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2015年8月

2015年8月31日 (月)

昔台風・今子どもの自殺・・・

先月末のことだが、NHKの朝のニュ-スで『9月1日は子どもの自殺が一番多い日』という話題を取り上げていたことに、台風がいじめに変わったのか・・・とトンデモナイことを考えてしまう。

同じ日の朝、朝日新聞がこのことを取り上げて、内閣府が過去40年間の累計日別自殺者数を独自集計し、18歳以下の子どもの自殺は、4月や9月など『長期の休み明け』に突出していることを、平成26年度版『自殺対策白書』の統計グラフを示して掲載していた。

これまで自殺者数は、月別、年次などに区切って出されていたため『日別』で発表されたのは初めてだとあるが、確かに、こんな生々しいグラフは始めて目にする。しかも、18歳以下という残酷な線引きが不気味に迫ってくる。

以前から、寒冷地では8月下旬から2学期をはじめる地域もあったが、最近は、授業時数確保という理由で、寒冷地以外でも8月末から2学期というのが流行になっていると聞いているが、全国的には9月1日は、今でも2学期の始めの日として定着しているはず。

現役時代は、当然のことながら『9月1日は子どもの自殺特異日』という意識は全くなく、今では死語のようになっている『9月1日は立春から数えて、二百十日目にあたり、台風の特異日・・・』などと久しぶりに顔を合わせた子どもたちに語りかけることを常としていた記憶がある。

また、いつの頃だろうか、はっきりと記憶していないが、その日が関東大震災に当たることもあって、『引き取り訓練』という、一部の保護者にとっては極めて迷惑な行事があることがこのところ定番になっている。

それはさておき、20歳の不登校経験者の女性が『夏休み明けの9月1日は何度も死にたいと思った日、1学期からのいじめがまた続くかと思うと怖くてたまらなかった』と述べている朝日の記事に、死にたくなるほどのいじめとはどんなものなのだろう・・・。

同じ日、NHKニュ-スでもこの話題を取り上げ、19歳の男性の話として『宿題ができていなかったことを突然思い出し、学校に行きたくなくなった』という意味のことを語っていた。

これらのことから、改めて私にとっての9月1日はどうだっただろうと思い起こしているのだが、当時は『いじめで自殺』など身近で起きたことがなかったことから、『何度も死にたくなった』という女性の話など想像もできず、周りでもこんなことは話題にも上らなかった。

『宿題ができなかったから・・・』という一文に対しては、私の場合、『これは絶対にない』と断言できる。なぜかというと、答えは簡単『義務としての宿題』を出さなかったからである。

今では、こんなことを言うと不思議に思われるだろうが、『夏休みは、子どもを家庭にお返しする期間だ』という考え方を強く持っていたので、夏休み前の保護者会では『夏休みの間は、皆さんの考えて子どもと暮らして下さい。学校が決めた登校日は無視して下さい』と述べ、『宿題はありません』と言っていたことは今でも鮮明に思い出する。

『必要なら、個々に応じて対応しますので、相談して下さい』と付け加えていたことはもちろんだが、登校日には、よほどのことがない児童を除いて全員が顔を揃えていたことも、今思うと変な話ではあるが・・・。

以前もつぶやいたことがあるが、私は担任、時代出席をとったことがない。学校に来る・来ないは保護者と子どもが決めることだと思っていたからである。

理解度を確かめるために自分で作ったテストをするが、間違ったらもう一度考えさせる。間に個別指導や友だち空のアドバイスなどを通して、テストは100点しかつけない。『学校が楽しければ、意味のない欠席はしない』という信念を持っていたからである。

法規に定められた通り出席簿は作り、職員室の所定の場所に置いていたが、当時はそれをチェックするような細かい管理職が存在していなかったので、こんなやり方が通用したのかも知れないが、その気になれば今でもできるのではないだろうか。

一昨日の土曜日の朝刊に、『昨日、神奈川県内の中学2年生の女子生徒が鉄道自殺』という記事があった。その日(28日)は、二学期がはじまる日だったことから、学校関係者は大きなショックを受けているとも・・・。

そして、土曜日のNHKテレビも『ニュ-ス深読み』という番組で、子どもの不登校問題を取り上げていた。その中で、スク-ルソ-シャルワ-カ-の存在を強調していたが、私はこんな職制を作っても、『流行のような不登校』と『突発的だと思える自殺』が防げるとは期待していない。理由は述べるまでもないだろう。

子どもたちに『学校は楽しいところ。行かないと損する』という意識を持たす事ができれば、不登校や自殺などが問題になるはずがないと信じている。

算数や国語の嫌いな子どもにテストをして、改めて『お前はバカだ』と突きつけたら、運動が特に苦手な子どもに、ムリムリ他の子と同じことを義務づけたら、給食で嫌いなものを食べないと罰を与えたら、子どもでなくても反発したくなるのでは・・・。

何か、遠い昔の与太話のようなになってしまったが、今日は、横浜の片田舎で、そして明日9月1日は全国の多くの小中学校の二学期がはじまるが、『今日は台風の特異日だよ・・・』という担任の話に、『フ-ン、二百十日ってそんな意味だったのか・・・』と受け止める子どもたちばかりである事を祈りたい。

そして、明日・明後日の新聞やテレビに『自殺』という文字がないことも・・・(田舎親父)

2015年8月29日 (土)

現場の悲鳴が聞こえてくる・・・

 まさか先日の『文科省からの調査依頼なんて、前年度の調査と少し違った数値の報告で事足りる』と述べた私のつぶやきが聞こえたわけではないだろうが、文科省が、各地の教育委員会が回答を終えていた『いじめ認知件数』などについての調査をやり直すよう通知したというニュ-スは、あまりにもタイミングが良過ぎて、自分でもびっくり。

いじめ認知件数についての調査は、文科省が毎年度、問題行動調査の一環として実施しているのだそうだ。そういえば、現職中にそんな調査があった事を思い出すが、多分、いい加減な報告をしていたに違いない。

この調査は6月が締め切りだったとのこと。文科省はすでに各地の教委から昨年度のいじめ認知件数などについて回答を得ていたが、7月に岩手県矢巾町の中学2年生の男子生徒のいじめが原因とされる鉄道自殺が起きたため、『集計した調査結果が実態を正確に反映しているとは考えがたい』として調査をやり直すよう求める通知を出したのだそうだ。

テレビニュ-スで知ったことだが、担当部署の係官は『いじめがゼロなんてことはあり得ない』と述べているらしい。もしも本当に『ゼロ』とした学校があったとしたら、文科省がカリカリするのもわからないわけではない。

『いじめゼロ』と報告した学校があるとは思えないのだが、それはさておき、『数値が低いと信頼性が欠け、高い学校ほど、真剣にいじめ防止に取り組んでいる・・・』というくだりには、『?』をつけたくなる。

文科省は、今流行の『有識者会議』が大好きな役所であることを考えると、いじめに関しても、いくつものそれに類する組織があって、それなりの情報が上がっているのではないだろうか。(私の推量であるが)それらの組織から示されて数値と、実際に提出された数値が大きく違っていたのでは・・・。

このため、今回自殺した男子生徒へのいじめが校内で共有されていなかったと判断し、通知は初期段階のものや、短期間で解消したものなどまで細かく集計するよう求めているという。

毎年、いじめ認知件数は、問題行動調査の中で校内暴力などの件数とともに9月中旬に公表されているが、今回はいじめに限り10月末に公表するのだそうだ。この事は、普通にとらえれば、一月の余裕を与えるから、『相手が嫌がることは全ていじめ』という文科省の規定を踏まえて、しっかり調べろ・・・と言うところだろう。

これは大変だ。子どもの日常を知っている現場の教員にすれば、友だち関係は毎日のように変化し、昨日は仲よくしていたのが、今日は無視・・・などという光景は日常的に目にすること。

最近はネット絡みが多くて、実態はつかみにくいことがあるのは当然だが、ほんの少しのことで仲間外れにする・されるのは昔からあること。その時、文科省はもとより、有名な教育評論家といわれる諸氏は、すぐに教員が対処しなければならないと言う。

ならば、もう少し時間に余裕が欲しと言いたくなるが、それはともかく、忙しい時間をやり繰りして、子どもたちの行動をじっくり観察し、日頃の関係を把握している教員も多いことは間違いない。もしも文科省が、子どものトラブルに対して初期段階から教員が割って入って、『仲よくしろ』といえば問題が解決すると考えているとしたら、それこそ、子どもたちの人間関係構築能力をそぐことにもなりかねない。

過去では、一部の子ども除いて、お互いの関係を深める場は、学校がその主体であったが、今では学校よりも塾が重要視される時代になっていることを見逃してほしくない。さらに加えて、スマホを介してのネットという今までの教員が経験したことがない厄介なメディアが児童生徒の間に当り前に存在している現在、『いじめの定義やいじめを失くす方法』を自信を持って述べることは、それこそ自信がないが、子どもたちの人間関係作りは微妙で、紆余曲折を踏まえて発展していくことだけは自信を持って言えること。

 今回の文科省のやり直し命令に現場は今頃大騒ぎしている様子が目に浮かぶ。あれもいじめだ・これもそうだ・・・と探し出すとなると、夏休みが終わり、子ども一人一人に寄り添っての生活指導や(一番学習が進む秋)授業の準備に忙しい大事な時期に、連日『いじめの発見のための職員会議』で振り回されるのではないだろうか。

校長としても、少ない数値を回答したら勤務評定に関わり、極端な場合C・Dランクをつけられたら給与にも影響する?・・・。ならば、あれもカウントせよ、これもいじめのはしりだろうと『いじめ探し』に教員の尻を叩くこともありうる話である。

そして、10月発表された数値は、今までとは全く違うほど高いものになり、次には、この数値を低くする努力をしろという通達が届くことも想像に難くない。

 『無理にいじめと認定した行為』少なくできるという答えはないのが正解だろう。何もしないで見守ることが最良だろうが、これからは、必ず教員の過剰な干渉が入る?となると、『自ら解決するという能力』という、文科省が学習指導要領でうたう教育の基本理念を否定するという皮肉な結果になりそうだ。

 一報では、100点満点のテストで1点を上げろと叱咤され、他方では、いじめでもない子どもの関係にも口を出せとはこれ如何にと・・・言うところでは。

『やってられねえ・・・』という声が学校で渦巻くことが一番恐ろしい・・・。(田舎親父)

2015年8月28日 (金)

祖父の霊が乗り移っている?・・・

 24日の未明のこと、神奈川県の相模原にあるアメリカ軍基地(正確には、アメリカ陸軍『相模総合補給廠』というらしい)で爆発があった。この基地は、相模原の中心部、横浜線の相模原駅近くの線路脇、私も何度も車窓からその様子を見ているが、広大な土地になんとも贅沢な建物が並んでいるものと腹立たしく思ったことは限りない。

基地は、終戦直後にアメリカ国によって接収されたのだろう。当時は、桑畑が広がり人家も少なかったらしいが、横浜線の複線化や京王電鉄の延伸などから、相模原市の人口は膨れ上がり、基地周辺は住宅や学校、保育園などが密集している。数年前には、青山大学の相模原キャンパスが開設されて、若者も多い地域である。

そんな基地での爆発は、つい先日報じられた中国の天津の大爆発を思い起こす。私でもすぐに毒ガス?想像をしたくらいだから、周辺住民はもとより警察や消防が真っ先にその事を心配したに違いない。

アメリカ軍の司令官は、早速相模原市長に謝罪すると同時に有害物質は保管していないと言明したそうだが、警察や消防が立ち入って確認したわけではないとのこと。日米地位協定という不可思議な,そして屈辱的な壁があるからである。

この日米地位協定は、基地に駐屯する在日アメリカ軍の軍人らに特権的な法的立場を認め、アメリカ軍絡みの事件・事故が起こるたびに、問題点が指摘されながら、1960年の締結以来、一度も改定されていないという代物である。

アメリカ兵が重大事件、例え、殺人犯の容疑者であっても、基地に逃げ込めば、日本の警察はなにもできず、身柄提供をお願いするだけで、そのうち、該当兵はアメリカに帰還したら全てが終わるということも、過去では何度もあったことも記憶に残る。

