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2016年4月

2016年4月30日 (土)

現場はパンク寸前・・・

このところ文科省のやり方を見ていると、新しいものに食いつくというよりも、経済重視の現政権の意向なのだろうが、産業に直結できそうなことを、学校現場に導入することばかり考えているようだ。

デジタル教科書に続いて、今度は小学校から、『技術の進化が飛躍的に進む中、コンピューターを制御する能力の育成が重要と判断』という理由で、『プログラミング教育』の必修化を、産業競争力会議で示された新政調戦略に盛り込んだというからますますその傾向を感じる。

2020年からの進指導要領に教える内容を折り込む方向で、またまた『有識者会議』を招集して議論して、答申を出させるそうだ。結果は、いつもの通り分かりきっているのもミエミエだろう。

今までのように受動的な学習ではこれからの社会に通用する人間が創れないという意味で、子ども達自身が行動的に学習する必要があるという意見は理解できる。そのような学習を『アクティブラ-ニング』というところまでは、私のような無学老人でも理解できそうだが、『プログラミング教育』となると、どんなことを小学生に教えるのだろうと首をひねらざるを得ない。

そのあたり新聞記事には、『現在の小学校では、課外活動として、パソコン画面上のキャラクターを動かすといったプログラミング体験はあるが、授業で教科として教えていない』とあることから、パソコンを操作できることを前提に、ゲ-ムソフトのプログラムを作る?ことも視野に入れているらしい。

記事にある『課外活動』とは、いわゆる『クラブ活動』を意味しているのだろう。確かに、『パソコンクラブ』が流行っているというのは良く聞く話だが、週1時限(45分)の一コマで、パソコンの機能を使ってお絵描や作曲を楽しむ程度だと聞こえてくるが、それを『プログラミング』と呼ぶのだろうか?・・・。

 有識者会議に求めることは、プログラミングの新教科をつくるのではなく、理科や算数といった今ある教科の中に盛り込む内容だそうだが、現在『パソコンクラブ』で扱っていることを教科の中で指導するとなると、パソコンに苦手意識をもっている、圧倒的多数の小学校の教員にとっては、今以上に研修に追われる日々が多くなりそうだ。

ここでは『プログラミング教育』の是非はさておくとして、文科省は、指導要領を飛び越えた内容も教科書に記述することを認めたことによって、現在使っている教科書は以前より格段に分厚くなっていることに注目したい。

教科書で『発展』と記述がある内容は、上学年で指導することなので、簡単に触れるだけでよいとはいうものの、教師にとっては教科書はいわばバイブルであり、教科書に記載されていることは全て教えなければいけないという本能が働くもの・・・。

さらに、『何故教えないのか・・・』と学校に苦情を持ち込む保護者も増える一方に加えて、学習塾が率先して、この『発展』内容を教えるものだから、教員はいろいろなプレッシャ-を受けるという話はよく耳にする。

2020年から小学校高学年で英語が週2コマになるという。このことについては時数確保が問題になって、始業前の10や15分を、カウントするという苦肉の策が真剣に議論されているらしいが、このように時数の確保に汲々としているのが現実である。

その上、教科の中に『プログラミング』に介する内容まで指導し、しかも指導したことに対する評価まで学校(教員)に義務づけられ、その効果を高めなければならないとなると、パニックに陥ることは間違いなさそうだ。

学習内容が増えるのは仕方ないとしても、教える時間は変わらない。ならば、今まで教えてきたことをなくさねば、風船ではないが限界にきたら爆発することは目に見える。すでに爆発していると私は捉えているが・・・。

極端な場合、『日本語を止めて全て英語』にするのなら、国語という強化は必要なくなり、時数確保は問題にならないだろうが、その議論は当然ながらタブ-らしい。

以前、『総合的な学習の時間』という全く新しい試みで、学習する内容を減らしたが、その直後から『学力不足』という声が上がり、現在ではむしろ学習内容が増えているのも変な話。

『プログラミング教育』の内容以前に、学校現場のこれ以上の負担が増えれば、不登校や陰湿ないじめが増えることは間違いないが、文科省は、それは次元が違うという言葉で考えないようにしているのも、到底理解できない話である。(田舎親父)

2016年4月28日 (木)

教師の矜持を取り戻してほしい・・・

 石巻の大川小学校の悲劇は、時間が過ぎると共に人々の記憶が薄れてきたようにも感じられるが、私には、何故小学校の教員がこともあろうに津波のくる方向に、児童を強引に誘導したのかが全く理解できず、未だにモヤモヤとした気持ちが広がり続けている。

一人生き残った教員(教務主任らしい)の責任は重く、真相を明かす義務があると思いながら、すでに5年以上の月日が流れてしまった。

あの日・あの瞬間、校長は出張で出かけていたというのも、今でもなんともうさん臭い話だと思っているが、生き残った教員がたった一人だったことが、今日、真相解明を困難にさせていることは間違いないところ。あと一人でも生き残っていれば、違う展開になっていたものと運命を呪う。

明らかに誤った誘導で我が子の命を奪われた保護者としては、怒りをどこに向けてよいのか分からず、まず真相を知りたいと願うのは当然のことだろう。そのためには、生き残った教員の話を聞くことは絶対に必要なことであるが、教育委員会の姿勢は始めから後ろ向きで、『人権』という言葉を隠れ蓑にして、徹底的にこの教員を表に出すことを嫌い、あろうことに、教委が教員から聞き取ったメモまで破棄したというから許せない。

 保護者は何度も説明会の開催を求めたが、その都度逃げ回り、やっと2回目の説明会が実現したのは、8ケ月後の翌14年1月だったというから呆れるしかない。

 その説明会の冒頭、時の教育長が、学校の防災体制の確認を怠っていたとして『犠牲の背景には、学校や教育委員会に防災上の不備があり、人災の面も否定できない』と、初めて公式の場で責任を認め謝罪したという記事を保存している。
 このことに対して私は、情況から、完全な『人災』であることは明らかなのに、『人災の面も否定できない』とはまさにお役所言葉であり、これを謝罪と受け止めて報道するマスコミにも違和感を覚えるが、たったこれだけの文言を口にするまで、1年近くかかったということが、いかに責任逃れの方法を考えていたことを如実に現しているとつぶやいたものである。

 たった一人生き延びた教員に対しては、『この40代の男性教師は一生重い心の傷を背負って教壇に立つのかと思うと気の毒になるが、今回の学校の対応に対する検証には唯一の証人なのだから、なぜ校庭で児童を30分以上も並べて待機させたのか、その指示はどこから出されたのかは、保護者からの要望書がなくても明らかにする必要はある』と書き留めている。

子どもの命を守ることは教師として最低限の任務であり、自分の取った行動に対しては、たとえ上から徹底してしゃべるなと言われていたとしても、ありのままの事実を語ることは『教師の矜持』であるとつぶやいたことを強く心に刻んでいる。

さらに、『この教師は徹底的に市教委の監視下におかれ、外部との連絡は絶たれているのではないだろうか。復職など思いも寄らぬことで、ひょっとして、しばらくして病死などの記事が地方新聞の片隅に載ることがないことを祈らずにはいられない』とも述べたもの。

予想通り(?)5年以上過ぎた現在でも、病気を理由に休職中(病院に隔離か)であるらしく保護者など外部との連絡は一切絶たれているという。これは明らかに、教委による真実隠蔽という犯罪である。
 1月の説明会で、この教師が事件後保護者と校長あてに書いた手紙があることが明らかになったことも記憶に新しい。この手紙のことは、前年の8月に行われた説明会では一切なかったというからなんとも不透明な話である。

教育長がその手紙を読み上げたらしいが、当時の新聞記事に添付してある映像ではほとんどが黒塗りだったことになんとも気持ちが悪くなったものである。こんな手紙を見せられたら保護者の怒りが爆発したことは想像に難くない。以後ずっと説明会を求め続けていたというが、教委は逃げまわるだけだったことも腹立たしい限りだった。当時、この黒塗りの手紙の原文をネットで探したがなかったことも、今でも気になっている。

当然なことだが、保護者の教委に対する強烈な不信は、裁判で明らかにするしか方法がないので、『損害賠償請求』を求めて仙台地裁に訴訟を起こしているのだが、その口頭弁論が、先日あったという記事に目が留まる。

保護者としては、真実を知っている唯一の教師の証人尋問を求めるのは当り前だと思うのだが、裁判長は却下したというから納得できるものではない。

新聞記事では、『心的外傷後ストレス障害(PTSD)との診断書をたてに、されたことなどを考慮したとみられる』とあるが、こんな大事な問題を一片の診断書で門前払いとは、司法も真実を隠す側の味方?なのだろうかと思いたくなる。

こんな裁判長の判断では、6月29日の結審を待つまでもなく結果は想像できるが、保護者として納得できないことは明らかだろうから、控訴、そして上告とこの裁判は延々と続くことが予測できる。

このいつ果てるとも分からない重圧に、この教師は、良心をすてて耐えることが強いられる?とは思えない。しかし実際には、未だに、教委に心身を拘束(保護)されていることも十分想像できる。

それでもこの教師に強く迫りたい。『教師の矜持を取り戻せ』と・・・。(田舎親父)

2016年4月27日 (水)

ますます経済格差が広がるぞ・・・

文科省が、デジタル教科書を導入するという記事に目が留まる。紙の教科書と同じ内容の電子データをデジタル教科書とし、タブレットやパソコンなどの情報端末で学ぶのだそうだが、何のためにという部分の説明が全くない。

しかし、2020年度に新しい学習指導要領が始まり、文科省として英語を小学校でも主要教科にしたいのだろう。そのためには映像(動画)を何としても導入したいというホンネが見え隠れしているように思える。

さらに、コンピュ-タやタブレットを操作するプログラミングの技術も小学校から必須にするというから、英語とコンピュ-タの比重が大きくなり、ますます国語的学習の重要性は薄れていきそうな気配が漂う。

プログラミングはともかく、現職時代、『畑と英語とコンピュ-タ』というキャッチコピ-で学校運営をしていた私は、全ての家庭と学校をインタ-ネットでつなぐ実証実験をしたことのあるので、デジタル教科書が普及すれば文字や写真を拡大でき、音声や映像(特に動画)と一体で学ぶことで、英語の発音を聞いたり、算数で図形を動かしたりできるだけでなく理科などでは飛躍的な指導ができることは理解できる。

その意味では、文科省の方針に頭から反対するわけではないが、予算の裏付けが全くなく、タブレットやパソコンは自治体や保護者負担で進めるというところが、この役所のお粗末でいやらしい体質丸出し。全く納得できない。

『義務教育はこれを無償とする』ということは、憲法で高らかにうたっている。しかし、現実は、無償になっているのは授業料と紙の教科書だけで、その他学校で必要だとされる全ての費用は保護者負担になっている。

今までも繰りえし述べているが、学力(実際は通知表の〇の位置)を調べるためのテストすら市販テストを保護者負担で購入しているのも許し難い。保護者もこのあたりに声を上げるべきだろうと思うのだが、『どうぞ市販テストで自分の子どものダメさ加減を調べてください』というのだから何をか言わんやというところ・・・。

学校教育に『給食が絶対に必要』なら、憲法の精神からはこれも無償にしなければならないはずなのに、この声を出さないのも変な話。制服も部活にかかる道具や楽器も全てが保護者負担、自治体は少ない予算規模から、『就学援助』というささやかな支援をするだけで、国は知らんふり・・・。

デジタル教科書の効果は否定しないが、その費用負担が自治体となると、現在でも、コンピュ-タはもとより、端末やネットワークの整備では自治体間で格差が大きいのに、その上デジタル教科書を導入するとなると、豊かな自治体と、財政難の自治体とで格差が広がるのは目にみえている。

文科省のやり方は見えている。まずモデル校を作って実証実験を進めるだろう。学校の選び方は今まで通り、あらかじめ先進的な実践を行えるように優秀な教員を配備した学校であり、そこには発言力のある校長を配置していることも・・・。

すでに、モデル校候補も決まっているのでは。そこで実験して、打ち合わせ通り『大きな効果が期待できる・・・』という結果を出す。そのデ-タを元に自治体にデジタル教科書の導入を求めるという筋書きだろが・・・。

財政難の自治体は、とてもデジタル教科書など揃えられないだろうから、タブレット端末などの代金なども含め、保護者にお願いするしかないのでは・・・。これでは憲法に違反することは明らかであり許せない。

 さらに、文科省は『2010年代中に1人1台の端末による教育の本格展開に向けた方策を整理し、推進する』と言っているそうだが、実際に普及している(本来の教育とは違う意味の)スマホを念頭においているのだろう。

 国の方針として、無償でタブレット端末などを配るならばいざ知らず、ますます教育の質は経済格差と連動することになることは明らか。どうしてもデジタル教科書を普及したいのなら、せめて希望する自治体や保護者に対し、十分な支援をすべきだろうが、その手だてなどは何の説明もない。

パソコンやタブレットの機能は日進月歩どころか、一分一秒の競争といって良いほど進んでいるとなると、毎年のように機種の入れ替えも必要になりそうだ。このあたりにも全く触れていない。

さらに、子どもたちの体への影響を議論する場がないのも気になるところ。私がインタ-ネットを導入した時も、この不安があったことを思い出す。そのため教員や保護者とはよく議論したものである。

