの低減策などについてアドバイスし、住民に今後の対応を決める材料を提供するためだそうだ。

しかし、国が全員帰還の方針を改めるなんて私には考えられない。実際に記事の末尾に『ただ、早期帰還を強いられるのではという懸念は根強い』と付け加えているように、記者の目にもこの方針はマユツバものに映るらしい。

記事は続き、相談員には、地元の医師や保健師、自治体職員OBらが想定されるが、相談内容は広く、専門的な知識も要求される。こうした人材は多くないため、国は相談員を支援することを決め拠点を福島県内に設けるとある。

『相談員』には専門的な知識が必要なことと当然だが、頭から、このような人が少ないという論理はいただけない。これでは『相談員』を専門的な知識よりも人望?や役職で選定し、後から知識を与えれば良いという、これまでの国のやり方と何ら変わらない。

 そしてその通り、国(環境省)は3月に,『支援業務』を請け負う団体を決める入札を行い、価格評価と技術力評価を組み合わせた総合評価方式で実施し、『原子力安全研究協会』が7千4百万円で落札したというから筋書き通りである。入札には2つの組織が参加したというが、もう一つはダミ-?かもしれないと考えられないこともない。 

 繰り返すが、落札した『原子力安全研究協会』の評議員や理事には、日本原子力研究開発機構の理事長、中部電力や電源開発(Jパワー)の副社長、三菱重工業常務らの名が並ぶというから、いわば『原子力ムラ』が姿形を変えた組織そのものである。この組織が、人望?や役職などから選ばれた『相談員』を支援するとどうなるか想像するだけで恐ろしくなる。

悪い駄洒落ではないが『四円が五円』になってうれしいのは、日銭頼りの零細商売人だけ、ますます厳しい生活を余儀なくされている避難者にとって、『支援』が『誤援』になってはたまらない。(田舎親父)

2014年4月21日 (月)

首長の恣意で教育方針が変わっては・・・

先週の木曜日のこと。NHKの夕方のニュ-スで、アナウンサ-の『佐賀県武雄市は、来年の春から公立の小学校に民間の学習塾の指導法を取り入れ、官民一体で授業に取り組むと発表しました』という声に敏感に反応。画面を凝視する。

 このニュ-スを見た人も多いだろうから、その内容は詳しくは述べないが、埼玉県に本部を置く『花まる学習会』という塾と武雄市教育委員会とが手を結んで、来年から武雄市の小学校の一部で塾仕様の授業に取り組むそうだ。

金儲けには塾経営が絶好らしく、横浜の片田舎はもちろん、初めての駅に降り立ってもあたりを見渡すと必ず『○○塾』の看板が目につき、そこは堂々としたビルの中に存在しているのが最近の駅前の風景になっている。一昔前は、パチンコ屋がその地位を守っていたのだが、パチンコに興ずる人種は激減しているらしい。これも高齢化の影響?・・・。

『花まる学習会』もその一つなのだろうが、私にはあまり馴染みがない。記事によれば、この塾は首都圏を中心にかなりの店舗?を開き幅広く活動しているらしい。大きな声を出したり体を動かしたりしてゲーム感覚で授業を進めることで知られているそうだ。実際、ニュ-スでその様子が紹介されていた。

なかなかユニ-クな授業風景である。それ画面を見ていると、朝日新聞に連載されている『花まる先生』という記事を思い浮かべた。

『花まる先生』で紹介される、全国の小学校の教師は、それそれ個性的な指導で子どもたちを引きつけている。過去には,朝日の教育担当の記者から『ニュ-クな指導をしている先生を紹介してほしい』という依頼があり何度がそれに応えたこともあって、『花まる学習塾』という名前が強く印象に残っているからだろう・・・。

武雄市長と塾の代表が共同で記者会見をしているテレビ場面で、市長は、『公教育の優れたシステムに民間のノウハウを大胆に取り入れ、子どもたちがワクワクドキドキして楽しく学べる新しい公教育を作りたい』と語り、代表は、『正しく早く解く力ではなく、問題を設定して人を説得できる力を育てていきたい。厳しい競争の中で培ってきた民間の力を生かしたい』と、互いにメリットがあるという発言を繰り返していた。

その時は、この記者会見の場所など全く意識にはなかったが、翌朝の朝日新聞が(『花まる先生』絡み?)この話題を取り上げており、『武雄市の樋渡啓祐市長は17日、文部科学省で記者会見し、授業のカリキュラム作成などで学習塾と連携する官民一体型教育を小学校に導入すると発表した』という一文から、文科省で共同記者会見をしたらしいことだろうと思うと同時に、何故文科省でという強い違和感を覚える。

しかし、すぐにNHKニュ-スにもあったが、今回の武雄市の取り組みについて文科省は『塾の関係者が教員研修の講師になるケースはあるが、学校の授業に官民一体で取り組むのは聞いたことがない。先駆的な取り組みの1つとして成果を期待したい』と全面的に応援しているらしいことから、なるほど文科省での記者会見かと変に納得する。

 授業をするのは学校の教員で、学習指導要領に沿ってこれまでどおり検定を受けた教科書を使うのだそうだが、副教材として塾の教材を活用することも検討するとのコメントは指導要領に沿っているということを強調したいのだろう。

授業を進めるのは担任だというが、進め方を指導するのは塾の講師となると、気持ち的に抵抗感があるだろう。武雄市の小学校の教員は、『英語』に加え『花まる方式指導法』の研修をみっちりやらされるのだろうが、気の毒としか言いようがない。この研修も評価の対象になるのだろから、上辺は熱心にやるのだろうが、さて本心は・・・。 

武雄市といえば、少し前になるが、市立の小中学校の児童生徒にインタ-ネット端末タブレットを配り『反転授業』を進めるという話題を提供したことを思い出す。

反転授業とは、今までは『学校は基礎的な学習の場』『家庭は復習や発展学習の場』していたことを逆にして、あらかじめタブレットで児童・生徒は家庭で学習し、学校で学習したことを確認・復習するという考え方らしい。

こんな授業を進めるためにはよほど教員の質が揃って高くならない限り、学校間格差が開くだろうことは想像に難くない。また、家庭の姿勢によって児童生徒の理解度や成長の格差が広がることも当然だろうが、それはさておき、この授業方法もみっちり研修させちれるとなると、逃げ出したくなる教員も多いのではないだろうか。

これらの教育方針は市長の発案だという。国(文科省)は首長に教育権の全てを与えるという考え方なので、評価するというコメントを出しているが、市長のこのやり方に反対している市民も多いだろう。次の選挙で、反市長派の人物が当選したら、これらが全てひっくりかえらないとも限らない。

『学校と塾との協力(私的には受け入れたくないが)』についてはここでは述べない。しかし、組長の恣意で教育システム変わるとなると、その影響を直接受ける子どもたちの心の豊かな成長は期待できないことだけは間違いないだろう。(田舎親父)

2014年4月19日 (土)

大和市の宣言に拍手・・・ 

2013年10月現在、日本の人口は前年より21万7000人減り、65歳以上の高齢化率は初めて25%を超えたという。先日総務省が発表した人口推計である。

国の政策に都合の悪いことは隠蔽したり改竄することが得意技にしている諸官庁であるが、さすがに人口動向の推計は、単に数値の集計だろうから信じても良さそうだ。

1億3千万人という中では20万程度とさほど気になる数値ではないが、県庁所在地でありながら、20万人以下と言う都市も稀ではなくなっているので、極端に考えると、1年でその都市が消える数値となるとこれは凄いこと。この人口の減少は3年連続で、しかもこの傾向は今後数十年は変わらないどころか、さらにスピ-ドアップすることは確実だろうから想像するだけでも恐ろしい。

もっと恐ろしいことは、総務省の発表にもあるが、人口は減り続けるのに比べて、高齢者が占める割合が、総人口の4分の一になったと言う事実。

人口減と高齢化ですぐに思い浮かぶのは、高齢者を支える若年層の減少で、年金や医療など社会保障の土台が崩れていくことだろう。社会学的には、働き手不足の深刻化なのだろうが、なぜか若者の就職先が見つからないという話題が日常的に広がっているのは変な話。こんなところにも社会の歪みが集中しているように思える。

このことは別の機会につぶやくとして、ものすごい勢いで進む高齢化に対して、ささやかな抵抗と言ったら叱られかもしれないが、神奈川県の大和市が『60歳代を高齢者と言わない都市』と宣言したというニュ-スには、面白い試みだと拍手を送りたい。

市長の発案だと言う。背景には『お年寄り』と呼ばれた世代でも健康な人が増え、60代を『高齢者』と呼ぶのは実情に合わないという、多くの市民の問題意識の広がりがあるのだそうだ。

先日の東京新聞に、市長のコメントが掲載してあった。その中で、『全国に例がない』宣言だと言われていることに対して、『最大の目標は意識改革だ』と応え、『私も66歳だが、今の60代は高齢者と思っていない人がほとんどなのに、一般的には65歳から高齢者とされ、公的制度と現実がずれている』と語っているが、その通り。私は市長よりさらに高齢の70歳、年寄りだと自覚しているが、年寄りだと言われたくない気持ちは強く、市長の言葉には共感できる。

大和市は横浜市のお隣の自治体である。太平洋戦争で日本が無条件降伏を受け入れ、アメリカの占領地として再出発した際、その統治の最高司令官のマッカ-サ-が降り立った厚木飛行場がある町として知られている。実際は、その大半はお隣の綾瀬市にあるのだが・・・。

相模鉄道と小田急江ノ島線交差する位置に『大和』という駅がある。駅前は雑然としているが、地下を走る相模鉄道の地上分は広い歩道となっており、どことなく外国を思い起こす風景が広がっている。

近くには、『泉の森』という広大な公園もあり、何度か出かけているので、余計に大和という自治体を身近に感じることで、この宣言に引きつけられるのかもしれない。

市長の発言はつづく。『市の高齢化率は21%程度で全国平均の25%より低いが、高齢化が国全体の二倍近い速さで進む。高齢者と呼ばないことが六十代でも健康を保つことにつながり,医療や介護の費用が節減でき、仕事を続けられれば社会の生産性も上がる』とはもっともな話。