重大犯罪の容疑者と断定しても日本に逮捕権がないということに対して、事件が起きるたびに、国民からは『改定』という声が上がるものの、政府は始めから交渉する気がないらしく今日までウヤムヤ。今回も、その壁が障害になり、真相は闇の中になりそうだ・・・。

こんなバカな話はない。土地が強制的に接収され軍隊の駐屯は、終戦後数年間は敗戦国として、ある意味仕方ないのかも知れないが、戦後70年、未だに基地の存在はともかく、不平等な約束事はどう考えても納得できるものではない。

しかも、この地位協定は、終戦直後のアメリカからの押し付けではなく、60年に締結された日米安全保障条約に基づいて在日アメリカ軍の法的地位などを定めたものだというから、なんとも情けない。そんな全く不平等な『約束事』を、国民の圧倒的反対の声を無視して締結した、当時のキシ内閣の売国主義に対して心底怒りを覚える。

国民の生活を守ることは国として最低限の任務である事は今更述べるまでもない。その意味でも、国はなぜ爆発が起きたのか調べる義務があるはず。しかし国は、日米地位協定があるのでそれができないとのこと。こんな協定を破棄すべきだと主張する人物が自民党には存在しないことが悲しい限り・・・。

近隣に住む人たちや、住民の暮らしを守る立場の関係自治体にとっては重大な関心事であり、相模腹市長が原因調査に消防や警察が関われるよう、地位協定の見直しを政府に要請する考えを示したのは当然だろう。しかし、この市長も、自民党の推薦で再選されたというから、本気で改定を求めるのかどうか怪しいもの・・・。

 今回爆発事故のあった神奈川をはじめ茨城、埼玉、千葉、東京、静岡、沖縄などアメリカ軍基地が所在する14都道県の知事でつくる渉外知事会も、地位協定の見直しや改定を繰り返し求めているそうだが、それぞれの県レベルで、市民団体の平和を望むイベントにも(政府に遠慮?)後援取り消しが続いているという事実一つ見ても、温度差は歴然で、連携が進んでいるとはとても思えない。

 『強い日本を取り戻す・・・』などと、国家主権を重視するはずの現政権が、なぜ、地位協定の改定には目もくれず、アメリカ軍の手下となって戦争を仕掛ける、いわゆる『戦争法案』の成立をはやるのか不思議であるが、アホベ首相に、地位協定を結んだの祖父の亡霊が乗り移り、それを当然と受け止めているとしたら、基地に迷惑をかけられている住民はもとより、こんな悲しく情けない国民は世界中どこ探してもいないのではないだろうか。

 戦争法案を破棄し、一日も早く現内閣を倒さねば、自衛隊がアメリカ軍の二軍とし、国民の知らぬ間に、世界中(聞いた事がない地域)に出兵しなくならなくなることも、出来の悪いマンガと笑えなく日がそこまで近づいているような気がする・・・。(田舎親父)

2015年8月27日 (木)

悲惨な事件の背景には・・・

大阪府下で起きた中一の女生徒殺害事件は思いがけない展開になっている。マスコミ報道によれば、同級生の男子児童も同一犯人に殺害されて、林の中に放置されたことが確実なのだが、容疑者は未だに黙秘しているのだそうだ。

それはともかく、深夜、というより明け方まで、この二人の生徒は商店街でウロウロしていたらしいが、その様子を見て、犯人である45歳の男は巧みに声をかけて、車に乗せたらしい。ナイフなどを用いて脅し、隠れ家的な場所に連れ込んで二人を殺害してのだろうが、子どもとはいえ二人が無抵抗でいたとは思えないのだが・・・。そのあたりがなんとも悩ましい・・・。

容疑者を断定し逮捕の決めては『防犯カメラ』である。警察は、女生徒の遺体が発見された駐車場の映像を得ると、そこから関連する場面を想定し、次々と防犯カメラの映像を入手し分析することによって、45歳の男の車を特定し、身柄を確保したとのこと。

凄いと思う。時をおかずに事件を解決する警察の凄さを、改めて世間に知らせ、その意味では、防犯カメラの役割は大きいとは認めたいが・・・。

これで、警察当局としては事件としては解決した事になったのだろうが、失われた子どもの命は返らないことを冷静に受け止めると、果たして『防犯カメラさまさま』と、無条件で防犯カメラを増やす風潮を認めて良いのだろうかというと、諸手を挙げて『是』とは言い難い・・・。

本来ならば、こんな事件が起きないために『防犯カメラ』が設置してあるはずなのに、結局は、事件解決・犯人逮捕のためには役立っただけで、子どもたちの生活を根本的に改革するモノには至らなかった事に、なんとも言えない寂しさと同時に、防犯カメラの役割を改めて問い直したくなる。

今回の事件で映像を保存している防犯カメラについては、ただただ凄いという言葉だけしかないが、一体、大阪府下には何台の防犯カメラが設置してあるのだろう・・・と考えさせられる。と同時に、同じようなカメラが、『横浜の片田舎』にも、相当数設置してあるのではないだろうと想像すると背筋が寒くなる。

どこに防犯カメラが設置してあるのかということを、今まで真剣に考えた事はない。というより、こんな平和な地域には不似合いだと決めつけて、防犯カメラの存在そのものを考えないようにしていたのかもしれないが・・・。

この防犯カメラの是非については別の機会でつぶやくとして、最近の子どもたちの事件では、大人の陰が薄過ぎるように思えるのは私だけだろうか。

ここ数年来の傾向だろうが、子どもたちは、当り前のようにスマホを持ち、無料で友だちとやりとりできるアプリが大流行しているらしい事ぐらいは、世間しらずの私でも知っている。しかし、このアプリを使ってやりとりし、深夜にもかかわらず、当り前のように呼び出し・呼び出される現状を許容している大人は責任がないのだろうか。

今回の事件でも、殺害された二人の姿が商店街のコンビニの防犯カメラが捉えており繰り返し放映されている。私は、最近は特に夜の外出が苦手になっているので、深夜の様子など想像した事がなかったが、現実に、寝屋川の商店街に二人は現れウロウロしていたことは間違いない事実。

小学生と言っても通用する小さな身体である。大人の目撃者がいないはずがないが、その事は全く報じられていない。深夜の駅前で、あるいは商店街のコンビニの近くで、何をするともなく、12.3才と思える子どもが過ごしている?・・・。こんな光景は最近の大人にとって当り前の光景なのだろうか。

ある新聞の社説では、この時期は何事にも挑戦したくなる思春期の特徴だと好意的に述べているが、それがマスコミの感覚なのだろうか。

私が古いのかも知れないが、普通の親であればそんな事を許すとは思いたくない。さらに、今回の事件では、マスコミは親の姿を意識的なのかも知れないが、全く出していなのも気がかりなところ・・・。

例によって、個人情報という煙幕が張られて、報じないという協定でも結んでいるのかも知れないが、殺害された二人の子どもの親が、深夜に出かけたり、外泊するような行為を否定しなかったとなると、事件の本質は全く違ったものになるのではないだろうか。単に若い命が奪われたというだけではなく、子育てそのものにかかわることと、危機感を持つのだが・・・。

うがった見方になるかも知れないが、(両方あるいは片方?)母子家庭だったのではないだろうか。母親は生活の糧を得るために長時間働き、子どもと過ごす時間が少なかった?・・・。あるいは、週刊誌のネタ的になるが、離婚し違う男性と生活していたとしたら、子どもの居場所が亡くなることもあり得ない話ではない。

個人の事情があり、それ以上踏み込んで考えることは控えるべきだと思うが、事件の背景に、子どもの複雑な家庭環境が気持ちの不安定さを生み、深夜の徘徊につながり、今回のような事件に遭遇する原因があったとしたら・・・。

そこには、経済格差よる貧困という要因が潜んでいることは想像に難くないが、長くなりそうなので、改めて・・・。(田舎親父)

2015年8月26日 (水)

メダル・メダルと騒ぐ前に・・・

北京で世界陸上選手権が行われているようだが、放映権を持つのが民放一局らしく、さほどの騒がれないように思える。私はテレビ番組表を見る習慣がないので、民放でライブ中継をしていることを知らなかったが、23日の夜、チャンネルを回していてハタと気づいたという次第・・・。

その時目にした、男子100mの準決勝は面白かった。9秒台の選手が集まっているのもビックリだが、あのボルトという世界最速と言われている選手がスタ-トしてすぐにバランスを崩した瞬間息を飲む。しかし、そこからの走りがなんとも凄く、たちまち他の選手を追い抜き、私には数人が同時としか思えないような重なりでゴ-ルに飛び込む。

これは2時間後に行われる決勝も見なければという気持ちになり、固唾をのんでその瞬間を待つ。結果は、またまたギリギリであるが、ボルトの勝利となり、例のお得意のポ-ズを目にする。

ボルトの優勝タイムが9秒79。ふと、誰が日本人選手として10秒を切るかという話題が盛り上がったことを思い出す。去年?それとも一昨年になるのかも知れないが、京都の高校生だった桐生選手がその第一人者だと騒がれ、実際に、追い風参考記録だが10秒を切ったという報道もあったように思えるが、正式に9秒台は達成していない。むしろ大学生になってからは伸び悩んでいるらしい。

100mの決勝を見たからだろうが、世界陸上選手権の最初の決勝種目となった男子マラソンでは日本人選手が全く振るわなかったこととの記事を読み直す。一時、我が国の男子マラソン(今では女子マラソンも同じようだが)は得意種目だったが、それは遠い昔。再び見ることができない夢に成り果てているらしい・・・。

現在の世界記録は2時間4分台(3分台だったか?)ではなかっただろうか。42キロメ-トル超を2時間と数分で走りきるには、時速にして約20キロとなると、これは自転車とほぼ同じスピ-ド・・・。

常識では考えられないが、世界の水準はそこまできているのに、日本人選手が10分を切るレ-スはめったにお目にかかれない。国内マラソンレ-スは今では外国人が優勝するのが当り前で、『日本人一位』という変な言葉が生まれているが、優勝タイムが10分前後のレ-スですら、全体で3位に入ることすら難しいのが現実のようだ。

これでは世界と太刀打ちできるはずがないが、陸連という組織は昔の夢が忘れられないらしく、強化選手が合宿だと言葉だけは勇ましい。

今回のレ-スでは、さすがの陸連のマラソン部長も『世界と大きな力の差を感じた。若くて勢いある選手、暑さに強い選手に期待する・・・』と、現在の選手にダメ出し、若手に希望を持っているらしい口ぶりだが、この言葉は、レ-スの度に口にしていたはず。聞いていて何の展望も見いだせない。
 しかし、少し冷静にマラソンという競技を考えてみると、零下の真冬でも、あるいは気温が30℃を超える猛暑でも、雨が降ろう風が強かろうが記録として残るのは数値だけである。今回世界選手権の開催地の北京は連日30℃を軽く超える猛暑の連続だったという。

100m競技では、その間わずか10秒。これに対してマラソンは2時間以上も最高のコンデションに持っていかねば優勝などできるはずがない。今回、エリトリアというアフタカの小さな国の19歳のギルメイという青年。しかし、そのタイムが2時間12分28秒というからごく平凡な記録である。

暑さが、他の有力選手を苦しめる中、この青年は、『この暑さと日照りは、普段と変わらない』と涼しい顔でインタビュ-に応じていたという。ハングリ-精神に加えて普段から暑さになれているのだから、勝つのは当然と納得する。今後も、真夏のマラソンレ-スではアフリカ勢の独断場は続くことは間違いなさそうだ。しかも無名の若い選手が続々と現れそうな予感がする。

それでも日本陸連はマラソンでのメダルの夢は消えてないらしい。マスコミも一緒になって『出て来い、ニューヒーロー』とぶちまけているが、来年のオリンピックはリオデジャネイロは赤道直下でしかも7月末・・・。

20年の東京は、緯度は高いが開催時期がリオと同じ7月下旬から8月の、連日35℃を越す酷暑の中のレ-スになる事は間違いなさそうとなると、メダルどころか8位入賞もおぼつかないのでは・・・。