デジタル教科書は常時使ってはじめて効果が高まることは明らか。当然、長時間のデジタル機器の使用と脳の発達や睡眠への影響などもしっかり検証しなければならない。しかし、このことにも何ら触れていない。

 現在、教科書の立ち位置は,『教育の機会均等』を保証する唯一の実像である。そのことを忘れてはならず、『教育の機会均等』をこれ以上空文化することが確実な『デジタル教科書』を理念なく導入する必要は何一つない。文科省の拙速さは許し難い・・・。(杉)

2016年4月26日 (火)

耐震工事?私には無理な話・・・

震度7のダブルパンチの熊本地方の地震は、その震度は小さくなったもののまだ続いている。昨日も震度4を含めて20数回の有感地震と終焉を迎える気配がない。身体に感じる地震が、これまですでに900回を越すという異状さに、阿蘇山の大爆発が起きるのではと、何の根拠もないが恐怖感が生まれる。       

避難されている人々はもとより、周辺の住民は絶えず揺れる大地と家屋に、安眠などはとてもかなわず、ひたすら早く地震が収まってほしいと願うだけではないだろうか。

この地震で亡くなった多くの方には哀悼の意を捧げ、被災者の方々にはお見舞いを申し上げるしか能がないのが悔しい限り。この未曾有の地震に負けずに、何としても生き延びると強い力を持ち続けてほしいと願うばかりである。

今回の悪夢は14日の午後9時26分の『震度7』の報道から始まった。翌朝のテレニュ-スが現場の様子を映し出していたが、倒壊した家屋もかなりの数あったものの、多くの建物は激震に耐えていたように感じで被害は限定的な感じを受けたものである。就寝にはまだ早い時刻でなかったことが幸いして、住民は建物から飛び出し人的被害が少なかったようにも思えたが・・・。

気象庁が、『今後の余震には注意』と呼びかけたことから、人々が『本震』だと思うのは当然である。まさかそれ以上の揺れはないものと確信して多くの人は自宅に戻ったのだろう。それが仇となり、16日の未明の『震度6強(後日7に変更)』の揺れに耐えられなかった家屋の下敷きになって亡くなった方が多い。今度の地震の起き方が前代未聞で仕方ないとは思いつつ、気象庁に恨み言の一つや二つ言いたくなる。

耐震基準が改定されたのは1981年。我が家はそれ以前の建物だったので、当時、危ないのでは・・・と思ったものだが、まあ何とかなるだろうという安易な気持ちが強かったことをうっすら記憶している。現在もその気持ちは変わらず、ずっとそのままにしているが・・・。

それから10数年後の1995年に『阪神淡路大震』起きて『耐震補強』という言葉が広まり、人々の気持ちの中に、耐震補強をしなければ倒壊するという恐怖心を与えたものである。地震保険もこのあたりから本格的に動きはじめたのではなかっただろか。

しかし、耐震工事には相当な費用がかかることがあって、一般住宅の耐震工事はほとんど手つかずだったが公共建造物は話が別。次々と耐震補強工事が行われるようになり、区役所や学校など既設の鉄筋コンクリ-ト作りの建物にも軒並みH鋼やX鋼などが外壁に現れるようになる。

同時に『備蓄』という言葉も流行だし、学校では備蓄のために、一階部分の一番使い勝手の良い教室を開けなければならなくなったことも記憶に新しい。

一般家屋では耐震補強が必要だという話はずっと語り続けられ、次々に新しい工法が紹介されるのだが、いずれも、かなりの金額が必要なこともあって、スズメの涙的な補助金が出たとしてもなかなか庶民には決断できるものではなく、耐震補強はなかなか進まないのが現実のようだ。

今回、始めの『震度7』の地震には、耐震工事をした木造家屋は強かったそうだが、続いての『震度7』でほとんど倒壊。耐震補強を終えた鉄筋コンクリ-ト作りの建造物もその限りにあらず、いまにも倒壊するのではと思わせる姿をさらしている。

これでは何のために耐震補強工事をしたのかと思ってしまう。テレビニュ-スでは(大学の研究室での実験だろうが)耐震工事をしない木造住宅とすでに工事が終わっている同じ形の模型で、震度7の揺れを試していた。

始めの揺れで耐震工事をしていない家は倒壊するが、した方は倒れていない。しかし、次の揺れであっさりと倒壊する映像に、『何だし耐震工事をしてもしないでも同じではないか・・・』とつぶやいた人も多いのではないだろうか。私もその一人である。

解説によると、耐震基準は、繰り返しの揺れは『想定外』だったとのことだが、最近の災害は全て『想定外』のことばかりとなると、『耐震基準』という言葉の定義は、根底から変更しなければならなくのは必至。

現在の耐震基準でも、震度5強の地震で危ないと言われていた我が家であるが、3・11の揺れには耐えてくれたので、震度5までなら何とか持つのではと思っていた。しかし今回の地震のように、連続の揺れが襲うと、3・11で相当なダメ-ジを受けていることは間違いなさそうだから、それ以上の揺れに耐えられそうもない。

となると、せめて、震度6で倒れないよな工事が必要になりそうだが、傾いて住めなくなった家も多い映像を突きつけられては、相当な補強が必要になることは間違いない。国がそのほとんどの費用を補助してくれたらできないこともないが、先立つものがない私には無理な話。

同じように思っている人も多いだろうが、そんな人たちは、ただひたすらに、地震が起きないことだけを祈るしかないのだろう・・・な。(田舎親父)

2016年4月25日 (月)

志望校はカネ次第・・・

 最近は大学進学が当り前になっていることもあって、『入試センタ-』とか『共通一時試験』などという大学入試に関する言葉がかなりの頻度に耳に入るが、経済格差が広がり貧困層の家庭にあっては大学入試どころか、高校入試もかなり深刻な事態になっているという話をよく耳にする。

特に、高校の数が多く、その中から志望校を選べる都会地では、中学2年生ともなるとその高校に合格するために子どもと親たちの戦いが熾烈になっているという。

公立立中学校には進学指導というセクションがあって、その時期ともなれば、進学指導主任を中心に担任たちは、会議を重ねるのだそうだが、席上『この生徒の偏差値からみてA高校は大丈夫だろう』とか、『A高校はちょっと無理だから、B高校を勧めよう』などという発言が当り前に飛び通うことは公然の秘密。

担任と生徒、保護者の『三者面談』という会合が年間日程に組みこまれ、会議で作られたデ-タを元に、担任から厳かに『偏差値や部活などから、〇〇高校はいかがでしょうか・・・』などと伝えられることになる。その指針に対して納得する親子もあれば、もう少し偏差値の高い学校に入れたいと願う親も少なくないことは想像に難くない。

何とか良い高校に入学させたいのは親の情、そこで、『A高校は無理でしょうか・・・』とお願いすると、『私としては、悲しい結果にさせたくないのです』と担任から言われたらその場では矛をおさめるしかないという声も巷には溢れている。

そんな話が当り前のように拡散しているものだから、偏差値(テストの成績)をあげるために、中学校に入学するやいなや塾通いが当り前になってくるのも当然だろう。と書くと『お前は甘い、塾通いは小学校の低学年から始まっているぞ』という声が聞こえてきそうだが・・・。

そんな声をその通りだと認めたくないが、小学生の塾通いが当り前になっているのは事実なのだから悲しくなる。経済的に余裕のある階層なら、たいしたことではないのかもしれないが、格差が広がり続けている我が国においては、カネもコネもないサラリーマン家庭では、子供を高校に進学させるのには大変な苦労になっていることは、とっくの昔に子育てから離れた私でも納得できるのも悲しい話。

あるブログには、『塾に毎月1万2千円・夏期・冬期講習で約8万円とは高過ぎる』と書き込まれている。こんなに塾代がかかるのかと調べてみると、かえって安いぐらいだと知って愕然とするが、『嫁さんから、あんたの稼ぎが悪いといわれる』いう文面を並ぶのだから高校入試が家庭騒動に一因にもなっているらしい。

先日、都立高校を志望する受験生の親の話として、『受験対策をきちんとしようと思ったら、総額で年間20万~50万円ほどかかるのが相場だという』という記事を見つけたが、そこには、文科省の2015年調査でも、学校外の補助学習費(塾や家庭教師など)の平均は、公立の中3で年間37万9577円となっているという一文が加わっているから驚きである。

文科省がどんな調査でこんな細かい数値を出しているのか疑問があるが、なんとも凄まじい金額である。塾産業がここまで勢いづいている現実では、学習・進学塾連合に乗っ取られた文科省は、高校に合格したければ『塾に通うのは当り前』という発想を肯定しているのだろう・・・など皮肉りたくなる。

その記事の中で、『都立高校は、一定の所得以下だと就学支援金でほぼ無料になる。だけど、都立合格のためにみんな高い金をかけて対策をしてくるから、ウチも出せるだけ出さなきゃとかき集めたよ』という男性の声を紹介している。

切実なうめきである。都立高校に入学するために、塾に大金を投じなければならないとなると、塾に行けない家庭の子どもは、志望する都立高校をあきらめ、一段も二段もレベルが低いとされる高校を目指す?・・・しかないようだ。

話は少し飛ぶが、最近、『カネがないから私立』という、明らかに矛盾する言葉が流行っているという。進学塾に行けないことから都立を諦めて、初めから私立の偏差値の低い高校に照準を合わせる子も目立ち、その学費を稼ぐために、シングルマザ-たちは休日なしで、派遣やアルバイトを昼夜問わずしている状態を表す言葉なのだそうだ。

なんとも悲しい話だと思うが、『それでも、親が支えてくれている子はまだマシで、養護施設の子や親が教育に無関心な家庭の子はもっと難しい』となると、我が国の教育行政の貧しさに言葉さえ失う。

なるほど、今日陰湿ないじめや、やりたいことが見つからずに引きこもりが広がるのは当然だろう。

教育がマネ-ゲ-ムになっている現在、その敗者になった家庭の子供たちが救われない現在社会に、小さな希望すら見いだすのは難しいだろうな・・・。

私が少年時代過ごした京都では、当時、蜷川知事の『15の春は泣かせない』という政策で決まった高校に進学するという『小学区制』を取り入れていたことを思い出す。

私は、小学区制の枠外の工業高校を選択したが、『15の春は泣かせない』という言葉の意味を真剣に考える時ではないだろうか・・・。(田舎親父)

2016年4月23日 (土)

義援金は本当に届くの?・・・

大きな自然災害が起きると、(言葉は悪いが)『待ってました・・・』とばかり始まるのが『義援金募集』であるが、今回も、かなりいろいろな団体や企業、自治体が先を争うように始めている。

先日、横浜の片田舎のJR横浜線の中山駅前で、日本共産党というのぼりを立てて、かなりの人たちが、大声で『ご協力ください・・・』と通行人に呼びかけていた。

共産党が募金活動をしている場に初めて出くわしたので少し違和感を覚えたものだが、このところ、この党の変身ぶりを評価しているので100円硬貨を数枚箱に入れたものだが、後でしまったと思うことしきり・・・

というのは、翌日のネット記事だと記憶しているが、共産党の衆議院議員だとなのる男がブログで義援金のお礼を述べていいた。その中に、『北海道5区の選挙に使います・・・』という意味のことを書き込んでいたことを発見。共産党の中にはこんなトンチンカンな議員もいることを知って驚いた次第・・・。

党の幹部からお叱りがあったらしく、すぐにその書き込みは削除されたらしいが、これは共産党の変身を評価している人々を裏切る行為。共産党本部は、集まった金額全てが被災地に送ったとのことだが、募金をした人々に『本当かな・・・』と不審を持たせないためにもしっかりした裏付けは必要だろう。

極端な話になったが、さまざまな支援団体や自治体が行っている今回の義援金であるが、本当に全額が被災者に届くのだろうかというと、疑問に思うようなことが多過ぎるようにも思える。

このことを裏付ける記事をネットで見つる。その中に、『日本赤十字社と共同募金会に届いた義援金は、被害に応じて、被災者に配られます。ただ、配られる対象は熊本県に限られ、重軽傷者26人が出ている大分県をはじめ、そのほかの地域は含まれていません』という文面が気になって、気合を入れて読みはじめる。

募金を集める大手に『赤い羽根募金』と『中央共同募金会』という組織があることは知っていたが、国費を投じて被災地を支援する『災害救助法』の適用を受けたかどうかで義援金を配る地域を決めることが長年の『慣例』になっているということは初めて知る。

『慣例』という言葉にも大きな違和感を覚えるが、今回被害が大きかった熊本県は、災害救助法の適用を受けたのだが、大分県は適用されていないので、両団体を通じた義援金は熊本県にしか届かないのでという。

何とも疑問が残る文面であり、大分県の被災者には両組織に集まる義援金は無関係とは納得できる話ではない。善意で募金に応じた人たちはこんなことを知っているのだろうかと首を傾げてしまう。

『日本赤十字社(日赤)を通じて、被災地に送ります』という呼びかけは、災害の度によく耳にする。また、『赤い羽根募金』を運営している『共同募金会』という組織の名前をお馴染みであるが、『中央共同募金会』という組織はこの全国版らしい。

つまるところ、お上のさじ加減でこれらの組織の動きが決まるとなると、何だか、募金そのものが、国の責任を国民に肩代わりさせているだけではと思いたくなる。被災県が今一番望んでいるのは,国が『激甚災害』の指定をすることで、この指定があれば、復旧のスピ-ドが早まることは間違いないという最大の問題が抜けている。

