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2017年5月

2017年5月27日 (土)

文科省の無責任さに呆れる・・・

 加計学園問題が面白くなってきた。やっと、東京はもとより朝日や毎日が、官邸の意向を受けて文科省が動きだした背景を報じはじめた矢先に、前次官の証言が飛び出したことから、デンデンン地味の悪巧みが国民の前に明らかになり、情勢は動きはじめた。

この前次官が文科省の天下り問題で詰め腹を切らされたことは今年の1月。私は、このことを、どこの役所もやっているだろうに、何故文科省でしかも今なの・・・疑問をつぶやいたもの。

しかし、今回の前次官の証言に続いて、加計学園が今治に獣医学部の新設申請に対して文科省が慎重な姿勢を崩さす、官邸の命令にすくに応じなかった経緯があるという、新たな情報が明らかになると、なるほどだから文科省のしかも次官という官僚のトップが辞任に追いやられたのかと、その筋書きに納得する。

このことは、メディアの姿勢が続き真相に近づく可能性が出てくることを期待して、しばらくは様子見することにしたい。そこで今日は、無理に教科にした英語の時数確保のための文科省の姿勢についてつぶやくことに・・・。

2020年度に実施される次期学習指導要領で、小学校の英語が正式に教科になることは批判を込めて何度も取り上げてきた。教科なのだから教科書が存在しそれに沿って授業を進めることになるのだろう。そして、何らかの方法で評価をし、通知表で保護者には知らせなければならなくなるのは、教員免許に英語の指導が義務づけられていない小学校の教師には難しく辛い話。

私の感覚では現場は大混乱に陥っているはずなのに、案外動揺がないというマスコミ報道に疑問を感じたものだが、まだ実感がないだけではというと言い過ぎだろうか。

それを裏付けるのは、正式な教科書が示されていないからではと推察している。3年後となると、すでに新しい教科書ができていなければならないだろうに、まだ見本すら配られていないようだ。

教科書会社のサイトを調べてみると、算数や国語などの教科には従来の見慣れた教科書が掲載されているが、同じように教科になる道徳にはある『教科書』という言葉が英語にはない。

存在するのは、資料とか教材という言葉であることから、教科書会社としても、どんな内容にしたら良いのか議論百中、まだ編集方針も固まっていないのかも知れない。となると、現場はまだ実感がないというのも納得できない話ではない。

教科としての英語の時数は年間70時間と指導要領で決められているが、授業時数を計算する場合、夏休みなどの長期休業などを考慮して、年間35週が基準になっていることは案外一般には知られていない。

指導要領で決められた70時間は、週に2コマ(小学校での1コマは45分でこれを1時間と見なす)であるが、現場では、この時数を如何に確保するかということが大問題でとても内容までは検討できないのも当然だろう。

確保の方法を教えてほしいという声が文科省に届いたのか、先日、18年度から2年間を移行期間と定め、授業時間確保のため、『総合的な学習の時間(総合学習)』の一部を『英語』に振り替える措置を『容認する』ということに決めたというマスコミ報道があった。

『容認する』とはなんとも上手く逃げたものだが、文科省としても時数確保にはこれしか方法がなく、『総合的な学習の時間』を『英語』に読み替えなさいという示唆そのものであり、『総合的な学習の時間』の存在を限りなく曖昧にしたと受け取っても差し支えないようだ。

現在の指導要領では、総合的な学習の時間として、3年生以上は70時間(コマ)、外国語の時間は、5・6年生に35時間(コマ)割り振っているが、これを英語(3.4年生は外国語指導)に読み替えれば、授業時数の確保はさほど難しくなくなるのは間違いないところ。

今朝の新聞記事では、『総合的な学習の時間』の35時間を読み替えるのではなく、10時間程度となっているが、あくまで移行措置でのこと。一時しのぎというか、方便に過ぎない?・・・。

となると、20年度からは『総合的な学習の時間』は35時間、週にわずか1時間となる。すでに、小学校でもプログラミング教育を導入すると決めているので、実際に学校独自で導入しても良い学習はなくなることになりそうだ。

あれほど気合を入れた戦後始めての学校教育改革とうたわれた『総合的な学習の時間』が、何ら総括されることなく名前だけになってしまう。いやそれだけではなく、次期指導要領の正式版はまだでていないとなると、『総合的な学習の時間』とか『総合学習』という言葉すら消えている可能性もありそうだ。

失敗だったと一言あればまだしも、これで良いはずはない・・・。(田舎親父)

2017年5月26日 (金)

ヨ-ロッパの国々を見習いたいもの・・・

 『永世中立国』という響きが中学生の私には最高の魅力だった。ヨ-ロッパの列強国に囲まれても、アルプスの神々しい姿に守られたこの国の『戦争になってもどちらに偏ることなく中立を守る』という国是に憧れて、一度は行きたい思いを持ち続けていた。

その意識は、大人になりいろいろな分野の知識が加わり、『永世中立国』であっても軍隊を持っていることはともかく、スイスの銀行が世界各国の富裕層の汚れたカネをも守ることによって国の存在が保証されているということに、この国にも影かあるのだなあと感じるようになり、徐々にスイス熱が覚めていったものである。

さらに、原発に対して不信感を持つようになってからは、ヨ-ロッパの国々同様、エネルギ-の大半を原発で賄っていることに、スイス国民は核のゴミ問題には無関心なところは日本人と変わらないと感じ、さほど立派な思想の持ち主ではないことに一安心?・・・。 

しかし、福島現発事故でドイツのメルケル首相はいち早く『脱原発』を宣言。原発依存度が75%以上と言われるフランスでも、依存度を50%にまで下げるという動きが報じられていた。

となると、恐らく、スイスも含めてヨ-ロッパの国々は、原発依存率を下げる風潮が広がっているのだろうが、わが国のマスコミは、現政権に忖度しているらしく、この話題はほとんど報じられないことから、その動きなど知ることができなかった。

ところが、先日、この国では『原子力発電所への依存度を下げる政府の長期エネルギー戦略の賛否を問う国民投票』が実施されたという話をネットで知る。マスコミは相変わらずほとんど報じていないが・・・。

ドイツのように首脳が宣言するのではなく、スイス政府は国として『脱原発』を選択しこれを国民に賛否を問うという政策はなんとも羨ましく感じる。さらに、国民は政府の方針に対して『是』とした結果に、わが国とは大違い。ただただ感心するのみ・・・。

賛成が58.2%だったとある。国民投票というシステムが日本にはないので、国民に投票の義務があるのかそれとも自由投票なのかがはっきりしないが、エネルギ-問題は重大問題であることから約60%という数値には重い価値がある。

 スイスでは現在、電力の約3分の1を原発に依存しているとのこと。スイス政府は福島原発の事故をきっかけに、脱原発方針を打ち出したようだが、(くりかえすが)スイスのこのような動きをわが国のマスコミは完全スル-。今回のニュ-スすら知らない人が多いのではないだろうか。

今回の国民投票の結果を受け、長期エネルギー戦略に基づく改正法が2018年に施行される見通しだという。現在使用中の原発はエネルギーが余ったことを確認した上で、徐々に解体していくとのことから、スイスから原発が消えるまでにはかなりの年数がかかりそうだ。しかも、核のゴミ処理はこれからの課題になるというから、それまでにはかなりの紆余曲折があることは容易に想像できる。

その一つに、自然エネルギ-に切り換えていくとはいうものの、スイスという国は、いったことはないが、風景の美しさが売り物だと耳にしているので、水力や風力に切り換えるとなると、実際に発電所を建設する段階になって、景観が損なわれるという問題にぶつかることは間違いなさそうだが、これをどのように解決するのだろうと素朴な疑問も頭をよぎる・・・。

困難が伴うことは私でも想像がつくが、わが国は福島原発の重大事故を引き起し、今なお多くの人が故郷を追われているにも関わらず、現政権は、除染は終わったからさあ戻れと強要。戻らない奴は補償を打ち切るという、まさに悪代官そのももの残酷さ。

外に向かっては、『原発事故は完全に収束している』と宣言し、世界からは失笑を買っていることに比べ、天国と地獄以上の差があるのでは。さすがにヨ-ロッパは民主主義が確立している。国民投票で決めるというのは羨ましい限り。

対してわが国は、事故当事国であっても、原発をエネル-ギのベ-スにすると恥ずかしげもなく宣言し、一旦は40年という原発の寿命を伸ばすことまでして、次々と再稼働を進めているとは、ヨ-ロッパの人々にはまさにブラックジョ-クとしか受け取れないだろう。

もう一度、原発事故を起こさないと、『今だけ・自分だけ・カネだけ・・・』という発想が変えられないというのでは、世界に対してあまりにも情けない・・・。(田舎親父)

2017年5月25日 (木)

廃校ありきではなく・・・

 以前も何度かつぶやいたが、全国的に少子化が急速に進み、公立学校の廃校の勢いが止まらない。これ以上この傾向が続けば、日本全体が活気のない幽霊の集団のような社会になることは明らか。

何とか廃校にしないですむたいさくがないものかと、現職時代は地方に訪れて実体を調査して、何としても学校を残したいと思う人たちは話し合うなどして、対策を模索したものである。その行動の過程で、地方のいろいろな方と知り合い、廃校ネットワ-ク的な連絡網の構築にほんの少しでもお手伝いができたのではと自負している。

そんな私なので、『廃校』という文字に敏感に反応し、新聞紙上に見つけると、ついつい食いついてしまう習性がある。5月22日の東京新聞社説の『少子化と廃校 地域主体で未来図を』という見出しは、まさにその典型。

書き出しの、学校は地域住民の『よりどころ』であり、子どもの数だけで拙速に判断はせず、廃校と決めても地域の未来を見すえた活用をしたいという文面に、その通りとうなずく。

私が『廃校』に興味を持ちだしたのは今からおよそ20年前。当時は、全国の公立小学校の数は約2万5千校、中学校は約1万2千校という記憶が頭の隅に今でも残っている。

これがどれほどの数値になっているのか調べてみた。『一般財団法人日本私学教育研究所』が発表している昨年度の統計として、小学校は20011校、中学校は9555校となっている。私の記憶が正しければ、わずか20年間で、小学校は約5千校、中学校でも約2千5百校が姿を消していることになる。

社説には、文科省は一昨年、公立小中学校の統合の基準を60年ぶりに見直し、都道府県教委に手引を出したとあり、その内容は、小学校では6学級以上の一定規模が必要などとして、事実上、小規模校の統廃合を促すものらしい。