この際、男子マラソンに限らず、『メダル』とか『入賞』という言葉を封印して、オリンピックの『参加することに意義がある』という原点に戻りたいものだが、商業主義が台頭したイベントになっていてはそれも難しそうだ。

ならば、世論として、『オリンピックって本当に必要?・・・』と言う議論がはじまって良いのではないだろうか思う昨今である・・・。(田舎親父)

2015年8月25日 (火)

介護で離職とは悲しい話・・・

 私がこの地に移り住んではや40年弱。何度もつぶやいているが、ここは横浜の片田舎の旧東電不動産が手がけた比較的大規模の住宅団地。たまたま、売り出し日時よりほんの少し早く知ったので、売り出し日以前に徹夜覚悟で並ぼうと勧められたのが発端である。

幸、徹夜することなく整理券の発行となり、その回の40区画で27番という整理番号では、普通では先に求められるはずの南向きの角地が、地形がいびつなために誰もが敬遠したらしい事で売れ残っていたという偶然のおかげである。

そこに、知り合いの大工の好意もあって、超夏向きの安物の家を建てて住み続けているが、最寄りの駅まで徒歩30分、バス停までも10分以上かかる不便はあるものの、歩いて30秒で深い森の入り口という自然に恵まれた環境なので、『横浜の片田舎』という表現で、いたく気に入っている。

当時は、同じような立場の同年代の人たちが多かったのだが、時が移ると共に、買い物にも不自由な不便さが厳しい歳になると、一人抜け二人抜けして、すっかり代替わりしてしまった感がある。残った男性たちとも時にゴミ出しで出会い挨拶を交わす程度になってしまうほど・・・。そんな時、自分の歳を考える最近である。

老人施設に入居した人も少なくないが、それもかなわず、家屋をたたんで子どもと同居すると引っ越すという話も良く耳にする。数年前は、多くの私と同年代の人たちは、自分の親を介護するために、当地に呼び寄せていたという話も日常的だったのに、今は反対の立場。年月の過ぎた事を実感している。

私は、幸?というとお叱りがきそうだが、親を早く失くしたので介護とは無縁であるが、最近は毎日のように、『介護』という言葉をメディアで目にし、実際に友人知人の中でも、親の介護に追われているという話が日常茶飯事・・・。中には、親の介護のために現在の仕事をやめたという話も稀ではない。

本来は、介護に苦しまないために『介護保険』という制度ができたと理解しているつもりであるが、ここまで老人が溢れることは分かっていたはずとなると、そんな事はタテマエだけだったことがよくわかる。

今日もまた変な書き出しになったが、先日、厚労省の『有識者研究会』(今流行の有識者会議の一つだろうが)という組織が、『介護休業法』の見直しを求める報告書をまとめたという記事に目が留まる。

 介護休業制度は導入から16年も過ぎるという。それなのに、この制度を利用した人の割合は、わずか3.2%にとどまるのだそうだが、私もこんな制度がある事を知らなかったように、果たして国民に広く周知されているだろうかと考えると、恐らく答えはNOではないだろうか。

 もっとも、現在のこの制度は、介護が必要な家族一人につき、最長93日間取得でき、休業中は雇用保険から賃金の40%が給付されるとはいえ、事前に申請した日数で、原則一回しか取れないとなると、例え知っていたとしても簡単に取れるわけはない。

 産前産後や育児休業なら、特別の事情がない限り、自分で期限を計算できるが、介護となると、それがいつまで続くのか全く読めないのが普通である。当然、一度しか認められていない介護休暇を使うとなると、相当の覚悟が必要になる事は、介護を経験しない私でも十分に理解できること・・・。

 記事によると、この有識者委員会は、例えば、認知症になった親がその後、寝たきりになり再び休むことが必要になっても、取得することができないという現在の制度を、複数回に分けて取れるようにすることを求めているのだそうだ。

 当然だろう。そして、休業を取る際の家族の要介護状態も、『重度』と規定されている現在の基準を緩和する必要性にも言及しているという。その他、介護休業を取るときの対象となる家族は現在、祖父母や兄弟姉妹の場合、同居であることが条件となっていることに対しても、核家族化が進み、同居していない親族の介護をするケースも増えていることから、同居していない祖父母や兄弟姉妹も対象に加えるべきだと提言している。

 政府のご都合ばかりの有識者会議が大流行の中、これは正論である。しかし、あまりにも正論過ぎて、厚労省の役人たちがこれら全てを『ハイ わかりました』というはずがなく、むしろ、骨抜きにするのが目に見える。

 現実を見つめると、高齢化が進み2025年には、介護サービスの利用者数は4割近く増えると言われているとなると、この提言をそのまま受けたら、公務員ならいらしらず、民間企業が今まで通りの経営が可能だとはとても思えない。

 現在でも、介護を理由に退職する人は、働き盛りの40代、50代を中心に年間10万人近くに上るという。その8割が女性だとなると、女性が輝く時代というキャッチコピ-を全面に打ち出している現政府として、果たしてこの有識者委員会の提言をどう受け止めるのか、ある意味楽しみである。

 介護は育児と異なり、先が見えないことは自明のこと。介護休暇の日数や分割するのも必要かも知れないが、それ以前に(介護の期間中の給付は別に議論するとして)介護が終わったら確実に復職できるという制度の導入が先だと思うのだが・・・。(田舎親父)

2015年8月24日 (月)

しばらく江戸を離れろ・・・

常識では考えられないような発言を続けているムトウという衆院議員が、詐欺そのものだろう未公開株をめぐる金銭トラブルが表面化したために、自民党に離党届けを出し、即刻受理されたというニュ-スが流れたのは先週のはじめ。

詳細を知ろうとも思わないが、未公開を買えば儲け間違いなしというウソの話をでっち上げて知人から多額のカネを集めたというから、明らかに詐欺である。一般人なら即逮捕となっても奇怪しくないのだろうが、国会の会期中という事でその気配はなし。普通の神経なら、議員辞職は当然だろうが、この男には俺は議員だから捜査は及ばないという変な自負心があるのかも知れない。

この男がどの派閥に属して、だれが親分なのか知らないし知りたくないが、アホベ政権の支持率が急落していることから、官邸あたりから派閥の親分か幹部に対して、『首をとれとは言わないが、しばらく鳴りを潜めろ』という命令でもあったのだろう。

博徒や盗賊がドジを踏み、奉行所や八丁堀の同心から目をつけられたとなると、組の親分から『しばらく旅に出ろ。これがその路銀だ・・・』というのは時代小説ではお馴染みの場面設定。しばらく、姿を消していれば世間のほとぼりも覚めて、江戸へ舞い戻るという筋書きである。

間違いなくこの男は、現時点で議員の職を失ったら、次の選挙で有権者がまさかもう一度投票するとは思えないので、二度と復職は不可能だと知っているので議員の職にしがみついているのだろう。派閥の親分(自民党)としても、こんな事で体制がガタガタさせたくない思いがあり、うっかりと辞任させることもできないので、次善の策で離党といわしめたというところ。

どうやら現在の自民党は、俺らが全てという体質で凝り固まって、本来ならば国民のための政治をするところを、俺たちのためだけの政治に・・・。俺たちが正義であり、国民はついてくるという驕りそのものだとしか表現のしようがない。

マスコミにも圧力がかかっているらしく、離党を受理したということで、それ以上の追求の手が緩んでいるのも気になるところ。

こんな事が、まかり通っては、民主国家だなんて胸を張って言えるはずがない。しかし、現政権は本気で『しばらくすると、ほとぼりがさめる?・・・』と考えているようだから、博徒や盗賊と同じ心理になっていることは間違いなさそうだ。それに気づかないほど内部が腐敗していることも・・・。困った話である。

少なくとも、二度とこの男が国会議員に選ばれないと信じたいが、これは滋賀県の有権者が決める事。参院の比例代表という声が聞こえてきそうだが、現政権が、まさかそこまで国民を嘗め切るとは思いたくない。

今日は短く皮肉だけ・・・。(田舎親父)

2015年8月22日 (土)

飛び込み事故がなくならない?・・・

 いよいよ夏休みが残り少なくなり、宿題の追い込みに親子で捩り鉢巻・・・という家庭も多いのではないだろうか。もっとも現在は学校の宿題は、ネットにおまかせし、塾通いが主力という家庭も多いという。

 最近はネットどころか、先日の新聞の『夏休みの宿題代行業』が流行っているとの記事に、なんとも変な時代になっているものと改めてガッカリする。もっとも、代行屋の作品を見抜けない教師も情けない限りだが・・・。

 このところ、横浜の片田舎では子どもの数は増えているはずなのに、子ども同士が遊んでいる姿を目にする機会が少なくなっていることに戸惑う日々であるが、午前中は塾、午後は部活、そして夜はまた塾というのが、最近の子どもたちの生活パタ-ンだと聞くと、なるほどと納得せざるを得ないが、これで良いはずがないのに、変えようとする動きがないのも気持ちが悪い話。 

ところで、少し時季外れな話題になるが、大分以前に、飛び込み事故特集という記事があったことから、飛び込み事故が未だに存在していることを知り、その事を話題に・・・。

私の現職時代はプ-ル指導の時期になると、全国各地の小中学校から(数年に一度程度だったが)飛び込み事故が報じられていたことを思い出す。最近はその種の事故報道は聞かなくなったので、もう過去のこととしてすっかり忘れていた。

東京都の小学校の場合は、飛び込み事故が続いた当時、それまで25cm程度あった飛び込み台を教育委員会の指示で全て撤去されたことを思い出すが、それ以来事故は起きていないはずだと思っていた。しかし記事によると、中学校では時に起きているようだ。そして、小学校でもごく稀に・・・。

中学校ではタイムを競うことは当然だろう。指導要領から『飛び込み指導』という言葉は消えたので、全国的に全ての学校の飛び込み台は撤去されていると思いたいが、学校間の水泳競技会をやっている地域もあるらしいから、中には、飛び込み台を持ち込んで、指導する教師や授業が残っていることもあり得るかも知れない。

 学校のプ-ルの水深は、小学校の場合は中央部の最深が1.2mで、端は1mだと記憶している。中学校は、1.4mの1.2mぐらいではなかっただろうか。どちらもプ-ルサイドの片方が少し高くなっていることは共通している。そのところに25cmの飛び込み台が固定で設置されているので、下手の飛び込みをしたら、頭を底に強く打ちつけるのは当時としても当然だろうという認識が強く、かなり指導に注意を払ったことを思い出すが・・・。

 こんな事故が起きる場合は、多くは、体重の重い児童や生徒が真下に落ちるように飛び込んだ時に限られると思っていたが、この特集記事で、部活動でも起きているというから、中には突然思いがけない事態が起きることもあり得ることを知る。

それでも私はいまだに、指導者の方にその知識と工夫があれば、こんな飛び込みをさせること自体考えられないと思っているのだが、子どもの心理は複雑で、何とかかっこ良く見せたいと思う気持ちが逸って、ついつい無理な体制で飛び込みをしてしまうこともあるあり得るのかも知れない・・・。

 また、小学校4年生以下の児童なら、飛び込み禁止という指示は教師の強い一言で徹底できるのだが、高学年児童の中には(特に最近はスポ-ツイベントでかっこよく飛び込んでいる選手の姿をテレビが報じるものだから)自分もという気持ちになることも頷ける。

まして中学生ともなると、飛び込みを禁じられていても、ついついかっこよく飛び込もうとする生徒も多いようだ。教師も、あの子に限っては・・・という過剰信頼意識が働くために、その行為そのものを許してしまう気持ちが生まれるのかもしれない。

水泳能力は経済格差をもっともよく表していることは何度も指摘していることだが、実際に、幼児期からスイミングスク-ルに通っている児童が、教師よりはるかに泳力が優れている話はよく耳にする。

反面、プ-ルと言えば市民プ-ルで、背の立つ場所でさえ浮輪でプクプクという児童もクラスには多く、全く能力の違う児童、泳力に自信のない教師がひっくるめて同時に指導しているのが現実である。

ここからはいつもの繰り返しになるが。プ-ルで水泳指導という内容が学校に取り入れられたのは、当時の経済重視という発想で、全ての公立学校にプ-ルを作ったことが背景にあることを忘れてほしくないもの・・・。