数年前の山口県の大雨・土砂災害では死者が4人、被災地域も限定的だったのに、即『激甚災害』指定が決まったのは、アホベ首相の地元だったからという声も日増しに大きくなっているが、事実ならなんとも情けない汚らしい話である。

有名なスポ-ツ選手や組織、あるいは芸能人達が義援金を呼びかけている姿を連日マスコミが取り上げテレビ各局は大々的に紹介している。その効果は抜群で,かなりの金額が集まっているらしいが、この届け先となると、結局のところ、『日赤』や都道府県の『共同募金会』に委託するしかなさそうだ。

『日赤』も『共同募金会』、そして『中央共同募金会』も、それぞれが膨大な人数(従業員)を抱えている組織だろうからその人件費も莫大になるはずに違いない。両団体とも、日常的に人件費を賄えるほどの利益を得る活動をしているとは思えないので、義援金の一部?が人件費になっているのは想像に難くない。だとしたら、組織を維持のために寄付をする?・・・。何だか騙されているような気にならないでもない。

『助け合う』ということは人間として当然である。ボライティアに応募して困っている被災者を助けたいと人を駆けつける人も多いことはマスコミが大々的に取り上げている。しかし、自分のような年寄りでは、かえって迷惑をかけるのが関の山と思っている人も多いはず。かくいう私もその一人であるが・・・。

結局できることは、被災地に届けと念じて、わずかばかりのお金を募金箱に金銭を投入するのだが、集まった義援金の一部(大部分かも)が日赤や共同募金界の組織維持に使われるとなると、熊本や大分のアンテナショップに出かけて特産品を買い求めた方が(そこの募金箱にお金を入れることも)その利潤が被災県の収入として入るのだから良いようにも思えてくる。

『日赤』や『共同募金会』以外にも、義援金を募集している団体や組織も数多い。被災者一人一人に確実に、しかも公平に届けられる組織があれば良いのだが、その真贋を見分けるの難しいとなると、結局は・・・となるのかもしれない。

なんとも夢のない話になってしまったが・・・。(田舎親父)

2016年4月22日 (金)

支援に『故郷納税』?・・・

 このところ、新聞紙上に『故郷納税』という言葉が溢れている。自分の支援したい自治体に寄付すると、自分が住む町へ支払う住民税が軽減されるという制度だとことに加えて、寄付を受けた自治体から魅力的な物品が送られてくるということが、広がりに拍車を架けているようだ。

 聞くところによれば、自治体からの返礼品目当てにこの制度を利用している人が多いのだそうだ。返礼品に魅力的なものがない自治体では、パソコンやタズレットなんて話も耳にするが、まるで、品物で地方を支援したい『心』を買うような行為である。

 私も故郷を支援したい気持ちはあるが、かといって、ほんのささいな額には違いないが、長年、横浜の片田舎の仙人生活が気に入り終の住処と決めている横浜への納税額が減ることには抵抗感があって、『故郷納税』には制度そのものに疑問をもっている。

 そのことはさておくとして、昨日の朝日新聞朝刊に『ふるさと納税で被災地応援 返礼品なくても寄付金急増』という見出しに目が留まる。

 記事を読むと、今でも続いている今回の地震で被災した自治体に、『ふるさと納税』の制度を使った寄付金が集まっているのだそうだ。被災した自治体にお金が集まるのだから、一見良いことのように思えるが、『主な2業者』が呼びかけているという部分を含めて、どうしてもひっかかるものがあるので、記事をそのまま引用してみる。

(引用始め)インターネットを通じて納税を仲介している主な2業者の申し込み分だけで、20日までに1億7千万円を超えたとある。/ふるさと納税を巡っては自治体の「返礼品競争」が問題視されていた。今回は返礼品はなくても短期間で多額の寄付が集まっており、被災地応援の仕組みとして改めて注目される。/仲介サイトの「ふるさとチョイス」(トラストバンク運営)では、熊本県菊池市や宇城市などへの寄付の申し込みが、20日までに4761件総額9884万円に達した。/ソフトバンクグループが運営する「さとふる」には、南阿蘇村などへ20日までに5385件7846万円が集まった。「関東からの寄付が5割程度を占める。予想していた以上の反響だ」(広報)という。ネットを通じて比較的簡単に申し込みができて、寄付金の使用目的も災害支援などに限定されていることが、評価されているようだ。(引用終わり)

今回は、魚や肉といった特産品の返礼はないのは当然だとしても、『業者も利益を出さないように配慮しているという』とあるところから推測すると、朝日新聞の記者は、業者から聞いた話として紹介しているようにも読みとれる。民間業者が直接金銭的な利益はないとしても(ほんとうかな?)何らかの利益を得ていることは疑えない。

また、『被災地以外の自治体が、手続き面で協力するケースも出てきている。福井県や茨城県境町ではふるさとチョイスと連携して寄付金を募り始めた。いったん寄付金を受け取って証明書を発行し、あとから熊本県に送るという』という文面は、私にはすんなり受け入れないものがある。

福井県が寄付された金額をそのまま被災自治体に送るのなら話は分かるが、寄付をしてくれた人に無断でそんなことはできないだろうから、福井県として業者を通して、被災地への故郷納税を呼びかけることだろうが、こんなことが大々的に広がったらダメ-ジを受ける自治体も多いはずではないだろうか。

 『故郷納税』で寄付を受けとる自治体は、事務手続きが面倒だそうなので、親切心からその手続きを引き受け業者と提携して、寄付をつのるのだそうだが・・・。

どうも納得できないので、『ふるさとチョイス』と『さとふる』で検索してみた。両方とも、熊本地震への支援義援金とあり、受け入れ自治体として、片方は,宇土市・大分県・菊池市・宇城市とあり、一方は、菊池市・南阿蘇村とあるが、被災した自治体はここだけではないのに、業者が呼びかけているのはこれらの自治体だけ。何とも変な話ではないだろうか。

 どうしてこれらの自治体だけなのだろうという素朴な疑問が浮かぶ。業者は被災自治体に話を持ちかけ、了解を得たのがこれらの自治体?なのだろうか・・・。

被災自治体を支援することは当然だが、まず国が率先するのが筋だろう。被災自治体がもっとも願っているのは、国の『激甚災害』の指定である。

指定に前向きだという言葉だけで、なかなか動かないのも許し難いが、そもそも地方自治体を支援するなら、膨大な予算を握っている国が交付金を増額すれば良いことであって、『故郷納税』という制度を作って自治体格差を広げることではないはずだろう。

私が世間知らずだけなのかもしれないが、『故郷納税』制度は、今回の動きが加わって、ますますひっかかることが多くなる・・・。(田舎親父)

2016年4月21日 (木)

避難場所に学校の名前が少ない?・・・

 エコノミ-症候群について、昨日の朝日・毎日の両新聞の社説が、『心配された事態が足早に現実のものとなった』『心配されていた事態が現実のものとなってしまった』と同じような書き出しで取り上げている。

 両社説は、劣悪な環境でも、身体を動か差なければならないと述べている。このことは間違いではないが、動かせる心理でないことに対してはいま一つ説得力ある文面がないのが気になるところ。

 身体に感じる地震がすでに700回に及ぼうとしているという。1時間に数回の割合でガタガタと余震がある大地震は過去に例がない。それどころか、ひょっとして本震はまだなのかもしれないと気象庁が発表しているのだから、住民としては恐怖におののくのは当然だろう。

これだけ揺れる回数が多いと家の中にいたくない気持ちは十分うなずける。14日の震度7の地震後に余震がくるのは覚悟していただろうが、震度6(昨日になって震度6ではなく7だと訂正したのも変な話だが)ながら、威力的には16倍ものが襲ったものだから、前の揺れに耐えていた家屋がバタバタと倒れたのもうなずける。その後も間断なく大きな揺れがくるとなるといつ崩れるか分からない。

加えて、気象庁が『こちらが本震』と前代未聞の訂正までしたものだから、さらにでかい本震がくるのではと疑心暗鬼になり、建物の中に入りたくない気持ちになるのも十分過ぎるほど理解できる。

しかし、避難しなければ命が危ないとなると、避難所や車の中で過ごさざるを得ないのだろうが(昨日もつぶやいたが)食べ物や水は我慢できてもトイレを我慢することは不可能である。エコノミ-症候群で搬送されるのはほとんどが女性であるのは、本能的にトイレを我慢することが大きな要因に違いない。

 これまで九州地方は地震が少ないこともあり、また起きる可能性が小さいと専門家筋も明言していたこともあって、住民はもとより自治体が地震に対する備えが不足していたのかもしれないが・・・。

 今後、簡易トイレも急増されるに違いないだろうが、劣悪な条件かの避難所や車の中での生活が続けば、エコノミ-症候群も多くなることは予想できることなので、是非お互いに声を掛け合って身体を動かしてほしいものである。

話は唐突に飛ぶが、私は以前から、鉄筋コンクリ-トの学校が地震に強いのは、たかだか4階建で横につながる構造が揺れを受け止めやすいからだと確信している。

実際に、阪神淡路大震災では、高速道路が崩落している光景の中で、学校(特に小学校)の被害は、一部の外壁にひびが入ったり体育館の天井が崩落した程度で、大きな揺れが収まるまで避難所としての機能を果たしたことを、実際にこの目で確かめている。

私がそんな考え方にこだわるのは、学校の建築基準は一般に比べて2倍程度厳しくなっていることと、施行業者も学校が倒れたら、その業界に生き残れないという不文律があり、一般建築以上に真剣に取り組むということを、業者の会合で確かめたからである。

『学校に耐震強度補強など必要ない。今のままで、震度7でも耐えられる』というホンネを語り聞かせてくれたことが頭から離れない。だから、私は、現職時代で『揺れが収まるまでは絶対に教室から動くな。学校は倒れない・・・』と教職員には繰り返し語りかけてきたものである。

今日もまた散漫な文章になっているが、言いたいことは日本全国に存在する伝統のある小学校は、その地域で一番安全な場所に建てられていることから、あらゆる災害に強いということである。しかも、必ずプ-ルというトンデモ量の水を備蓄しているので、たとえ断水しても工夫次第で何とかなる。

地震に強く、しかも水の備蓄があるとなると、子どもの数が少なくなったとしても、小学校(中学校も同じだろうが)を簡単に廃校にするのではなく、維持することが大局的にみると危機管理につながるという基本的な発想を失ってほしくない。

もっとも、必ず全ての小中学校に校長や副校長が必要だというアホな考え方は捨てるべきだろうが、これはまた別の話。

過疎に悩む自治体であっても、そのことを頭に入れて、避難計画を作成してほしいものであるが、今回の避難所に学校の名前が少ないことが気になる私である・・・。(田舎親父)

2016年4月20日 (水)

増えるだろうなエコノミ-症候群・・・

 エコノミ-(クラス)症候群とは、エコノミ-クラスにしか乗れない私のような老人にとっては何とも差別的なネ-ミングであるが、この言葉の持つ響きが、狭い空間で長時間の我慢を強いられるという環境が目に浮かび、どんな症状なのかが想像できるので(ある意味)言いえて妙というのも悲しい限り・・・。

 この言葉の語源は飛行機のエコノミ-クラスからきているのだそうだ。その席は、常時シ-トベルトに固定され自分が占められる空間が極めて限られているの。自由に動き回ることはできず長時間座ったままの同じ姿勢を強要されると、静脈に血栓ができ肺を圧迫し、突然的に死亡する恐ろしい病気であると言われている。

 要は、同じ姿勢を長時間続けることによる病気だと理解して間違いないようだが、最近は、飛行機のエコノミ-クラスにしか乗れない人々よりも、災害で避難を余儀なくされた避難者の病気として知られるようになっている。

 今回の被災者の中にも、やはりこの病気で亡くなった人が出た。昨日の報道によると、自動車内に避難していた51歳の女性が車から降りた瞬間に倒れ、いきなりいびきをかきはじめたという。救急隊が病院に搬送したそうだが、そこで死亡が確認され、死因がエコノミー症候群であることが判明したそうだ。

同じような症状で病院に運ばれる人も多く、熊本県は、把握している限り20数名にのぼり、そのうち意識不明者は3人と発表している。車での避難者は実態を把握できていないというから、実際はさらに深刻な事態になっていることは明らかである。

大災害でまず起きることは停電である。現在の便利な生活は全てその基盤が電気であることは論を待たないが、停電すると全ての施設設備がコントロ-ル不能になり、パニック状態になるのは自明のこと。

大地震が起きると水道もガスもストップしパニック状態になることは、首都圏で生活している私でも経験したことがあるので、被災された人々の大変さは十分とは言い難いながら想像できる。

避難所にたどりつきさえすれば、しばらくの我慢で少量や水にありつけるだろうが、排泄という整理減少は我慢に限界があるのは今更述べにことではない。しかし、現在は全てのトイレが水洗となると、避難所生活では用を足すこともままならない。

避難所のトイレは数が限られているのだから、人々は何とか排便・排尿の回数を減らそうとするのは当然だろう。そのため水分を控えて、できるだけ動かないようにするのもよく分かる人間心理。

この同じ姿勢を長時間保つことがエコノミ-症候群につながる。特に女性はその傾向が顕著であることも想像に難くない。まして、車で寝泊まりとなると、回数を減らそうとするだろうから、その危険性はさらに大きくなる。