さらに、『60代が職を探すのは難しいのでは』という質問に対して、『保育や介護など人手が必要な分野で働いてもらえるのではないか。政策によって高齢者を職に就けることは、いずれ国全体で取り組むべき問題だ』とはなかなかやる気十分をうかがわせる。

この宣言が、言葉だけお一人歩きにならないこととを願うと同時に、60歳代の就労で、ますます若者の職場が奪われないための独創的な工夫をお願いしたいものである。(田舎親父)

2014年4月18日 (金)

このままでは2050年まで持たない?かも・・・

今世紀末までに、地球温暖化にもっとも影響する二酸化炭素(CO2)の出量を少なくともゼロにしなければ人類の滅亡の可能性があるという。

マスコミの脅しではない。週刊誌のキャンペ-ンでもない。この警告は、国連の『気候変動に関する政府間パネル(IPCC)』というれっきとした組織が、3つの部門で検討している第3作業部会で作った報告書だと言うからかなりの信憑性がありそうだ。

『世界の気温上昇を産業革命前と比べ2℃未満に抑える国際目標を達成するには、2050年までに二酸化炭素(CO2)などの温室効果ガスを10年比40〜70%減らす必要がある』という新たな報告書である。

この記事の解説によると、IPCCには三つの作業部会があり、各国の政府代表や科学者が参加しているのだそうだ。

第1部会は昨年9月、有効な対策が取られないと21世紀末の気温は最大4・8度上昇すると予測し、第2部会は先月、そうなれば世界的な食料危機や紛争を招く恐れがあると指摘。そして今回の第3部会の報告書は、7年ぶりの改定で、具体的な削減対策やそのコストを評価したとある。

地球温暖化については、誰もがこのままで良いとは思っていないだろうが、実際はというと、あまり深刻に考えていないことは、ますます増えるエネルギ-の消費に世界的にほとんど無関心なことからも明らかである。さらに、『便利で快適な生活』というキ-ワ-ドの後ろには、必ずエネルギ-の必要性が存在するのだが、それと温暖化ガスとを結びつく発想が欠如していることも、このことに追い打ちをかけている。

20年ほど前に京都でのICPPの会議で採択された『京都と議定書』には、主要な温暖化ガス排出国がメンバ-に入っていなかったという不合理があったが、その後の会議において、各国は地球の平均気温の上昇を18世紀の産業革命前と比べ2℃未満に抑える目標に合意しており、第3部会ではそれを具体化する作業を続けていたらしい。

そして得た結論が(繰り返すが)『2050年までに世界の温室効果ガス排出量を10年比4〜7割削減し、21世紀末にはほぼゼロにする必要がある』であり、その時点で『再生可能エネルギーなど低炭素エネルギーを3〜4倍に増やす』ことの必要性だという。

地球温暖化については、産業革命に由来することは誰もが認識している。特に、急激に経済力を増してきた、中国やインドをはじめ開発途上の国々が、先進国と同じようにエネルギ-の消費をはじめたここ50年は、それまでの200年を上回るスピ-ドで温暖化ガスが増加し、地球温暖化のスピ-ドを早めていることは、小学校の環境学習でも取り上げているので、いまや常識になっている。

今回、三つの部会報告書が示したの対策は、温暖化対策は世界にとって待ったなしの課題であるものの、これまでの経緯を見ると達成は容易ではないことは想像がつく。しかし。第3部会の試算では、対策コストは世界全体の消費拡大率を0・04〜0・14ポイント鈍化させるだけで済むというというから、理論的にはさほど無理な数値ではなさそうだ。

ただ、このためには、先進諸国と発展途上国の意識の差を縮めることが大事になるが、途上国人口が先進国よりはるかに多く、その人たちが生活改善のためにエネルギ-を必要とすることも自然の成り行きと考えると、これは難しい。

先進諸国はエネルギ-を今まで散々無法図に使っていたこともあり、途上国の人に我慢しろとは言いにくいことも事実。このあたりの折り合いをどうつけるか、ここに、わずか100年超で先進諸国を上回るエネルギ-消費国になったわが国の指導性が試されるのではないだろうか。率先してエネルギ-の消費を抑え、しかも、新たなエネルギ-の開発が重要な課題であることは明らかだろう。

この議論で必ず顔を出すのが原発であろう。事実、浪費を抑えると言う発想は過去には(現在にも)なく、わが国は、温暖化ガスを出さないクリ-ンエネルギ-ということで50年来、原発によるエネルギ-の獲得を目指してきた過去を持つ。

しかし、福島原発の事故によって、安全神話が完全に崩壊したことと、事故によって人々が『核のゴミ』問題に目覚めた今、これを放棄しなければ、温暖化ガスによる環境汚染以上の恐ろしい結果につながることは明らか。国民の過半数が、原発に頼ると言う発想は捨てるべきだと考えるようになっている。

なのに、この政権は捨てねばならない理論を経済のために進めると言う。世界に日本の努力を示すために、原発を廃棄して、浪費生活の自粛と自然エネルギ-の開発を急ぐべきだと思うのだが・・・。(田舎親父)

2014年4月17日 (木)

朝日の騒ぎすぎ?・・・

今どき『障害を持った子どもと一緒の入学写真はいらない』という保護者が存在しているのだろうかという疑念が頭をよぎる。

同時に、昔から独特の社会を構成している地方のある集落の中には『障害者は隔離する』という発想が年寄りを中心に残り、このようなこともあるのかもしれないとも思ってしまうような、なんとも嫌な気分にさせられる記事が先日の朝日新聞に掲載されていた。

長野県内のある公立小学校のことだそうだ。市町村の名前はないのは、そこから学校名を推測するのを防ぐためだろうが、ネットの書き込みを丁寧に探せばすぐにわかることだと考えると、かえって逆効果ではなどと脈絡のないことを思いながら、この記事については斜め読み。その後はすっかり失念していた。

しかし、頭の隅にモヤモヤとしていたものが残っていたらしく、ふと『何か変だぞ・・・』と気になり始め、改めて朝日新聞を開いてみる。

そこには、この小学校で今月初めの入学式での新入生の集合写真をめぐり、同校にも通うことになった特別支援学校ダウン症の男児が外れた写真と、加わった写真の2種類が撮影されたとある。

先日は深く考えずに、今どきこんな差別がまかり通る小学校の存在に驚いたが、改めて記事を読み返してみとると、この児童が所属するのは『特別支援学校』であって、この小学校でないことから、何故違う学校に入学した児童が一緒に集合写真を撮るのだろうという、以前とは違う疑念が浮かんでくる。

最近の教育制度の変わりかたが激しいので、現在、障害を持つ児童生徒の教育システムをほとんど知らない私には確実なことは言えないのだが、最近は、横浜の片田舎でも『○○特別支援学校』と明記されたバスをかなりの頻度で見かけ、学校名もひとつや二つでないことから、地域ごとに独立した学校として、『特別支援学校』が存在しているらしい。

バスで送迎していることから、『特別支援学校』の対象児童生徒は、歩行も支援者が必要な重度の障害のある子どもたちを対象にしていると思っていたが、この小学校のある自治体ではダウン症児童も対象にしているようだ。

話を戻すが、この記事にある、『公立小学校』と『特別支援学校』とは別の組織であり、それぞれの学校には校長はじめ教職員が存在し、重要な学校行事である入学式や卒業式は当然独自で行っていると考えるのが普通だろう。

前後の文章から、この小学校には『特別支援学級』がないので、この地域の障害のある児童生徒は、『特別支援学校』に籍を置き、入学式は『特別支援学校』と、受け入れがきまった小学校の両方に出席したと思われる。

となると、『特別支援学校』の独自性からして少し引っかかる。月に一度か二度という頻度も少なすぎるにもかかわらず、同じクラスの一員として扱うのも、何となく上辺だけ平等にしたいという発想にも思えて仕方ない。

『集合写真』の定義はないだろうが、学校行事における集合写真は、普通はクラス毎に校長と担任と子どもたち(最近は保護者も)で撮るのではないだろうか。そこには隣のクラスの子どもが入ることはない、まして他の学校の児童生徒が混じることはないはず。

全く同じ学校であるならば、今回のことは明らかに差別に該当するだろうが、そもそも明らかに違う二つの学校が、対等の立場で入学式を行ったとしたら、そこに無理があり、今回のような差別(と受け取られる)が起きたのではないだろうか。

形態的には『合同入学式』なのだろう。だとすると、特別支援学校の校長とすくなくともこの児童の担任は参加しているはず。集合写真に、両校長と二人の担任、そして全新入生(保護者)を撮るのならわかるが、クラスの集合写真に籍が違うこの児童だけを別扱いにするのは理屈に合わなくなる。

この男児はこの春、特別支援学校小学部に入学し、地域の児童との交流の一環で地元の小学校の授業や行事にも月に1、2回参加することが決まり、小学校でも教室に男児の机も置いて、クラスの一員として受け入れることがきまったという。

受け入れる小学校は深く考えることなく習慣として、これまではこのような場面を迎えてきたのではないだろうか。しかし、この校長が疑念を持ったとしたら、『籍が違う児童との集合写真は変だ』という保護者を納得させるためにも、別に撮影する選択は当然だと思うのだが・・・。

しかし、この校長は謝罪したとある。マスコミと教委の圧力から謝罪させられたというのが本当のところだろう思うが、校長が気の毒。

教委のこれまでの怠慢が、問題を大きくしたのだろうが、朝日新聞が、あたかも許されないほどの差別であると大騒ぎするのもいただけない話では・・・。

 お叱りを覚悟で一言付け加えてつぶやくと、なぜ、普通学級でこの児童を受け入れないのだろうという疑問が消えない。私の少ない経験では、ダウン症児童は教科の理解には苦労するだろうが、性格は優しく穏やかなのが特徴となっていることが多い。

教科の理解は、担任とは別に補助的な役割の人が、必要ならば別の場所で指導すれば良いことで、学級活動などは普通児童と一緒にできるはず。わざわざ、特別支援学校に在籍させて、月に1、2回通交するより、毎日この小学校に通い、学級に溶け込んで生活する方が、はるかにこの児童のためには良いと思うのだが。そして、学級の他の児童のためにも決してマイナス要素にはならないと信じている。(田舎親父)

2014年4月16日 (水)