プ-ルありきの発想で、専門的に水泳指導技能を身につけていない教員がほとんどである小学校でも体育の中で必須として取り入れたのであるが、経済格差が大きくなるにつれて、教員の指導技術に発展がない学校に見切りをつけて、スイミングスク-ルに通わせる家庭が多くなったことは事実である。文科省がこのことに対して全く触れることがないのは、制度を見直したくない体質なのだろうが・・・。

今更、学校のプ-ルを失くすことはできないが、未だに飛び込み事故があり、不幸を背負いこむ子どもや家族が存在するならば、それを皆無にするためにも、専門の指導員に授業を任せるという方向の議論を始めても良いのではないだろうか・・・。(田舎親父)

2015年8月21日 (金)

生まれる国を間違った?・・・

中国の天津で大爆発事故が起きたという報道があったのは終戦の日の前々日だった。国内の話題が多かったせいだろうが、マスコミも最初のうちはさほど重大事件ではないと思ったらしく、受け止める私も、『凄い爆発が起きたものだ・・・』という程度。

ところが、終戦行事が一段落して、カメラが現場に入ると・・・。凄まじい映像の連続に度肝を抜かれる。数キロ離れた高層マンション群は、全ての窓ガラスはもちろん、外壁まで破壊されているのだから、その爆発の凄さは想像すらできないほど。ここには、700トン以上の青酸化合物と、それに倍加する爆薬にもなる劇薬が貯蔵されていたというから、普通の感覚では理解できない。

死者も100人を超えるという。その大半が消火に駆けつけた消防隊員だというから、放水によってシアン化ガスの爆発と、さらに大規模な爆発が起き、それに隊員が巻き込まれたと考えるのが妥当なところではないだろうか。

先日、日本でも、苫小牧沖で発生したフェリ-火災が発生。水をかけるとさらに火勢が強くなったり、有害物質が拡散されるということから、消火活動ができず数日見守っていただけという事故とダブル。

フェリ-の場合はあらかじめ水が使えないことを消火に当たる隊員たちは周知していたので惨事は広がらなかったのだろうが、今回の爆発事故の場合は、消防隊員はそんな情報など全く知らされなかったので、普通の火災と判断し、当り前のごとく消火作業にあたったに違いない。その意味では、明らかな人災と言っても過言ではないだろう。

付近の数千人とも言われている住民は焼け出された上に、有毒物質の拡散に怯えていると報じられている。最近は、中国でも自分でマンションを購入するのが当り前になっているようなので、住民の多くは多額の住宅ロ-ンを抱えているというから、単に化学物質の毒性に怯えているだけではなく、ロ-ンという魔物を抱えているだけに暴動に発展し兼ねないほど怒り狂っていることは想像に難くない。

事故や事件にはあまり動きが速くない当局も、日を追うごとに事故の凄まじさが明らかになり、事故の重大性を認識したらしく、扱いを間違えれば体制まで揺るがせるのではないかという危機感の現れだろうが、首相が現地に入り陣頭に立っているとのことである。

 マスコミ報道によれば、首相は、天津市の行政トップに対して、空気、水、土壌などの汚染状況について、透明性をもって迅速に住民らに情報公開するよう命じたとのこと。さらに『報告漏れやごまかしは許さない』と厳命したという。

 これもマスコミ報道であるが、天津市は断続的に記者会見を開いてきたそうだが、その実態は、被害者の救出や消火活動に全力を挙げていると強調するばかりで、周辺住民の不安を解消するものではなかったとのこと。

 住民が最も知りたい事故原因や有毒物質の拡散状況などは明らかにされず、安全部門の責任者である副市長が会見に姿を見せたのは事故から6日目というから、中国らしいといえば叱られそうだが、あり得るだろうと思わせる。

 700トン超のシアン化ナトリウムとそれに倍する危険薬剤の存在も副市長の会見で判明したというから、住民の怒りと怯えは限界の達しているに違いない。

 安全対策を徹底して悲惨な事故を繰り返さないのは当然であるが、これまでの事故や事件からは、中国の為政者たちにはその意識が薄いようだ。今回の事故対応でも、全てが後手に周り、住民や消防隊員の命は二の次三の次にされているようだ。もっとも、福島原発事故当時のことを思い出すと、我が国も似たようなものだと言うしかないが・・・。

[少し話が横道にそれるが)原発事故では、当時の民主党政権はうろたえ慌て、情報を秘匿するどころか、誤った情報を発信して、むしろ危険な地域に避難誘導したことを忘れてはならない。そして、政府の広報を一手に引き受けた、当時の官房長官が『命に別条はない・・・』とシラッとした顔つきで繰り返していたことも・・・。

その官房長官が、こともあろうに、現在、民主党の幹事長でございとふんぞりかえっているのだから、民衆党への信頼が高まらないのは当然だろう。

このことは別にして、今回の事故において、中国当局はネットで『デマを拡散させた』として新聞社を処分するなど、当局にとって都合の悪い情報の統制にばかり力を入れているというから、事実であれば本末転倒であり、被害者にとっては生まれてくる国を間違ったという意識も強くするのではないだろうか。

 中国の首相は『徹底した情報公開』と言うが、この国においては、過去の事件事故から想像するに、事故原因すら明らかにされず、いつの間にか終焉という構図になる確率も高そうだ。

しかし、天津港は貨物取扱量が世界4位の物流拠点であり、その港が閉鎖されていることや、中国は人民元の切り下げで景気テコ入れをしたばかりというタイミングから、世界から注目されているので、今までどおりの手法では切り抜けられないのでは・・・。

 現場付近にはトヨタ自動車をはじめ多くの日系企業も進出しており、社員が負傷したり製品の車が焼け焦げる被害が出た会社もあるというから、我が国の対応も世界の注目の的になっているはず。中国当局と緊密な連携が必要だろうが、現在の両国間の関係からは、正しい情報のやりとりが進むとは思えない。

さらに、有害物質が拡散し、我が国にも影響し始めているというから、自民党政権には『徹底した情報の開示』を望みたいが、こちらもあまり期待できそうもないとなると、我が国でも『生まれる国を間違った・・・』という声が高まることもありそうだ。(田舎親父)

2015年8月20日 (木)

こんなものを出す意味は?・・・

戦後70年になる区切りになる今年に、首相談話を出すことをマスコミが賑やかに報じるようになったのは今年の初めごろではなかっただろうか。そのことに対して、首相はことあるごとに、得意気に『過去の談話と同じでは出す意味がない』と発言していたことが記憶に残っている。

 謝罪などはこれまで十分してきたので、言葉として入れる必要がないとも明言していたが、『戦争法案』を無茶苦茶な論理で正当化する段あたりから、少し雰囲気が変わってきたらしく、法案に対して世論の疑問が高まるにつれて、閣議決定をするという話が、個人の立場で発表するなどと方針がブレ出した。

 私には想像もできないが、各方面からさまざまな圧力や応援が入り乱れたのだろうが、結局のところ、村山談話の重要なキ-ワ-ドだとされる『侵略や植民地支配』『反省とおわび』という言葉を取り入れるという方針になり、閣議決定という形で、14日に『アベ談話』なるものが、記者会見で披露されたのだが、翌日の新聞に掲載されたその全文を斜めに読んで、何だこれは、あれほど大騒ぎをしていながら、問題になりそうな部分は村山談話の一部をコピペしただけでは・・・というのが私の正直な印象である。

そもそも、何故『談話なのか・・・』ということがうまく頭に入っていないのだが、それは別にしても、村山談話が評価されているのは、かつての日本の行為を侵略だと認め、植民地支配で迷惑をかけたことの反省とアジアの諸国民へのおわびを、率直に語ったことだと理解している。村山談話は戦後日本の政府の歴史認識として定着してきたはず。だから、あの靖国大好きなコイズミ首相ですら、村山談話を引き継いだのでは・・・。

 今回のアベ談話には、確かに、『侵略』『植民地』『反省』『とおわび』という4つのキ-ワ-ドは入っているが、どう好意的に読んでも、ムリムリ押し込んだというしかないほど曖昧な文章になっている。

 反省やお詫びは、歴代内閣が表明したから継続するが、『自分』がお詫びをするとは明言せず、『日本』が,アジア諸国を侵略し、植民地として支配したという主語はぼかされている上、誰に対してお詫びするのかがわからない文章になっていることは明らかである。

 ぼかしたのは、侵略ではなく、植民地支配でもない、日本を中心にした『大東亜圏』の建設であり、むしろ欧米の植民地支配を断ち切った行為だという自らや取り巻き連やオトモダチ集団の歴史観をフトコロに忍ばしているからだろう。

 ところが、翌15日、終戦70年の『政府主催の全国戦没者追悼式』で、天皇が読み上げた追悼文にある『さきの大戦に対する深い反省・・・』という言葉に、なんとまあ率直にお詫びの言葉を言われたものだと驚くと同時に、気持ち的にすっきりとする。

憲法にうたわれている通り、象徴とはいえ、『天皇は日本国の元首』であり、その言葉は重い。ここにきて、今まで口にしていない『深い反省』という言葉は、天皇の戦争に対する自らの責任の重さを、何としても言葉で言い表す必要があると判断されたものではないだろうか。

この言葉が、アホベ談話の翌日に、戦後始めてだ出されたことは重要である。天皇に直接その真意など聞けるはずはないが、首相や取り巻き連中が打ち出している右翼的な政策に対する、『明確に反対する気持ち』をこの言葉に託されているように思えるが・・・。

天皇が『深い反省』と明言されたのは、侵略して支配した近隣の国々や人々に対して,深い『お詫びの念』が含まれているのは明らかであるが、これまで使われていなかった言葉は、前日のアベ談話の中にある、『私たちの子や孫に、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません』との文面を受けて、あえて踏み込まれたものだと推測している。

 確かに、現代の国民感情としては『もう十分侘びてきたから』『中国や韓国の発展のために多大な支援を行ってきたので』という意見が広がっていることは事実だろう。言葉でお詫びなどいう必要ないといういう人も多いと思うが、政府として繰り返して謝罪しているのにもかかわらず、その政府の閣僚たちのお詫びとは裏腹な言動を繰り返しているのが現実。このようなことがなくならない限り、言葉でのお詫びは絶対に欠かせないところだろう。

英霊に感謝するというきれいごとで、大東亜繁栄圏の象徴であり、A旧戦犯合祀する靖国神社に、毎年8月15日はもとより、春と秋の大祭時に閣僚たち始め、議員がゾロゾロと参拝するのもその一つ。

 靖国神社に代わって、英霊に向かって誰もが手を合わせる施設があり、そこに参拝するシステムを作ると閣議決定すれば、わざわざ有識者会議を招集してまで、曖昧な『談話』を作る必要性などなくなるはず。

それでも靖国に参拝する輩もいるかもしれないが、そんな人物は、靖国に代わって戦没者慰霊施設ができたら、世論によって遠からず駆逐されると思いたい。(田舎親父)

2015年8月19日 (水)

教員の忙しさを述べる社説・・・

8月11日は川内原発再稼働の日であった。一昨日の繰り返しになるが、誰が責任を持つか・・・という命題に、いつものことながら責任をとらない・とれないのが明らかなのに原発が動き始めたことに、どうやら、もう一度大事故が起きなければ、再稼働を画策している輩は利権を捨てられないのだろうと覚めた気持ちで川内原発の再稼働のニュ-スを聞く。

その日、各紙の1面も川内原発再稼働の記事が目立ち、社説もこのことに関する話題が多かった中、いつもは批判の先頭に立つ朝日新聞が『教員の忙しさ 学校の役割考えよう』と、アレッと思わせる見出しが記憶に残る。

『子どもと向き合うことだ』という何の変哲もない文言ではじまる文章である。子どもと向き合う時間が失われている現実は変えなければならないという意見は全くその通りだが、このことを大きくとりあげなかったのもマスコミでは・・・とちょっぴり皮肉な見方をしたくなる。

国際調査で、我が国の教員がもっとも時間に負われているという結果が出たことを受けて、文科省が慌てて、全国の公立小中学校の教職員が負担を感じている仕事について調査したのだそうだ。