避難所の数とそのスペ-スにもよるのだろうが、プライバシ-の確保や、特に最近はペットと一緒に過ごしたいと願い、あえて車中で寝泊まりをする人が増えているというから、エコのみ-症候群は、大災害が起きるたびに問題になっているのも気になるところ。

話は飛ぶが、阪神淡路大震災の避難所になった小学校では、プ-ルの水を運んでトイレに使ったことはよく知られた話である。その意味でも、学校が避難所に選ばれるのはなるほどと納得するが・・・。

今回も小中学校が避難所になっていることは十分想像できるが、マスコミ報道から感じることは、学校以外の避難所が多いことが少しひっかかる。

広い範囲で学校が少ないこともあるだろう。こんな大地震を想定していなかったこともあるだろう。

自治体としたら、できるだけ近く便利で頑丈な建物という基準で選定したのだろうが、そこには学校程のトイレの数はない。プ-ルもないだろうから、即トイレ問題が起きるのは当り前で、これもエコノミ-症候群の遠因になっているのではないだろうか。

まして、指定されていない場所や車での避難生活の人々が多いという今回の避難形態では、今後ますますこの症状で亡くなったり、苦しむ人々が出てくるのではないだろうかと心配している。

このことについては別の機会に・・・。(田舎親父)


2016年4月19日 (火)

対応の拙さが目立つ・・・

 熊本・大分地方の地震群の活動が収まらない。つい先程も、震度4が報じられて、これまで身体に感じる地震の総計は600回にも及ぶというから異状も異状。私には、何とか早く収まってほしいと願うだけしかできないのがもどかしい。

 避難を余儀なくされている人たちは、少し減ったようだが、それでも10万人もいるという。大きな揺れが身体に恐怖心をとどまらせるのだろうが、車で寝泊まりをしている被災者も数多いと報じられるが、その心理は想像に難くない。

この人たちは、避難者としてカウントしていないこともあり得るだろうから避難者の数はさらに増えるのではないだろうか。

停電箇所も少なくなったというが、水道の復旧は遅れているようだ。『2時間並んで3リットルの水をもらった』と新聞記事にあるが本当なのだろうか。一方では、全国から大量の支援物資が続々と被災地に届き、倉庫に市販飲料水のダンボ-ルが山積みになっている映像が流れているのもイライラがつのる。どう考えても、行政と被災者とのミスマッチが起きているのは明らかである。

今回の大災害で、政府の対応の拙さというか、政権側の思惑が透けて見えることが多いのも気になるところ。

国民の命を守る災害応急対策は政府の最も重要な役割であることは論を待たないが、誤った避難指示などは住民の命を守るどころか危険に追いやることは、福島原発事故では嫌というほど思い知ったはずなのに、地震発生に対して『全避難者の屋内避難』は、学習能力がないという以前の話で、あまりにも情けない。

熊本県知事が『余震が怖くて部屋の中にいられないから外に出るのは当り前だろう』と激怒したのは当然だろう。恐らく、国が出した『屋内避難』などした人はいなかったはずだと受け止めているが、これでは国に対する信頼感が亡くなるのは当然だろう。

後で防災担当大臣が、『雨の予報で土砂崩れの可能性もあり屋内避難の必要があった』と言い訳しているが、実態を把握できていないが『とりあえず指示を出す』のがこの国のバタ-ンだとしたら、国民の命を守るどころの話ではない。

大きな内陸地震が起きた場合、自衛隊を逐次投入するのではなく当初から大規模派遣を検討すべきことも、これまでも何度も指摘されたこと。

徐々に人数を増やして、政府の本気度を訴えるのはこの政権の得意技なのだろう。自衛隊という強力な手段をもっているのにもかかわらず、アメリカから支援の申し出に、すぐに飛びつき、他の輸送手段はあるのにもかかわらずオスプレ-を全面に出したことは何とも、国民のオスプレ-に対する違和感を薄めたいという、極めて汚らしい演出であることは間違いなさそうだ。

さらに恐ろしいのは、『憲法を改正して、非常時に権限を内閣に集中する緊急事態条項の作成』という動きである。こんなことが通ってしまったら、今回を例にとると、『屋内避難指示(命令)』を守らないのは犯罪者になってしまい、助かる命が、国によって奪われることになる。まさに戦前の姿に逆戻り・・・。

活断層群の末端に位置する川内原発を、未だに、安全だと強弁して動かし続けているが、地震活動が南西に伸びていることから、こんなことをシラッとした顔でのたまう担当大臣の心は悪魔に奪われているに違いない。

いや、本心はヒヤヒヤながら、大将には逆らえないというところかもしれないが、もしもの時,この輩は、どんな言い訳をするのだろう・・・。そんな悠長なことを言っている時間はない。すぐに止めなければ大変なことになる可能性は大であることは誰の目にも明らか。しかし、マスコミの声は極めて小さいのは大将には逆らえないというところとなると、すでに情報統制は極めて危険なところまで進んでいるようだ。

恐ろしい話であるが・・・。(田舎親父)

2016年4月18日 (月)

異常な地震群の活動が収まらな・・・

 14日の午後9時26分、M・6.4の大地震で始まった今回の熊本の地震群。翌未明にはさらに規模が大きな地震が、ほとんど同じ地域で起こったこと自体異状なのだが、M・7.3の後から起きた地震が『本震』にしたというのも前代未聞。

一番大きな規模の地震が『本震』という定義だそうだから、理屈には合っているが、『前震』とは、これまであまり聞いたことがない。それだけに今回の地震群は異状続き。

 連日テレビが伝える惨状が物凄い。震度7を始め、震度6や5の地震が続けば、ほとんどの家屋がダメ-ジを受けるのは当然で、何とかしのいでいても、震度3、4の地震がここまで頻発すれば、持ちこたえられることは奇跡に近い。

 M・7.3というと阪神淡路大震災主時規模なので、甚大な被害が出て当然だろうが、それにしても、あの頑丈な『阿蘇大橋』が完全に姿を消すとは誰も予想していなかったに違いない。

このあたりは私が昨年、車で走ったル-トとほとんど合致するので、一際思い入れがある。そのル-トを記録などと照らし合わせて辿ってみると、熊本空港からレンタカ-国道56号線を通り、阿蘇大橋の手前で右折 阿蘇山の領域に入り米塚を左にみて『草千里』まで入る。20年も前の話になるが,友人が噴火ガスで即死したことがあって、なんとしても阿蘇に登りたかったのだが、入山規制では仕方ないとあきらめる。

下りのル-トは米塚を右にみて阿蘇バノラマラインを通り阿蘇駅前の交差点を右折、踏切を越えて左折して、内牧温泉を通り大観峰で、阿蘇の雄大な風景を眺めながら昼食を兼ねて大休止。まさか、地震であたりの景色が一変するなどとは想像もせず、阿蘇の大さにひたすら感動したことが鮮やかに蘇る。

その光景は一変している。阿蘇大橋ではその渓谷の深さにビックリして、よくぞこんな橋を架けたものと感心し他ものだが、今回のテレビの映像をみる限り、大規模な山崩れの爪痕が痛々しいが橋の痕跡は何もない。

その後、ミルクラインという道路を通り阿蘇神社へ。日本三大楼閣を持つ神社というのでゆっくりと見学して、国道56号に戻り竹田まで・・・というコ-スであるが、まさに今回の地震群で大被害のあったど真ん中を走ったことになる。

阿蘇へ向かう途中、東海大学の看板が目に入り、こんなどころまで進出していることに驚くと同時に、学生が集まるのだろうかといらぬ心配をしたことも蘇る。雄大なすそ野に草を食む牛と馬の群れ。民家はほとんど全て黒瓦の堂々としたつくり、豊かな地域なのだと感心し、こんな場所に住んで見たいと思ったことも思い出す。

ここまで書いてきて後が続かない。何を言いたいのかも分からなくなってしまった。私のできることは、亡くなった人々のご冥福を祈り、被災者の方々には心からのお見舞いを述べ、ささやかな額の寄付をする程度。あの惨状みる限り、復興なとという言葉を口に出すのもはばかれる。

今なお、断続的に震度3、4の地震が起きているのだから、気持ちが落ち着くはずはないだろうが、何とか気持ちを強く持って、この窮状を脱してほしいと願うのみ・・・。

一刻も早く揺れが収まり、被災者の方々はもとより、近隣住民、そして、救助に全力を上げておられる地元や全国から派遣された医師や看護士、警察や消防、そして自衛隊員と関係者の皆さまに、せめて一時的にもホッとした時間を与えてほしいものである。(田舎親父)

2016年4月16日 (土)

今度は九州・・・

 一昨日の夜、突然熊本を襲った震度7の地震には驚いたが、今朝未明にさらに追い打ちをかけるごとき、M・7.3の大地震がほぼ同じ地域を襲い、その惨状を伝える映像が、目の前のテレビが朝からずっと流れ続いている。

一昨日の地震で9人、今朝未明の地震ではさらに9人の方がお亡くなりになったとのことだが、私には(悲しいことながら)ご冥福をお祈りするしかできることはない。

一昨日の地震の規模は6.4だったことから、今朝の地震が本震だということだが、さらに大きな、本当の本震が起きない保証はない。怪我をされた方の一日も早いご回復を願うばかりである。

また、避難を余儀なくされている方々はもとより、地面が間断なく動く地域の住民の方々は、まさに生きた心地がしないのではないだろうか。心からお見舞い申し上げる。

この地震の震源地近くを、昨年10月、先輩の遺影にお線香を手向けるために、竹田を訪れたので、地形などだいたいも様子は記憶に新しい。阿蘇神社にも立ち寄ったが、その神社の楼門が完全に崩落している姿に呆然とする。

今朝の地震の被害がさらに広がっているので、築城の名人と言われた加藤清正が心血を注いで造営したと言われている熊本城も無残な姿のその後は報じられていないが、相当なダメ-ジが進んでいるのではないだろうか。

400年後にこんな大地震が襲うとは、さすがの清正も想像できなかったのではないだろうかと思っていたら、今朝の天声人語によると、(私は知らなかったが)明治22年に熊本に大地震があり、やはり石垣などが崩れたことを知る。ということは、丁寧に調べれば、日本中安全な場所はないということだろう。

この連続地震は、専門家に言わせると、2本の活断層が動いたのだそうだが、その一本の南に伸びた先にあるのは、まさに川内原発。そして北東には大阿蘇。なんとも不気味な予感がする。

断層が動く地震のタイプは、たとえ規模がM・7程度であっても、関東大震災や阪神淡路大震災、あるいは今回の熊本大地震が示す通り、物凄い被害を与えることは誰の目にも明らか。

震源はいずれも10キロ程度と浅い。震源が二本の断層にそって震源が動いていることの重要性から、まずは川内原発を速やかに停止して、改めて直下型の地震に対する安全に対する対応を強化すべきだと思うのだが・・・。

 それにしても、20年前は近畿、5年前は東北、そして今回は九州となると、次は首都圏では。人間の数が多いだけにどれだけの被害になるのだろうと考えると背筋が寒くなる。

改めてめてこの国は地震の巣であることを思い知り、全国どこも安全なところはないことをもう一度認識し、次は我が身と気持ちを引き締めなけれならないのは当然だが、一体何をしたら良いのだろうと不安になる。

国民一人一人がいくら努力しても、肝心の国が、お題目がごとく『原発は安全』と繰り返すのばかりとなると、万が一、川内原発はもとより、周辺の3つの原発が・・・。

暗い想像が広がる。(田舎親父)

2016年4月15日 (金)

自治会で保育園を・・・

『保育園落ちた・・・』というブログが大きな反響となって、待機児童が社会問題となっているが、先日、新設予定の保育園が、『子どもの声がやかましい』などと住民の反対で建設断念に追い込まれたという記事に、子どもの声が工場の騒音と同じに感じる人が多い現代の異状さに嫌な気分にさせられる。

この問題は、テレビのニュ-スやワイドショ-も競って取り上げている。住民のインタビュ-も数多いが、子どもの声が煩いというより道路が狭く危険性を訴える声が多かった印象を受ける。

また、住民説明会の様子を紹介するブログには、子どもの声が煩いと発言した人は一人なのに、それが全体の意見にされてしまったとある。どうも、自治体や法人として建設断念の理由を『住民の反対があったから・・・』と責任を転嫁した方が、世間の同情を引きやすくすんなり撤退できる?・・・。あり得る話ではないだろうか。

現場は、JR本八幡駅から約1キロの閑静な住宅街らしい。随分古い話なので、具体的なことはすっかり忘れてしまったが、この駅を利用して、当時の上司の自宅に何度が訪問したことがある。

曲がりくねった狭い道を15分ほど歩いた記憶が蘇るので、正確な場所は別にしてもほぼ似たような町並ではないだろうか。このことはブログに掲載されている写真と妙に重なり、このような道幅が狭い道路脇に保育園ができたら、交通事故の心配があることから、反対したくなるのも当然だろうなと思わないでもない。

この保育園は、松戸市の社会福祉法人が3月に木造2階建ての園舎を完成させた上で、4月1日に定員108人(0〜5歳児)で開園する計画だったというから、かなり大規模な計画である。

保育園は保護者の送り迎えが大原則だろうから、108名の定員となると、少なくとも朝夕は、108組の親子がこの場所に集中し、住民も同時刻は通勤・通学に使うだろうから、相当な混雑になることは間違いない。