東京新聞は丁寧な取材でこの記事を書いたと信じているが、私の記憶によれば、20年前の、文科省や教育委員会が持つ姿勢は(地方都市の基準として)小学校の場合、6学級以上であり一学級の児童数が10人以上となっていたのではないだろうか。

しかし、あくまでそれは目安であり、実際には、少なくとも各学年に児童が在籍している場合は、住民の強い希望もあってすぐに『廃校』という話は出なかったはず。むしろ教育委員会としては、何とか存続させようと努力していたのではなかっただろうか。

それが、文科省の廃校への手好き的な通達が出されたとなると、当時の目安が基準になったことを表していることになり、いよいよ『廃校』という現実が全国に広まったことを感じる。

設置基準に基づくと、学校という形を整えるには、子どもたちを直接指導する学級担任は当然だか、校長と教頭(副校長)に加えて養護教諭が必要とされている。

現在でもマンモス校といわれる20学級以上の小学校は全国でもかなり存在する。自治体に四手は、教員配置の加算は多少あるようだか、校長・教頭・養護教諭は基本的に一人で、それ以上もそれ以下も許されない。

2人の児童のクラスでも、35人のクラスでも担任は一人。これも変わらない。授業時数が同じだから当然だろうと思うのだが、現在の経済重視というか成果主義からの発想では、教員一人の経済効果という面からは無駄だというのが一般的な考え方ではないだろうか。それが文科省の通達に現れている。

確かに、学校を統廃合し算数的な計算をすれば、教員数は大幅に削減され、その分の自治体が負担する人件費などの経費は少なくなることは明らかであるが、そもそも学校、特に地方における小学校の存在は、単に児童の教育の場だけではなく、住民の心の支えであることを忘れてほしくない。むしろそのことを第一に考えてほしいと強く願う。

子どもがゼロになったのでは仕方ないが、一人でも子どもが存在するのであれば、そこに教師が一人でも在籍していれば学校として認めるという発想がほしいもの。名前は分校でも、あるいは時代に合わないが分教所でも良いと思っている。

そこには、わざわざ教員を管理する校長などは必要があるのだろうか。どうしても規定を変えられないのなら、本校の校長が兼任すればすむはず。こんな私の考え方を示して、住民や自治体の人たちは議論したことが懐かしく思い出される。

廃校になってしまったら、復活することはまず不可能。文科省は一片の通達で統廃合を促すのではなく、地元自治体の組長さんはじめ住民と話し合い、残す方法を模索してほしい。そのため、どうしたら若者(子育て世代)が生活できる地域にするかを考えたいものである。

そのために、廃校問題を文科省だけで完結するのではなく、他の省庁に広げて共通の議論の場をも裸体ものである。その結果、尽力至らなくやむなく廃校にする場合でも、住民の学校に対する思い入れを大切にし、校舎を地域活性化の拠点として活用する構想を望みたい。

廃校を実に有効活用している例は私でもほんの少しだが知っている。文科省には成功例が数多く届いているはずだろうから、それらを合わせて提示すれば廃校アリキの議論ではなく、討論に幅ができ、新しい発想が生まれるものと期待している。(田舎親父)

2017年5月24日 (水)

メディアの真価が問われる重大局面・・・ 

 5月21日の毎日新聞のネット版の記事は驚くが、その通りだだろうと納得する。天皇の退位問題で、陛下自らが不満を語られたという文面である。

 天皇陛下の退位を巡る政府の有識者会議で、昨年11月のヒアリングの際に保守系の専門家から『天皇は祈っているだけでよい』などの意見が出たことに、陛下が『ヒアリングで批判をされたことがショックだった』の強い不満を漏らされていたことが明らかになったといことと、このことは、すでに陛下の考えは宮内庁側の関係者を通じて首相官邸に伝えられたという文面である。

 日本史を詳しく学んだわけではないが、天皇は神聖な存在だという考え方は、日本人全体に広く深く浸透していることは衆目の一致するところ。歴史的事実を繙いても、権力者の都合で、一時的に南北朝という複数の天皇が存在した時代があったが、その争いに決着がつくと共に、天皇は唯一無二の存在として今日に続いている。

あの絶大な権力を握った、信長・秀吉・家康であっても、天皇家をつぶしたり乗ったりは決して考えなかったことは歴史の定説。そして、戦勝国アメリカの絶対的な力でも、この日本の天皇制を根本からなくすことができず、妥協の産物として『象徴』という、実に日本人の発想を大事にするような文言を日本国憲法に折り込み今日に至っている。

私は、天皇制に不思議さをおぼえながらも、天皇という言葉の持つ神秘性は犯し難く、特に、現天皇皇后両陛下が、大きな災害がおきると直ちに現地に出向き、被災者と同じ高さの目線で語りかけておられる映像を見ると、現政権のやっている汚らしさに比べて、素直に素晴らしい行為と賞賛することばかりであり、天皇制は不思議さよりも『是』として受け止めルようになっている。

その天皇が、国民の幸せを真剣に考えて全身全霊を捧げて行う公務を年齢的にも体力と気力にムリが生じてきているので、退位を真剣に考えたいというお言葉は、日本人全員の心を打ったに違いない。

しかし、現政権はいつものようなウソで塗り固めた奇麗ごとの言葉で、天皇の退位も自分たちの都合を優先させ、ここでも有識者会議なるわけのわからない組織を作り、下司の言葉で表現すれば『天皇が退位したいから退位させてやろう。しかし、天皇のわがままは一代限りにしよう』という結論ありきの議論を続けていたようだ。

席上、御用学者たちは、災害が起きたからといって、その度に被災地に出かける必要はないと言い出し、『天皇は皇居で祈っているだけで良い』という暴論になったのだろうと想像しているが、これにはさすがに天皇は怒りの言葉を発せられたのではないだろうか。

 陛下は、『一代限りでは自分のわがままと思われるのでよくない。制度化でなければならない』と語られたとあるが、気持ちは痛いほど理解できる。自分が考えで、国民のために行うことが公務であり、それが年齢的に難しくなるのは自分だけではないと、特例ではなく次の、そしてその次の退位が可能な法案を望まれていることは、私ごとき人間でも容易に想像がつく。

自分の素直な気持ちを、都合の良いように利用する現政権に、『自分の意志が曲げられるとは思っていなかった』と側近にもらされたことも十分あり得るだろう。その意味で毎日新聞の記事は信憑性があると思っている。

この記事にはデンデン首相は驚いたらしく、早速宮内庁の次長に『毎日の記事は信用できないデマである』と言わせたが、この次長たる人物は、昨年8月のあのお言葉事件の責任を取って一新された宮内庁人事の過程で、現政権によって送り込まれた警察官僚OBとなると、話がきな臭くなってくる。

 当然のことながら、今回の、次長の記者会見の発言は、現政権(首相)の代弁であることは明らかであるが、この次長発言に対し、毎日新聞は『十分な取材に基づいて報道しております』とコメントしているから、この問題に関しては、毎日新聞はジャ-ナリズムの矜持を取り戻したようだ。これは素晴らしいと大拍手。

 ただ、この次長の発言に対して、殆どの新聞テレビがダンマリを決め込んでいるのが不気味であるが・・・。

天皇陛下が現政権(首相)に不満をもらしたというのだからこれは大問題。これをメディアが、陛下の気持ちを事実として報じたら、圧倒的多数の国民が、『アベ・ふざけるな・・・』という声を上げることは間違いない。

天皇陛下の不満さえも、現政権は平気でもみ消す。こんなことを許したら、これ以上の暴政・圧政を止める手段はなく、確実に戦前の世界に近い暗い時代がやってくることは、私のような世間知らずの老人でもはっきりとわかる。

毎日新聞だけの問題にしてはならない。現政権の機関紙に成り下がった読売・産経は仕方ないとしても、心あるメディアが日本の将来のために立ち上がることを願いたい。(田舎親父)

2017年5月23日 (火)

リオの現状は4年後の東京?・・・

一昨日(日曜日)の朝日新聞の朝刊の記事に、『世界最大のスポーツの祭典の舞台は、祭りが終わって1年もたたないうちに、たなざらしになっていた・・・』という書き出しの記事に目が留まる。

記事には、プ-ル競技場の4月21日現在の写真が掲載されているが、まるで廃墟。ブラジル政府とリオ市当局はこれからどうするのだろうと、要らぬ心配が先にたつ。

同時に、記事の見出しの『兵どもの夢の跡・・・リオ五輪、施設たなざらし・廃墟も』という文言は、リオを東京と置き換えるだけで、4年後の東京の姿を表しているように思えてならない。

リオ・オリンピックが行われたのは遠い昔のように思えるが、実際は去年の8月。まだ1年も過ぎていない。なのに、こんな映像が世界を駆け抜けているのは、よほどブラジル政府とリオデジャネイロ市が財政難に陥っていることを如実に表していると言っても言い過ぎでなさそうだ。

閉幕直後は、『大成功』という声が上がっていたようにも覚えている。それは、カネをかけない運営に東京も学ぶことが多いと評価していたのではないだろうか。しかし実際は、カネを賭けたくてもかけられなかっというのがホンネで、オリンピックを政治利用したツケがここにきて明らかになっているというところでは・・・。

記事によると、競技施設の多くは放置されたままだという。競泳や柔道、テニスなどの競技施設が集まり、大会時はにぎわいの中心だったリオ市西部バーラ地区の『五輪公園』は東京ドーム25個分の敷地を持っているそうだが、平日は封鎖されているとのこと。

実際に行ったこともないが、さしずめ東京でいうと、国立競技場周辺あたり?・・・。リオ・オリンピックは、東京の当初の構想よりもさらにコンパクトな大会だったらしく、記事にある『五輪公園』には主要な競技場が集中していたらしい。

その広大な土地は、一応土日祝日は市民に開放されているようだが゛トイレも水道も日陰もない廃墟のような状態という姿は想像を絶する。しかし、新しく作られるポ-ト会場である『海の森公園』あたりとなると、4年後は十分あり得る話ではないだろうか。
 記事には、そこを訪れた家族の『こんなはずじゃなかった。五輪のレガシー(遺産)が我々、一般市民に引き継がれないことに怒りを感じる』という言葉を紹介しているが、平日に地方から訪れた人々は、さらに悔しい思いをするのに違いない。