 その結果、教員の最も多くの割合が、負担を訴えた仕事は、『国や教育委員会からの調査への対応』というが、こんなことは以前から何度も繰り返しつぶやいてきたこと。わざわざ大げさな調査をしてわかったというのもなんとも情けない限り。

それはともかく、調査の負担感が調査で明らかになったというのでは、まさに質の悪いマンガを読むような話で、今回も、『何でこんな下らない調査に付き合わせられなければならないのか・・・』とイライラをつのらせている教員の姿が見える感じがする。

職を離れて10年以上過ぎるので、文科省の調査の項目など記憶が薄れて思い出すことが困難になっているが、ほとんどが(私に言わせれば)下らない、明日の子どもたちへの教育には『決して役立たない』ことばかりだったことは明言できる。

今だから言うが(公言してはばからなかったが)、私がやっていたことは、調査の題名を見た瞬間に、これは数値を下げるべきなのか、それとも上げるべきなのかを判断して、前年度に調査結果と全く同じにするとミエミエなので、そのあたりは適当に(子どもたちからの聞き取りなど)数値を0.5~7%程度に動かして報告することに決めていたものである。

『よくそんなことができたねと』と言う人も多いが、文科省が教委を通して命じる調査など、たかが知れていること。教委そのものが分析などするはずがなく、そのまま文科省に提出知っていたので誤魔化すのは簡単。文科省の役人も、数値合わがその仕事なのだから、ある意味私にとって朝飯前だったことを思い出す。このことで校長や教頭から文句を言われた記憶はない。

校長職になってもこの態度変わらず、『あまり真剣に考える必要はないよ』と言い、『私の若い頃は、前年度にブラスマイナス数%の数値で報告したものだ・・・』とうそぶいてしたことも懐かしい。 

ところが、いじめ問題が社会的に騒がれるようになり、調査結果が、あたかも真実のようにマスコミが報じ、まして、いじめが原因で自殺という騒ぎになれば、現場ではそんなことが通じなくなったようだ。校長は、時間をかけて丁寧に調査するように命じるものだから、それ以後の教員の忙しさは想像に絶するものがある。

話を戻すが、教委への回答が、いじめの月例報告など年間500件に上る学校もあることが、文科省の調査で明らかになったというから、子どもたちとじっくり向き合う時間などあるはずがない。というより、文科省が教員の本来の仕事を奪っていると言っても過言ではないだろう。

 社説にある、『保護者や地域からの要望や苦情への対応』も、小中でそれぞれ7割を超えるというの納得できる。

 今回の調査の結果を受けて、会計や成績処理をデジタルで行い、教員と事務職員の分業を進め、苦情処理に弁護士の力を借りるなど、改善のガイドラインをまとめたのだそうだが、ガイドラインの効果を調査することは確実となると、調査項目がまた増えることになりそうだ。文科省は『調査も見直す』と言っているらしいが、どう見直すのか皮肉なしに楽しみであるが・・・。

 教員を忙しさから解放するには、まず数を増やすことだろうが、防衛関係には底なしに予算をつけるのに、財務省は財政難と少子化のなか、教員数をもっと減らすべきだと主張しているのも困った話。国会議員の歳費や無数に招集する有識者会議など無駄を省く方が先だと思うのだが・・・。

 今回の文科省の調査では、国際調査で日本の教員の時間が他国より目立って長かったのが部活動だったにもかかわらず、中学校の教員で部活動に負担感を抱いていたのは半数を下回る低さだったというのは注目に値する。このことは、教員はむしろ生徒に必要だと考えることには積極的にかかわりたいという現れだろう。

 社説は結論として『根本的に考え直す必要があるのは、学校や教員の役割だ』と述べているが、その通り。子どもに学力をつけ、生活の指導をし、放課後の居場所も提供し、地域の防災の拠点まで・・・もが学校の守備範囲。その上、明らかに家庭の躾の範疇である食事マナ-となると学校がパンクするのは当然だろう。

 どこまでを家庭が責任を持ち、どこからを学校が担い、何を住民で支えるかは、地域や学校ごとに事情が異なるはず。文科省-教委という縦の系列を強化するのではなく学校に権限を与えて、学校の判断で解決できるような制度の確立が必要である。(田舎親父)

2015年8月18日 (火)

不可解なアメリカ軍ヘリ墜落事故・・・

 昨日も少し取り上げたが、13日に起きた沖縄で起きたアメリカ軍のヘリコプタ-墜落事故は、どう考えても不可解なことが多過ぎる。

 まさか、原発再稼働を国民から一日も早く忘れさせるためにアメリカ軍の大型ヘリコプタ-を墜落させるはずがないと分かっていても、あまりにもタイミングが良過ぎるので、変な勘繰りをしたくなる・・・。

その一報は、ラジオから聞こえてきた。すぐにテレビをつけて映像で確認するが、何故こんな船に・・・というのが最初の疑問。アナウンサ-の声がなければ、黒い物体も、折れた機体も見落としてしまうほどの大きな違和感を覚える。死者はなしとのことだが、怪我の程度はわからない負傷者が7人いるもようという声で、事故の大きさを知る。しかし何とも不可解な映像である。

続報で、けが人の中に二人の自衛隊員がいることを知り、またまた何故・・・という素朴な疑問と、(予想していたことではあるが)すでに自衛隊がアメリカ軍と行動を共にしていることを知り、政府が何故あれほどと思う強引に衆院通過させた『戦争法案』の背景をかいま見たような気になり、背筋が寒くなる。

翌日の新聞情報では、この事故はアメリカ陸軍トリイ通信施設(沖縄県読谷村)の特殊部隊『グリーン・ベレー』などが行った訓練中に起きたことを知る。武装勢力に乗っ取られた船にヘリで近づき、特殊部隊員がロープなどで降下、船を制圧するとの想定だったということで、あの貨物船甲板のコンテナ配置などをなるほどと納得できる。

ヘリは低空飛行中に船の甲板上のクレーンなどに接触して墜落したとのことだが、負傷した二人の自衛隊員が、陸上自衛隊の『特殊作戦群(特戦群)』に所属している2曹だとのことが明らかになる。

防衛省は『研修の一環として搭乗していた』と説明しているようだが、将校ではなく実践部隊の下士官であることから、実際には訓練に参加していたことは疑いのないところだろう。それ以前に、実際に『研修?』に参加していた自衛隊員が15人存在していたというから、このヘリに乗っていた自衛隊員がこの二人だけだったということすら分かっていないのも気になるところ・・・。

アメリカ軍の60歳代だろう参謀総長は記者会見で『事故は日常的に起こること・・・』とサラリと発言している。軍隊では命を落とすことなど当り前のことなのだろうが、高齢の司令官が若い兵士の命を手玉にとっていることに改めて怒りを感じる。もちろん、詳しいことは何も語っていない。

 自衛隊の特戦群はテロ・ゲリラ対処などを想定した部隊として04年に発足。07年には防衛相直轄の中央即応集団の傘下部隊となったということも始めて知る。隊員のほとんどが空挺(パラシュート降下)とレンジャーの資格を保有している精鋭部隊だということだけで、その他の情報は全て秘密事項になっているため、こんな部隊が存在すこと自体一般には全く知らされていない。

 偶然の一致だろうが、事故の発生時には、沖縄県知事は政府の官房長官と会談していたらしい。その席でオナガ知事が日米地位協定の改定を訴えたのは当然であろう。幕末に結ばれた日米通称条約は、明らかな不平等条約であったため、これが元で血なまぐさい事件が連続したことは歴史で学んだことだが、この不平等条約解消に長い年月を要したことも歴史が証明している。

 ところが、現政権は地位協定という不合理な押しつけられた一方的な約束ごとの解消にはおよび腰で、本気で改定する気持ちがあるのかさえ疑わしい。むしろ『ない』と断言しても差し支えない。普天間基地の辺野古への移転は端的な例で、全てをアメリカさまのご命令で動く始末には、怒りを通り越して情けない限り・・・。

 今回の事故も、新しい情報が出るのか疑わしく、恐らく、(今まで通り)墜落原因も曖昧になるのも間違いだろう。オナガ知事の『日米地位協定で、日本が何も口を挟めない状況がある』と指摘した上で、『こういう中で、沖縄の基地問題を解決できるのかというと、大変厚い壁がある』と、強く地位協定の改善を求めたという気持ちがよく分かる。 

 防衛庁の幹部でも、『特殊部隊の訓練になると詳しいことは、身内でさえまったく分からないのが実情だ』と発言しているというから、選ばれた自衛隊員がアメリカ軍の一員として訓練に参加していることは事実であり、そのことは極秘事項なのだろう。

今回の事故は、ごく一部の特殊部隊員であるが、ごく当り前の自衛隊員が命令一本で海外の戦闘地域に派遣されることを示しているというと大げさだろうか。(田舎親父)

2015年8月17日 (月)

無責任体制で再稼働・・・

一週間ぶりに親指キ-ボ-ドの前に座って、なにについてつぶやこうかと悩む。この一週間は、日航事故30年や終戦の日などの話題が重なり、さてどれを取り上げようかと戸惑うが、これから社会に対する影響としては、やはり原発の再稼働が一番大きいのではと思い、そのことについて・・・。

国民の半数以上が、再稼働反対を表明している中、川内原発が再稼働し、すでに原発で作られた電気が九州各県に配られている状態になっている。政府は、世界一厳しい基準を作ったので事故は起きるはずがないと言うが、政府の御用機関である原子力規制委員会は、それでも事故は起きないとは断言できないと言う。

互いに、責任を始めから相手に押しつけて、自分には責任ないと言いたいのだろうが、何とも情けない話である。さらに、政府は最終的に再稼働するかどうかは事業者の責任だとは、聞いていてヘドが出るほど気持ちが悪くなる。

電力会社は、国が原発はベ-スロ-ド電源であると宣言し、規制委が基準に合格した原発は再稼働するという方針を掲げていることをよりどころとして、今回、世論の反対など蚊にされた程度としか認識なし。金儲け第一という発想で再稼働させたのだろうが、三つ巴の無責任体制に、福島の教訓はこの輩が何も学んでいないことだけがはっきりと浮かび上がる。

 3.11の教訓は、『どんなに厳しい対策をとっても原発事故は起きうる』ということであり、さらに『原発事故が人、環境、社会に与える被害は質も範囲も他の事故と大きく異なる』ということであったはず。

加えて、日本は世界でも1、2を争うほどの地震・火山国であり、川内原発の周りは過去に大爆発を繰り返し起こしている阿蘇・霧島・桜島という大火山に囲まれた地域であことを考えると、幸にも、過去30年大爆発がななかったに過ぎないと考えるべきだと思うのだが・・・。

3・11での教訓はそれだけではなく、それまではあまり真剣に討議されてこなかった『核のゴミ』の処分問題がある。福島原発事故で、原発は持続可能なエネルギーでないことを国民が等しく知ることになり、だからこそ、国民の大半ができるだけ早く原発をやめようと思っていることは明白である。

現政権は、一応形上は『できるだけ原発に頼らない』と明文化しながらも、原発をゼロにすれば経済的、社会的リスクが高まるので、一定の条件を満たした上で最小限の稼働を認めざるをえないと苦しい言い訳をしているが、今回の再稼働は、電力が不足していることは全くないのだから、明らかなウソ以外何ものでもない。

 しかも、事故が起きた場合に住民への被害を最小限にとどめる、という絶対条件もどこかに吹っ飛び、自治体にまる投げしているが、逃げるにも道が1本しかないのでは、避難計画など作れるはずがない。

 住民の安全確保の計画がないまま再稼働を急ぐ姿勢は、『事故は絶対に起きない』と高をくくってきた、かつての『安全神話』そのもの。このまま時が過ぎれば、危険意識は薄れるに違いないという発想である。

 再稼働を『11日』にしたもの、政府の明確な意図を感じる。わざわざ、福島原発の月命日にしたのは、翌日は日航事故から30年の日を迎え、すぐに終戦の日を迎える上に、何で今更必要なのと思われる『首相談話』を、わざわざ大げさに取り扱わさせていたのも符牒が一致する。 