法人側は、『車の送り迎えは禁止』と説明していたそうだが、自転車までは規制できないだろうから、朝のラッシュ時に、乳幼児をおぶったり、補助席に乗せた保護者の自転車が、少なくとも100台以上集まるとなるとこれは住民でなくとも考えさせられる。

保育園を新設しなければ、待機児童が減らないことは当り前だから、保育園が今後増えることは当然だが、大規模保育園となると、土地を確保することが難しく、結局は今回のような場所しかないのかもしれない。

隣接する道路の幅が3~4メ-トルだとしたら、車もすれ違うのに苦労する。子どもの声が煩いという以前に、危険ということが反対の主な意見になったのでは計画断念も当然かもしれない。大規模保育園建設では、今後も、よほど条件の良い場所でないと住民の反対で、断念というこの種のニュ-スは続きそうだ。

かといって、保育園という以上、保護者の通勤にとって便利な場所でなければ成り立たない。できれば駅近く、最低でも徒歩圏にとなると、まず土地の確保が大前提だろうが、待機児童を抱えている自治体は、今回の市川市のように東京のベットタウンとなると、すでに住宅が建ち並んでいるのだから、ますます難しくなるのは目に見える。

横浜の片田舎の場合、以前も述べたことがあるが、極端な表現をすれば、『数ヶ月前に通った道にはなかったのに、昨日には新しい保育園から賑やかな子どもの声が・・・』というほど、増え続けている。

駅前のマンションの一階という場所も相当数あるが、規模が小さい保育園が駅近くの住宅街の中に発見することがほとんど。この町では、どうやら保育園建設にはおおらかな雰囲気があるのかもしれない。また、預かる子どもの数が少ないこともあって、煩いとか危険だという声が少ないのだろう。

こんなことを考えると、『地域の子どもは地域で育てる・・・』ということが大事であり、そのためにも、大規模保育園を建てて園児募集という看板ではなく、小さくても良い、できれば隣近所に住んでいる子育て中の保育士資格保持者が、自分の子どもと一緒に勤められるような保育園を増やしたいものである。

もっとも、その前提が、保育士の大幅な待遇改善であることは論を待たない。待機児童を減らす根本がここにあることは分かっているはずなのに国の動きが鈍い。

唐突に話は飛ぶが、最近、『町の自治会』の問題がかなり話題になっている。このことは改めて取り上げるつもりだが、『自治会に保育園』があれば、待機児童も解消の一助になりそうな気がするのだが・・・。

私の住む住宅地には60坪ほどの空き地がいくつかある。広い公園もあるから遊び場も不自由しない。小さな保育園なら十分だろう。保育園ができたら、親元を離れた子育て中の子ども世代が戻ってくることも可能性は大である。

う-ん。この提言は悪くないぞ・・・。(田舎親父)

2016年4月14日 (木)

結局は例のごとく『〇増〇減』・・・

先日の関連になるが、公明党は、衆院選挙制度改革のとりまとめを急いでいる衆院議長に対して、今まで主張してきた2010年からアダムス方式という案を引っ込めて、自民党が示した、先送りにすることを容認したようだが、予想していたこととは言え、またか・・・と暗い気持ちにさせられる。

『アダムス方式』とは、人口比を正確に反映する形で議席を配分する、現在ではもっとも進んだ方式らしいが、自民党はこの方式を議長のメンツを考えて仕方なく受け入れたものの、その実施を2010年の国勢調査を元にするのではなく、2020年のそれに基づくというものだから、何としても先のばししたいという思いアリアリである。

公明党は、この方式を2010年の人口統計でするという民進党の提案に賛成していたらしいが、やはりヌエ政党ぶりを発揮して、結局は自民党の案に同意したというから、今の国会で、現政権のお得意技である『数の力』で自民答案が成立するのだろう。

民進案は最高裁の指摘している『違憲状態』の解消のために、10年国勢調査に基づきアダムズ方式を導入し、小選挙区で『7増13減』、比例代表『1増5減』として定数10減を行うというもらしいが、自民党案は、最高裁の指摘した『違憲状態』を切り抜ける言い訳として、当面ギリギリ案として、1票あたりの人口が少ない順に6県の選挙区を1ずつ減らす『0増6減』という案に加えて、そして、比例代表も人口比から4つの比例区からそれぞれ1減し、民進党と合意している10減とするのだという。

これで『アダムス方式』を受け入れた結果だといっているようだが,ホンネは地方関係議員の反発を少なくするため大幅削減は避けたいということだろうことは私でも推測できる。

 一応、口では『20年の国勢調査後にアダムズ方式を導入する』と言っているが、実際の衆院選に適用されるのは22年以降となる見通だそうだから、事情が変わることも期待しているのではないだろうか。しかし、この間に、解散がある衆院選が何回あるのかはっきりしないとなると、その都度、『一票の格差』問題が起きることは間違いなさそうだ。

 今、アホベ政権は消費税増税やTPP問題などを都合よく『国民の判断』というわけの分からない理由をつけて、自民党にとって圧倒的有利になるこの夏に行われる参院選挙と同時に行うのではないかとマスコミは騒いでいる。

 これまでの経緯から、政治音痴の私でも、多いにあり得るだろうと思っているが、今国会で『0増6減』と『0増4減』の,定数を10削減する案が成立しても、即施行はないだろうから、同時選挙となると『違憲状態』で行われることになりそうだ。

 先日もつぶやいたように、すでに、『法改正で改革の道筋さえつけておけば、裁判所は違憲判決を出さない』という合意はないだろうと信じたいが、『違憲』であっても『選挙無効にはしない』程度の了解は取り付けていることはありえそうだ。

私は以前もつぶやいたことがあるが、小選挙区制度には無理があり、都道府県という枠を崩すのは民意無視だと考えているので、むしろ議員歳費を全体的に変えず議員定数を増やして一票の格差を少なくする方法が良いと思っている。

その意味で、一票の格差だけを問題にするのではなく、選挙制度そのものを根本的に改める必要があると主張しているので、もし同時選挙が行われたとしたら、結果はともかく司法、特に最高裁の姿勢に注目したい。

その結果、推測通り『違憲だが、選挙のやり直しはない』という判決だったら、やはり司法は行政の下請け機関ということが明確になったこと。

無責任な言い方だが、それも面白いだろうなと覚めた目で、同時選挙を楽しみにしているのだが・・・。(田舎親父)

2016年4月13日 (水)

この判決はひっかかる・・・

先日、2005年に栃木県で小学校1年生の女児を誘拐・殺害した事件で別件逮捕され取り調べ段階で殺害を自供した男の裁判員裁判があり、結果は検察側の求刑通り『無期懲役』というニュ-スが話題になった。

この事件は、私が『ボケ防止のための独り言』を始めたきっかけになった事件だけに、かなり気になっていたこともあって、かなり鮮明に覚えている。

当時の独り言は、『日本の優秀な警察が懸命に捜査をしているのだから犯人が逮捕されないということ考えられないが、それにしても未だに両県警は有力な手がかりを掴んでいないような報道である』という書き出しで始まっている。

そして、退職して間もない時だったこともあって、経験上、警察犬がわずか数十メ-トル先で、突如痕跡を追いかけられなくなったということから、ここで、車で拉致されたことは明らかだが、見知らぬ男の誘いに女の子が車に乗ったとは思えないと続けている。

しかも当日、祖母が迎えに行けないという事情があり、女の子が一人で帰宅することを知っていた人物が犯人ではと推理したが、警察はそんなことはすでにお見通しだろうから、すぐに犯人は逮捕されるだろうと綴っている。

しかし、その後も犯人逮捕というニュ-スはなく、警察のなんとも情けないようなミスが続いて、ついには有力情報には数百万円という報道に、ひょっとして、『迷宮入』になるのではと危惧したことを思い出す。1年、2年と時は過ぎると共に、事件はすっかり忘れられたような扱いになったのだが、私のボケ防止文のきっかけになったこともあって、ずっと気にかけていた。

 それから約10年過ぎた一昨年6月、事件は、その年の4月に別件で逮捕された32歳の男が犯行を自供と急転するのだが、私は身近な人間が犯人だと思っていたので、女児と面識がなかったとのことがひっかり、有力な物的証拠が何一つないのに自供だけで本当に大丈夫なのかと危ぶんでいた。
 ひっかかった理由はそれだけではない。少し長くなるが当時のつぶやきを繰り返しておこう。

(引用始め)結果的に、私の推理は見事にはずれたが、何故、女児が男の車に乗り込んだのだろう。男にナイフを突きつけられて、恐怖のために動けなくなり、強引に車に連れ込まれたとしか思えないが、素人的に考えると、そのような場合でも何らかの痕跡が残り警察犬も動員した大捜査を繰り広げた警察が見落としたとは思えないのだが・・・。
 男は逃走経路を自供したという。新聞記事は、その逃走経路に設置されている防犯カメラに男の車が写っていることを、警察からの情報として報じているが、8年半前の防犯カメラの映像を誰がどのように保管していたのだろう・・・。
 現在では記録媒体の容量が限りなく大きくなっているので、その全てを保管することは可能だろうが、当時は、容量はさて置いてもそこまでシステムが完備していたとは思えない。警察が事件発生前後の近隣地区防犯カメラの映像を全て保管していたとすると話の筋は合うのだが、ならば何故、当時警察は精査しなかったのかという新たな疑問がわいてくる。
 この男は事件当初から捜査線上に浮かんでおり、任意ながら事情聴取したというから、車種やその存在を見逃していたとは思いたくないが・・・。
(ここからは事件とは関係ない部分だが引き続き、私のホンネが良く出ているのでそのまま引用しておく)警察の発表の仕方も少しオ-バ-気味なのも気にならないことはない。このあたりはそのうち明らかになるとして、女児が通っていた小学校では、この事件をきっかけに、登下校を保護者や地域住民、教師が見守る活動が現在でも続いているという。
 子どもを守るという動きはこの事件後、全国的に広がり、私の近くの学校でも保護者やボランティアの人々が下校時にあちこちで旗振りしている姿が日常的になっているのは当然だろうと思うが、この小学校の活動はそんなものではないようだ。
 下校時刻になると保護者が迎えに来るのが約束らしく、次々に校庭に車が乗り付けられるという。親がすぐ来られない児童は、隣接した建物で待ち、児童たちだけで帰ることはないとのことに、何故?という言葉が出てしまう。
 こんな凶悪事件の後では当然という声が多いのだろうが、8年以上こんな活動が当たり前として続いていることに驚く。前後の事情が全く分からないので何とも言えないが、保護者から負担の重さを訴える声が上がらないのが不思議である。
 子どもの安全を守るのは当然としても、この小学校の対応は少し過剰ではとこちらの方が引っかかる。うまく言葉で現せないが、わが国の治安はここまで悪くなっているのだろうか・・・。

(引用ここまで)

裁判員裁判での『無期懲役』の根拠は、捜査段階での『自白調書が信用できる』という一点であり、自白は警察に強要されたという被告の申し出は、『ウソ』と断定された。しかし、もしも判断が間違って『冤罪』であったとしたら、時間的にも、真犯人逮捕は間違いなく不可能だろう。今頃、真犯人がニタニタしていると思うとやり切れない。

できれば、この男が犯人であってほしいと願う気持ちはあるが、一度は自供したものの以後は一貫して否定し続けていることと、自供が警察の誘導であると裁判所が認め、気が遠くなるほど長い年月過ぎて『冤罪』が確立する事件も数多いとなると、今回もその可能性はゼロではないのではないだろうか。

70時間にもおよぶ取り締まりの記録を閲覧というが、取り調べはもっともっと長かったに違いないことに加えて、捜査段階であれほどのミスを連続した警察なのに・・・と思うと何とも気になることが多過ぎる。

 被告は即刻控訴する意思を発表したというから、真に事件が解決するためには、この先数年、下手すると数十年かかるのではないだろうか。それが、本当の意味での『真の・・・』となれば時間がかかっても仕方ないのだが・・・。(田舎親父)

2016年4月12日 (火)

43階から転落?・・・

 昨夜は新聞休刊日。テレビのニュ-スは『Gセブン外相 原爆慰霊碑に参拝』や水泳の『北島選手引退』などと、前夜の続きのような事柄ばかり・・・。そんな時はネットで面白い記事がないかと探すのが通例になっているので、朝からコンピュ-タの前に座る。

 『6歳女児が43階建てマンション最上階から転落し死亡 家族が目を離したすきに』という見出しがめに飛び込んできたが、またまた親の不注意なのだろうが、幼い子どもの死亡事故は何とも痛ましい。

 記事によると、事故が起きたのは10日午後2時50分ごろという。大阪市阿倍野区の43階建てマンションの敷地内で、小さな女の子が倒れているのを住人の男性が発見し、110番し病院に搬送したが、全身を強く打っており搬送先の病院で死亡が確認されたとある。

少女はこのマンションの最上階に住む小学1年の女児(6)だとのことだが、入学した直後の日曜日に、なんとも言えない暗い気分にさせられる。

女児は直前まで家族と一緒に居間でビデオを見ていたが、少し目を離した間に姿が見えなくなり家族が探していたという文面に違和感を覚える。警察の見解は、高さ約1メートルの手すりがあるベランダに通じる窓が開いており、女児が誤って転落した可能性が高いとのことだが、私には全く理解不可能なことばかり。