再度、エネルギ-政策にもの申す・・・

原発を『重要なベースロード電源』と、発音は明快ながらその意味となると全く不透明な言葉で、将来的に原発稼働を継続させる方針を閣議決定したということで、(以前にもつぶやいたことがあるが)3.11などはもう遠い過去のことで、復興にはおざなりに対応している現政権の姿勢がはっきりと読み取れる。

今回の政府のエネルギ-基本政策には、太陽光や水力など再生可能エネルギーの導入推進という文言はあるが、それぞれの具体的な比率はない。ただ『速やかに示す』と結論を先送り。この先送りは、例外なく『考えていない・やる気がない』ということは、今までの政府の態度から明らかなことは今更述べるまでもないだろう。

そのことは、形だけは『再生可能エネルギー等関係閣僚会議』という組織を作ったようだが、そのメンバ-である閣僚たちの口からは、再生エネの導入目標について、『現時点で(導入目標を)設定することは困難』とか、『(原発再稼働の進捗をみて)できるだけ早く目標を設定したい』などと述べていることからも明らかである。

さらに、基本計画は、原子力規制委員会の安全審査をクリアした原発の『再稼働を進める』と明記し、それを一日でも早く実現するために、原子力規制委に、川内原発を優先して審査するように圧力をかけている。そして、6月にもその結論を出させて、『国が全面に立って』川内原発周辺の自治体や住民の説得に当たるというから、川内原発再稼働ありきとの結論はでているようだ。

 繰り返すが、新しい国のエネルギー基本計画は、福島の事故の教訓はどこにも見られない。事故などすっかり忘れ去り、原発を使い続けようという宣言であることは衆目の一致するところ。この政権では、福島原発で崩れさった『安全神話』は、すでに元に戻り、『原発は絶対に事故をおこさない』という、事故前の世論作りの手法が戻っているのも恐ろしい話である。

 しかも、科学者の多くが疑問視する、(まさに永久機関のごとき)使用済み核燃料を再利用する『核燃料サイクル』政策は維持し、ドラブル続きで、稼働実験すらはじめられない六ヶ所村の施設の稼働を進めることや、運用どころか事故続きの高速増殖原型炉『もんじゅ』も実験用に残すなど、信じられないような項目が並んでいる。

それでいて、半径30キロメ-トル以内の自治体には避難計画の作成を求めているのも変な話で、この矛盾をついて函館市が対岸に建設している大間原発の建設中止を東京地裁に提訴したことは先日つぶやいたこと・・・。

私が特に変な話と思うのは、『原発は絶対に事故は起こさない』といいながらも、避難計画を強要するという全く相反している発想に、全く疑問を感じていないという部分。

福島原発事故は、(表現は悪いが)人為的な失敗が重なったことで、被害がこの程度ですんだと言われているように、あの大爆発にもかかわらず,チエルノブイリ事故よりも小さく納まっている(本当かどうかは疑問ながら)のは不思議な話。

既存の原発の再稼働や建設中の大間原発、あるいは新たに計画しているだろう原発が事故を起こせば、被害は福島原発の比ではないことは明らか。列島に人が住めなくなることも考えられないことではない。さらに、全世界からの批判が集中、国が存在すら危うくなるにもかかわらず原発をベ-スロ-ド電源としたことは、『二度目はない』という絶対的な信念がなければならないはず。

万に一つ、億に一つ、いや『限りなくゼロ』ではなく『絶対にゼロ』でなければならない。それが福島第一原発事故の手痛い教訓だったはず。だとすれば、なぜ避難計画が必要なのかという本質に応える論理が抜けている。『絶対安全だ』『事故は絶対ない』と言い切っている国が、避難計画を自治体に強要している・・・。こんな矛盾を許して良いわけはない。

何の脈略もないかもしれないが、福島原発事故後、急を要する課題として、太陽光や風力を利用した『再生可能エネルギ-』の開発が騒がれたが、その話題は最近は過去のことのようになってしまった。当時は、横浜の片田舎でさえ、至るところで私の目に止まっていた『太陽光発電装置』の展示・発売という看板は、今は探しても見つからない。

ブ-ムが去ったので、『ソ-ラ-バネル詐欺』にあわなくなったという声も聞こえてくるのも変な話。私のような年金生活者でも手が届く、手軽な再生エネルギ-による『電力獲得キット』なるものが生まれることを心待ちにしている。(田舎親父)

2014年4月15日 (火)

庶民は暮らしは苦しくなるが公務員の給料は上がる・・・

 消費税の値上げが始まって半月、影響はさまざまな部分にジワジワと広がっているようだ。特に家電などは前年度の売り上げから見ると30%減というから、量販店は生き残りに一層の苦心を強いられているに違いない。

 ス-パ-などの売り上げは予想よりも影響は少ないと報じているが、これは、毎日の生鮮食料品は買いだめがきかないこともあって、質や量はともかく、買わないと仕方ないことからくる現象だから,ある意味当然だろう。

しかし、何よりもス-パ-側の努力が凄い。私の散策コ-スの一つに、大型商業施設のトイレを利用することもあって、その施設に入っているス-パ-に立ち寄ることも多く、そこで見る商品の価格は税抜きと8%加算の数字を並べている。さほどの高騰感は感じないのは、消費者心理を徹底的に研究し品物の量を少し減らして価格を抑えるなど細かな配慮が行き渡っているように思える。

政府やマスコミは、ス-パ-業界に見られるような努力をどこまで評価しているのかはわからないが、夏場までに消費税値上げの影響はなくなると踏んでいるらしい。しかし、私が見る限り、協会の努力が少し怠慢になったら、消費者は即離れるような気がしてならないことから、影響は秋口というよりもっと長引くのではないだろうか。

ところで、景気が良くなるという庶民の指針は、株価の動きだろうが、最近の株価はかなり下降気味。日系平均株価は一時は1万5千円以上あったが、最近は1万4千円を割り込むことも稀ではなく、昨日などは半年前に戻ったというから、たった半月で千円以上下落したことになる。

これも、政府日銀は一時的なものと楽観しているらしいが、(経済音痴の私には、今後の動きなど全く予測不可能ながら)ウクライナ情勢はじめ、世界の政治経済の動向など鑑みると、株価はさらに値下がるのではないだろうか。となると、景気の上向きは期待できないというよりも、反動の不景気感が広がるような気がしてならない。

こんな難しいことはさておき、国民の負担がいっそう増す中、60万人近く存在する国家公務員の給与が4月から平均で約8~10%アップするのだそうだ。東日本大震災の復興のために、政治屋達は自分たちの身を切るどころか温存し、国家公務員の給料を約8%だったか減額したことは知っているが・・・。

その意味で、元に戻したという説明はうさん臭いながら、国家公務員も人の子,復興という名の元に減額されて困っているのだろうと同情したくなるが、消費税の値上げと一致させるタイミングはなんとも変な話で、彼らの減額期間を短くするために消費税の値上げ分が使われたのではという疑いすら持ちたくなる。

一方、同じく震災復興のためとして、国民に負担を求めた『復興特別税』は、所得税は25年間、住民税は10年間にわたって続くことになっているのはとても納得できる話ではない。

さらに、復興のために企業に負担を求めた『復興特別法人税』もわずか3年だけで、前倒しで廃止されたのも許しがたい。公務員の給料が元に戻すことや、復興特別税を廃止するのは経済のために仕方ないというならば、国民に負担させている復興のための所得税や住民税も廃止するべきであり、むしろ経済のためにはこれらの税は早急に廃止にしなければ、テかえって足かせになるのではないだろうか。

先日もつぶやいたが、マスコミは、今年度から基本給のベースアップを実施する企業が現れたと大々的に報じていたが、それは一部の大企業にとどまり、それも額は数千円程度である。

ところが今回の国家公務員の給料値上げは、35歳の一般的なモデルでは、月額2万円超アップするのだそうだ。年収ベースでは、ボーナスも増えるため、総額約37万円も増加しているというから驚きである。

 35歳の国家公務員の年収は465万円超になるという。マスコミがインタビュ-した霞が関の職員は『給与削減で生活は苦しく、カツカツだった。やっと終わってホッとした』と表情を緩ませているが、ますます増えている、契約社員やアルバイトで虎口をぬぐっている人たちは、この言葉をどんな気持ちで聞くのだろう。

 私にはほとんど意味不明の『アベノミクス』という政策の恩恵を実感できている人は、さほど多くないはず。公務員の給与をこれまでの水準に戻すことで、消費の拡大を図ることは理解できないわけではないが、それ以外の負担を軽減できていない政策を続けていては、経済の回復という言葉はまやかしのように聞こえるが・・・。(田舎親父)

2014年4月14日 (月)

それまでこの国が存続しているのだろうか・・・

(親指シフトとエクスプロ-ラとの相性が悪いので、変換機能が十分でないため、今日からグ-グルに変更。するとどうしても改行すると行間が開くのが気になるが,これはこの先勉強するとして、しばらくはこちらで進めたい)

 話ははかなり古くなる。先月の中頃に、国交省が2050年までの国土作りの考え方をまとめた『グランドデザイン』の骨子がわかったというニュ-スが報じられかた。

 『リニア新幹線を2026年には名古屋まで開通させる』というJR東海の発表には、JR東海ならやるだろう、やるに違いない・・・という雰囲気を感じられるが、国の方針となると、はなから疑わしいのがこれまでの例。早い話が、つい2年前に『2030年には原発ゼロ』という方針が、政権が変わるととたんに怪しくなり、つい最近は、原発をベ-スロ-ド電源(変な言葉である)にするという方針を閣議決定したというのだから、今後は原発の新設などもあり得るというように、全く信用ならないのがこの国の最近の傾向・・・。

 それはさておき、今回国交省の発表した『グランドデザイン』では、来るべき少子化と超高齢化によって、人口の減少が減少することを念頭に、国土を維持管理するため、農山漁村や離島に人が住み続けることが重要と強調している。

 ここまでは疑義はない。しかし、交通アクセスの改善や産業振興に力を入れねばならないことは当然だろうが、今頃になって、そんなことを言い出すとはふざけた話。これでは、国交省の役人たちは、今まで地方の高齢化や過疎化などには関心がなく、ひたすら無駄な道路建設や都会のインフラ整備だけに力注いできたと言われても仕方ない。