実際に、政府の思いはたった一週間であるに過ぎないのに、現実になりつつある。新聞各紙は、11日は『川内原発再稼働問題』を大きく取り扱っていたが、12日には社説で数社が取り上げているものの、日航事故関係記事からは明らかに見劣りする。

13日になると、首相談話が俄に大きく取り上げられるようになり、さらに沖縄でのアメリカ軍ヘリコプタ-墜落事故が重なる。15日の終戦の日となると、70年という節目の年になることから、まるでイベント扱いのように、戦後を振り返るという記事に埋めつくされて、原発の文字はほとんど見当たらない。

 確実に、日を追うごとに原発関係の記事が少なくなっていることから、政府はマスコミという怪物を使って、国民から強制的に『原発』という言葉を奪っているように感じてならない。

私のつぶやきなど、何の役にも立たないことは十分知りつつも、政府の思うままに、原発を忘れては、まさに人間失格ではという気持ちを強くする。そのためにも、これからも意図的・定期的につぶやこうと決めている今日である。(田舎親父)

2015年8月10日 (月)

考えさせられることが多過ぎる・・・

 昨夜、所用があって帰宅して、食事をしながら何げなくテレビのニュ-スを見ていたら、『北岳で男女二人が転落死』というアンウンサ-の声に敏感に反応する。

 詳しい状況はわからないが、テレビニュ-スによれば、互いにザイルで結び合っていたそうだ。というから、どちらかが足を滑らしたので、共に転落したらしいが、普通に考えると、転落の危険のある場所では、一人は確実にハ-ケンを打ち込んで例え相棒が転落しても確保できる姿勢をとるはずなのに・・・という疑問がよぎる。

 北岳バットレスという岩場は、私も50年ほど前に一度だけ登ったことがあるが、ほぼ垂直に500mほどの切り立った岩場が広がり、当時でも人気があり大学の山岳部員の腕試しの場としても人気があった。最近は、さらに多くの人に知られるようになり、かなりの人が押し寄せ手いると聞いている。

 このニュ-スを耳にした時、最近の中高年登山ブ-ムにあやかって、経験の少ない『中年の男女』が、ザイルパ-トナ-として本格的な岩登り挑戦したのではと想像していたが、兵庫県の57歳の男性と60歳の女性と聞いて一瞬わが耳を疑う。

そういえば、つい最近、北アルプス・穂高の『屏風岩』でも、ザイルに宙ずりになって30時間ぶりに救出されたというニュ-スがあったが、この登山者も64歳の男性だったことを思い出す。記事を読みなすと、相棒は62歳の男性であることも・・・。

 岩登りをするのは個人の趣味であることは十分理解している。好きなことをするのは基本的人権の一つだろうから、私がとやかくつぶやくのは不遜だということも十分分かっているつもりであるが、何となく違和感を覚える。

最近、『熟年登山』という言葉が生まれるほど、中高年の山登りがもてはやされているらしい。岩登りも登山の一つだろうから、元気のある高齢者が挑戦することは誰も文句をつけられないのだろうが、60歳を過ぎた『年寄り?』が、の大学の山岳部員と同じレベルの岩場に挑戦することを無条件に受け入れて良いのだろうかという素朴な疑問はぬぐえない。

 新聞記事によると、2人は関西の登山仲間5人と一緒だったという。後の3人の年代やそのときの行動も気になるところ。亡くなった2人は、それぞれ、15年と8年の岩登りの経験を持つというが熟練していたとはとても思えない。専門家のガイドと一緒に岩登りに挑戦するのなら話はわかるが、岩登りの最中、確保の術もとっていないとなると、どう考えても素人の域を出ていないように思える。

死者を鞭打つつもりはないが、このような人が所属する『同好会』が全国に一体どのぐらいあるのだろう。どんな動機で入会し、仲間として(特にザイルパ-トナ-となると死を共有することになる)行動したのかは考えさせられる。

死亡事故であっても、この種の事故で大マスコミが続報を出すことはまず考えられない。何か特殊な事情があれば、週刊誌が飛びつくのかもしれないが、恐らく今回も、いつの間にか世間から忘れられるのではないだろうか。

本人たちは自己責任だと言って岩登りに挑戦したに違いない。しかし、遭難したら状況が一変し、本人も含めて関係者は救助を急げと騒ぐのではないだろうか。今回は、遺体収容だが、宙刷りになった年寄りを助けなければならない救助隊員の苦労は、二の次・三の次・・・。

『元気な老人』を目指すのは、私もその一人として十二分に理解できる。しかし、だからといって、(自分の技量をどこまで見極めているのか精査せず)簡単に仲間を見つけて、遭難の危険性が高い岩登りに挑戦するのは、ちょっと待ってほしいと言いたくなる。

老人問題は深刻になる一方なのに、解決策など一つもでない。オリンピックも利権アリキの状態で、意義そのものが問い直されている。事故対策もできていない原発の再稼働となると福島の反省はどこにいったのだろう。沖縄を見捨てる政権が、支持率が下がったというが、まだのうのうと続いているのも理解できる話ではない。アメリカの艦船を守るなんて発想はどこから生まれてくるのだろう。

世の中全体が右へ右へ・・・という動きに、何故?という気持ちに陥って気分がふさぎ込むことばかり。

丁度、暦の上ではお盆に入ることもあって、私も人並みにつぶやきを停止して、数日間のお盆休みとシャレ込むことにする。(田舎親父)

2015年8月 8日 (土)

『生物兵器』の研究?・・・

 感染研『BSL4』稼働を容認=地元市長が厚労相に意向―危険な病原体、実験可能にという見出しに目が留まる。

 『危険な病原体』という言葉があるので、最近話題になっている『エボラ出血熱』などのウイルスを研究する機関なのだろと想像できるが、東村山市にこんな研究機関と建物があったということなど全く知らなかった。

 『感染研』は、病原体と感染との相互関係を研究する機関の略称だということぐらいは見当がつくが、『BSL4』というアルファベット記号は何を意味しているのか、見出しを読むだけでは、脳が固くなっている私には理解不能・・・。

 しかし、このところいろいろな場面で『レベル3』とか『レベル4』という言葉が使われるので、末尾の4にいう数字がついていることから、危険度が高い段階を意味している程度のことは想像がつく。

解説によれば、『BSL』とはバイオセーフティーレベル』のことで、末尾の4は最高の危険度という意味だそうだ。なるほど、なるほど・・・。

この施設は、東村山市に30年前にできていたようだが、住民の反対で、一度も稼働していなかったとのこと。しかし、どうして東村山にそんな建物が作られたのだろうという素朴な疑問がわいてくる。

30年前というと、現在同様、自民党政権が我が世の春を謳歌していたのだろうが、それにしても、地元自治体を無視して建設したわけではないだろうから、当時の市長はじめ市議会が『GO』を出したことは間違いなさそう。

東村山市には足を踏み入れたことがないので、どんなところなのかわからないが、この施設は、住宅街や学校に隣接しているというから住民から強い反対の声が上がったのは当然だろう。そして、国が想定していた以上の反対運動が起きたために、感染研は危険度が1ランク低い新型肺炎(SARS)ウイルスなどを扱う『BSL3』施設で運用することで折り合っていたようだ。

ここまで読んで、大体の意味が分かってきた。30年以上前に、当時の自民党政権は、何としても『レベル4』の研究をする必要があるとして場所を選定した場面を想像して見る。研究者たちが出入りするためには、交通の便がある程度良いことで、しかも、研究対象が病原体ということなので、万一のことを考えると人口が集中していない所ということで都内の当地が選ばれたのでは・・・。

そして、当時の市長はじめ市議会には、例によって高額の交付金というアメをぶら下げて、強引に建物を作ろうといういう筋書きではないだろうか。ところが、地元住民としたら、簡単に受け入れられるものではない。そこで、妥協の産物として、『レベル3』までの研究施設として建設し現在に至っているようだ。

国としては、どうしても『レベル4』の研究する施設が必要だとして、ずっと地元に圧力をかけ続けていたに違いない。そして自民党の一強支配体制が確立した現在、どうしてもNOとは言えず、今回、市長は『稼働はやむを得ない』という返事をしたようだ。
 国が市長に示した約束事とは、『事故時の連絡態勢』『使用目的は患者の診断や治療』『住民に使用状況を報告』『将来的に移転』だとのことだが、何か全てが、国が常套的に使うきれいごと言葉の羅列のように感じる。これは原発再稼働とダブル・・・。

国は早速施設の稼働に向け、今月中に感染症法に基づく指定手続きを行うという。今後、海外からウイルスを譲り受けて基礎研究を行う可能性もあるとのことだが、何故ここにきてことを急いでいるのだろう。

『病原体』は生物兵器に転用できる代物であることを考えると、これも、一連の『戦争ができる国』への足掛かりにしたいのではというのは突飛な発想だろうか・・・。

この報道で、太平洋戦争で日本軍が中国で行っていたと言われている生物実験のことを思い出した。『731部隊』と呼ばれる特殊部隊が、中国人を『マルタ』と呼んで、さまざまな細菌を感染させて、人体への影響を研究してきたおぞましい事実である。

エボラ出血熱などの研究は必要ないとは言わないが、各国がそれぞれ独自で行う必要があるとは思えない。人類の未来に必要な研究なら、全ての国や民族にとっても有用で意義のあることに違いない。ならば、共同で研究するという発想が何故できないのだろう。

それは理想だと頭から取り上げてもらえないことは分かっていても、私はつぶやき続けたい・・・。(田舎親父)

2015年8月 7日 (金)

どうしたJR東・・・

 このところの猛暑は、暑さには強いと自認している私でも、さすがにボッとすることが多く、何かトンデモない天変地異でも起きるのではと感じさせるほどの異常さを感じる。

 今年になってマイクロレンズを入手したことで、昔の趣味を思い出し、毎日の散歩のついでに目につく花の接写を続けているが、夏場には目ぼしい花が少なくなっていることに加えて、最近のこの猛暑にさすがにウンザリ。カメラをザックに入れることを避けたいというのが正直な気持ちになっているほどの凄まじさである。

 4日に、そんなダラダラした気持ちを引き締めるために、大船フラワ-パ-ク(神奈川県立植物園)に出かけてきた。以前、何度か訪れたことがあるので、地図も必要ないほどだが、久しぶりに大船駅に降り見ると、昔と風景が一変していることにビックリ。

詳しくは省略するが、なかなか思い切った都市計画で駅前の変わり方はかなりのもの。炎天下を15分ほど歩いてたどり着いた久しぶりの植物園は、大船駅周辺の変わりかたとは無関係だというがごとく、昔のままの姿で迎えてくれた。

このレトロな植物園のことは別につぶやくとして、午後2時過ぎ、大船駅の上りの横須賀線で帰途につくのだが、浴衣姿の娘さんの姿が目立つ。横浜駅には、男性も含めて浴衣姿の若人たちが溢れるほど。

その時は、暑さで頭が少しボ-としていたこともあって、どこかで花火大会でもあるのだろうという程度だったが、その日の午後7時過ぎ、ビ-ルをのみながらNHKニュ-スを見ていたら、『京浜東北線が運転見合せ』というテロップで、あの浴衣姿の若人たちのことを思い出す。

この事故については後で述べるが、実は、ここ数日京浜東北線や横浜線は夕方になると決まって遅延が発生していることは、テレビが取り上げないこともあってあまり知られていない。

遅れると言っても、10分乃至20分では、JR東としてはたいしたことないのかもしれないが、京浜東北線が何らかにトラブルに見舞われると、直接連絡している横浜線や南武線を直撃、私の近くでも影響を受けている人も多数いて、昨日もですよ・・・という会話も日常茶飯事になっている感すらある。

また、大宮と大船との間は、東海道線や横須賀線、あるいは新宿ライナ-が平行していることもあって、互いに影響し合うことも稀ではない。4日の事故はその典型だったようで、かなり長時間、横浜周辺の全ての路線がストップしたようだから、混乱は半端ではなかったようだ。

迂闊なことに、この事故を報じるテレビニュ-スで、『みなとみらい』地区の花火大会であることを知る。土日に開催しないことは主催者の考え方なのだろうが、花見大会の時刻と示し合わすように、車両トラブルが発生したことによって被害は倍加したようだ。