43階というから、地上150メ-トルはあるのではないだろうか。そんなマンションのベランダに、幼い女の子が一人で出られる構造になっていたのだろうか。しかも高さがたった1メ-トルのフェンスがあるだけとは、とても信じられる話ではない。

建築基準法などに知識はないが、一般マンションのベランダに設置するフェンスは最低でも1.2メ-トルと決められていると何かの本で読んだ記憶がある。以前も高層マンションから幼い子どもの転落事故があった時、マンションに住む複数の友人に確かめたところ、例外なく1.2メ-トルあったことから、これが最低の基準だと思いこんでいた。

43階(私には縁がないが)のマンションのベランダのフェンスがこれ以下の高さだとはなんとも信じ難いのだが・・・。

高層マンションといえば、私のごく少ない外国旅行の経験であるが、10年以上も前に息子がニュ-ヨ-ク勤務の時、一度だけ、40階建てマンションの20階部分の彼の部屋で宿泊したことを思い出す。

ニュ-ヨ-クでは20階など当り前らしいが、高所恐怖症でなくてもその高さに圧倒される。狭いベランダらしきものがあったような気もするが記憶ははっきりしない。

そのマンションの出入りは、頑丈な黒人の警備員が24時間監視し、しかも部屋の窓は20センチ以上開けることができない仕組みになっている上に、超強化ガラスがはめ込んであるので、治安上も構造上も極めて安全だと彼が話していたことははっきり覚えているのだが・・・。

そんな経験から、43階建てのマンションのベランダに小さな子どもが銃に出られて、しかもフエンスの高さが1メ-トルであり、それを承知で購入し住んでいるとしたら、今回の女の子は両親に殺されたようなものと言ったら言い過ぎだろうか。しかし、記事にあるように、子どもから目を離したとしたら、両親の危機管理意識ははおよそゼロといっても良いのでは・・・。

このマンションを建設した会社は、小さな子どもがベランダに自由に出られないようなロック機能はつけていたと信じたい。また販売業者もそのことは十分説明していたはずではないだろうか。

高層マンションのベランダや窓から幼い子どもが転落する事故はこれまで何度もあり、その都度対策が話題になるのにもかかわらず、同じような転落事故が続くのは何故なのだろう。親が我が家だけは安全だと思いこんでいるのかもしれないが、次は我が家という危機意識は持ちたいものである・・・。

子どもの転落事故を防ぐために、今度こそ、親の意識改革はもとより、根本的な転落防止のための施設設備の改善を進めてほしいものである。(田舎親父)

2016年4月11日 (月)

司法は行政の下請け機関?・・・

科学的な根拠も知識もないが、私なりに高浜原発と川内原発、どちらが自然災害に対して危険度が大きいのかと考えてみた。

地震に対しては、どちらも過去に大地震や大津波の記録はなさそうなので危険度は同じ程度と考えても良さそうだが、鹿児島県の川内原発の近くには、桜島、阿蘇、霧島と我が国の最大級の活火山があり、過去には周辺の地形が激変するほどの大噴火を引き起こしており、しかも、現在でも小規模ながら噴火を繰り返しているとなると、川内原発の方がはるかに危険度が高いといえるのではないだろうか。

原発が絶対に安全でないことは福島第一原発の大事故から明らか。事故から満5年たっても、廃炉への道筋どころか原子炉にも近づけず、内部の様子は全く分からない状態だというから、政府のいう廃炉までの行程などは希望的な数値を並べた架空のものだと断言しても差し支えない。チエルノブイリ原発事故から30年過ぎても、石棺をさらに大きなシェルタ-で覆う工事を進めているという事実からも、廃炉がいかに難しいかは誰もが理解できることだろう。

住民の起こした高浜原発再稼働差し止め訴訟に対して、大津地裁が『是』と判断したことに対して大拍手したのはつい最近のこと。すぐに関電は異議申し立てを行ったというが、その判断をするのは大津地裁の同じ裁判官だというから、再稼働にはかなりの時間を要することは間違いなさそうだ。

関電は、すでに今回の異議申し立てを大津地裁が『否』と判断することを見越して、控訴に持ち込む作戦だろうことは容易に想像できる。その後ろ楯になるのが、今回の川内原発差し止め訴訟で、福岡高裁宮崎支部が下した再稼働『是』の判断だろうことも・・・。

福岡高裁宮崎支部の裁判官は、巨大噴火のリスク評価や事故時の避難計画に問題があったとしても、九州電力川内原発の稼働には合理性があるというから、明らかに、福島原発の事故には目をつぶり、原発事故など絶対に起きないという前提に立つ判断。これは納得できるはずがない。

 地震に対しては基準がかなり厳しくなったことは確かで、その基準には合格しているとしても、(素人の私でも)川内原発は立地条件から『地震より火山噴火』だと思うのだが高裁は『原発を危険にさらすような大噴火はない』と断定しているのは何なのだろう。

 さらに不思議なことは、高裁が言う『原発事故のリスクはゼロにできないため、原発が確保すべき安全性は社会通念を基準として判断する』との文言であるが、社会通念で安全を語る姿勢は乱暴過ぎる。この判断の背景に『再稼働ありき』の行政の陰がチラついていると言っても良さそうだ。

私は、『社会通念』とは国民のほとんどの人たちが『是』と考えていることだと解釈しているが、高裁が日本国民のほとんどが原発再稼働を『是』だとしていると思っている?としたらこれは酷い。原発が危険な死すもので、原発はいらないと考えている人は統計でも60%以上存在するのに、『社会通念』として再稼働を認めるとは、まさに政府の代弁といっても差し支えない。

 しかも、川内市の作成した住民避難計画を評価し、住民らが重大な被害を受ける具体的危険は存在しないと論じているが、福島原発の事故当時、住民の避難に大混乱を起きたことを全く無視?しているのではないだろうか。これでは住民軽視としか読み取れない。

 話は原発から離れて極端に飛躍する。国政選挙の度に、一票あたりの格差が問われ、地裁では時に『違憲』の判断が出るが、控訴審での高裁では『違憲』と断定することは稀であり、たとえ『違憲』の判断を下しても、結局は最高裁で覆されるのが常。

最終的の判断は『違憲状態』という曖昧な言葉で、政府と国会に是正を求めるに留めている。選挙の無効は認めないのだから、その都度、最低限の『〇増〇減』という姑息な改革でおしまい・・・。今回、議長が賢明に妥協案を探っているらしいが、結局は自民党のやりたい放題で、『0増6減』となるのは目に見える。これも、ハナから選挙無効という判断はないと分かっている?からでは・・・。

 どうやら裁判官の世界でも中央と地方、そして地裁と高裁・最高裁の裁判官に相当な格差があって、その出世競争が過激で、上級裁判所の判事になるためには、行政の覚えがめでたくないと難しいようだ。その結果、上級裁判所になればなるほど、行政の代弁者的な立場になっていると感じているのは私だけなのだろうか。

民主主義の原則は、『司法・立法・行政の三権の分離独立』だと教えられ、そして今でもそのことは変わらず、小学校から教えているはずなのに、実際は独立どころか、時の政権に御されているのが現状では、この国の実態は民主主義と似て非なる社会らしい。

 司法がこの体たらくでは、現政権が、原発の再稼働どころか中国や北朝鮮の脅威に対して『平和利用』とい国民受けする表現で『核兵器を保有すべき』と言い出すのもさほど遠い未来ではなさそうだ。想像するだけでも恐ろしくなるが・・・。(田舎親父)

2016年4月 9日 (土)

再びバクチ-の話題を・・・

 2月の末に『コリアンダ-(バクチ-)』という香草についてつぶやいたが、その後も、名前は『コリアンダ-』であったり『パクチ-』あったりするが新聞紙上でお目にかかる機会が多いことから、私の苦い経験とは全く逆で、若い人を中心に、多くの人たちには受け入れられているようだ。

 先日も、ヨ-ロッパ中心の名前の『コリアンダ-』ではなく、タイやベトナムなど東南アジアで広く使われている『パクチ-』という名前で、最近日本でもパクチ-の需要が急増し、パクチ-を専門的に栽培する農家も現れてきたと紹介していしていた。その記事によると、国内でもっとも生産量が多いのは静岡県では、一昨年の統計では72トンで、2年前より3割ほど増えたとある。

 72トンが需要のどのぐらいを占めているのか分からないが静岡県では温暖な気候を利用して、温室でのメロン栽培が盛んに行われてきたのを、数年前から原油価格の高騰が農家の経営を圧迫、メロンに変わる作物としてパクチ-に注目したのだそうだ。

パクチーは南国の植物というイメ-ジがあるが、適温が20℃前後というから暑さよりむしろ寒さには強く、夏場に日除け送風の工夫をすれば簡単に栽培が可能なのだそうだ。確かに私も、秋に種を蒔いたものが、冬場でも露地(プランタ-)で少しずつだが大きくなり、立春の頃からグングン成長したことを経験しているので、寒さに強いことは間違いない。

ビニ-ル温室があれば、ガンガン重油を焚いて室温を高めなければならないメロンよりもかなり燃料費も節約でき、夏場さえうまく乗り切れば一年を通して栽培できるというから農家にとっては魅力だろう。これも私の少ない経験から推測することだが、あの強烈な香りでは、虫も寄りつかないだろうから、消毒の必要性もなさそうだ。

良いことずくめである。今後、国内で需要が伸びて来ると、バクチ-を栽培する農家も増え、将来的には輸入をしなくても国内産だけで賄える有望な作物に違いない。

私は今までは、中国では『香草』と呼ばれているように、ごく手軽に使われるが、日本の食には、ごくわずかな量を、『つま』として使う程度で、私が作って食べた『バクチ-と豚肉の炒めもの』のような料理となるとなかなか難しいことから、大量消費という形は難しいのではないだろうかと思っていた。

ところが、この記事には、パクチー料理を専門店まで現れているというから驚く。『パクチーハウス東京』という店が東京の世田谷区にあるらしいが、約40の客席が連日埋まる人気だそうだ。

パクチーを使ったかき揚げやサラダなどが楽しめて、パクチーを追加する無料サービス『追(つい)パク』(面白いネ-ミング)をほとんどの客が注文するという。

店主の話によると『はじめは苦手でも、慣れてくるとくせになる人が多い』と好評だという。確かに、私も食べてみて、『くせになりそう』というところは理解できそうだ。もっとも、私の場合は『食べ合わせ』が悪かったことから、翌日から3日3晩寝っぱなしという苦い?経験を味わっているので、すぐに、この店に出かけようとは思わないが、近い将来、この店の料理を味わってみる価値はありそうだ。

また、調味料大手の『エスビー食品』は、今年の2月、混ぜるだけでパクチー味のパスタがつくれるソースやカレーのもとなど、気軽にパクチーを楽しめる新商品4種類を発売したと紹介しているので、これも近々、ス-パ-で探してみようと思っている。

さらに、生のパクチー、乾燥タイプの調味料ともに、売り上げは急増しているので、家庭向けのパクチー商品のラインアップを9種類に増やしているという文面から、企業もかなりパクチ-需要を見越しているようだ。

前回、バクチ-(コリアンダ-)には睡眠を誘う効果があるのでは?・・・とつぶやき、アルコ-ルを受け付けなくなったことも経験しているので、これが確認できたら、さらにパクチ-料理の普及に役立つのではないだろうか。

人体実験の結果如何であるが、『パクチ-をプランタ-で・・・』という提案を、障がいをもった人たちの手助けをしているNPOや施設に出せるかもしれない・・・。(田舎親父)

2016年4月 8日 (金)

これが丁寧な説明らしい・・・

アホベ政権は、またまた説明責任を全く無視してウヤムヤのうちにわけの分からない法案を通してしまう得意技で『環太平洋経済連携協定(TPP)の承認案と関連法案』を処理する作戦を強行するらしい。

このために、『衆院特別委員会』での審議において、民進党が強く求めていた政府の交渉資料を特別委の理事懇談会に提出したというニュ-スが流れたが、この資料が全て黒塗りされ、内容は分からないというから、その内容を国民には絶対に知らせたくない・知られたくないという意図はミエミエ・・・。
 民進党が『最低限度の情報開示がないと十分な審議ができない』というのはもっともなこと。アマリという仮病を使っているのだろうが、ずっと姿をくらましている(ひょっとして推理小説的には消されているかも?)前担当大臣とアメリカ通商代表部代表の会談記録の提出を要求していたそうだが、仕方なく政府が提出したのが、今回の資料だという。

新聞に掲載された映像から、『TPPブルネイ交渉会合 平成25年9月』などというタイトルだけが上から貼り付けられた代物である事は一目瞭然。この国民を完全にナメきった態度に、何故こんな政権を続けさせるのかと、いつもの恨み節が口から出る・・・。

自民党の国会対策委員長は『公開しないという国と国との約束は絶対に逸脱できない。それ(黒塗り)でもという話があった』から出したと説明し、民進党の質問者は『ここまで黒いと思っていなかった』戸惑っているらしいが、こんな変な話がまかり通って良いはずがない。

与党議員でも本心はその内容が知りたいだろうが、親分から『黙って俺のいうことを聞け・・・』と脅されたらしく『ハイ、分かりました』というところか。

昨日から、特別委に首相始め関係閣僚が出席して質疑を行っているようだが、タカトリという副大臣が民進党の要請を無視したことから大混乱。

アマリという一人で担当していた前大臣がトンズラを決め込んでいるのだから、後任のイシハラ某が答えられるはずがないので副大臣が答弁する事になっていたらしいが、なんとも間が抜けた話である。