 地方に出かけてみるとよく分かるのだが、それぞれの自治体の職員と民間が力を合わせて、その地の活性化に情熱を持って取り組んでいることをひしひしと感じる。若い人たちがこの地で生活できるために、観光や産業の振興に取り組み、都会から人を呼び込んだり、特産品を生み出す努力や、あるいは工場を誘致するために心血を注いでいる姿に思わず頭が下がる場も少なくない。

 その努力が実って、少しずつ人口が増加しているという地域の話も聞くが、以前のような活況をきたす姿になっている例は稀で、全体的に見ると、地方の過疎化は急激に進んでいるのが現状である。

子どもの数が極端に少なくなり、小中学校の統合は日常茶飯事。毎年3月には,どこそこの町(村)で廃校になる小学校(中学校)のお別れの式典という話題がマスコミを賑わしている。統合に次ぐ統合で、小中学校がたった一つになってしまった自治体も少なくない。それ以前に、高校が消失し、15の春には親元を離れなければならないのも悲しい現実である。

比較的に交通の便がよい地方でも、涙ぐましい努力をして誘致した企業が、経済という魔物に打ち勝つことができず撤退してしまうとことは深刻、以前にまして少子化が進むという話を聞くことも稀ではない。

 国交省がこの過疎化を深刻に考え出したと捉えると救いがあるのだが、この『グランドデザイン』で述べている、国境に近い離島の住民を『現代の防人』と位置付けるという一文はかなり引っかかる。

そのために、交通アクセスの改善や産業振興に力を入れるというが、今でも日に一度(3日に一度や週に一度も)のフェリ-の就航の島に、これ以上のインフラが整った環境を想像するのは難しい。

『現代の防人』とはよくぞ言ったものだと、怒りより呆れが先に立つ。産業は国防でまかなうつもりなのかもしれないが、防衛上重要だと思われる離島に、現在以上に自衛隊(国防軍)の基地を造り、人を配置する方針なのだろうか。

 そこでは、島の人たちが営々と築いてきた生活は無視されて、土地が強制的に収容されるだろうことは容易に想像できる。自衛隊員(兵隊)の駐屯によって、確かに表面上の人口は増えるが、産業となるとその人たちを慰める娯楽施設だけ?となると、時代錯誤を感じるのだが・・・。

国交省では、この『グランドデザイン』と今年の6月ごろまでにはとりまとめて、長期的な社会資本整備や都市・農山漁村政策の方向性を示す国土形成計画の見直し議論を来年度からはじめるとしているが、『離島に軍隊』的な発想では少子化と高齢化にともなる過疎化に歯止めルことは到底無理だろう。

それ以前に、最近の動きを見るにつけて、果たして2050年にこの国が存在しているのかすら怪しのでは・・・と思うことさえ稀でなくなっている。(田舎親父)

 

2014年4月12日 (土)

ますます格差が広がりそうだ・・・

 

 先日流れた『人手が不足している建設業界で外国人労働者の受け入れを増やすことを政府が決めたと』いうニュ-スに、なんとも下手な説明と安易な方法を選んだものだとがっかりする。

 多くの分野で『実習生』という形で若手の外国人を受け入れていることや、現実として、さまざまな現場で外国人実習生が貴重な労働力になっている場を見聞きして知っている。特に、今日では農業分野においては、中国はじめ東南アジアからの外国人実習生は欠くことのできないことも良く耳にする話である。

 外国人を受け入れるこの制度は『技能実習制度』と言われ、日本の優れた技術を途上国の人に学んでもらうのが本来の目的とされているが、実際には、低い賃金で労働力を集めるためのものであることは以前から指摘されている。

 しかし、期間が限定されていることや、実際に自国に戻って、日本で学んだ技術を生かす人たちの話も伝えられていることなどから、表立っての反対なく、むしろ国内の労働力を集めることが難しくなっている現在では、当然のこととして社会に受け入れられているのも事実らしい。

 政府は、外国人実習生が日本で働ける期間を現在の3年から5年に延ばすという。現在でも受け入れられていることから,反対はないだろうと思われるが、この延長期間を来年度から東京オリンピックが開かれる2020年度までというのは気に入らない。

福島原発の事故処理すらないがしろにして、経済重視の政策を進める現政権は、やみくもに公共事業を進め、そのために建築土木分野の労働不足が社会に問題になっている上に東京オリンピック関係のインフラ工事が始まるとなると、この分野での労働力不足はさらに深刻になり、人手不足補うために『実習生』を隠れ蓑にしての外国人労働者の活用するという思惑が透けて見える。

 一方、国内の現実を見ると『働きたくても働く場がない』というフレ-ズはよく聞くが『自分に合った仕事』という言葉をつけずに口にしている人が多いのが気になる。働く気になれば、ここまで労働力不足だと言われている現在、(特に都会)では働く場がないはずがないのではないだろうか。

『自分に合った』という言葉は微妙で、現在の若い人たちは仕事により好みも激しく、それを社会が『個性』という言葉で『是』にしている傾向があるため、(仕方ないとは思うが)建設業界の現場は特に敬遠される傾向があるようだ。この敬遠する仕事を外国人にさせるというのは安易過ぎるような気がしてならない。

人が集まらないから仕方ないという意見もわからないわけではないが、安く雇えるということが、企業を積極的に『外国人実習生』に走らせることは間違いないところ。このことをマスコミが伝えることがないので広く知られていないが、労働条件が過酷で、最低賃金すら補償しない例も多く、トラブルになっていることも日常茶飯事らしいことが、時にネットで話題になっている。

今回の規制緩和で、外国人労働者を安く長く雇えるとなると、わが国の労働者の賃金も当然のごとく低く抑えられることは、ズブの素人にでもわかる理屈。これは深刻な問題である。

賃金が安くても自国に比べると高いので、日本に来て一旗揚げようという外国人も多いと聞く。確かにこのところ、横浜の片田舎でも、日常的に外国語が聞かれることから、相当の外国人が存在していることを実感するが、これ以上増えるとなると、言葉が通じないことはもとより、価値観や文化の違いからトラブルが増えるだろうことは容易に想像できる。今のところはあまり感じないが、治安の悪化という別の問題も起こりうるだろう。

また、建設業界だけではなく、政府は女性の就労機会を増やすためとして、介護や家事補助などの分野で外国人労働者の受け入れを検討しているというのも気になる。

看護や介護の分野にはすでに外国人実習生も存在するが、言葉の壁があって国家試験に合格することが難しく、自国で将来的には看護士・介護士を目指す若者が志半ばで帰国するという話も稀ではない。

家事補助とは、いわばお手伝いさんというイメ-ジであるが、外国人のお手伝いさんを雇うことによって、わが国の女性が社会に出ることができると本当に考えているのだろうか・・・。わが国の女性の社会進出を、開発途上の国々の女性の(言葉は悪いが)犠牲によって行わせるというのも安易すぎる。

この外国人お手伝いさん確保も、すでに6月にまとめる新たな成長戦略に盛り込む方針だというが、私には、わが国の労働賃金をさらに安く抑えて、ますます経済格差を広げるものとしか思えないのだが・・・。(田舎親父)

 

2014年4月11日 (金)

戦争による犠牲者はもうたくさん・・・

 

 先月末、沖の鳥島で台船に曳航されていた桟橋が横転し、7人の作業員が投げ出され、5人が死亡と2人の行方という事件報道に、ものすごい工事をしていたことを初めて知ると同時に、何故またこんな太平洋の真ん中でという思いを強くする。

新聞に載っている絵図と部屋に張ってある世界地図を見比べてみる。東京都心から約1700キロの日本最南端だとあるが、周りはだだっぴろい太平洋が広がるだけ。ここにある小さな岩礁を『沖ノ鳥島』と命名して、日本の領土と宣言しているのだそうだ。当然ながら無人島。

最近は、尖閣諸島や竹島など中国や韓国との緊張が高まっている領土問題がにわかに注目されているが、この小島もご多分に漏れず、排他的経済水域を広めるという目的で、日本政府が国家的プロジェクトとして、岩礁を完全な島と言えるように港を造る工事を急いでいるという。

どんな環境なのか想像もつかないが、航空写真で見る限り『絶海の孤島』という表現がピョタリとする。この周辺の海底には、約1200億円の利益を生むとも試算されるレアメタルをはじめ豊富な資源が眠っている可能性があるのだそうで、それを調査するために拠点となる桟橋などの港湾施設を作る工事をしているとのこと。

資源が乏しいわが国としては、太平洋上に顔を出している小島は最高のプレゼントとばかり、本格的な領土として、島が波の浸食などで消え去らないような工事を続けているのだろうが、(実際の環境が想像もできないこともあって)何となく空絵事のように思えてしまう。

ひっくり返った桟橋の映像が掲載されているが、一体こんな巨大な鉄の塊を、どうして運んだのだろうというのが第一の素朴な疑問。解説によれば、部品を運んで現地で組み立てるのだそうだが凄いという言葉しかでてこない。

豊富な海底資源が眠るとされる周辺海域の権益確保に向けたこの国家プロジェクトは国交省関東地方整備局という役所が受け持ち、ゼネコンはじめ大企業が集まったチ-ムを編成しているという。

作業員たちは、町の中で道路を修理する一般の土木作業員とは違い、相当な専門的な知識と強靱な体力や意思力を兼ね備えた人物が集められているのだろうが、日夜波浪がうねる洋上での作業と、何カ月にも及ぶ孤立した生活環境は、トンデモないほどのストレスとして襲いかかるに違いない。

今回の事故は、作業員の一瞬の緊張感がゆるみ手元が狂ったことが原因だろうが、素人考えながら、日常のストレスが考えられないような単純ミスを呼び込んだのではないだろうか・・・。

解説によれば、このプロジェクトは、海洋権益の確保に向け、国は本格的な地質調査などの拠点を整備するために施行された、特定離島整備法に基づき平成23~28年まで総額750億円をかけて作業を進めているというが、台風の巣のような海域では順調に作業が進むとは思えず、5年間程度である程度の船舶が寄港できる港ができるのだろうかという疑問が新たに生まれる。