その荒れ方は半端ではなさそうだ。私の文章力ではとても表現できないので、そのまま引用させてもらうことにする。(引用はじめ)
 公園内の競技施設は、ほとんど放置されている。萩野公介選手が金メダルを取った競泳会場。プールは移設されたが、解体費がまかなえず、建物の外壁などは残されたままだ。/中に入ると、いくつもの消火器がゴミのように散乱していた。隣にある屋外の練習用プール跡地には汚水がたまり、大量の蚊が飛び交っていた。「ゴミは持ち帰ろう」。観客に呼びかけるステッカーが床に貼られたまま、放置されていた。/日本柔道男子が全階級でメダルを取ったカリオカアリーナ2は、土日祝日でも立ち入れない。管理主体が市から政府に移ったものの、ブラジル代表選手のトレーニングセンター(トレセン)として改築する計画は実現していない。人の姿が全くない中、施設を老朽化させないために稼働させている空調の音だけが建物の外まで大きく響く。隣のアリーナ3は、市が学校に生まれ変わらせる計画だが、一向に進んでいない。/「市や国が民間業者に改修を依頼したくても、民間も金がないからどこも手を挙げない」。リオ大会組織委員会で残務処理にあたるマリオ・アンドラダさん(58)は嘆いた。組織委自身も資金難で、大会期間中に購入した物品の代金、計8千万レアル(約28億円)を払えないでいる。(以下略・引用ここまで)

ゾッとする。この記事で、20年ほど前に開催された長野オリンピックの『負の遺産』で、ずっと長野市民は苦しんでいる話を思い出す。

 長野市は冬期オリンピック開催のために、スケート会場など多くの競技場を長野市を中心に新設し、その費用を市が1200億円を負担したそうだが、大会終了後は、当初見込んだ観光客は景気の低迷で伸びず、利子を含めた負債の返済で苦労していることは度々耳にする。

先日も、長野市は毎年、施設の維持管理費に約10億円を支出し続け、開催から約20年を経た来年度に建設費返済は終わるという内容の記事があった。施設の維持管理費の負担は、建物そのものを解体しない限り永久に続くというから、市民の多くは、オリンピックを開催したことに疑問符をつけているのではないだろうか。

長野市長は昨年、『近隣の都市を含め、できるだけ既存のものを利用し、開催後も利用可能な体制を取ったほうがいい』とコイケ都知事へアドバイスをしたそうだが、すでに新しく競技場建設を決めた今では、このアトバイスもと徒花になりそうだ。

それでも都民の『オリンピッ熱』は下がりそうにないという。一月後の都議選で、莫大な負の遺産が明らかなことを主張する候補者が出現することを願うが、それを言い出したら確実に落選となると難しいだろうな・・・。(田舎親父)

2017年5月22日 (月)

富山市民をバカとう資格なし・・・

 政務調査費という公金を、これはオレのカネだとばかり、飲み食いやパチンコなどに使っていた議員が続出した富山市の話がかなり大々的に報じられたのは去年、それとも一昨年だっただろうか。

どちらにしてもさほど昔のことではない。自民党に限らず民進党に属する議員も、当り前のごとくデタラメな支出がバレたことがマスコミの絶好の餌食になり、辞任が相次いだが、あまりにもその数が多いのに日本中がビックリ。富山市民は何を考えているのかと批判されながらも結果的にやり直し選挙になったように記憶している。

こんな話は、富山に限らず、全国どこでも同じようなものだろうという意識があって、さほど興味がわく話ではないことから、私の頭からはすっかり消えていた。

ところが驚いたことに、カネまみれを批判されて辞任した議員たちが、出直し選挙に立候補して、その中でかなりの人数が当選していたらしく、以前と同じように、飲み食いや嗜好品購入に使っていたというから呆れる。

出直し選挙では『皆さんの期待を裏切ることは二度としません。富山市の発展のために命を捧げて頑張りますから、もう一度・・・』などと心にもないことをのたまい、市民の気持ちをくすぐり歯の浮くようなセリフを連発したに違いない。

市民は、大丈夫なのかなあと思いながらも、古くからの地縁などもあって、ついつい投票用紙に馴染みの名前を書いたのだろうが、元々この輩には公と私を区別するという意識が欠落しているのだから、もらったカネはオレのものという従来の行動パタ-ン。これが当り前の感覚で、飲み食いなどに使うことは罪の意識などハナから持ち合わせているはずがないらしい。

このニュ-スを知って、思わず『富山市民ってバカだなあ・・・』というつぶやきが口から漏れそうになるが、ちっと待てと心の中で影の声。これは富山市民だけに当てはまることではなく、日本人全体に言えることではと気付いた次第・・・。

現政権の横暴は何なのだろう。何をしても数の力さえあればできるのだとばかり、『共謀罪』という、いわば戦前の治安維持法に当たるようなトンデモ法さえ、強引に採血したのはつい先日の出来事。

5万分の一の地図を持って山菜取りに出かけても、あるいは双眼鏡でバ-ドウオッチングをしていても、警察の恣意で逮捕できることを否定しない法など存在しては民主主義などという言葉そのものの意味すらなくなってしまう。

その前には、自衛隊の海外派兵をするばかりか、『駆けつけ警護』などという奇妙な言葉を作り出して、戦争ができる国にしてしまった。

森友学園や加計学園の一連の騒動は,今更述べるまでもないが、全ては、デンデ一家の悪巧みが源であることは明らか。

自民党という政党は、このデンデン一家に乗っ取られたようで、親分に少し拙いような情報が出ると,たちまちそれを全員で覆い隠すために動く組織に成り下がっている。親分が、こうしろ・こうしたいとつぶやくと、たちまち忖度意識が働きその通りになる。まさに『やくざの世界』と類似するが、これは小説の筋書きではなくではなく現実の日本の姿。

『富山市民ってバカだなあ・・・』という言葉は、そのまま『日本国民って、本当にバカだなあ』という、本当がついて返ってくる。このやくざな一家をのさばらしたのは誰なのだろうと振り返ると、国民一人一人の自覚の無さ。富山市民にバカだなあという資格はない。

国民全員とは言わない。せめて、半分・いや3割の人が、一家の悪意に気付いてほしいものである。そして,選挙なんて・・・と思って投票所に足を向けない人の何割かが、現政権の下請け組織に成り果てている自民党や宗教政党、さらには維新というデンデンにすり寄るインチギ政党の候補者に『NO』を突きつけるだけで、たちまち世の中が変わることは間違いない。

そんなことが実現すれば良いのになあと思いながら、今日もまた、愚にもつかないつぶやきをくりかえしているの・・・。(田舎親父)

2017年5月20日 (土)

親の姿が見えない・・・

このところ、高齢者の運転ミスによる重大事故など、高齢者がらみの問題を毎日のようにマスコミが取り上げている。これだけ高齢化が進んでいては当然といえば当然なのだろうが、年寄りから見たら、なんだか責められているような感じがして、いやな時代になったものだと痛感することしきり・・・。

そのことはさておき、少年少女による犯罪は、統計的には減少傾向と言われているが、こちらも日常茶飯事のごときとなると、本当に減っているのだろうかと素朴な疑問がわいてくる。

しかし、より気になるのは、少年たちが関与している事件報道には、親の存在感が感じられないこと。親と子は別々の人権だという考え方が浸透しているとしてもである。

先日、東京都台東区のマンションの一室で火事があり、この部屋に住む高校3年の女子高生が死亡しているのが発見されたというニュ-スに反応する。

警視庁は同じ都立高校に通う、少女と交際していた同級生の男子生徒を殺害と放火の容疑で逮捕したとのことだが、こんな重大な事件を引き起こすまでには、二人の間にいろいろとあったはずなのに、両方の親たちは事件が起きるまで何も知らなかったのだろうか。知らなかったとしたら・・・と考えると、やはりスッキリしない。

『少女が住んでいたマンションの一室』という表現を常識に解釈すると、人数はともかく家族の存在があるのが普通だろう。居住している場で、殺害や火事に気付かなかったのとは思えないのだが・・・。

最近は、さまざまな生活スタイルがあり、少女が一人で住んでいたことに、他人には像像もつかない事情もあるだろうが、台東区のマンションの一室を少女に与える?・・・。私のような貧乏年寄りにはとても信じられることではない。

 男子生徒は火災直後、自ら発見者として警察に通報していたそうだが、その後の調べに『殺したことに間違いありません』と容疑を認めているという。

記事には、私には不可解に思う文言がまだまだあるが、少年犯罪ということから、以後の経過などは週刊誌でも読むしかないのだろう。

私にはその趣味がないので、この事件の記憶は薄れ、数ヶ月後にはすっかり忘却の彼方になっているだろうが、できれば、事件が過去のものとして人々の記憶からなくなる前に、同じ年代の子どもを持つ親のためにも、何らかの形で真相?を取り上げてほしいものである。

この事件で、もう数年前になるのだろうが、高校生の少女が以前付き合っていたスト-カ-の男に、自宅で殺害されたという事件を思い出す。記事の文章はほとんど記憶がないが、『自宅』で殺害されたという部分だけ奇妙に覚えている。今回の『自室』という言葉にリンクする。

ところで、先日、名古屋市で、16歳の女子高校生が赤ちゃんの遺体をかばんに入れて警察署を訪れ、死体遺棄の疑いで逮捕されたという新聞記事に、今回の事件とは全く関連はないが、親の存在が見えないという共通の疑問が浮かんでくる。
 逮捕されたのは、名古屋市に住む高校2年の女子生徒だという。この女子高校生は午後7時すぎ、一人で赤ちゃんの遺体を手提げバッグに入れて途方に暮れた様子で警察署を訪れたとのこと。

この少女は、一週間ほど前に、『自宅』で出産したというが、それよりも、家族(記事には詳しい家族構成はない)と同居していたという文言がひっかかる。

現職時代、養護教諭から性教育の大切さと、愛と性との関連の話を何度も聞かされ、特に、女子高生の妊娠が珍しいことではないことを教えられたことを思い出す。

この養護教諭は、何度もそんな女子高性の相談に乗っていたらしく、その語りは真剣そのものだったが、子どもたちへの性教育はもちろんだが、親への啓発が大切なことを口を酸っぱくして訴えていた記憶が蘇る。

彼女によると、普通の家庭では我が子の妊娠を気付かない親はないという。親が知っていれば、一つの選択肢として中絶という手段があることも教えられるが,親が全く子どもに無関心な場合は、出産まで気付かないことも稀にあるとのこと。当時の私には、そんな親がいるのだろうかと俄に信じられなかったが・・・。

しかし、最近の女子高生がらみの事件報道を見聞きする限り、養護教諭の言っていることが本当だということが良く分かる。しかし,だからどうすればよいのかとなるとなるとかいもく見当がつかないが・・・。