もともとはタカトリという議員はTPPには大反対していたらしい。副大臣というエサに飛びつき転向したのだろうが、攻める方も守る方も内容がはっきりしないのだから、集中審議といっても、何だか気が抜ける議論になるのは当然だろう。

内容を知っているのは首相一人。民進党は、『政府の説明を徹底的に求める』と息巻いているらしいが、内容が全く分からないのに追求の仕方もないだろう。

実際に、昨日の中継をしばらく見ていたが、『秘密にするという約束だから秘密にする』という答弁の繰り返しで一向に先に進まないのだから、例によってうまく誤魔化されて、ハイお終い・・・となる可能性がありそうだ。

いや、むしろ間違いなくそうなるに違いない。アメリカ議会が承認しない限り、前進する事はないと言われているので、国内ではあまり深刻事になっていないようだが、アメリカは国益に反することは絶対にしない事で知られているとなると、次期大統領候補が揃って反対しているのも今だけでは?と思わないでもなく、怪しい限り・・・。

今回の強引な国会運営によって、数年後、『こんなはずではなかった・・・』ということが次々に起きることは、私のような無知な年寄りでも予測できそうだ。

その時は、私はすでにこの世には存在していないのかもしれないが、次代にツケを残さないという言葉とは裏腹に、悲しく悲惨な事になりそうな気がしてならない・・・。(田舎親父)

2016年4月 7日 (木)

名前をつける工夫を・・・

 今まさに全国的に入学式のシ-ズンを迎えている。(一部の地域は別にして)桜の花の下で記念撮影は日本の伝統的な一コマであり、その光景は変わらないが、今年は担任から保護者への話に少し変化がありそうな気がする。

 保護者への細かなお願いや注意が続くのが例年のパタ-ンである。その中に『持ち物には、必ず名前をつけて下さい』というお願いがあり、その結果、鉛筆一本にも、担任はもとより児童でも確かめられるようにするのは親の義務となっているのだが、今年は、埼玉での誘拐事件が影響して、何のどこに名前をつけるのか、その説明の仕方には例年と微妙な差異があるようだ。
 埼玉県で中学1年生が行方不明になったという報道があったのは2年前のこと。『探さないでください・・・』という意味の文面があったような記憶があるが、当時(現在もだが)不可解な事件が続いていたこともあって、中学1年生の女子生徒が、ここまでやるのだろうかという疑問をもったものの、ひょっとしてという気持ちもあってそのままウヤムヤにしてしまっていた。

ところが、一月ほど前に、誘拐された女の子が公衆電話からSOSを親元にかけて保護されたことから日本中が大騒ぎになり、女の子を誘拐した23歳の男が逮捕されたが、その動機や手口など謎が多い事件で、未だに連日関連するニュ-スが流れている。

女の子は見知らぬ男から『フルネ-ムで呼ばれて、お父さんが・・・』と声をかけられたという。女のこの心理としては、自分を知っている人ではと思い、大声をあげることも忘れて立ち止まるのではないだろうか。男は、すぐに計画通りの手段で強引に車に押し込めたようだ。

何故、フルネ-ムを知ったのかが問題になっているが、男がフルネ-ムを知った経緯の一つには、自宅玄関先の傘などがあったということが明らかになり、子どもの持ち物にどこまで詳しく名前をつければ良いのかが話題になっているという。

こんなトンデモない話題から、小学校の入学式での担任の話につながるのだが、傘は特に間違いやすいこともあって、新入生でも傘立てに立てられている傘が自分のものであることがすぐに分かるようにフルネ-ムで名前を記入していることはよくあること。

このことから、以前、子どもの『名札』について、校外でもそのままつけさせるのは危険だという話題になったことを思い出す。

小学校入学時には『名札』をつけることは常識であり、誰もそのことに対して疑問はもたないのだが、担任が完全に名前を覚えて、学級内でも名札が必要ない頃になると、いつのまにか、その決まりが曖昧になって、高学年になればつけさせない学校も多かった。

ところが、生活指導という言葉が強く言われるようになって、名札が指導には欠かせないものという認識から、児童・生徒に名札をつけることを義務づけるようになると、外し忘れということもあるのだろうが、当り前のように名札をつけて遊びに出かける子どもの多くなる。

それが、危険ではという議論になり、名札は学校にきたらつけて、下校時には外すというのが主流になってきたようだが、緊急時には名前が把握できた方が良いという意見も根強く、現在では、学校での自主規定になっているのではないだろうか。

 今回の事件で、名札はもとより持ち物に名前ということが話題になり、安全対策について学校の見解を問う保護者も多くなっているという。しかし、そんな声に押されて、名前を伏せることが当り前になったら、学校現場では混乱することは目に見える。

特に小学校の低学年は、落とし物などに名前が記入されていないとなると、担任としては持ち主を探すのに相当な時間を要する大仕事になることは明らか。これは困るだろう。

となると、自分だけに分かる記号?。またまた、これをヒントにして、ビジネスチャンスという風潮が高まりそうな気がする。

私としては、こんなことまでも他人に依存するのではなくのではなく、自分たち(保護者と子どもで)工夫するということが大事だと思うのだが・・・。(田舎親父)

2016年4月 6日 (水)

類する新人も多いのでは・・・

 一昨日の夕方のテレビが、東京メトロ半蔵門線九段下駅で、中央林間発押上行きの電車が、ベビーカーの左の前輪を6両目のドアに挟み、本体が車外に出た状態で発車したというニュ-スを伝えていた。午後3時ごろの出来事だったらしい。

 子どもつれた母親が電車に乗り込み、続いて父親がベビ-カ-を押して乗り込もうとベビ-カ-を車内に押し入れた時、突然ドア-が閉まり電車はそのまま発車したというから恐ろしい。模式的に示された図で説明していたが、こんなことがあるのかと我が目を疑う。

 父親は瞬間的にベビ-カ-から手を離したので怪我はなく、ベビーカーだけが約100メートルホームを引きずられ手すりにぶつかって線路上に落下し壊れたという。もしも父親が、動き始めたベビ-カ-を強く握っていたとしたらと想像すると背筋が寒くなる。

 発車後、車内とホ-ムの客が気づき、それぞれ非常通報ボタンが押されたが、電車はそのまま走行、次の駅まで走行したという。車掌は、非情ボタンが押されたことは認識していたようだが、気が動転して非情停止ボタンを押せなかったと説明しているらしいが俄には信じ難い。

この車掌は、一人乗車を初めて20日足らずの新人だったというが、こんな言い訳がまかり通ったら、危なくて電車には乗れなくなる。

そのニュ-スと前後して、東京のある有名大学の入学式の話題を取り上げていた。日本武道館だろうと思われる巨大なフロアに数千人とも思われる学生が着席しているのは、人気大学なら当然の光景だろう。しかし、2階以上の客席には、新入生の保護者がそれこそ隙間なくびっしりと座り、中には立ち見の親達も数多い映像には、思わずオオすげえ・・・と口走る。

大学側は、保護者の出席は、新入生一人につき付き添いは二人までと制限していたというから、もしこのシバリがなければ、恐らく祖父母も喜んで付き添うのではないだろうか。だとしたら、この数倍にも・・・。また、ある大学では、式場に入り切れない保護者のために、別室でモニタ-で式の様子を見せていたが、ここまでやるか・・・と驚く限り。

小学校や中学校の入学式では、こんなことがかなり以前から当り前になっている。中には、会場の都合で入場できるのは両親に限るという小中学校も珍しくないというから、最近では、子どもの付き添いで両親はもとより祖父母までが入学式(卒業式も)に出席する傾向はもはや常識になっているらしい。

 ここからは全く脈絡がない、私の思いつきのつぶやきになるが、東京メトロの今回の車掌は、こんな世の中の風潮の中に、何の疑問もなく育った若者ではなかっただろうか。

 生まれた時から、少ない兄弟(一人っ子)で蝶よ花よと大事にされて、日常的に全ての行動を親がしてくれる環境では、自分で問題を見つけることはもちろんそれを解決することなどほど遠く、身の回りに困ったことが起きた場合でも、全て親達が解決してくれる。そんなことは当り前で、それどころか問題となりそうなことがあったら、本人が気付く前に親が未然に防いでしまう。

 私は職業柄、日常の生活習慣ですら身についていない子どもをいやというほど知っているが、ほとんど全てといって良いほどが過保護な家庭で過ごしている児童生徒であることも、何度もつぶやいてきたものである。

今回、非情停止ボタンを押すことができなかった車掌が、こんな環境で育っていたとしたら、周りの安全を確認することを怠って乳母車をドア-にはさんでしまった瞬間、頭の中が真っ白になり、周りが何を騒いでいることすら気付かず、ただ呆然としてしまったことも想像できないことではない。

 こんな事故が日常的に起きるはずがない。東京メトロは、再発を防ぐため社員教育を徹底するとコメントを出していることから、同じような事故は起きないと信じたいが、こんな車掌は、気付かないだけで数多く存在するのではないだろうか。

 繰り返すが、同じ日に報じられた、新人の車掌の信じられない行動と、大学の入学式での新入生に対する圧倒的多数の両親付き添いの映像とが奇妙にリンクし、何の脈絡はないが、何か引っ掛かり考えさせられる・・・。(田舎親父)

2016年4月 5日 (火)

ほんわか気分が何より必要・・・

 大阪の体質と言ってしまえばそれまでだろうが、数年前に組長の学力テストの点数に極端なまでこだわる体質に、『何なの大阪の教育は・・・』と繭を潜めたもの。以来、私には違和感だらけの話題が続く。

そして今回は、(大阪市教委)教員の給与体系について従来の年功序列ではなく、能力や実績を重視する方針に舵を切ったというから、またまた大きな違和感・・・。先月末の市教委会議で素案が承認されたとのことであるが、給与額で最大2倍の差をつけるというから、大阪市の教員室は新学期を迎えて疑心暗鬼が渦巻いているのではないだろうか。

大阪市の、現在の教員ポストは・校長・副校長(教頭)・首席(指導教諭)・教諭・講師の5級に分かれていて、基本給は各級と勤続年数などで決まり、給料格差の上限は、教諭の月収約42万円に対し校長は約47万円と、その格差は1.2倍程度だという。

 ここまでは東京始め全国の自治体とさほど変わらないようだが、今回の大阪市教委の方針は、教諭ポストを二つの級に分けて全部で6級とし、下位の基本給の上限を低くする方針だという。

 『教諭ポストを2つにする』という文面だが、現在でも、教諭職には『一般教諭』と、管理が目的なのだろうが『指導教諭』とか『首席教諭』という職名をつけて、給与的にも差をつけていることが記事からうかがえる。今回はさらに、『一般教諭』をわざわざ2つに分けるということは、そのまま解釈すれば、能力のある教員と無能な(市教委の評価)教員にはっきりと格差付けするようだ。

 現代では、効率が何より優先するらしく、一般会社においては、利潤をあげるためには仕方ないという考え方もあるが、私的には(能力がないからだろうが)誰かが作った能力基準で教員の能力を判断する方法は歓迎したくない制度である。

 一般会社なら、効率よく仕事をこなし、その結果、数値的に会社に貢献していることが明らかな社員を評価するのは仕方ないのかもしれないが、あまりにも激しい競争から、うつ病になる人も後をたたないことが大きな問題になっている。極端な営利主義は、社員の人権をも侵害していることも多々報じられ手いることから、決して好ましいとは思えないのだが・・・。

まして、利潤目的とは正反対な子ども相手の教育の社会に、何を基準にするかもはっきりしないのに、能力差をつけるのは無茶な話・・・。

授業の進め方が上手い教員がいることは否定しない。しかし、教え方は下手だが、子どもの一緒になって考えたり、悩んだりする教員も少なくない。

『下手な教え方でゴメンナサイ・・・』と涙ながらに子どもに謝っていた複数の若い教員を知っている。しかし、その教員が担任するクラスが荒れていた記憶はない。むしろ、子どもが、何とか先生の悪口が広がらないように、互いにカバ-し、まとまっていたのではなかっただろうか。

(話はかなり飛躍するが)現在、いじめが原因とされる子どもの自殺が大問題になっているが、こんな風潮が顕在化したのはいつの頃からだろうと、昔の記憶をたどりながら考えているのだが、(はっきりとした統計がないので断言できないが)どうも、『主任教諭』などという教員の身分を細分した制度が無理に打ち出されたことが起因しているのではないかと思えてならない。

学年をまとめる教員や教科指導の中心になる教員は昔から存在し、仲間うちに了解し合っていたが、30年以上前から、任命制度として『主任』が生まれ、そのために、多少の手当て(月額1500円だったかな)をつけだした事に加えて、10数年前から,東京では『主任教諭』とか『主幹教諭』という職階が誕生したのではなかっただろうか。

以来、教職員室がギクシャクしているという話は友人知人の口からよく耳にする。職務として当然縦の関係も必要だろうが、信頼を根幹にしない命令系統だけの強化されている雰囲気が満ちているのだそうだ。

広島で起きた中三男子生徒の自殺は、過去の非行歴などという下らない原因と、校長の命令に逆らえず、しかも教員間の連携がないことから発生したことは明らか。このままの制度が続けば、今後も起きる可能性は大きいと断言できそうだ。