さらに、この港湾整備には国土防衛安全保障上の意義も強調されているとのこと。沖ノ鳥島は沖縄とアメリカ軍の太平洋の前方展開拠点・グアムを結んだほぼ中間に位置し、中国軍の西太平洋進出を牽制する戦略上の要衝としても重要だとの位置づけらしいが、尖閣諸島と同様、中国との武力衝突もゼロではないとなると、作業員はこちらのストレスも半端ではないのでは・・・。

尖閣諸島も自国の領土だと宣言している中国が相手となると、わが国が国を挙げての港湾工事を急いでいることは理解できるが、専門的な作業員の命が失われ、二人の行方も手がかりすら見つからないとなると、事故の原因究明はもとより、中国との外交努力によって、危険を侵してまでもの港湾作りを一旦休止するという考え方も選択肢の一つにしてほしいものである。

こんなことをつぶやいたらたちまち『売国奴』と批判されそうだが、小さい島を奪い合うために武力をチラつかせる愚は互いのためにもなるまい。そして、突発的な何らかの衝突が戦争につながることを各国は歴史として学んでいるはず。そこを起点にして粘り強く話し合えば一致点が見つかると信じたい。

わが国の国家プロジェクトの中で起きた事故だから、国内問題に違いない。しかし、元を正せば隣接諸国との利害関係があることから始まっているのだから、今回の事故で失われた作業員の皆さんの死や行方不明は、対外戦争の犠牲者と表現して差し支えない。

 戦争による犠牲はもうたくさんである。繰り返すが、こんな危険な防衛施設を作るのではなく、外交努力で互いの益を見いだす姿勢を見せてほしいものである。(田舎親父)

 

 

2014年4月10日 (木)

教科書がますます分厚くなる・・・

 

 教科書が厚くなったという話題は以前取り上げた。嫌いな言葉だが『ゆとり教育』からの脱却ということで、指導要領が改定(改悪)されたのは数年前のこと。指導要領が変わらなくても、数年に一度は教科書の改訂があり、そのたびに検定が行われるのだが、前回の指導要領の根本的な改定による教科書の変わりかたは劇的で、内容は当然としてその量の増えかたに目を見張ったものである。

 今までは、文科省の検定官と専門家チ-ムによって、指導要領に逸脱していると指摘されたら、その部分を削除するかあるいは書き直さない限り検定は通らなかったのだが、前回からは『発展』という記載をすれば、上級学年で習うことがらでも教科書に記載しても良いということになったので、『発展』のオンパレ-ドとなり厚みが倍加したという表現も奇怪しくないほど(実際には25%増)分厚くなったということは何度も述べている。

 『発展』マ-クのある事項は、現場の事情によっては『教えなくても良い』とされているのだが、保護者や児童・生徒はもとより教師にとっても教科書はいわばバイブル、触れないわけにはいかないのは当然だろう。これが現場を苦しめていることは指摘することもあるまい。

さらに,一昨年から始まった現政権の教育に対する思い入れは(決して喜ばしいことではないが)、歴代政権とは比較にならないほど右傾向の姿勢が深く、特に社会や国語では東北大震災の大津波や原発事故は当然として、尖閣諸島や竹島などの領土問題の記載も求めているとなると、来年度からの教科書が分厚くなることは成り行き上当然だろう。

実際には、社会や国語に限らず、不採択を恐れるあまり、写真、イラスト、図解などで彩り豊かになり、結果だけを見ると、教科書会社は競って厚みを増やすことに熱心になっていることも加わっているようにも思えてくる。

 教科書は薄くて地味というのは私の年代では当然だった。むしろ教科書は参考書程度に扱い、自分で教材を選び指導計画を立てる教師が当たり前に存在したのだが,そんな話は今は昔。教科書を逸脱するユ-モアさえ認められなくなっているらしい。

 これで良いわけはない。教科書が厚くなったのはイラストや写真が増えただけで、教える内容はたいして変わらないという話を、時に校長などから聞くことがあるが、それは負け惜しみに過ぎず、実際には教科書に書いてあることをひたすら教えることに時間を費やし、他のことに目がいかないのが現状のようだ。

 良く言われる例えであるが、教科書『で』教えることを忘れて、教科書『を』教えるのが普通になっているのは否めない。

 いっぱい知識が詰まった華麗で分厚くなった教科書は、それなりに魅力的だという意見もあるが,その内容を児童生徒に理解させるには、それなりの時間が必要なことはだれも否定しない。文科省も十分わかっているはずと思いたいのだが、教科の時数は変わらないとなると、どこかにしわ寄せがいくのは当然だろう。

 そればかりではなく、英語や道徳が教科と位置づける動きは急なことを思うと、ますます現場は窮屈になることは疑いのないところ。時間がないところに、更に教科書に記載されていること全てを消化しなければとなると、真の意味の『ゆとり』さえ奪われてしまうことは間違いなさそうだ。

 教師としてもっとも大事な資質は、子どもの立場で物事を考えることであるが、そのためにも,学習進度などを見ながら、授業の組み立てや、学習の目標に即して子ども一人一人の指導内容に選択や強弱を工夫する姿勢だと教えられ実践してきたが、それも遠い過去のことのようにも思える。

 今日は時間的に余裕がないので,つづく・・・ということにしたい。(田舎親父)

 

2014年4月 9日 (水)

基準を変える?・・・

 

4日の夕方のテレビニュ-スで、『メタボの基準が代わりそうだ』と言うアナウンサ-の声に耳をそばだてる。

何でも、血圧やコレステロールなど学会基準や受診する施設によって基準が混在している人間ドックの健診項目で、『日本人間ドック学会』と『健康保険組合連合会』という組織(いろいろな組織があるものだと改めて感じているが)が、受診者150万人を分析し、年齢差や男女差を踏まえた『健康な人』の検査値を示したのだそうだ。

 翌日の新聞各紙はこぞってこのことを報じていた。その記事によると、人間ドック学会は、人間ドックを受診したおよそ5万人の健康な人のデータを解析した結果、血圧やコレステロールの値などについて、現在の健康診断で正常とされている数値の範囲を大幅に緩めるべきだとする調査結果をまとめたとある。

両組織の作る小委員会は、平成23年の1年間に人間ドックを受診したおよそ150万人のうち、持病がなく、ほとんどの検査項目で異常な値がない健康な人、およそ5万人のデータを解析し、正常とされる数値の範囲を調べたところ、血圧は、現在正常とされる数値が、上の値は129まで、下の値は84までなのが、上の値は147まで、下の値は94までとなったという。

これは注目に値する。私も常々血圧には関心があり、毎日朝昼晩の血圧を市販の血圧計で測定しているが、日々の統計から、平常時の血圧は『140-80』程度だろうと自覚している。現在の基準からいえば立派な高血圧症だろう。事実、血液検査の度に、医師から高血圧予備軍と言われている。

かといって、血圧が高いという自覚症状があるわけではなく、少なくとも自分では高血圧だという意識はないので、基準が『147-90』になることには全く異論はないが、個人差を考えると、一律にここまでゆるめて良いのかはなんとも言えない。
 
 肥満度を表すBMIという値がある。 『標準体重(kg)=身長(m)×身長(m)×BMI標準値』という数式から計算するのだそうだが、最近はデジタルの体重計にはこの数値も出るのが普通なので、私ももっぱらこちらを利用している。

現在男女ともに25を超えると肥満となるが、これまた私は25~26、いわば肥満予備軍というところ。しかし、現役時代から10kg落とした今、これ以上の減量は必要ないのではと思っているので、肥満だという自覚は全くない。これが、男性は27.7まで、女性は26.1までとなると、正真正銘の標準値となる。

ここまでは賛成だが、中性脂肪は、現在149を男性のそれを198までとなると、医学知識に乏しい私には、にわかに判断できないのが正直な気持ち。まして、悪玉コレステロールとも呼ばれるLDLコレステロールは、現在男女とも119を、男性は178まで、女性は30歳から44歳が152まで、45歳から64歳が178まで、65歳から80歳が185までと上限の値が大幅に高くするとなると、何故こんなに細かく分類するのという疑問すらわいてくる。
 
 総コレステロールもしかり。新聞記事にはっきりした数値はないが、糖尿病の判断に欠かせない、ヘモグロビンエ-ワンシ-(HbA1c)という検査項目の値を(前日のテレビニュ-スでは)0.4緩和すると言っていたはず。これは少し気になる。

数年前に、この基準値値を5・8%以下だったものを、6.2に引き上げたおかげで、それまでは糖尿予備軍と言われていたのが,その重圧から開放され手いる。もっとも、それ以前、5.8の基準値当時6.3となり、一時、薬剤を飲んでいたのだが、桑の葉パウダ-のおかげで、現在では6前後を保つようになっているのだが・・・。

この値が0.4引き上げられるとなると正常値の上限が6.6になる。となると、『糖尿予備軍?』の多くの人が、薬剤から開放されることになりそうだ。私の周りにも、該当する人が大勢存在し、そのほとんどが医師から処方される薬剤を使って症状を抑えているのだが、薬がいらないとなると喜ぶのではないだろうか。

ただ、これが現在の医療費を抑えるという政治的な発想に無関係だと言い切れるかとなると、現政権を全く信用していない私には、気分的にすっきりしないが・・・。(田舎親父)

2014年4月 8日 (火)

函館市の英断に大拍手・・・

 毎日のように福島第一原発事故の現場から、故障だとか汚染水漏れなどということが報じられている。これらは、どれ一つとっても間違いなく深刻な事故であるのにもかかわらず、日常的に報じられていることから、慣れというか危機感が薄くなってしい、何となくたいしたことではないと思わせるム-ドになっているのが恐ろしい。

そして、政府や電力会社、また原発に依存している自治体などは、『あの原発事故は何だったのだろう・・・』と思わせるほど、事故などなかったかごとく再稼働だ、新設だという動きが活発化していることに怒りを覚えずにはいられない。

原子力規制委員会もそのお先棒を担いでいるらしく、政府の意をくんで急いでどこかの原発を再稼働しなければならない事情があるらしく、審査を川内原発に集中しているのも気に入らない。規制委によればこの原発の周りには原発に影響するような活断層は存在せず、津波対策や事故が起きた場合の電源確保は進んでいるとのことで、明日にでもGOサインを足しても奇怪しくないほどだと報じられている。