ただ,言えることは、せめて我が子が高校を卒業するまでは、例えうるさがられても何かと口出しすることは親の義務だという自覚を持ってほしいこと。

いじめの問題も、親が子どもの変化に気がつかないことが、自殺という最悪の事態に発展することが多いのだから・・・。

考えさせられることが多過ぎる今日この頃である。(田舎親父)

2017年5月19日 (金)

また大学入試の変更・・・

文科省という役所の官僚たちは、自分たちに自信がないらしく、時をかまわず、しかも一部の有識者という御用学者の意見だけで、制度を変えたがる習性があるようだ。これは、クセといっても奇怪しくないほど、次々に改定という名の変更がなされている。

その最たるものが、英語を小学校で義務化し、しかも教科として高学年では週2コマの授業を学校現場に押しつけたことに加えて、道徳という人間のあり方を議論する分野を、教科として位置づけて、文科省の基準で評価をしなければならないとしたことではないだろうか。

広く国民的な議論を踏まえたのならまだしも、突然、グロ-バルな人間を養成しなければならないとして、戦後はじめて現場が主導できる『総合的学習の時間』が創設され、そき中の一分野として『国際理解』という言葉が現れたのは、20年ほど前のことだった。

現場はとまどいながらも、必死になって学習の工夫を模索しはじめた矢先に、総括もなにもなく突如、英語が必要だという押しつけになり、時を移さず『国際理解』が『英語の習得』と同義語となり、高学年で英語指導が義務づけられたことは記憶に新しい。それが現在では低中学年にも広がっている。

さらに、教科に位置づけられた『英語の授業』は週に2コマとなり、そのため他の教科の時数確保に学校現場は大混乱。文部官僚たちの制度を変えなけれどという脅迫概念が、ますます強くなっているように思えてならない。

道徳の教科化も大問題であるが、今までも何度もつぶやいていたことなので、ここでは省略するが、文部官僚たちの性癖は、またまた大学入試制度を改革しなければという意識にとりつかれはじめているらしい。

文科省が2020年度(この年がなぜかオリンピック開催年と一致するのも奇怪しい話だが)から大学入試制度を変えると言い出した。その新しい『大学入学共通テスト(仮称)』の実施の具体案を明らかにした。

 ここにもご多分に漏れず、改革の柱は『英語』である。『英検』や『TOEFL』といった民間の検定試験を英語に採用するとのことであるが、どうやら英語に関しては、お抱えの有識者たちが作る問題では、丹生氏における英語力は計れないと認、実績がある民間の検定を使わせてもらうというところらしい。

 英語の文科省案は、高校3年の4~12月の間に2回まで、英検やTOEFLなどの検定を受け、その良い方の結果を使えるとしている。話はそれるが、想定される『検定試験』は10種類ほどあるのだそうだが、『英検』と『TOEFL』だけだと思っていた私には、俄に信じられない思いであるが・・・。

世の中には、これもビジネスとばかり『英語検定試験』に参加する業者が多いことを改めて知るが、そのことはともかく、これらの検定の中で『学習指導要領』に対応したものを大学入試センターが認定するというから、検定試験を実施している企業の熾烈な競争が激しくなることは間違いなさそうだ。

 私はこれまで検定を受けたこともない。どこでこんな検定があるのかという知識もないが、ビジネスとして行われていることから利潤を得ることが最大の目的だろうから、これらの民間検定は人口比に応じて場所や実施回数などに差があることは想像に難くない。

当然のことながら、大都市では受験機会も多く、自分が得意とする検定があり、そこで高い点数が期待できそうだが、地方では、検定の種類も回数も限られていることは疑えない。どうやら、大学入試まで地方と都会との格差を広げる片棒を担ぐことになり、実際に実施されたら、地方がさらにさびれることは間違いなさそうだ。

 さらに、これらの検定がビジネスである以上、受験料が発生し、それは自己負担であるはず。記事によれば、英検は2級の試験で5800円で、他には2万5000円以上の検定もあるとのこと。文科省は割引を要請すると説明するが、家庭の経済的格差によって受験機会は大きく変わることも間違いないところ。これも経済格差を広げるものであり、決して容認できるものではない。

 繰り返しになるが、私には英語検定がどんなものか理解できないが、10以上も検定を実施している企業があるということは、費用や回数はもちろんだが、もっとも重要なことはその内容。難易度が違うのは当然で、文科省かがそれを公平に評価できる方法が確立できているとは思えない。

 実際にこのような英語入試が実施されたら、英語塾は大変な人気になるに違いない。今でも、ちょっとした都会の駅前では、学習塾にならんで英語塾が乱立していることから、数年後の駅前は大変なことになりそうだ。

 文科省という役所も、現政権の『今だけ・自分たちだけ・カネ儲けだけ』という方針の実行部隊として、学習指導要領を変更したり入試方式を変更したりしているのではと言うと、言い過ぎだろうか・・・。(田舎親父)

2017年5月18日 (木)

オリンピックのためだけに全面禁煙?・・・

 この国はオリンピックが何よりも大事な価値観として存在しているらしく、オリンピックという言葉の前では文句を言えない雰囲気が充満しているようだ。その最たるものが、無茶苦茶な運営費。

当初は、全て都内の会場でコンパクトに行うという話だったが、都内の開催地に選ばれた競技場は、ここは不適当、もっと良い場所がある、施設が老朽化しているなどの理由で、国立競技場の建て替えはじめ、新規の競技施設建設はもちろん、ヨットは江ノ島だ、野球は横浜球場だ、サッカ-は埼玉や宮城だと、コンパクトどころか広域開催になっている。

やっと、これら都外の仮設の建設費用を都が負担するということで、一応決着はついたものの、そこでの運営費や警備費用はどうするのかが不透明で、関係する組長さんたちはやきもきしているのだそうだ。

結局、費用は2兆円以上かかるとの試算らしいが、実際近づいてきたら、今以上にカネ儲け命が輩が跋扈して、あれも必要これもいると言うことになり、3兆・4兆と豆腐を数える単位のような天文学的な無駄遣いが始まるのは明らか。その結果、後に残るのは負の遺産ばかり・・・となるのは私でも十分予想できる話。

そのオリンピックに関して、今、競技場近辺の飲食店での禁煙問題が話題になっている。私は、実際にオリンピックが開かれた外国の都市に出かけたことはないので、その雰囲気は想像するしかないが、近年オリンピックが開かれた都市や国々では、屋内の禁煙は当り前なので、わが国でもそうしなければならないという議論が進んでいるという。

もっともな話であるが、わが国においては一番幅を利かせているのが『俺だけ・カネだけ・利権だけ』という自民党の議員だが、その輩が屋内全面禁煙に反対しているというから、話がややこしくなっている。

この問題に関しては、珍しく厚労省の官僚たちは、世界の時代の流れを敏感に察知して、屋内全面禁煙を打ち出したのだそうだが、すぐに、省内でも反対がでたらしく、飲食店内は原則禁止ではなく、たばこを吸う場合には、密閉された喫煙スペースを作らなければならないという案文を作ったようだ。

ここでも役所の大好きな『原則』という言葉を出して基準を曖昧にし、例外としてという文面を続けて、広さが30平方メートル以下のバーやスナックのみ、喫煙を認める方針だという。

バ-やスナックという言葉から、酒類を出して接客するという意味なのだろうが、最近は喫茶店でもビ-ルがメニュ-ニ入っているのはごく普通。また、ちょっとした都会ではファ-ストフ-ズ店が幅を利かせている昨今、線引きは極めて曖昧。このあたりどう解決するのだろうと要らぬ心配をしてしまう。

自民党の議員たちは、飲食店の『売り上げが減る』と主張して、一定の面積よりも小さい店では、店の入り口などに『喫煙』『分煙』の表示を義務づけることで、バーやスナック以外の飲食店でも喫煙できるようにしたいようだが、私的には、むしろ『全面禁煙』にした方が客足は延びるような気がする。しかし、業界の利権代表である議員たちには、目先の票しか見えないようだ。

ここで、このところ人気が落ちてきたコイケ都知事が登場する。知事は、受動喫煙対策を夏の都議選の争点とする考えを示し、受動喫煙対策の条例化を自らが率いる『都民ファーストの会』の公約に盛り込む方針だという。
 一方、自民党の東京都連も、受動喫煙対策の条例化を党本部の動きとは別に、都議選の公約に盛り込む方針を発表し、公明党や民進党も都議選の公約に盛り込むという。全ての党が、オリンピックの成功のために『屋内禁煙』を打ち出したら、都民はどの基準で候補者に投票するのか迷うのではないだろうか。

オリンピックも都議選も興味がない私であるが、これは面白くなってきた感じ。ただ、日本中が、オリンピックのためだけに『屋内禁煙』と大騒ぎするのでは、なんとも情けない話。

愛煙家が住みにくい世界になっているが、タバコの煙が健康に悪いことは証明されているのだから、人がいる場所では吸わないという最低限の礼儀というか常識を持てれば良いだけの話だと思うのだが。

しかし、ここにも『自分だけ・・・』というムリがまかり通り、相手の迷惑省みずという風潮が蔓延しているのでは、オリンピックという錦の御旗を掲げて選挙の公約にしたくなるのは仕方ないところだろうな・・・。(田舎親父)

2017年5月17日 (水)

線路に逃げることが大流行?・・・

 今年に入って線路に立ち入る事故が急増しているのだそうだ。その殆どが、痴漢の疑いをかけられた男性だというから考えさせられる。

私は直接経験したわけではない。また現場を目撃したこともないが、身動きができないほどの満員電車では、痴漢騒ぎは日常茶飯事であることは想像に難くない。

意識的に女性の身体を触るのが痴漢行為なのだろうが、実際には、その気がなくても、女性の身体の一部が触れることもあることは、私も満員電車通勤を40年近く続けたの間に何度か、それに近い経験はある。幸い、痴漢として疑われなかったが・・・。

痴漢だと思った女性がキャ-とでも叫ぶと、たちまち回りの乗客が騒ぎだす。寄ってたかって該当者だと思われる男性を取り囲み、電車から引きずり出して駅員に引き渡すのが当り前だと言う話も良く耳にしたものである。

そんなことになったら身の破滅。たちまち職を奪われ家族が路頭に迷うことになる。そこで私がとった自衛手段は、できる限り先頭車両の一番前のドアから乗車して運転席の後ろ窓から前方の景色を眺めて過ごすこと。あいにくその場所が確保できない時は、両手で吊り革につかまる、いわゆるバンザイ姿勢をとることである。おかげで、痴漢に間違えられた経験は一度もないのだから、この消極的な作戦は一応成功したようだが・・・。