学校という子どもが,周りの人的物的環境から教えられ、自らの努力で育つ場では、教師を給料で差をつける管理ではなく、子どもをほんわか包み込む雰囲気を作り上げる教師集団の構築がなによりも大事だと思うのだが・・・。(田舎親父)

2016年4月 4日 (月)

保育園落ちた・・・

 マスコミ報道によると、政府は『緊急課題だと位置づけた』とのことだが、打ち出した方策は、私のような素人老人でも、『こりゃごまかしだ・・・』と思うしかない代物。これでは根本的な解決にはほど遠いというしかない。

 『保育園落ちた 日本死ね・・・』の匿名ブログがきっかけに、首都圏の子育てママさんを中心に盛り上がり、数年前からくすぶっている待機児童問題が爆発的に注目され、現政権が大慌てして出した緊急対策である。

先日、四万斗を訪れた時、当地の職員に『待機児童問題はどうなっていますか』と問いかけたところ、笑いながら『東京だけでしょう。こちらではほとんど話題になっていませんよ』との答えが返ってきた。会場に集まった他の地方の方たちも一様に、『都会での話でしょう・・・』とサラリとしたもの。どうやら待機児童問題は、以前にもつぶやいたことがあるが、都会(特に首都圏)限定の課題であるようだ。

『女性が輝く社会』と、いかにも女性に焦点を当てたと思わせるような白々しいキャッチコピ-の『輝く』という言葉の意味が、『家をでて外で働く』と同意語になり、働かねばならないという脅迫感さえ生まれている。そのため、出産後すぐに職場復帰するのが当り前の考え方になり、子育て年代の夫婦が全て保育園に預けるのが、都会ではごく当り前になっているようだ。

我が子を保育園に預けるのに奔走する苦労を、マスコミは『保活』という言葉で、面白奇怪しく報じるものだから、より近くの便利で安心して預けられる保育園を求め、若いママさん達が必死になって保育園探しをはじめ、インタ-ネットを通して、その現実をごく普通にブログに書き込むのも最近の流行。しかし、門前払いや、何度も抽選に落ちるとなると、その文章が過激になり、『保育園落ちた。日本死ね・・・』となり、それに同情する世論が生まれるのも当然かもしれない。

当初、アホベ首相はたいしたことないと軽く考えていたようだが、あまりにもの盛り上がりに、ママさん達を敵にまわしては参院選挙に影響すると、厚労相に『何とか対策を立てろ・・・』とでも命じた違いない。

急な命令に厚労相は有識者会議を開催して、緊急に方策を探った結果、とりあえず、待機児童の多い都市部で、ゼロ~2歳児を預かる小規模保育所の定員を19人から22人に増やすという規制緩和を緊急策の柱としている。

『小規模』という定義について詳しくは知らないが、今でも国の基準は甘すぎて、保育士一人が担当する子どもの数が多いことから、事故を未然に防ぐために自治体は、独自に職員を加配しているのが現実なのに、子どもを詰め込み、保育士の負担を増やすのは本末転倒である。保育の質は落としても数を確保するということなのだろうが、誰が考えても無茶な話。

 待機児童をなくすためには、最低限国の基準を満たした認可保育所を増設することであることは論を待たない。国が本気になれば予算はついて、施設そのものはあっと言う間に完備するだろうが、保育園として機能させるためには、なによりも有能な保育士の確保であることは、誰もが気付くことなのだが、これには国は知らぬ顔だから問題解決が進まないのも道理だろう・・・。

 いぜんにもつぶやいたことがあるが、保育士の給与は他業種に比べて低いことは良く知られていること。資格を持ちながら現場で働いていない人は70万人以上もいる理由の一つには、給料が低いから、仕方なく他の職業を選んでいることも多くのブログが紹介している。

話は飛躍するが、先日、民進、共産、社民、生活の野党四党は保育士給与を月5万円引き上げる法案を国会に共同で提出したそうだ。5万円でもまだまだ低いと思うのだが、それでも野党の共同提案という意味は大きい。しかし、マスコミはこの共同提案に関することはあまり大々的に取り上げていない。

政府の圧力があるのかも知れないが、野党はこのことも含めて政府に迫り、待機児童問題を保育士確保と関連づけて参院選挙の争点して、若い年代の選挙離れをくい止める運動を展開すべきだと思うのだが・・・。(田舎親父)

2016年4月 2日 (土)

また、大学入試を変える?・・・

 今流行の『有識者会議』は教育界にも例外ではなく、『入試改革有識者会議(正式名は?だが)』という文科相の諮問機関が、知識偏重の高校教育の改善を促す意味でも大学入試を根本的に見直すという答申を文科相にあげたという記事に目が留まる。

 知識偏重の高校教育の改善には疑義はない。しかし、大学入試制度はこれまでも日替わり定食?ではと思われるほど、何度も改定されたが、その度に学校現場は大混乱、喜ぶのは塾産業という構図に、この種の話は頭から信じないようにしている。

ただ、先日、『アクティブラ-ニング』という言葉の産みの親だという方が、文科省はこれまでとは違って、命令系統を使って強引に入試改革をする意思を固めたので期待できるのでは・・・と講演会で述べていたので少しひっかかる。

 『アクティブラ-ニング』とは、聞き慣れない言葉であるが、私的には、今までのように机に座って先生からの講義を聞き、知識を仕入れて理解するという学習形態ではなく、自らが行動して、問題を見つけてそれを解決する方法論だと受け止めている。いわば、文科省が指導要領で『新しい学力観』という考え方を打ち出しているが、その基本となる問題解決学習そのものだと言っても差し支えなさそうだ。

 『アクティブラ-ニング』の大家の話によると、大学入試が根本的に変われば、高校はそれに対応して変わらざるを得なくなり、高校入試制度も連動して変化するはずだから中学もそれにそった変化が期待できるという。小学校もしかりで、日本全体の教育システムが根本的に変化すると述べているから、今回の有識者会議の答申も、『アチティブラ-ニング』を主体とした入試改革と受け止めても良さそうだ。

 なるほど、大学入試制度が根本的に変わり、有識者会議の答申通り高校がすんなり変われば言うことなしだが、そんなに甘いものではないだろうと、講師の話を思い出しながら、有識者会議が出した答申の記事を流し読む。

有識者会議は、高校と大学の教育を見直し、橋渡しをするための方策を議論してきたそうで、その最大の焦点が、大学入試センター試験に代わる『大学入学希望者学力評価テスト』の導入だという。

 この新しい共通テストでは、知識の暗記量や解法テクニックというよりも、論理的に考え、筋道を立てて表現する力を試すことに狙いを定めるというから、まさに新しい学力観であり『アクティブラ-ニング』の手法そのもの。そのためにマークシート式の改良に加え、記述式の問題を採り入れるのだそうだ。

 現在社会では『クロ-パル』という言葉が氾濫している。『少子高齢化』や『地方創生』などという言葉も日常的に耳にする。それらを解決しながら前に進まねばならないとなると、既成の知識や解法パターンでは限界があることは私のような老人でも分かる話。

そのために、大学入試に新しい方法を取り入れるということも理解できないことではない。有識者会議は『新テストシステム』をてこに、知識の詰め込みに陥りがちな高校教育を、考えさせる教育へと脱皮させるという。入試の影響力を利用して高校に強引に変化を求めるらしい。

ここまではまあご勝手に・・・というところであるが、文科省は『新しい入試システムを有識者会議の答申通り2020年度開始という工程表に従い、来年度始めまでに新テストの実施方針を詰める』というくだりになると、はあまりにも拙速過ぎて、またまた高等学校の混乱と塾産業を喜ばすだけではないかと不安が強くなる。

 記述式となると、問題もさることながら、誰が採点するのかがまず問われるが、答申にはこのことに対して具体的な文言はない。新テストには50万人を超える受験生が見込まれるそうだが、膨大な答案を客観的に採点できる部隊を集めるのは簡単なことどころかトンデモない話ではと思いたくなる。

採点の公平性を担保するために、民間委託や人工知能(AI)の活用を考えるそうだが民間委託となると、またここに利権が絡むだろうから信頼性を確約するなどはハナから無理な話では・・・。

 指導要領に縛られた硬直した教育界に、高校入試から切り込むという有識者会議の発想は評価したいと思うが、これまでも、何度も試みたことであり、高等学校は混乱こそすれ根本的な変容はできなかったことから、また失敗するのは明らかでは・・・。

 本当に硬直した教育システムを改善するなら、なによりも『指導要領』という、教師や子ども、そして保護者の自由で新しい発想を根本的に妨げている巨大な壁を取り除くことが先決だが、不思議に誰も言い出さないことこそ気になるところ。

このことについて後日改めてつぶやいてみたい。(田舎親父)

2016年4月 1日 (金)

期待したい気持ちもあるが・・・

 先日、民主党と維新が合併して『民進党』が発足したが、キ-ボ-ドに『みんしんとう』と打つと『民心党』という漢字しかでない。私ですら、台湾の政党を思い浮かべる程度なので、コンピュ-タもバカにして、日本語として認識していないようだ。

巨大な与党に対抗するためには、この合併は必要だったのだろうとは思うが、中身は、旧民主党そのもので、維新が吸収されたという印象を受ける。ならば、そのまま民主党で良かったと思うのだが、維新の幹部達は、自分たちが民主党から逃げ出した経緯を隠したいのだろうが、どうしてもここは譲らなかったようだ。

 自民党の弛みを許さないためにも、政権の受け皿となる野党が必要だと思うが、果たしてその期待に答えられる陣容なのかと考えると、素人的にも『?』をつけたくなる。

まず、組織のトップがオカダ代表、エダノ幹事長では、全くの新鮮味が感じられない。昨年だったか、民主党の党大会で代表にオカダ氏が選ばれたとき、これではダメだと思った事に加えて、エダノ幹事長という体制になったことに、本気で国民の信託を受けられると考えているのだろうかと党の体質を疑い、これではとても本気で政権交代を狙っているのとは思えないとガッカリした・・・。

私のこの予感は圧倒的多数の国民の予感と一致しているらしく、全く期待しないとかほとんど期待できないという声が巷には溢れ、これが、積極的でなくても現政権の後押しとなるのだから、地方の組長選挙などでは、低投票率が当り前になり、結果的には自民党の圧勝という形で現れている。

エダノという幹事長は、福島原発事故の時の官房長官だった人物。あの時、連日テレビ画面で実に弁舌爽やかに『安全です・・・。人体に危険はありません』などと繰り返していた姿は忘れられない。

被害状況が明らかになり、どんどん悪くなるのにもかかわらず、同じ意味のことを繰り返したけっか、『民主党政権ではダメだ・・・』と国民に不信感を植え付けた、いわば超A級戦犯と言っても差し支えない人文である。

民主党は、それだけでも国民から『NO』を突きつけられたのに、こともあろうに、アホカン首相の後を受け継いだ汚染ドジョウ首相は突如消費税増税を打ち出し、完全に国民の支持がなくなったことを認識できなかったらしく、アホベ氏の挑発に乗って、身を切るという大儀で『議員定数削減』などとおよそ場違いな約束で衆院を解散し大敗したことは、なんとも情けない限りで、以来『民主党』と聞くと嫌悪感を覚えるのは私だけではないだろう。

自民党としては、『民進党』の誕生なんて、今回の合併などは、どうぞお好きなようにと手並み拝見というところだろう。しかしこのところ、あまりにも奢った雰囲気が漂いだして、自民党にお灸をすえなければという世論も生まれはじめていることから、今回の『民進党』の執行部人事に期待していたが、唯一、政調会長に、山尾さんという若手女性議員を抜擢しただけで、後は旧態依然とした名前ばかりとなると、結果は戦う以前から明らかでは・・・。

小選挙区で、しかもこのまま低投票率が続けば、この夏の参院選挙は与党の圧勝になるのは素人ながら断言できる。『民進党』が強力な人物を口説き落として立候補にこぎつけても、共産党や他の野党も候補者を擁立すれば、票が分散して、結果的に『最悪のタマ』であっても自民党候補者に敗退するだけなことは、政治に疎い私でも理解できる。

唯一、対抗できる手段は、『野党統一候補』の擁立であるが、集票力のある共産党が、今まで発想を180度変えて、『民進党』候補でも、選挙で勝つためには立候補を見送ると言っているのにもかかわらず、『共産党とは絶対に組まない・・・』なんて言っている輩が多いのは何なのだろう。

もしも、アホベ政権の政治姿勢に本気で対抗する気があるならば、『共産党は嫌い』なんて贅沢は言っていられないと思うのだが・・・。

特に京都5区の補欠選挙は、自民党が珍しく不戦敗を決めているにもかかわらず、『民主党』から立候補する候補者は『共産党の支援はお断りする』と言っているらしいから困った話としか言いようがない。

オカダ代表が『最後のチャンス』というならば、ここは無条件に共産党をはじめ他の野党と話し合い、候補者を絞り込むことだろが、ここにきても『自分たちの(民主党)の中から選ばれた人物』』なんて世迷い言の贅沢を、代表代行という職責の女性幹部がマスコミに平気で言っているとなると、期待をしたらまた裏切られるだけ・・・。

共産党が嫌いでも結構だが、一番大事なことは『何がなんでも参院選挙(衆参同時であっても)に勝つ』という強い姿勢が必要だろう。

民進党の執行部の猛省を促したいものである・・・。(田舎親父)

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