しかし、川内原発には活断層の有無や津波対策とは別に、阿蘇と桜島という日本でも有数の活火山が日夜活発に活動し、いつ大爆発を起こしても不思議でない状況というから、この段階で際稼働して『絶対安全』と言える状況ではないことは、素人目でも明らかである。

川内原発の際稼働については改めて述べるとして、原発の安全性が崩れた今、常識的には新設など考えられないのだが、原発には莫大な利権が絡んでいるとなると,血眼で新設に邁進している輩も数多く、はなから事故など起きるわけがないという発想で新たな原発を建造しているというから困ったもの。

その原発が、Jパワー(電源開発)が青森県大間町に建設中の大間原発である。国は事故前には、半径10km程度だった避難計画作成自治体の範囲を半径30kmに広げているが、福島原発事故直後の放射線の推移という肝心な情報が、現在でも曖昧なままだという状況では避難計画など作りようがないのは明らかで、それぞれの自治体は半ばお手上げの状態だという。

そんな中で、大間原発について事故が起きた場合対処ができないと、津軽海峡の対岸に位置する北海道函館市が、同社と国を相手に、建設差し止めや原子炉設置許可の無効確認などを求める訴訟を東京地裁に起こしたことは、当然といえばこんな当然なことはない。

国ににらまれると、なんとか理由をつけてさまざまな嫌がらせでいじめられるという話は良く耳にする。交付税すら極端に減額されることも稀ではないとなると、よほどの覚悟がないと国にたてつけないことは明らかだが、市民の安全が第一という考え方を優先し、国の圧力に屈せずに訴訟に踏み切った函館市の英断には、避難計画作成に苦慮している全国の自治体からは、静かな大拍手が送られているに違いない。

自治体による原発の差し止め訴訟は初めてだという。『過酷事故が発生した場合、自治体としての機能が著しく損なわれ、壊滅状態になる』として、建設の同意に函館市も含めることを求めているというのは、関係する自治体全体の代弁だろう。

 大間原発は安全対策を強化した新規制基準の審査を受けていないという。こんな原発を新たに作るというのも無茶な話だが、この原発がプルトニウムとウランを混ぜたMOX燃料だけを使用するという,(成功するはずがない)世界初の『フルMOX原発』。まさに、ムリ編にムリと書いて『安全』と読ますような筋書きであることから、人々の生活など全く無視した、利権ありきの発想だとしか言いようがない。

 函館市の危機感をあざ笑うごとく、青森県側の大間町や周辺自治体は推進側にたっているという。これは交付される電源3法交付金に期待したりしているからであろう。確かにここは、僻地も僻地、青森からでも列車と車で3時間半もかかるド田舎。

原発に頼りたくなる気持ちもわからないでもないが、福島原発事故を思い浮かべてほしいものである。この地域は風が強いことでも知られているのだから、地域振興は原発ではなく風力発電の開発がふさわしいのではないだろうか。

東京地裁が無条件で函館市の言い分を聞くことを心から期待しているのだが・・・。(田舎親父)

2014年4月 7日 (月)

鯨肉は日本人の食文化?・・・

 

先週のことであるが、日本が南極海で実施する調査捕鯨に国際司法裁判所(ICJ)が中止命令を出したという記事に、やはりという気持ちと、牛はOKだが鯨はNOという欧米人の身勝手さをなじる気持ちが錯綜する。

この記事で、10年以上前になるだろうか、ある勉強会で、当時、国際捕鯨会議の日本代表の方の講演を聞いたことを思い出す。名前は失念したが、オ-スラリアやヨ-ロッパ各国が絶対反対の中、アフリカや東南アジアの国々の理解を求めるのに苦労しているが、かなりの共感を得られているので、たとえICJに訴えられても勝算があるというよな話だったという記憶がある。

欧米人種は油をとるために鯨を乱獲しながら、石油の増産で鯨の油が必要なくなると鯨はむしろ保護の対象になったことや、鯨は聖書では神聖な動物として崇められていることなどから、食べるなんてトンデモナイ行為であり、その目的での捕獲は許せないのではないかという話も頭の片隅に残っている。

その時は、鯨が神聖な動物ならばなるほどと思ったものだが、後日、この話を職場でしたらキリスト教に明るい職員から、そんな話は聞いたことがないと言われ、どうなっているのだろうと思ったものだが、さほど深刻な問題とは思わなかったので詳しく調べることなく今日に至っている。

それはともかく、 ICJは『調査捕鯨に名を借りた商業捕鯨だ』とオーストラリア政府の主張を認め、国際捕鯨取締条約に違反するとの判断を示したことは、前述の代表の方の話とは幾分違うム-ドになっていたようだ。

確か、判決の出る数日前のマスコミ報道では、大丈夫だというム-ドが漂っていたとのことだから、オ-ストトラリアはじめ欧米諸国の説得が、態度を保留していた国々を動かしたのではないだろうか。どうも、日本の楽観ム-ドと、最近の右に舵を切った外交姿勢と無関係ではないような気もする。

この裁判は、一審制だから上告はできないので判決が確定したことになる。日本政府は判決を受け入れ、南極海での調査捕鯨を本年度は実施しないことを明らかにしたとのことだが、この発言には、負け惜しみが漂っている感じが強く出ている。

『調査捕鯨』とは、鯨の生態を調べるという大義名分がある言葉であるが、実態は、捕獲した鯨は解体し、商社を通してしかるべき会社に渡し、市場に出回る仕組みになっているとなると、『商業捕鯨』だと非難するオ-ストラリアの主張は間違っていない。

この鯨肉の流通は数年前にかなり問題になったと記憶しているが、たちまちのうちにマスコミの話題から消えて、日本の捕鯨船団に対して、オ-ストラリアやニュ-ジランドなどの国々の反対組織の妨害を伝える記事が多くなり、国際的に認められた調査捕鯨に反発するのはけしからんという世論作りが目立っていこのも、今思うと変な話。

ICJは、南氷洋での捕鯨を禁止したものであるが、『調査捕鯨』そのものを全て禁止したわけではないというから、政府筋は北西太平洋での『調査捕鯨』を実施する考えらしいが、こんなことをしたらヨ-ロッパ各国はじめ、アメリカやカナダから批判が高まるのは必至で、国際的にも日本の立場はなくなることは間違いない。この際、きっぱりと船団を組んでの捕鯨はあきらめた方が良さそうだ。

食文化の冒涜だという声も聞こえてくる。確かに、鯨料理を売り物にしている地域は存在するが、実際に鯨肉を食卓に乗る一般家庭がどのぐらいあるのだろうと立ち止まって考えると、ス-パ-などに並んでいないことを割り引いても限りなくゼロだろう。戦後、南氷洋での大量の鯨の捕獲によって、戦後の日本人のタンパクが補給されたことは事実であり、学校給食でも度々鯨の龍田あげなどがでたことを懐かしい思い出としている年代は少なくなってきた。

一時的には、国民食の地位を得たが、鯨肉を食べるのはわが国古来の食文化という言い分も怪しくなる。鯨肉を食べたければ、昔からその食文化を守ってきた地方に出かければ良いのでは・・・。 

シカやイノシシの農作物への被害は莫大であることは,地方に出かけることが多い私には深刻な問題として受け止めている。鯨が増えすぎて、他の魚を食い荒らして漁獲高が減っているとする学説もないわけではないだろうが、確実な根拠があるとは思えない。その意味でも、わざわざ遠洋に出かけて大量の捕鯨という発想は、シカやイノシシとは違い説得力はない。

 捕鯨自体が残虐だとの非難があるが、これこそ『民族の文化』であることを、あらゆる機会に発信し、理解を求める努力を続ければ、人間は牛や豚を(飼育という言葉を繰り返すだろうが)食せねば生きていけないという真実があるのだから、理解させることは難しくないと思うが・・・。

 むしろ、今回の敗訴をきっかけに、国際的に規制が強まるマグロなども捕獲禁止という動きになることや、これまで捕鯨に従事していた人々の生活の行方も心配になる。

今回の敗訴を、経済が第一だと言って、公共事業と称してジャブジャブと無駄な土木工事にカネを動かすのではなく、いかに安心して国民が生活できる環境作りに多大な予算を回すという教訓にしたいものである。(田舎親父)

2014年4月 5日 (土)

大儀なき消費税増税・・・

 

3月31日から4月1日にかけての消費税値上げ関係の報道は、『今更何なの』と思わせるほど物凄かったが、テレビ各局は本質に迫ることはなく、人々の困っている様子を、まるで他人事のように面白奇怪しく報じている番組が多かったことにはがっかりする。

4月1日になった瞬間に値上げしょうが、1日のうちに値札を書き換えようが、私にはたいした問題ではないように思えるが、これが大問題かのように伝えるメディアがほとんど。まるで政府のご用機関になったごとく、『消費税の値上げありき』という前提で、本質をぼかしているように思えてならない。

安い間に買いだめしておこうと思うのは庶民として最低限の防御であり、何も争って買いだめなどしたくないのは当然だろうが、テレビが伝えるほど圧倒的多数の国民が買いだめに走ったのだろうかと立ち止まって考えると、ある世論調査によれば、買いだめに走るまねはしないという国民の方が多数だというから、少し安心する。

しかし、以前に『自分がこの国の首相ならシェパード犬5匹もいれば十分だ。日本人は羊の群れのごとくだ・・・』と外国メディアの特派員が評したという記事を思い出すが、私も含めてなんと御しやすい国民なのかと自己嫌悪に陥る。

みずほ総合研究所というシンクタンクの調査によると、年収300万円未満の世帯で年間平均5万7529円、年収600万〜700万円の世帯で9万5562円、それぞれ負担が増える見込みだというから、よくぞ暴動が起きないもの。情けないことだが、外国人特派員の言葉は実に言い得て妙である。

 それにしても政府の態度は国民の期待を裏切り続けている。確か、アホベ首相は昨年10月の記者会見で消費税増税を4月からあげる以上は、『歳出のムダは不断に削減していく』と断言、国民とのこの約束は絶対だと言い切ったはず。しかし、実際はその約束は何一つ守られていない。

 歳出の無駄遣いをなくすといった舌の先が乾かないうちに、新年度予算の政府案は、公共事業費をはじめ、防衛、農業関連などの主要な経費がそろって増額。予算規模は95兆円と今までで最大。それを数の力で年度内に成立させてしまっているのもその一つ。