 通勤の後半には『女性専用』という車両が登場したことに、徹底的に痴漢騒ぎをなくすなら、『男性専用』という車両も必要ではと言いたくなったが、乗客の男女比からは無理だろうな・・・と諦めたことも思い出す。

 話を戻すが、痴漢の立証権はあくまで女性にあるという。男性が、故意ではなく相手の女性の思い込みだと主張しても聞き入れられる場合は少なく、徹底的に否認して裁判に訴えて無罪を勝ち取るまでには、長い年月と相当な資金が必要。時に、冤罪だとわかることもあるらしいがそれは稀なこと。その場合は間違いなくマスコミが大騒ぎなるのがオチ。

 中には、意識的に男性を挑発して、痴漢だと騒ぐ女性も存在するというから、通勤地獄は女性以上に男性に厳しいようだ。

 痴漢に間違えられ捕まった男性は、一瞬頭が真っ白になりパニックに陥ることは間違いない。何とかこの場を逃げなければという心理が働き、身の危険など省みず、一番捕まりにくい線路に飛び出すのだろう。

 となると電車は遅延、多くの乗客に迷惑をかけることになるのだが、本人としてはそこまで気が回らない。マスコミか意識的にとりあげているのかも知れないが、こんな行為が流行になるのだからなんとも奇怪しい限り・・・。

 ここまで同じような事件が報じられると、そのうち逃げた男性が電車にはねられて死亡する事件になるのではと心配していたが、一昨日の夜のテレビニュ-スで、事実になったことを知る。

 15日午後8時15分ごろ、横浜市青葉区東急田園都市線青葉台駅の下りホームで、電車内の痴漢行為を指摘された30代の男性がホームから線路に飛び降りて電車にはねられ死亡したという報道である。

 男性は電車内で痴漢をしたと指摘され、被害を訴えた女性と目撃したという乗客とともに同駅で電車から降りて、男性を取り囲んでいたところ、インタ-フォンで連絡を受けた駅員が駆け付け、男性と話し合っている最中に男性が線路に飛び降りたという。

 恐らく、この事件の続報はないだろう。詳しい身元など知るよしもなく、また知ろうと思わないが、家族や身内に加えて知人は存在し、特に家族の悲しみはいくばくのものかと、事件の真実はともかく同情するしかない。

実際に痴漢行為が存在したのかはわからない。しかし、例え冤罪であっても証明することがほとんど不可能。となると、命をなくした男性の心理は、痴漢を訴えた女性も取り囲んだ乗客たちも何となくわかるような気持ちになり、心の中ではひっかかるものがあるに違いない。

この事故で、田園都市線はあざみ野―長津田駅間で約2時間、上下線の運転を見合わせたというから、場合によっては、東急が家族に莫大な損害賠償を要求することもあり得ない話ではなさそうだ。

もしも、この男性が冤罪だった、こんな気の毒なことはない。いや、痴漢行為が事実だったとしても、その行為から逃げるために、命との交換?・・・。バカバカしい話で、こんな事件が流行になってはたまらない。

隣の席の女性のイヤホンからの音漏れを注意したところ、突然『痴漢です』と騒がれて、危うく捕まりそうになったというウソみたいな話もあることから、男性専用車両も必要だという議論も始まるのでは・・・。

いやはや大変な、そして夢のない無機質な時代になったものである。満員電車で通勤しなくても良い環境を整えるために知恵を出したいものだが、今だけ・自分だけ、カネ儲けだという世の中では、お前など引っ込んでろと言われるのが関の山だろうな・・・。(杉)


2017年5月16日 (火)

年金資金がクラスタ-爆弾?・・・

 100年は心配ないと言われていた巨額の年金財源を一部の政治屋とその仲間たちが自分のカネのように利権目当てでハコモノを大量に作ることに費やした結果、今後の年金運用が難しくなり、それを挽回するために、投資というギャンブルで自転車操業しているという話に、ウソだろうとつぶやいたのは数年前。

 ところが、この公的年金の積立金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)という組織は、文句があるのが・・・とばかり開き直り、人道的見地から国際条約や法律で禁止されているクラスター爆弾を製造するアメリカ米国企業に投資しているというから、わが国はもはや、カネのためなら人の命などどうでも良いという国に成り果ててしまった感じがする。

 クラスター爆弾とは、大きな爆弾の中に無数の小型の爆弾を入れておき、空中で爆発させて多数の子爆弾をばらまくため、殺傷力が高く『戦争の親玉』とか、『悪魔の爆弾』と言われている程度の知識は持っている。

アメリカはベトナム戦争でこの爆弾を大量に使ったと非難されていたが、その不発弾がベトナム国土はもちろんのこと、周辺の国々には今でも残っているという。以前、その不発弾を処理する国際組織に所属する人の聞いたことがあるが、クラスタ-爆弾の知識がない現地の子どもたちが、知らずに手で触れて爆発するということが、現在でも日常的に起きているのだそうだ。

まさに、時を越えて人々を不幸にする爆弾である。国際条約で『使ってはならない』ことになっているはずなのに、現実は、この爆弾を今でも作り続けている企業があること自体許し難いことであるが、こともあろうに、わが国のGPIFは公然とその企業に投資しているとは・・・。9条で戦争放棄を高らかにうたう、日本国憲法の精神を踏みにじる天に唾する行為である。

このことを国会で民進党の議員が取り上げて質問したそうだが、現政権は『製造する企業の株式を保有することは禁止されていない』とうそぶき、さらにこの見解を閣議決定したというから呆れてものがいえぬ。

 GPIFが投資しているのはアメリカの『テキストロン』という企業で、2015年度末の時点で約192万株をも保有していたのだそうだ。今北朝鮮がらみで、世界的に兵器関係の企業の株価は跳ね上がっているというから、カネ儲けの対象には絶好な投資先になっているのだろう。ここまで悪魔に魂を売り渡した理念のない政府がこれまであっただろうか・・・。

 北朝鮮の緊張が高まれば、ますますGPIFにとっては懐にカネが飛び込んで来るのだから望ましいことになる理屈だろうが、このカネは正真正銘の『汚れた黒いカネ』。普通の感覚では絶対に手にしてならないはずなのに、デンデン男とその子分たちは、こんな当り前の理念も捨て去って、ただただカネ・カネ・カネさえ儲ければそれで良いらしい。

 老後の安心?のための私たちの大切なお金を『戦争の親玉(悪魔の爆弾)』を作るために使っているとはなんともおぞましく、世界から軽蔑されても仕方ない国になり下がってしまった。そして、自分もその国民の一人であることが情けなく悲しい・・・。(田舎親父)

2017年5月15日 (月)

学校はブラック?・・・

最近かなりの頻度で教員の勤務についての話題がマスコミを賑わしている。先生が疲れ切っていては、子どもたちへの目配りがおろそかになるのは当然なことは誰の目にも明らかなはずなのに、教員の勤務対応が一向に改善する気配はない。

マスコミは『学校のブラック企業化』などという表現で、勤務を見直すべきだという論調を展開しているが、政府が本気で取り組んでいないどころか、ゆとりを『否』という考え方を進めているのだから、前に進むわけはないというところ。

文科省かが2016年に教員の勤務状況を調査した結果を発表している。それによると、一週間あたりの教諭の平均労働時間は、小学校で57時間25分、中学校では63時間18分に達しているのだそうだ。しかし、これは文科省が各教委から報告を受けた数値である。

教育委員会としは学力テストの点数はなるべく高めに報告したいところだろうが、教員の勤務時間調査となると、心理的には短く報告し、我が県(市町村)は無理な勤務をさせていないことを数値で表したいと思いたくなるのも仕方ないところ。

16年度の調査の方法は知るよしもないが、各教委に対しては、『教員の勤務時間を報告せよ』という通達を出したというところだろうから実数はもっと酷いのではないかと推察しているが・・・。

すでに現職を離れて10年以上過ぎているので、教員の勤務実体を正確に把握しているわけではないが、出退勤をタイムカ-ドで管理しているという話は聞いたことはないことから、今でも押印という方法で勤務を管理しているのではないだろうか。

教員の給与体系は特別法規によって、本給の4%を教職員特別手当として給付していることは良く知られているが、この代償が、残業という意識を徹底的に無くすことをたたき込まれ、当り前という感覚にさせられていること。

現職時代は私自身そのことに何の抵抗もなかったが、当時は時間的なゆとりがあり、翌日の授業計画も自分でたてるだけで良かった時代、週案提出という決まりはあったようだが、それを求める校長とは無縁だったことから、放課後は子どもたちと遊ぶ時間も十分確保できたのだから、時代が良かった?というところかも・・・。

 ところが、私が校長職になった頃から、出勤簿の押印と週案の提出がうるさく求められるようになり、教員の萎縮が始まったのではないだろうか。私は、タテマエ上『週案は書いておけよ』とは言うものの、『俺は見ないよ』という言葉を付け加えていたことも思い出すと懐かしい。

私がある意味おおらか過ぎたことは間違いが、教員をギリギリマで追い詰めていた校長はごく稀ではなかっただろうか。ところが、最近は文科省の把握しているだけでも、『過労死ライン』とされる月80時間超の残業を余儀なくされている教諭は、小学校で3割、中学校で6割に及ぶというから凄まじい。しかし、それを改善しようという動きは鈍い。

 教員の仕事は自発性や創造性が期待され、働いた時間の長短で評価できないことは当然だろうが、だからといってたった8時間分(本俸の4%)を上乗せしているという理由で無制限に残業を強いられてはたまらない。

残業そのものを想定していないことは、仕事の特殊性から仕方ないところもあるだろうが、一日7時間45分の勤務時間をやりくりし、全ての仕事を片づけろというのはあまりにも乱暴過ぎる。

授業の準備や部活動の指導、家庭訪問が長引いても当り前という扱いの風潮を改める必要がある。とは言うものの、タイムカ-ドを導入して、4%をなくして残業を厳密にカウントすれば良いというわけにもいかないところが教師の仕事の悩ましさ。

 4%の扱いは以前から指摘されていたが、国(財務省)は人件費を抑制したいから抜本見直しに踏み込まず、むしろ、子どもが減っているという理由で教員の数を減らそうと躍起になっているから始末が悪い。

 一方文科省は、タテマエは定数削減には抵抗しているらしいが、『グローバル人材育成』となんとでも解釈できる意味不明の言葉で学校にはゆとりは不要として授業時間を増やしているのだからどうしようもない。

そればかりではなく、いじめや不登校、発達障害には丁寧な対応を求め、地域や家庭との連携の強要など、ますます教員を追い詰め、結果として、精神疾患で休職する教員は高校を含め年間5千人以上というのは異常としか言いようがない。