 この事故の原因は、当初は過電流によるショ-トとのことだったことに、まさか暑さで絶縁体が溶けたのかと考えたが、そんなことはあるはずがないと自ら一笑に付す。

その後、はっきりしたのは、電流を供給している架線にはつなぎ目があり、そこをエアセクションと呼び、その部分では停車してはいけないのにもかかわらず、運転手がそのことを知らなかったというから、なんとも間抜けた話である。

 そのつなぎ目はわずか50センチ。たまたまパンダグラフがそこにぶつかって止まったため、発車の電源を入れた瞬間、加重電流がながれショ-トしたのが原因だという。JR東は車両全てに自動制御装置(ATS)を設置してあるので、エアセクションを避けて停車するようになっているのだそうだ。

 しかし、運転手の手動のブレ-キ操作で、偶然にエアセクション部分に停車してしまったとのことである。いわば、停車してはならない場所に停車したことが原因のようだが、そのことを運転手が知らなかった?・・・。社として知らせていなかった?・・・。どちらにしてもお粗末としか言いようがない。

 そういえば、数日前から遅延が日常化して迷惑を受けている近所の人が、パンダグラフから火花が散っていたと言っていたことを思い出す。

前の電車に近づき過ぎたときや、信号機が赤を識別すればATSが作動するのだが、それ以前に運転士が確認すれば、当然何らかの操作を行うのは当り前だろう。数日前から、遅延が続いているということは、運転手が手動操作によってブレ-キをかけて、エアセクション付近で停車を繰り返していたのではないだろうか・・・。

すると、最近の猛暑が加わり、絶縁部分が疲弊しこの事故を招いたことも考えられないことはない。花火大会に出かけた人は当然だが、それ以前に日常的に京浜東北線を利用している通勤客は大災難で大迷惑。

『JR東よ、もう少ししっかりしろ・・・』と言いたくなる。(田舎親父)

2015年8月 6日 (木)

いよいよキナ臭くなってきた・・・

今日8月6日は、アメリカが広島に原子爆弾を投下した日であることは今更述べにまでもないが、先日、広島と長崎でアンケ-トをとったところ、正確に投下日が答えられない若者が多かったという記事にぶつかり、なんとも言えない暗澹たる気持ちにさせられた。

当時のアメリカ大統領のトル-マンは、『戦争を早く終わらせるためには仕方ない』と語っているようだが、腑に落ちないことも多い。確かに、最後は竹ヤリを持ち出す狂気を知れば、早く降伏させるためにはこれしか方法がなかったとなどという言い分もわからないでもないが、ならば、続けて長崎に投下する必要などなかったはず・・・。

私としては、アメリカのホンネは原爆の威力を確かめたかったとしか思えず、事実、その凄まじい破壊力に恐怖さえ覚えたのではないだろうかと推察している。

核兵器を他の国が原爆を保有することに対して、何が何でも反対する姿勢をかたくなに持ち続けていることが、それを証明しているという考えは決して間違っているとは思わないからである。

そのことはさておくとしても、戦争が悲惨な結果を招くことはわざわざ原爆を持ち出すまでもなく、誰もが理解しているはずなのに、人間は権力を握ると(適切な表現ではないだろうが)まるでサカリがついた野生動物のオスと同じで、富(メス)を得るためにしか本能が働かず、他のオス(国や民族)を屈伏させるという動きが顕著になるようだ。

このことは、世界各地で起きている民族・宗教争いが如実に表しているが、我が国においても、自民党という権力集団が、原発事故処理と消費税増税というダブルミスで世論の支持を完全に失った民主党の凋落を機に、一気に一強軍団として権力を握ると、まさにサカリのついたオス状態になったらしく、他国に向かって侵略の牙を研ぎ始めている。しかも、日本一国では行動する勇気がないのだろうが、アメリカのポチに甘んじて、弱いものいじめしかできないということが、日本人の一人として悔しく、それ以上に情けない。

折角、世界でも唯一無二の『戦争の放棄』を高らかにうたった『日本国憲法』を持ちながら、上辺だけは憲法を遵守しているかごとくの誤魔化で塗り固め、ただ数の力だけを頼りに、戦争ができる国へ衣替えをねらい強引に衆院を通してしまった『安保関連法案』は、その露払いと言っても良さそうだ。

自民党(特に首相とそのお友だち集団)は数の力の幻惑に溺れているらしく、今や栄華の極みという感覚が蔓延し、何でも思いどおりになると決め込んでいるようなことが連続して起きている。

その一つが、アホベ首相の応援団を称している輩が集まり、俺らのいうことを聞かないマスコミを懲らしめろという発言であろう。さすがに、大マスコミにもまだ少しは意地と矜持が残っており、このことに対してはそろって反論。自民党の幹部たちも、ここは一応謝っておくべきだという判断が働き、最近ではもう過去のことと忘れられている感じさえする。

しかし、この輩の本質は変わらないらしく、今度はイソザキという首相補佐官が、安全保障関連法案をめぐり『法的安定性は関係ない』と語ったからたまらない。

官邸は大慌てで幕引きを画策、参院の参考人にこの男を出席させて、本人から『軽率な発言だった』と陳謝させたのだが、単に原稿を読んでいるだけの映像を見せられては、この男にはほんの少しの謝罪の気持ちすらないことは明らかである。

しかも、批判されている意味すらわからず、『9月には法案を成立させたい』などと余計なホンネを述べて、その場を仕切る委員長(当然自民党)に説教される始末。思わず、こんな輩が首相補佐官なの?・・・と吹き出してしまう。

この問題がこれからどう動くのかによって、政局は大きく変わるのだろうが、この補佐かの発言に倍加するアホなことをネットに書き込んだ自民党衆院議員がいることには驚きを通り越して呆れる限りである。

ムトウ某という滋賀県選出の議員であるが、この男は、みずからのツイッターで、戦争法案に反対している学生たちに対して、『戦争に行きたくないという発想は自己中心、極端な利己的』と断言しているという。さらに、日本国憲法も否定し、『戦後の教育が、こんな利己的な考え方を蔓延させた』とも書き込んでいるのだそうだ。

アホベ首相は、安保関連法案を『戦争法案』と呼ぶことを極端に嫌っているようだが、首相補佐官や若手が、現行憲法を軽んじたり否定しているというのでは、現政権の姿勢が『戦争ができる国』に向いていることがはっきりしてくる。いよいよ軍靴の足音が聞こえるようになってきたと表現しても決して大げさではないだろう。

このことに関して、5日付けの『天声人語』が(極めて珍しいことだが)実名を上げて真っ向から批判しているのは久々の快挙。私的には大拍手だが、自民党の朝日新聞嫌いが加速するだろうことが少し気になるところ。

このことは、長くなるので後日に・・・。(田舎親父)

2015年8月 5日 (水)

ことは強制起訴まで進んだが・・・

 今も約11万人が避難生活を余儀なくされている未曽有の大惨事から、間もなく4年と5カ月を迎えようとしている。

あれほどの大地震が起き、凄まじい津波が襲うとは誰も予測できなかっただろうと思っていたが、実際には東電は事前に大津波を想定し、役員会の話題になったという。その席で、当時の会長はじめ責任者たちが、これを無視したことは以前からマスコミが揃って報じていたことから事実に違いない。

これは明らかに東電の怠慢というよりも犯罪的な行為で、自然災害ではなく、明らかに人災と言っても良いだろう。この問題は、事故当初からくすぶり続け、東京地検は起訴可能かかなり議論したそうだが、結局不起訴にしたことは記憶に新しい。

検察審査会(検察審)が異議を唱えたが、この決定は覆されることなく、またもや不起訴。過去2度にわたる不起訴の理由として、『想定外の規模の津波を予測するのは困難で、回避措置を講じても事故は防げなかった』とのことであるが、検察審は真っ向から反論していたことから、成り行きには注目していた。

検察審は東電の重役会議の議事録など資料から、事実を積み重ねて、先月31日第5検察審査会で、カツマタという元会長ら旧東電経営陣3人に対する『起訴相当』を議決下というニュ-スに、ぜひ、この男たちの罪を暴いてもらいたいと期待は膨らむが、そんなに簡単な筋書きではないことは素人の私でも予測できる。

三陸沖が地震の巣であることは知っていた。吉村昭の著作『三陸地震』には、明治9年の凄まじい地震とそれに伴う大津波で甚大な被害を受けた事実が、著者の克明な取材記録から生々しく描かれている。

それでも4年前に、あれほどの大津波が襲うとは、私にはとても想像できなかったが、専門家の間からは、2002年の段階で、マグニチュード(M)8・2クラスの津波地震が発生する可能性があると指摘されていたという。当然、このことは緊急事態として、関係者たちの間には情報が流れていたのだろ。

東電にもこの情報は伝わり、08年の段階では、長期評価を用い、明治三陸地震をモデルに試算すると、15.7メートルもの大津波が押し寄せるという結論に達していたのだそうだ。巨大津波が来れば、原発は水に覆われてしまう、すると・・・。結果は現実に起きた通りである。

 このことは役員会での話題になったというが、今回『起訴相当』の3人は、『そんな緊急自体でもあるまい』とタカをくくっていたらしい。それ以前に、原発は絶対に安全だという神話を、一番信じてはいけない原発設置の当事者が信じていたというところではないだろう。

今更、『タラ・レバ・・・』と言っても、仕方ないことは十分理解できるつもりであるが、東電の役員会議で、『安全を担保するために、堤防を後2メ-トル嵩上げ』という決定が下されていたら、津波が襲うまでに約3年という時間的猶予があのことから、少なくとも原発の電源が失われるという事故は起きなかったに違いない。

 これから強制起訴がなされ、刑事事件として司法に委ねられることになる。私としては、即刻、その罪の深さから、極刑にも値する判決がでることを期待したいが、東電の体質を作り上げてきた役員たちは、あっさり『私たちのミスでした・・・』なんてしおらしいことをいうはずがない。

徹底的に『不可抗力で想定不能』を主張するだろう。東電は社を上げて、べらぼうな報酬を準備して、全国から『クロをシロと言いくるめる』ことには天才的な優秀?な弁護士を大勢集めるだろうことは想像に難くない。

となると、刑事役を担う、市民的感覚の善良な弁護士には難敵になるに違いない。その上、あの事故を経験しながら、原発をベ-スロ-ド電源だとうそぶく現政権も、政治的にも妨害するだろうことも確実だろう。

それでも世論の後押しもって、一審で有罪を勝ち取れるかもしれないが、間違いなく控訴、そして上告するのは東電と国の既定路線。最高裁の判決を引き出すのには、少なくとも10年程度の長い時間が必要になってくるのではないだろうか。

できれば裁判の過程で、カツマタという元会長と何らかの関わりがあったと噂される、渋谷の闇の中に消えた、元東電の有能な女性管理職の殺害事件の真相も明らかになって欲しいものであるが・・・。

今回の検察審査会の『起訴相当』の議決は快挙である。しかし、あまり過度な期待を持てないことも事実だろうから、今後は覚めた目で見守っていくしかなさそうだ。(田舎親父)

2015年8月 4日 (火)

夢が必要だろうが・・・

 文科省に『宇宙開発利用部会の小委員会』という組織があるのだそうだ。この役所は幅広い分野を統治しているのだから、こんな部会の下請けのような委員会があるのは当然だろうと納得するが、その小委員会が、先日2020年代初頭に『月の南極探査を目指す』という報告書をまとめたというニュ-スに目が留まる。

報告書は宇宙分野の『国際協力』について、『月と火星の無人探査』から『月の有人探査・火星の有人探査』へと段階的に進めという方向性を示したとのこと。その具体案として、19年度をメドに打ち上げる無人機『SLIM』で月面への軟着陸を成功させ、その技術を探査に活用するのだそうだ。

宇宙には、誰をもうっとりさせる広大なロマンが秘められていることは万人が認めるところである。その意味では、このような夢を、国の方針ととして示すことには大切なことと異存はないが、その理由が『月に関して、取り組みが遅れると、国際的な発言力の低下を招き、将来の月面利用の場や権益獲得の機会を失う恐れがある』というのは、あまりにも生臭い。