 さらに酷いのは、今年になって国会で成立させた13年度補正予算。政府の行政改革推進会議が『ムダ』と判定し、95億円からそぎ落とした事業の多くを復活させたのは、まさに『だまし討ち』としか言いようがない。

 汚染ドジョウ氏が命をかけてでも消費税をあげるとぶち上げて、自民・公明と談合して消費税引き上げを決めた際に、国民へのメ-セ-ジが『国民に負担増を求める以上、身を削る』だったはず。実際には衆院で、議員定数の見直しが決めたにもかかわらず、きまったにもかかわらず、動きは鈍く『0増5減』という実質的には何も変わらずという案を一応合意しただけで、そのことはすっかり忘れているのも許しがたい話。 

 今回の負担増が、社会保障制度の充実や将来の不安解消に大きな力となるならば、まだ許されるだろうが、3%の値上げで見込まれる税収の8兆円が、全てそちらに回るという補償は何一つない。まさに消費税値上げの大儀は忘れ去られてしまったのである。

それどころか、復興法人税の前倒し廃止の財源にされる可能性の方が大きいとなると、今までの発言は全ては嘘の固まり、その場限りの言い逃れである。さらに、これもすでに衆院できまっているとうそぶいて、来年10月には消費税率を10%に引き上げるつもりだろう。なのに、支持率が落ちないとは・・・私には理解できない。

こんな嘘で固めた消費税増税なのに、『消費税を増税するのは、高齢化が進み、年金を受け取ったり介護を受けたりする人が増え、社会保障にかかる費用が毎年1兆円規模で膨らんでいるためだ。保育所に入れられない待機児童を減らすなどの少子化対策も必要なため、政府は、今回の消費税増税分をすべて社会保障の財源とする・・・』と社説を書いている読売新聞の論説委員には、国民の怨嗟の声すら届いていどころか、国民をますます白雉化させたい現政権のポチになることを自ら願っているらしい。(田舎親父)

2014年4月 4日 (金)

即時抗告は取り消すべし・・・

 

 48年間も、死刑を宣告された上で、拘置されていたことを想像するだけでも難しいが、その間、一貫して無罪を主張していた袴田巌という男性の精神力には感銘する。

  死刑の執行には特に順序がないらしく、日本中の学校に『施錠』という、あまり教育の場にはふさわしくない方式を常態化させた、池田小学校事件の犯人である詫間某のように数年で死刑を執行した事件があると思えば、10年以上執行されない死刑囚も稀ではないという。

 死刑囚には執行が宣言されるのは当日だというから、48年間、袴田さんは朝を迎えた度に、今日も生きているという安堵とともに、看守の足音に怯え続けてきたのではないだろうか。そんな気持ちなど私が想像すらできるものではないだろうが・・・。

 袴田事件と呼ばれる一家皆殺しの凶悪な事件が、50年近く前に静岡県で起き、その後犯人が逮捕されたことはうっすらと記憶している。当時は、特に気に止めなかったが、犯人とされて、逮捕された袴田さんが、死刑を宣告された後も、無罪を訴え続け、何度も再審請求を繰り返していることを知って、この事件は冤罪ではと思うようになったのは10年ほど前のこと。

 そして、先日静岡地裁に出されていた何度目かの再審請求に対して、地裁は全面的に弁護側の主張を受け入れるというよりむしろ、『物証が捏造された疑いがある』とまで言い切って、『国家機関が無実の個人を陥れた』と糾弾したことは、消費税の増税で暗く沈んでいた気分に活を入れてくれた。

 また『拘置を続けるのは耐え難いほど正義に反する』と述べて即時釈放を決めたことは、今どきこんな気骨のある裁判官がいるのかと気分が明るくなったものである。釈放の判断は東京高裁も支持したというから、司法も暗に『冤罪』だと自己批判しているのではないかとさえ受け止めた。

 袴田さんが拘置所から釈放された映像にはなんとも言えぬ感動を覚える。あのおぼつかない足どり。どこを見ているのかわからない、表情の消えた顔。軽い認知症と糖尿病を患っているという説明では納得できないほどの、並の神経では到底耐えかねない48年間もの拘置所生活を象徴しているように思え,ついつい目頭が熱る。

 さすがの検察も、これ以上無理を通すことは難しいと判断するだろう、このまま無罪が決まるだろうと誰もが疑わなかったのではないだろうか。私も、地裁が『捏造の疑い』とまで言及した以上、抗告はないだろうと信じていたが、翌日になって検察が即時抗告したという報道に唖然とする。

 法律には疎い私には,これからの手続きなどはわからないことは多いが、検察が抗告したい上、やり直し裁判が結審とならず,高裁の判断にゆだねることになること程度は理解できる。その期間が、マスコミ報道では最低でも1年程度は必要らしい。

 袴田さんは78歳という高齢。しかも、人生のほとんどを拘束され、不自由な生活を強いられ、精神的にも肉体的にもボロボロになっていることは想像に難くなく、無罪判決が確定する前に自らの命が失われることも可能性的には大きいのではないだろうか。

 まさか検察がそれを待っている確証はないが、『血痕は袴田さんや被害者と不一致だった』する地裁が認めた新証拠を、『決定はDNA型鑑定に関する証拠の評価に問題がある。到底承服できない』というムリムリ即時抗告したのは、袴田さんの死を待って曖昧にしたいと思っているのではと疑いたくなる。

地裁の裁判官が『捏造の疑いがある』としたのは、袴田さんが当時身につけていた下着などの衣類の血痕は、検察側の鑑定人も、血痕と袴田さんのDNA型が一致しないとしていたのにもかかわらず,強引に『DNAが劣化していた可能性がある』として、鑑定の信用性を否定したご都合主義的な証拠解釈に対する強烈な批判だろう。

 袴田さんの冤罪は疑いのないところであるが、この即時抗告を真犯人(生きているとしたらであるが)はしてやったりとほそくえんでいるのだろうか。

即時抗告で無駄な時間と莫大な税金の無駄遣いをするよりも、時効になっている上に、今更新証拠の発見は限りなく不可能だと思うが、それでもそちらにシフトすることが、検察への信頼回復になることは疑いのないところ。

 『即時抗告を取り消した方が・・・』というセリフがアホベ首相の口から出たら、下がり始めた支持率が持ち直すだろうなと突飛もない考えが浮かんでくる。

 袴田事件で改めて飯塚事件を思い出すが、こちらは再審請求にはNOの判決。ほぼ間違いなく冤罪ではと思えるが、こちらは犯人とされる人物はすでに死刑が執行されて、この世には存在しない。

 冤罪だったと思うと、検察という組織の恐ろしさを感じてならない。(田舎親父)

 

2014年4月 3日 (木)

汚いぞ 理研のジイサンたち・・・

 

数カ月前にあれほどもてはやされた『小保方晴子』という若き女性研究者を、こともあろうに彼女が所属する『理研』が、組織を挙げて『捏造』という科学者にとってもっとも屈辱的な言葉で葬り去ろうとしていることに、ことの真実は別にして憤りを感じる。

 『STAP細胞』の発見が、若い女性の口から発表された当時、正直『科学の世界がこんなに開けてきたのか・・・』とびっくりしたと同時に、普通ならば、凄い研究者(特に年配の男性)が存在するのに、何故彼女を・・・という、きわめて素朴な疑念が頭をよぎったことを思い出す。

 私は、生命の神秘をえぐるような『なんとか細胞』といういう分野は神の領域だと固く信じているので、あまり解明してほしくないのだが、科学者には魅力があるらしく、ES細胞だとか、IPS細胞だとか、また今回のSTAP細胞というように、区別すらできないが、どんな臓器にでも再生できる細胞の発見にしのぎを削っているのだそうだ。そして、なかでも凄い研究成果だと世界的に認められた、IPS細胞を発見した京大の山中教授にはノ-ベル賞が送られたことはつい最近のこと。

 弱酸性の液体に浸すことによって、この万能細胞が生まれることを発見したという小保方さんの発表には、当初から『そんなことで・・・』という驚きの声と、『何だか疑わしいものだ』という疑問の声があったことも思い出すが、当時マスコミは、そんなことはどうでも良く、むしろ小保方さんの割烹着姿や、学生時代の日常な生活の姿など、芸能人的な扱いでもてはやしたことも記憶に新しい。

 しばらくその話題が下火になったなと思っていたが、最近になり、論文に疑問があるという声が大きくなり、何が原因なのかは私には想像すらできないが、研究過程で基本的な疑念があるということで、共同研究者(指導者なのかも?)の山梨大学(だったか)の男性教授が論文を撤回する動きをしたという報道あたりから、果然このことが大きく取り上げられ始めていた。

 論文に使われた映像が彼女の博士論文に使われたものであることと指摘され、彼女も認めたことから、『STAP細胞』の存在すら疑われ出したらしく、小保方効果で多大な利益を出していた理研が、突如?論文の真偽を調査する委員会を立ち上げたという報道に、いよいよ内部でこの問題に対してモメ始め、理研として何らかの措置が必要になったのだろうと思ったものである。

そして先日、理研の調査委員会は、記者会見で、小保方論文には『改ざんがあったと認定し、それにかかわったのは小保方さん一人』と発表したという映像を見て、ことの真実はともかく、一人の女性にすべての罪をなすりつけて、『オラシラナイ・・・』というオジサン・ジンサン達の態度は気にはいまさらながらアホらしくなり憤りを覚える。

ところが、不思議なことに理研側は記者会見でも『STAP』細胞の存在には全く触れていない。論文の形式やないように疑問があり、改竄や捏造があったというのだから、こんな便利な細胞など生み出せるわけがないと思うのだが、、理研の態度をみる限り、どうも『STAP』細胞は存在するのではと思えてならない。

事実、小保方さん自身、再現している主張し、最初から論文撤回を拒否しているアメリカのハ-バ-ド大学の男性研究員も再現しているらしいとなると、今回の最終調査結果は現時点で『STAP細胞』の有無についてシャットアウトする目的なあるように気がしてならない。