このままでは、現場の崩壊は間違いない。現場を知ろうとしない文科省の上級官僚たちは、いじめ防止のためにカウンセラ-の配置などには予算を計上する姿勢らしいが、カウンセラ-を配置したからいじめがなくなったという話は聞いたこともない。

何よりも、現場の悩みや教員の勤務軽減のためには、子どもたちと直接接する教員の数を増やすことであり、いじめを本気で少なくするためには、すぐにでも20人学級に見合う程度の教員を増やすことだと気付いてほしいものである。

教員の疲弊のしわ寄せを蒙るのは子どもたちだという、学校教育の初歩の初歩であるこの真実を知ろうとする努力を望みたい・・・。(田舎親父)

2017年5月13日 (土)

国民を騙す事が得意技?・・・

北朝鮮の弾道ミサイルが日本に飛来する可能性がある場合に出す全国瞬時警報システム(Jアラート)のメッセージについて、第1報の段階から避難を呼びかけるよう改めたとというニュ-スに、またいつもの得意技を出したなと呆れてしまう。

そもそもJアラ-トなるものの実体を、国民が良く理解していない現状で、北朝鮮からミサイルが発射されたという情報を、どのように正確に伝えられるのだろうという素朴な疑問がわいてくる。

いや、それ以前に、北朝鮮が今にもミサイルを発射するぞという脅迫概念を国民に植え付けているが、現政権はむしろ発射させたいという思惑があって、北朝鮮に対して挑発しているように思えるのは私だけだろうか。

トランプ大統領に真っ先に忠誠を誓い、巨大空母を中心としたアメリカ軍が日本海で臨戦体制をとっているという情報を流しているが、いくらトランプが戦争大好き人間であっても、すぐに北朝鮮とドンパチをはじめるはずがない。

歴代のアメリカ大統領は自国の国民の命を守ることが最優先であり、戦争を仕掛ける場合は、自国民の犠牲が最小限になるようにしてきたことは、誰の目にも明らかだろう。

トマホ-クというミサイルをアメリカ海軍の駆逐艦から大量に北朝鮮に向けて発射すれば、数時間で北は壊滅するという右翼思想の持ち主は声だかに叫んでいるが、自国民の犠牲という対価を払わねばならないとなると、簡単にドンパチ開始の命令など出せるはずかないことは、私の少ない知識からでもはっきりとわかる。

要はむしろ、危険だ・逃げろと大騒ぎをして国民の目を欺き、国を守るのは当然だと戦争を正当化する現政権の自作自演の猿芝居というところだろう。

北朝鮮は今後も繰り返しミサイルを発射するだろうが、それはアメリカに対抗するというよりも、対等の立場でテ-ブルにつくためのものであるはず。そんな最中に、日本に向けて、本気で発射などしたら、世界から総スカン・・・。それこそ本当にアメリカの怒りを買う事は十分承知しているはずだから、突然ミサイルが飛んで来ることなどまずないと考えて間違いないだろう。

なのに、『Jアラ-ト』の避難段階のレベルをあげる?・・・。従来は領土・領海に落下する可能性が判明した場合にだけ、第2報で避難を求める運用だったらしいが、避難呼びかけのタイミングを前倒ししたのだという。
 これまでの第1報は『ミサイルが発射されたもようです。続報が入り次第お知らせします』と続報を待つよう求める内容だったらしい。確かに、テレビではときたまそんな場面に出会わすことがあった。

その場合、大体があの官房長官がヌエ顔で発表しているが、ミサイルが飛んで来るはずがない事は分かっているので、いつもの表情で淡々と原稿を読むだけだけで、第2報などあるはずがなかった。

第2報としては『ミサイルの一部が落下する可能性があります。屋内に避難してください』とか『上空をミサイルが通過したもようです』などと伝える運用だったことも最近知った事であるが、これを第1報段階から『ミサイルが発射されたもようです。頑丈な建物や地下に避難してください』とするとのこと。

そのためにすでに各地で住民避難訓練が行われているという。そう言えば、先日のミサイル発射というニュ-スで東京メトロが10分ほど運行を中止したらしいから、現実にこの筋書きの芝居の幕は開きだしたらしい。

100歩譲って、本当に北朝鮮からわが国に向かってミサイルが発射されたと仮定してみても、北朝鮮のどこから発射されたのか、何発発射されたのかということが瞬時でわかると説明しているが、『瞬時』とは、私の感覚ではまさに瞬時であり10分後を瞬時と解釈する辞書は存在しない。

ところが、軍事専門家によれば、アメリカの最高軍事システムを使っても、どこから何発どの機種という正しい分析ができるのは、少なくとも10分後だという。自衛隊にはこのシステムがない事から、アメリカから発射情報が日本政府に伝えられて警報を出すのは5分後?・・・。

政府は、人々が行動を起こして、たった5分間で逃げられると本気で考えているとしたらまさにブラックジョ-クだろう。たまたま近くに防空壕?があったらまだしも、屋外で仕事をしている人たちは、警報そのものが届かない可能性の方が大きいはず。

さらに、ミサイルの中身が爆弾ではなく、サリンのような猛毒のガスだったとしたら、建物に逃げ込んだらかえって犠牲が大きくなることもあり得るのではないだろうか。

この事を国民は気付いて、そろそろ、こんなバカバカしい猿芝居はお止めなさいという声を上げなければ、そして、デンデン政権を退場させなければ、トンデモ事態になる事を本気で憂えてほしいものだが・・・。(田舎親父)

2017年5月12日 (金)

さらにまた一つ再稼働・・・

 九州電力玄海原発3、4号機の再稼働に佐賀県知事が同意したのは先月末。玄海町と町議会、県議会は同意済みで、これで地元同意手続きは完了したことから年内に玄海原発の再稼働に向けて動き出すことになるようだ。

しかし、福島原発事故後、原発から30km圏内は避難の対象になることを『国』として決めたのだから、福岡県や長崎県の知事や30kmないの自治体の組長に発言権がないのは誰が考えても奇怪しい話。

ところが、現政権は、原発立地の県と市町村の同意のみで再稼働を進める方針を変える気持ちはさらさらなく、他の自治体の反対意見を反映する仕組みはないのは不合理極まりなく許し難い。

玄海原発周辺は数多くの複雑な離島や海岸線が3県にまたがり、しかも、具体的な避難方法がまったく示せないことから佐賀県知事と玄海町の同意だけで再稼働を可にするなどは乱暴というより無茶苦茶な話というほかはない。

 しかも、この玄海原発の再稼働ニュ-スに加えて、関西電力が高浜原発4号機を数日後には起動して再稼働させるらしいとなると、何故この政権はわざわざ国が自滅する道を選ぶのだろと絶望感しか生じない。

 高浜原発4号機は新規制基準に合格し昨年2月に再稼働したものの、直後に電気系統のトラブルで緊急停止したこともあり、3月には大津地裁が運転差し止めを命じる仮処分を決定、1年以上停止したままだったのが今年3月に大阪高裁が仮処分を取り消す決定をしたという、いわば曰くつきの原発である。

現政権はマスコミに命じているのだろうが、北朝鮮の最近の行動を脅威の極みのように伝え、明日でもミサイルが飛んでくるかのごとく世論操作を続けているが、原発が攻撃されるということを想定していないのだろうか。

そんな事はあるまい。もしも、北朝鮮が本気ならば、わざわざ一番近い日本海側に集中させている原発の中の一基をねらえば、即勝敗が決まるだろうことは、全くの素人の私でも十分に想像がつくことなのに、標的にされやすい玄海原発や高浜原発を再稼働させるとはどんな神経をしているのだろう。とても正気の沙汰とは思えないのだが・・・。

地裁の停止決定を覆した高裁も、ミサイルの標的になることなど考えていない?。浮世離れした高裁や最高裁のことだから、判断基準が違うといえばそれまでだろうが、事故というものは、まさかの気の弛みというか、わずかの驕りの心理から起きることはこれまでの歴史が証明している。

今回の、再稼働を『是』とした決定が、標的になる事を想定していないとなると、これは危険極まりない。また想定していたが、国の再稼働ありきの姿勢を忖度してとなると、さらに危ないことになりそうだ。

玄海原発に続いて高浜原発、そして同じ福井県の大飯原発も再稼働準備が進んでいるというが、現政権はミサイルなど打ち落とせると信じている?・・・。それとも、ミサイルを飛ばす前にアメリカが北朝鮮の国体を破壊してくれるとでも思っているのだろうか。

『ミサイルが発射されたら、近くの防空壕(地下街や頑丈な建物)に避難せよ』などという、時代錯誤の避難指示話を閣議決定するような政府だから、あり得る話かも知れないが、どこから飛んでくるか予測もできず、発射されたとしてその情報はアメリカ頼りらしいとなると、逃げる時間はわずか数分。

近くにおあつらえの防空壕があったとしても、稼働中の原発が破壊されたらそれでこの世はお終い。原発でなくても、中身がサリンなど猛毒のガスであったら避難そのものがムダになることは私でもわかる知識。

こんなバカバカしい国で息をするのも苦しくなる。心の奥で、ほんの少しだが北朝鮮のミサイルに期待する昨今である・・・。(田舎親父)

2017年5月11日 (木)

考えさせられる記事である・・・

  『退職願提出後、町議会は副町長の再任同意』という見出しに、昨日に続いて、どういう意味なのという疑問が先にたつ。 

 北海道新聞の記事である。北海道奥尻町の町長が町議会から再任の同意を得るため、副町長に対して町職員の妻に退職を促すよう働きかけたことを受け、『公務員の共働き』を巡る問題が注目を集めているとある。

 ここまで読んでもまだ意味が良くわからない。記事の文字を追って、最後まで読み通して、やっと副町長の妻も町役場の職員であり、町では雇用がないのに、副町長夫婦が町から給料をもらっているのは議会に対して気が引けるから、妻を辞めさせたということだという筋書きが見えてきた。

議会からの圧力があったとは書かれていないが、『共働きは当然の権利だと分かっているが、若い人の雇用の場は少ない。副町長の妻が退職して道を譲ってもいいのでは』という町民の声を紹介しているところから、議員の中にも同じような考え方がある気配は十分以上に感じられる。