こんな言葉を耳にするだけで、今政府が『ムリへんにムリと書いて』『合法法案』と読ませるごとく、異常な執念で成立を急いでいる憲法を改定することなく、集団的自衛権の確立という『戦争法案』を思い浮かべるのは私だけではないだろう。

さらに、『月の南極探査を日米協力による実施も視野に、我が国も最優先で取り組むべき領域である』と位置づけたという一文は、まさに集団的自衛権的論理そのもののように聞こえてしまうのだが・・・。

 60年以上も前になるが、小学生の頃には、子どもの雑誌の世界には盛んに『火星人』が登場したものである。タコを思い浮かべるような何本もの足を持った知的動物が、ある時には地球を侵略に動き、またある時は平和の使者として描かれていたことを思い出す。

科学技術の進歩によって、今どき、火星人を信じる人はいないだろうが、(先日も記したが)人類の爆発的な増加で、人間全てを地球が収容できなくなることは明らかな今日、その移住先に、地球や火星を本気が考えているのだろうか・・・。

月の北極や南極には、人類の長期滞在を可能にする水や氷が存在する可能性があるのだそうだから、こんな計画を政府機関が議論することはあり得ることは理解できないわけではないが、利権絡みというのがなんとも腹立たしい。

宇宙開発については国際的な協力体制がある程度整い、曲がりなりにも、アメリカとロシアが手を組んで『国際宇宙ステ-ション』を打ち上げて、そこで各国の宇宙飛行士たちが長期間滞在し、共同で与えられた任務を果たしている。日本も莫大な金額を拠出しているらしいが、そのおかげをもってだろうが、ワカサ飛行士が数ヶ月間船長に就任したことも記憶に新しい。

もっとも、その往復はロシアのソユ-ズに限られているのが現実で、その未来はというと決して明るいものではなく、むしろ『国際宇宙ステ-ション』としての存在に耐えられる年数は残り少なくなっているというから、いわば風前の灯火。

そこへ持ってきての『アメリカと協力して、月の南極制覇何・・・』は、折角の(曲がりなりだろうが)国際協力を御破算にしかねない発想ではないだろうか。

夢が必要だということは十分理解しているつもりだが、せめて、日本国として、国連主体で(この命題に対して)開発に参加する国々がチ-ムを作って研究するという方針を示して欲しいと願うのだが・・・。(田舎親父)

2015年8月 3日 (月)

物凄い音にビョクリ・・・

 大和市は横浜市の西隣にある自治体である。小田急と相鉄がクロスしているので、交通の便はかなり恵まれている。そのために人口が急増していると聞いている。

 大和市は水に恵まれた町としても知られている。大和の駅を降りて、相鉄の改札口から続くプロムナ-ド(相鉄が地下に潜ったので地上部を市民のための歩道にしている)を歩いて突き当たると、『いずみの森』という広大なその森が現れる。ここが大和市の豊かな水の源である。その名の通り、広い水辺が広がり、その周りをのんびりと散策できる。

私も数回訪れたことがあるが、いつもバ-ドウオッチングや釣りを楽しむ人が大勢集い、幼稚園や小学校の遠足で賑わい、子どもの声が溢れている。かなり整ったネ-チャ-センタ-もあるので、一度訪れることをおすすめしたい。

ただ、その森を分断するように『東名高速』と国道246号が通っているので、絶えず車の音が耳に入るのが、私の近くの『四季の森公園』と違い難点になっている。そのせいか、水鳥を見る機会は多いが、小鳥のさえずりが物足りないところ。

もう一つ、決定的な難点は、『厚木基地』と隣接しているので、戦闘機の離発着訓練にぶつかると、信じられないような音に驚かされることである。これは、難点という表現ではとても言い表せないほどで、早く取り除かないと、折角の恵まれた自然を生かすことができず、本当の意味での市民の憩いの場にはなり得ないのではないだろうか。

先日、訪れた時に、この難点(どころではないが)にぶつかってしまった。人が少ないのは、暑い日だったからだろうと思っていたが、突然、信じられないよう爆音が迫ってくる。瞬間的、戦闘機の離陸音だと気づくが、その凄まじさには度肝を抜かれる。

やっと納まったと思うと、前に増しての猛烈な爆撃音が上空から飛び込み、着陸体制をとっているのだろうと思われる戦闘機が現れる。肉眼で機体番号もはっきりを識別できる程の低い高度である。

次々に離発着する戦闘機が現れる。その度に、猛烈な爆音・・・。音源は近づくと高く聞こえ、遠ざかると低くなるというトップラ-効果という物理現象が、これ程はっきり認識できるとは思ってもいなかった。

横浜の片田舎の普段はほとんど音がない世界に住んでいる私には、これは耐えられるものではないが、貴重な体験だと思いなおして、映画やテレビの世界でしか見たことがない戦闘機を追いかける。離陸した戦闘機だろうが、急旋回すると、操縦している兵士の姿も一瞬だが見ることができる。

戦闘機をねらってカメラを構える人も数人いたことから、この日は離発着訓練の日だということを知るが、この騒音には短時間でも耐えられそうにない。しかし、これも経験だと開きお直って、離発着する戦闘機を耳をふさぎながらも冷静に見ることができたが、近隣の住民にとっては、これは我慢しろというレベルではないことをいやというほど感じさせられる。

私的な行動を述べることで字数をとってしまったが、先日、厚木基地の騒音訴訟で東京高裁が、自衛隊の戦闘機の夜間離発着を禁止するという判決に、やっと高裁まで住民の切実な声が届いたことにホッとする。

 横浜の片田舎の普段はほとんど縁がない生活と表現したが、突然、テレビの音が聞こえないような飛行機の音に驚かされることがある。沖合のアメリカ軍の原子力空母と厚木や横田基地との間で行われている艦載機の離発着訓練だろうが、例え数秒であっても迷惑な話。これが日常的に繰り返されているとなると、何としても止めてほしい・止めさせたいと切実に訴える人々の気持ちは痛いほどよく理解できる。

 高裁の判決は評価できるが、1審に続き、より騒音被害が大きいアメリカ軍機の飛行差し止めは『防衛相に権限がない』と退けたことはなんとも腹立たしい。これが日本の司法の限界なのだろうが、政府がただ手をこまねいているだけで、アメリカと本気で交渉しないことに、本当に日本は独立国なのだろうかと思うと涙が出る思い・・・。

 日米安保条約と基地協定が存在し、前に立ちはだかっていることは知っているが、住民の迷惑などを全く感じないアメリカの無神経さに腹が立つ。

こんな戦争大好きな非人間的なアメリカの命令に、集団的自衛権などと日本の憲法をも無視してただただひれ伏し、『アメリカさまの言うことを聞かない奴ら』をやっつけるという現政権は早く消えてほしいもの。

 厚木基地での訴訟は、これが第4次になるのだそうだ。1976年に提訴された第1次訴訟以後、裁判所は騒音被害を認め賠償を命じてきたのだが、その都度、国は国民から収奪した税金で多額の賠償金支払いでお茶を濁し、本気で騒音対策に取り組んでこなかった結果、今回の高裁の『非行禁止』という判決につながったと理解している。

 早速、防衛相は『受け入れがたい』として上告する姿勢を示したというが、それ以前にアメリカに対して抗議し、地位協定の改定を迫るべきではないだろうか。

難しい話になってまったが、大和市の『いずみの森』は、厚木基地周辺の騒音問題を考えるには最高の教科書。ぜひ訪れて、戦闘機の離発着の爆音を経験してほしい。これが、夜・夜中まで続いたら、200万人と言われている周辺住民はたまらない。

平和憲法を誇りとし、基地の必要としない外交に力入れる政権の誕生を切に願う今日である。(田舎親父)

2015年8月 1日 (土)

地球の未来は明るい?・・・

 まさに『一瞬』と称しても決して奇怪しくないほど、7月が過ぎ去り、今日はもう8月1日。後一週間もすれば『立秋』、暦の上では『秋』の訪れである。

梅雨明けと同時にはじまった猛暑・酷暑は、ここに極まったというほど連日人々の生活を脅かしている。全国各地から、『熱中症』で病院に搬送されるという話題が日課のごとく伝えられ、その数は日を追って増え続けているように思える。

特にこの異常な暑さの連続は、年寄りにはこたえるらしく、病院に搬送されても死亡する人が絶えないのも悲しい話。適度の冷房をかけて、日中動かないようにすればしのげるのだろうが、私と同年配以上の年寄りは、子どもの時の記憶が生きているのだろうが、『俺は大丈夫・・・』という意識が強いらしく、家の中で閉じこもることを拒否しているのではなかろうか。

それに加えて、若い頃の不便な生活を経験しているだけに、一人で冷房を使うのは『もったいない』という気持ちが先に出て、結果的にク-ラ-があるのにスイッチを入れることなく我慢して熱中症になり救急車のお世話になる場合も少なくないようだ。

今日もまた全く脈絡がない書き出しになってしまったが、先月末に、国連経済社会局という組織が、『世界人口が現在(2015年)の73億人から50年に97億人に増え、2100年には112億人に達する』という予測を発表したという記事に目が留まる。

以前にもつぶやいた記憶があるが、およそ60年も前、中学校の社会科の授業で、担当の教師から教えられたのだろうが『中国4億・インド2億』という一文が、私の頭の中に不思議に生々しく生きている。

当時、アメリカもロシアも2億人近い人口だったのだろうが、こちらはあまり記憶がない。当時でも日本が1億人を超えていたことから、なんとも狭い国土に凄まじい人間がひしめいているのだと議論したことも思い出す。

時は移り、自分が子どもたちに世界の人口について教える立場になった頃には、中国8億・インド4億だったことも鮮明に思い出せる。当時は、地球が生み出す食料では50億人が限界だという学説があり、それを信じていたこともあって、本気でこのまま人口が増え続けたら・・・と心配したものである。その学説の中には、人間は知恵を持っているので、75億人までは大丈夫だという記述もあったような記憶もあるが・・・。

それからが中国とインドの人口の伸びかたが凄まじい。世界保健機構(WHO)の出している資料では、2014年現在として、中国13億8千万人、インド12億4千万人というから、わずか60年の間に、中国は3倍超、インドに至っては6倍以上になっているから驚きである。

しかし、この数字とて、両国では、実際には戸籍を持っていない人が数知れないのが現実らしいから、確定数ではなく、今後は人口統計をしっかり管理するとさらに増えることは間違いないところ。

中国とインドからは大きく引き離されて、第3位がアメリカの3億4千万人、インドネシアの2億5千万と続いている。4位以下は、ブラジル・パキスタン・ナイジエリア・バングラデス・ロシア、その後に10位で日本となっている。

国連経済社会局の発表によれば、2022年までにインドが中国を抜き1位となり、日本は現在の10位(1億2700万人)から徐々に順位を下げ、2100年には8300万人で30位になるのだそうだ。

日本の人口が減少することは私でも推測できることだが、人口が急増するアフリカ、アジア、中南米で子どもや若者の人口比率が高まり、(この調書にある)労働人口も増えるため『より明るい未来を築けるだろう』という部分に強い違和感を覚える。

子どもの数が増えることで労働力が確保されるという部分は何となく理解できるが、アフリカ等の最貧国で゛折角の労働力を受け入れる労働市場があるとは思えない。世界にこの豊かな労働力を公平に分配すれば、『明るい未来』も夢ではないが、富の大部分を一部の国が独占しているのが現状であり、この権益を手放すことは絶対にないだろう。

労働市場はないが、知識市場はインタ-ネットの普及で世界に広がっているのだから、開発途上の国々の人々か、先進国の人々の『便利で快適な生活』に憧れ、迫ることは十分過ぎるほど予測できる。

となると、エネルギ-(食料もその一つ)問題が立ちはだかり、地球温暖化が限界となり、100億人を超える人類がそれぞれが人権を持ちながら生きて行けるはずはない。結局のところ、戦争で殺し合い、全体の人口を激減させる他に方法がなさそうだ。

実際に世界各地で戦争やテロが日常化している。これも、人類滅亡のシナリオでは、その序章なのかもしれない、諦めに似た境地になっているが・・・。(田舎親父)

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