ふと、最近気に入って読んでいる『仙川環』という女流作家の『感染』とか『再生』という漢字二文字の題名の小説を思い浮かべる。著者は医学関係の最新技術にかなりの知識を持っているらしく、私には思いもよらぬ発想で事件を展開させていくのが、再生医療のあり方など考えさせてくれる。

そんなことが原因しているのだろうか、もしも、(名前は別にして)『STAP細胞』という細胞がすでに存在し、どこかの国か組織の特別機密事項として使われているとしたら・・・という突飛のない空想が広がる。

理研という動きが鈍い組織が、今回のように実に早く最終結論を出したことや、一人の女性研究者の未来を徹底的に打ち砕くという、あまりにも汚すぎるやり方から、どこからか何らかの圧力があったことが間違いないのではあるまいか。となると、この空想もアホカと一蹴できないのではないだろうか。

小保方さんの発見した手法で『STAP細胞』が作り出されては、国家(組織も含めて)の機密はたちまちのうちに失われることはもちろん、その使い方によっては、国家の存続さえもが怪しくなるとなると、全くあり得ない話ではなさそうだ。

機密を守るためには、小保方さんの研究そのものを消し去らねばならない。そのために・・・と考えるのは、仙川環さんの小説の読みすぎなのだろうか。

小保方さんは姿を見せないが、はっきりと理研と戦う姿勢を表明している。あれほど持ち上げていたマスコミは一斉に『捏造』が事実のように伝えているのも気になるところ。

理研は1年かけて『STAP細胞』の再現する実験を行うと発表しているが、小保方さんやハ-バ-ド大学の教授は再現しているといっていることから、1年など要しないことは明らか。むしろ時間稼ぎと考えた方が自然だろう・・・。

ガンバレは私の嫌いな言葉であるが、ここでは躊躇なく『小保方さんガンバレ』と叫ぶと同時に、そうそうたるメンバ-による『小保方さんを守る会』が結成されて、理研とその背後の組織の存在を明らかにしてほしいと願っている。

このことについては、マスコミは報じないだろうが・・・。(田舎親父)

2014年4月 2日 (水)

海辺に住みながら海が見えない・・・

カレンダ-はすでに3月を通り越して4月に入っている。あの三陸から千葉に至る太平洋沿岸を襲った大津波から、3年以上の月日が過ぎているが、現地から届くのは、復興のスピ-ドが上がらないことにいらだちを覚えているという人々の怨嗟の声ばかり。

復興には住民の合意が必要だということは理屈ではわかるが、乗るレ市の名 全てに対して、個人主義を『是』としているとなると、住民全員の合意なとというのは間違っても望めないことは誰の目にも明らかである。

当然のごとく、復興計画は国あるいは県の主導で作成されることになるのはやむを得ないところだろうが、住民としては、この復興計画に声を出すと、往々にして『住民エゴ』という言葉で非難される。となると、なかなか声を出しにくいのも当然だろう。

しかし、こんな難しい課題に挑戦している人々が存在すると、先日宮城県気仙沼市の住民グル-プの活動を紹介する記事をネットで見つけた。

 記事によると、当面の遅れを覚悟しつつ、事業を急ぐ国や自治体に待ったをかけた住民グル-プが主催する防潮堤について議論するの小さな会合が開かれたときこと。そこでのいろいろな意見が紹介されている。

 防潮堤を不要だという人はいなかったらしいが、県が示した防潮堤の規模に対して、かなり異論がでたとのことである。

 『防潮堤は高い方がいいという人も多いが、市が掲げるのは-海と生きる-という考えに立てば、高すぎる防潮堤はいかがなものか』という意見は傾聴に値する。

また、『家族を失った人に-防潮堤はいらない-とは言いにが、造れば維持管理や建て替えの費用が子孫に回る』という意見も当然である。釜石の防潮堤が呆気なく崩れて、津波から市街を守れなかった事実から、『数十年過ぎたら、津波も波も守れない、ボロボロのコンクリートが残るのでは・・・』という声には住民の真実が現れている。

 この人々の行動は、県や市に対して反対することを目的としてはじめられたのではなく、防潮堤について勉強することを目的として始まったという。そのきっかけは、被災後まもなく、県は地区ごとに防潮堤建設の説明会を開いていたが、住民は足元の生活再建に追われ、専門用語が飛び交う説明に沈黙するばかりだったことから、県側は『特に異論は出なかった』と手続きを進めようとすることに疑問を感じた人々の存在だったとのことである。

 いきなり是非を議論すれば対立を招くことは明らか。防潮堤について何も知らなかったことを反省して、賛否は脇に置き、行政の担当者やさまざまな分野の専門家を次々と招いて話を聞いた結果、いろいろなことがわかったという。

 どの程度の津波を、どれくらいの高さの防潮堤で防ぐか。それを決める手順を国がまとめたのは、震災からわずか4カ月後だったそうだ。過去のデータや計算をもとに被災地に対応した防潮堤の高さを宮城県が決めて発表したそうだ。それによると、気仙沼市内では数メートル~十数メートルの堤防が必要とされていたという。

 防潮堤の基礎が壊れないという前提だが、堤を高くすれば安全性は高まることは明らかだが、海全体を囲まなかったら、その防御力は限定されることは、私のような素人でもわかる当たり前の話。さらに、防潮堤のために産業がすたれたら、子や孫はこの町で暮らしていけないとなると、何のための防潮堤なのか全く意味がなくなることも自明。

人々は行政と何度も話し合いを持ち、最初は高さ5メートル余の堤で湾をぐるりと囲む案だったが、一部で堤をなくし、別の区間では堤の上に海が見える広場を造るという案で合意したという。津波時に立ち上がる金属製の可動式扉を組み合わせ、ふだんの高さを抑える工夫も生まれたそうだ。

凄いことだと拍手を送るが、数メ-トルのコンクリ-トの壁が湾内を囲むことになるのは間違いなさそうだ。開口部を設けて船の出入りを確保するのだろうが、津波の襲来時にここが閉まっていないと、何のための防潮堤となることになるのでは・・・。そのための技術はあると信じるが、果たしてどのぐらいの予算が必要なのだろう。

天文学的な予算をかけて、完全なる?防潮堤を造るのと、津波の被害を仕方ないと受け止めて、避難を最重点にして被害者の補償とを天秤にかけたら、被災者の人々のお叱りを覚悟して言うならば、後者の方が合理的と思うのだが・・・。

(杉)

2014年4月 1日 (火)

地下水バイパスよりも完全遮断を・・・

 

 福島事故原発の広大な敷地に、山側から海側に1日1000トンもの地下水が流れこんでいるという。このうち約400トンが建屋内に流入し、融解してその形状すらはっきりしない核燃料に触れて汚染水となっていることは何度も報じられている。

 東電と政府は、汚染されたら地下水が海に流れ出さないように汚染水をくみ上げて、タンクに移していると説明している。事実、増設に次ぐ増設によって、日々増え続けているタンク群の映像に、なんとも原発の無情さを感じる。それでも、止まっている原発の再稼働や新設という考え方が大勢を占めているという現実に情けなくなる。

事故さえなければ、いや原発さえ作らなかったら、この地域は自然に恵まれた豊かな緑に包まれて風景が広がっていたにちがいない。そこに原発という魔物の登場で、樹木がなぎ倒されコンクリ-トで固められた不自然な光景が出現した。

しかし、それでも不自然な場所は、広大な原発敷地の一部分に過ぎず、周りは深い緑に囲まれていたが、増え続ける汚染水をくみ上げて保管するためのタンクのために、広大な敷地の緑はすでにほとんどなくなっているという映像も公表されている。

東電としては、これ以上のタンクを増設することは難しくなり、建屋流入前の地下水を12本の井戸でくみ上げてタンクに一時保管し、放射性物質濃度が目標値を下回ることを確認後に海に流すという案を漁業関係者に理解を求めていたそうだ。

この『地下水バイパス』と呼ばれる計画では、汚染水の発生量を1日最大100トン削減でき、海に放流する水の目標値は法令基準値の約5分の1で、周辺河川と同程度だと東電は説明しているらしいが、今までの東電と政府のやり方を見ていると、漁業関係者としては当然ながら、全くの素人である私でさえ、果たしてどこまで信じて良いものかと首を傾げざるを得ない。

福島県の漁業関係者の元締め的な存在である福島魚連が、この計画を受け入れたというニュ-スが流れたのは先月末のこと。マスコミは福島魚連の苦渋の選択と報じているが、裏ではドロドロノ交渉劇が演じられたことは想像に難くない。

この『地下バイパス』計画は施設面ではすでに昨春には完成しているという。建屋に流れ込む前の地下水なのだから汚染されていないはず。しかし、現在のすべてのタンクには汚染水が満杯だというのに、いったん地下水を保管するというこの計画では相当数のタンクが必要になるのは明らか。しかし、このあたりの説明がはっきりしないのも気になるところである。しかも、処理できる地下水は4分の一。残りはどこへ?・・・。

 東電は回収した汚染水は敷地内のタンクで保管中で、その貯蔵量はすでに40万トンを超えたとしており、2015年度末までに80万トンの容量確保を目指して増設を急いでいるらしいが、どこに現在に倍するタンクを増設するのだろう・・・。

 さらに、一日400トンとされている建屋に流れ込む地下水の3年間の総量と、現在タンクで収容している汚染水の量が一致しているのが実に不自然なのが気がかり、事故の翌日からでも、すべての汚染水を貯蔵するタンクがあったとは思えない。

しかも、2月にはそのタンクから約100トンの汚染水漏れを起こすなど、安全管理体制には疑問符が付いたままで、体質改善が進んでいるとは、とても思えない。

 こんな中で、海に放出するとなると、誰の目にも原発付近の海は今以上に汚染するだろうと思うのは無理ならぬこと。

魚連が目標値の順守と第三者による監視、風評被害による損害の賠償などを政府や東電に求めたのは当然だが、消費者が福島県産という海産物を敬遠するのは当たり前であり、いまだに風評被害という言葉の使い方が改まっていないことに(仕方ないことだろうとは思うが)やり切れなさを感じたならない。

原発事故直後に、私のような素人でも考えつき、その方法を述べたが、(鉄板など)何らかの方法で、原発敷地に流れ込む地下水を防ぐ努力を怠ったことが、今日の後追い施策につながっていると思うと残念でならない。(田舎親父)

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