また、函館市の年配の職員は『十数年前までは、夫婦とも市職員の場合、夫が部長級以上に昇進すれば妻が退職する不文律があった』と明かしていることも取り上げている。

さらに、空知管内新十津川町では、町職員同士で結婚した複数の女性が、上司に退職を促されて役場を辞めたということも載せている。十津川町は『退職を求めたことはない』とするが、北海道新聞の取材によると、昨年6月までの過去30年で少なくとも20組が職場結婚し、いずれも妻が退職していることも報じている。

現在はどうなっているのか知らないが、私の若い頃では、銀行などでは結婚と同時に女性行員が退職するのはごく当り前の話として良く耳にしたことではなかっただろうか。

当時は、銀行は若い女性には人気の職場だったらしいが、典型的な男社会であり、女性が長く勤め管理職になるなどという雰囲気ではなく、寿結婚という言葉もあったように、結婚を機会に退職するのが常で、特に職場結婚となると女性が退職することに違和感がなかったのではなかっただろうか。

 時代が変わり、女性が結婚後もそのまま働くのが当り前になっている。そのために、特に都会では、保育園が足りないことが、組長選挙の最大の争点にもなっていることを今更述べるまでもない。

 私はこの風潮の背景には、働かなければならないという脅迫概念があることと、子育てに専念したくとも経済的な余裕がないことが原因だと思っているので、いつもつぶやくことだが、主婦(主夫)として子育てに専念するのも職業だという考え方を広め、国の責任において主婦(主夫)業に見合う給料を払うべきだという考え方を持っている。

ところが、現政権のやり方は、女性をできるだけ低賃金で働かすことがねらいで、マスコミとタイアップして『女性が輝く時代』というまやかしのキャッチコピ-が、正しい生き方のような雰囲気を作り出しているのだから、私の主張などに耳を傾けることなど絶対にない。

 それはともかく、JR北海道の鉄路がほぼ半分を廃線にしなければ営業が成り立たないというほど、北海道全域での過疎化は深刻で、若い世代がどんどん離れ、高齢化のみ進んでいるのが現実。となると、若者も含めて安定した職業は役場の職員のみ・・・というウソのような話が伝わってくのもの当然といえば当然だろう。

 奥尻町もその典型だとしたら、町長が『特別職としてけじめをつけた方がいい』と、妻の退職を促賀した気持ちもわからないでもない。

 記事には、労働問題に詳しい大学教授の、『働く権利は、国民一人一人に憲法で保障されている。合理的な根拠に欠ける理由で退職勧奨が行われているとすれば、違法と評価される可能性がある』という意見を載せている。

この考え方が当り前に通用する社会にしなければならないのだが、この国の政治は真逆ばかりとなると、北海道の過疎地では、議会の同意を得るために町長の判断を、ばっさりと否定できるものではなさそうだ。

奥尻町の現状など想像もできない私であるが、考えさせられることが多い記事である。(田舎親父)

2017年5月10日 (水)

『サ高住』?・・・

 なんでも言葉を略したり、アルファベットの頭文字で表すことがこのところ当り前の風潮になっているので多少のことには驚かないが、先日、朝日新聞の『サ高住』という見出しの文字には一瞬ポカン。その次に、何なのこの言葉は・・・としばし固まる。

 もっとも記事を1行読んだだけで、『サ高住』が『サ-ビス付き高齢者住宅』の略であることがわかり、そう言えば最近、『サ-ビス付き高齢者住宅』という新聞折り込みのチラシがかなりの頻度で入っていることに思い当たる。

 改めて、そのチラシを探してみる。今までは全く興味がなかったので見過ごしていたのだろうが、このチラシでは、『24時間、皆様の安全を見守ります』といううたい文句で入居者を募集している。

入居価格もかなり安い感じで、私でも入れそうな数字が並んでいるところから、結構需要もあるようだ。特養に申し込んでもはずれた人や、子どもたちに迷惑をかけたくないと思っている高齢者には、『24時間云々・・・』という言葉には魅力があることは間違いなさそうだ。

 今のところ、老人施設などの必要性を感じていない私であるが、特養よりは自分の自由度が生かされているだろうと感じさせる『サ高住』ならば、もう少し動けなくなったら入居してみるのも良いかなと思わせるが、この記事にあるような実体を知ると、二の足を踏むことになりそうだ。

 それにしても、この『サ高住』で、2015年1月から1年半の間に死亡や骨折など少なくとも3千件以上の事故が報告されたとなるとこれは酷過ぎる。サ-ビス付きなどとうたっているが、24時間見守るためにどんなサ-ビスがついているのだろうと突っ込みたくなる。

 記事によると、制度上は民間の賃貸住宅と同じ扱いだそうだ。(繰り返しになるが)『24時間見守り』という文言にひかれるのだろうが、要介護者が入居者の大半を占めているのが現実らしい。国交省が改善に乗り出すとあるが、これって国交省の管轄なのだろうか。むしろ厚労省き守備範囲では・・・。
 私が知らなかっただけなのかも知れないが、『サ高住』が大きな社会問題になったのは、15年夏に大阪市の『サ高住』で起きた『孤独死』だったという。この事件?をきっかけに、国交省と厚労省が、全国の自治体に『サ高住』への指導徹底を求めていたとある。

民間の賃貸住宅となると国交省がかんでいるのだろうと納得するが、この国では二つ以上の省庁が同じ方向で連携するなどということはまずムリな話。どうやら、この制度そのものが、法の隙間で誕生したような気がしてならない。

朝日新聞は昨秋、全国約21万戸のサ高住を監督する都道府県と政令指定都市、中核市の計114自治体に情報公開を請求したところ、97自治体が事故報告書を、またすべての自治体が運営報告書を今年2月までに開示したのだそうだ。

その事故報告書によると、15年1月~16年8月末の事故は計3362件で、最多は骨折(1337件)だったという。病死を除く死亡は147件というから、施設内での転落や転倒?・・・。

ちょっと多過ぎるが、それでも自治体によって報告件数は大きく異なり、東京都の301件に対し、愛知県は0件というから、報告基準がバラバラというより、実体はほとんど闇の中ということらしい・・・。

国が報告すべき事故として、死亡や虐待、窃盗などを例示しているに過ぎないので、骨折や薬の配布ミスなどは報告を求めない自治体が多いのだそうだ。となると数値は氷山の一角。ますますこの制度は法の抜け道を始めから準備していると思わざるを得なくなりそうだ。

『サ高住』とはという解説がある。そこには、『サ高住』は、1日1回の安否確認と生活相談が義務付けられているが、夜間は緊急通報システムがあれば、職員常駐は不要だとあるから、『24時間見守る』という意味は、一日一回の安否確認で良いこととなる。なるほどカネ儲け命の輩が、ビジネスとばかり飛びつくのは当然かも知れない。

これも知らなかったことだが,『サ高住』の制度が始まったのは6年前だとのこと。特養などとても入れない人たちは、国の制度だから間違いないと信じて飛びついたのではないだろうか。結果、自立できる老人ではなく、要介護の年寄りだらけの『うば捨て山施設』になっているというのもうなずける。

国交省と厚労省は改善をしていくというが先行きは極めて不透明。元々ができるだけ予算を使わずに、効率よく『貧乏年寄りは早く死ね』という発想で作られた制度だろうから、期待する方が無理なのかも知れないが・・・。

いずれにせよ、貧乏年寄りには、その日一日を無事に生きることすら難しい時代になったということなのだろう・・・な。(田舎親父)

2017年5月 9日 (火)

 水泳指導は外部委託にするべきでは・・・

 昨日に続いて今日も教育に関連するつぶやきになるが、学校の水泳指導中にプールに飛び込んだ児童生徒が首の骨を折るなどのけがをする事故が相次いでいるため、先日スポーツ庁が全国の小中高校に再発防止を求める通知を出したというニュ-スに目が留まる。

行政としては、重大事故が起きると何とかしなければと焦る気持ちはわからないでもないが、通達を出せば事故が防げるものではあるまいと皮肉りたくなる。いつものことながら、またこれでまた一つ、学校現場は窮屈になるのでは・・・。

 小中学校は授業中の飛び込みが認められておらず、改めて徹底を要請し、高校は生徒の能力や技術に応じた指導を求める内容だそうだ。別紙が添付されて、そこにはプ-ルに入水角度が大きい危険な飛び込みをイラストで紹介しているとのこと。

 記事には、そのイラストが掲載されているが、こんな絵は私が現役時代でもいやというほど見せられた記憶がある。ということは、何十年も同じことが続いている?・・・。そんな基本中の基本が守られないのだから困ったものであるが、今回の通達の効果もあまり期待できそうもなさそうだ。

 以前もつぶやいたことであるが、小学校の指導分野で、決定的に経済格差がつくのが水泳の技術である。

昨今は、経済的に苦しい家庭であっても我が子を学習塾に通わせなければという脅迫概念があるらしく、首都圏では、小学校の4年生ともなれば、その殆どが塾通いをしているというデ-タ-があるそうだ。そして、すでに始まっているという影の声えも聞こえてきそうだが、今年あたりからは、学習塾に加えて英語塾にというが脅迫概念に加わるのではないかと想像している・・・。

 このところ、運動選手のことをアスリ-トなどという言葉で呼ぶようになり、子どもたちの憧れが強くなっていることもあって、幼い頃からスイミングスク-ルへ通うことがはやりになっているらしいが、小学校現場ではスイミングスク-ルに通った経験のある教員はごく限られていることは想像に難くない。

 私の現職の頃は、さらにその傾向が強く、水泳に自信がある教員はほとんどいなかったと断言しても差し支えない。今でも、教員採用試験での水泳実技では25mの泳力程度を必須にしている程度だから、得意といううちには入らない。

 やや回りくどい言い方になったが、全教科を指導できる免許制度の小学校において、学習指導要領に書いてある通りの水泳指導ができる教員は極端に少ないことから、スイミングスク-ルに通っている子どもの方が、教員より技術的には優れているようだ。

 しかし、水泳記録会という名前の近隣の小学校が集まって開かれる『対外試合』が教育課程に位置づけられ、最近は保護者の応援が凄いことになっているらしいとなると、教員はそれなりの成績を残さねばならないという、これまた脅迫概念があることを見逃してはならない。

 現在の記録会の様子はわからないが、児童のレベルに合わせて記録をとる方法は変わっていないだろうから、スイミングに通っている児童たちが集まる上級の組では、飛び込みが当り前になっているはずでは。特に、学校対抗リレ-などとなると、水中からのスタ-トを各学校で申し合わせているとは思えない・・・。

 私は、ここまで経済格差がついている水泳を指導要領で必須にして、しかも対外試合を位置づけていることに矛盾があると考えている。

プ-ルは全国の全ての学校に設置されているのも凄いこと。しかも、私の知る限り、よほどの過疎地でない限り、25mで4~6コ-スというのがその基本になっている。

現在では、災害に備えた水確保という説明ももっともらしく聞こえるが、元々が、土建産業のためという発想で、ムリムリに水泳を小学校のカリキュラムに入れ、プ-ル建設を義務づけたことを忘れてはならない。

 水泳が国民の必須技能であるのなら、素人の小学校の教員が指導するのではなく、専門家に委ねるべきではないだろうか。そうすれば、短期間で水に浮き、25m程度を何とか泳ぐことなどさほど難しくあるまい。そのための国が家庭とスイミングスク-ルを支援すれば、新たな経済効果も生まれるに違いない。

 長くなるので、このあたりにするが、小学校の英語を必須にすることはさておくとしても、学習指導要領の体育で銃剣術を入れるよりも、水泳を外部委託にする方が、児童生徒の命を守るという意味からも、はるかに重大なことだと思うのだが・・・。(田舎親父)

2017年5月 8日 (月)

今度は仙台か・・・

 いじめによる自殺が収まらない。仙台市の公立中学校の2年生男子生徒が、休み時間に学校から出て、近くのマンションの屋上から飛び下りて死亡するという事件が報じられたのは先月の末のこと。

 ここ数年の間にたて続けて起きている子どもたちのいじめを苦にした自殺に対して、何故、誰が何のためにそこまで少年・少女たちを追い詰めていたのだろうと、子どもたちと長年関わってきた私には、時代が変わったのか、それとも教員が忙しくなりすぎて、回りの関係に気付かなかったのかと心痛めるしかできないのが悲しい限り。

今回の事件の記事には、遺族関係者によると、同じクラスの複数の男子生徒からターゲットにされ、集団でからかわれたり、『臭い』『バカ』などと悪口を言われたりしたとある。そして、最近も『同級生にやられる』は悩んでいたという。

遺族関係者という言葉そのものが曖昧で、両親がいじめの事実を知っていたかは微妙であるが、何らかのシグナルは感じていたような気がする。しかし、この生徒は親に心配をかけまいと、普段から親の前ではいかにも明るく振る舞っていたことは想像に難くない。

また、多くの親は、『いじめられているの?』という言葉を口にすれば子どものプライドが傷つくとして、気にはなるものの毎日登校していると、ついつい大丈夫だろうと思うのも常なのではないだろうか。

なのに、その日学校を抜け出して飛び下りた・・・。よほど我慢できないことがあったのだろうと思うと、何があったのかはっきりとさせることが、今後、同種の事件を解決する糸口になるはず、このあたりしっかりと検証してもらいたいものである。

 仙台市では、ここ3年間で中学生の、いじめが原因とされる男子生徒の自殺が3件起きているというが、これは一概に学校の責任だと決めつけたくはないにしても酷過ぎる。やはり、どこか根本的な体制に欠陥があると思わざるを得ない。

 14年と16年に起きた、いじめによる自殺問題に関しては、市教委の第三者委が、いずれも『いじめによる精神的苦痛が自殺の一因』と結論づけているらしいが、結論として『しっかりと指導するように』というおざなりの言葉に添えて、今後注意を怠らないように努力せよという程度の助言が伝えられただけだったようだ。

多くの学校関係者は他人事のような受け止め方をしたことから、今回また同じような自殺問題が引き起こされたと想像している。すでに亡くなっている中学生二人の親が『息子の死が何ら教訓になっていない』と憤っていると報じられているが、その心理は痛いほど理解できる。

仙台市教委はこれまでに分かっていることとして、男子生徒は昨年6月と11月、全校生徒を対象にしたアンケートに『いじめられている』と回答し、『無視される』『物を投げられる』などと書き込んでいた事実を把握していたという。

 このアンケ-トは市教委の指導で行われているのだろうが、学校の受け止め方は、市教委は無理にいじめを探しているというように解釈したのではないだろうか。その結果、事故当初校長は、『トラブルはその都度指導し、その後解消した。どちらが一方的という話ではない』とまるで他人事だったことがそれをうかがわせる。

この中学校では、4月に校長が代わったらしいが、前校長はアンケ-トの結果やいじめのトラブルについて、『全て市教委に伝えてある。何も話すことはない』とのことも、市教委の姿勢と学校現場の受け止め方が相当な開きがあるような気がしてならない。

中学校では、5月1日の夜に事件が起きて始めての『臨時保護者会』を、非公開で開板とのこと。その席で、校長は『男子生徒へのいじめがあったのは事実』として、はじめていじめの事実を認めたというが、怒号が渦巻いていたことは想像に難くない。

保護者会終了後に、校長らが記者会見し、学校がいじめの事実を昨年5月に把握し、同12月までに計5回確認し艇たことを明らかにしたが、前校長からその引き継ぎがなかったというのは信じ難いものがある。

また、男子生徒が今年2月に校内で走り回っていた際、別の生徒の足が引っかかって転倒し、手首を骨折していたことを明らかになったというが、状況から加害側のその生徒は故意に足を出したのは明らか、その時に適切な対応をしていれば、死ぬことはなかったのでは・・・と思えてならない。

 ところで、子どもの自殺事件がおきるのは、新学期など長期の休業開けが多いという。その意味で、今年のゴ-ルデンウイ-クもかなり長い休みが続いたことから、大い注意が必要である。

 親はもちろんだが、学校は細心の注意を払って、子どものSOS信号を見逃さず、将来ある子どもが自ら命をなくす事件など、二度とないよう願いたいものである・・・。(田舎親父)

2017年5月 6日 (土)

ハコは作った さあ戻れ・・・

 5月1日付けの東京新聞の『読者の発言』の欄に『納得できない大熊町新庁舎』という町民からの投稿を発見、こんな計画が持ち上がっていることをはじめて知る。

 いわき市に避難されている加藤嘉男さんという60歳の会社員の方の「原発避難解除になっていない町、町民が誰も住んでいな町に『大熊町役場新庁舎』を30億円も投資して建設、2019年3月に完成を目指すと新聞で読みました・・・」という書き出しで始まる文章である。

 私は、一応朝日と毎日に加えて東京新聞の記事はネットで読むように心がけているのだが、この大熊町の新庁舎のことは全くの初耳だった。事実だとしたら、加藤さんの疑問はその通り大きな違和感を覚えるのは私だけではないだろう。

そこで『大熊町新庁舎』で検索してみると、河北新聞の『大熊町の新庁舎 19年3月に完成』という見出し記事を見つける。(全文引用)東京電力福島第1原発事故で全町避難が続く福島県大熊町は、復興拠点の大川原地区に建設する町役場新庁舎の整備基本計画を策定した。復興のシンボルとする方針で、2019年3月の完成を目指す。/町役場大川原連絡事務所がある場所に建設する。鉄筋コンクリート2階で、延べ床面積は約4800平方メートル。原発事故や自然災害に備え、放射線検査室、食料の備蓄倉庫などの防災機能を充実させる。災害時に電力や水道の供給が止まった場合も72時間の業務ができるよう、非常用発電機や貯水槽を設置する。/太陽光などの再生可能エネルギーを積極的に導入。外観は木造風のデザインとし、周囲の自然に調和させる。総事業費約31億円で、経済産業省の電源立地地域対策交付金を活用する。/設計者は公募型プロポーザル方式で選ぶ。今月募集を始め、6月ごろに業者を決定、設計に着手する。(引用終わり)

いやはやビックリ・・・。

加藤さんの投稿は「大熊町長、町会議員は何を考えているのでしょうか。現在の町行政は自分たちの現状の地位確保、私利私欲に走り、町民のことなど考えていないのではと感じてしまいます」と続いているがまさにその通り・・・。

この記事で、ふと 去年だったか同じ大熊町に植物工場をという記事があったような気がして、早速ネットで調べてみた。

その記事はすぐに見つかったが、去年ではなく一昨年のことだったことに、時の過ぎる速さと、自分の記憶の曖昧さを思い知らされる。それはさておき、15年6月の枚遅々新聞の記事である。

 記事によると、大熊町の計画では、野菜工場の建設予定地は第1原発の南西9キロの居住制限区域(年間積算放射線量20ミリシーベルト超50ミリシーベルト以下)の中に作るのだそうだ。

そこは、すでに国は除染を終えているという地域とある。こんなに高濃度の放射線値が示しているのに除染が終わったという意味が私にはよく理解できないのだが、この計画は恐らく国の後ろ楯があって、町としては『国のお墨付』という、無理話を正当化したいのではないだろうか・・・。

野菜工場では外気から遮断された密閉空間で水耕栽培し、換気もフィルターを通すなど放射性物質の影響を受けないようにするのだそうだが、例え技術的に安全な構造物が作れるとしても、『福島再生加速交付金』という何やら怪しげな資金で総工費12億円を当てるということらしいとなると、国の何としても復興をイメ-ジしたいという思惑が透けて見える。

 この二つの記事から、国と町はすでに原発事故のメドが立ったという立場で町の復興?のために、放射線の影響を心配する住民の意思などは全て無視して、何よりも住民の帰還を急くのだろう。とにかく帰還するのが住民の務めだという、自分たちの都合が優先しているように思えてならない。

役所を整備して住民サ-ビスの体制と整った、野菜工場やス-パ-も建設して、経済基盤も整える。だから、すぐに戻ってこい。戻らないは自分たちで故郷を捨てた、郷土愛のない証拠だというレッテルを張るに違いない。

数年後、甲状腺癌が多発することがほぼ確実な、年間20ミリシ-ベルトもの放射線量のある地域にである・・・。(田舎親父)

2017年5月 2日 (火)

繰り返しになるが・・・

 平均寿命がまた伸びて、男女とも80歳を軽く超えたそうだ。私もいつの間にか70歳を越え、いよいよ来年には後期高齢者の仲間入りするのだから、世の中年寄りで溢れているのは当り前・・・。

病気や怪我などとはほぼ無縁でここまできたが、昨年の冬に、歩いていて突然異変を感じて整形外科に駆け込むと、原因不明のコブかできているとのこと。そのうち治るでしょうといわれながらすでに1年以上過ぎるが、長時間歩くことがきつくなっている。

歳をとると誰でもがこのように足腰が弱くなり、杖に頼るようになるのだろう。そしてさらにそれが進むと車椅子のお世話になり、ついには、介護がなくては生活できなくなることがわかる年代になってきた。

多くの人が経験する人間の宿命。そのために、国は『介護保険』という制度を作ったのだろうが、このところ破綻が目立つのは制度設計のミスであることは明らか。しかし、国はミスを素直に認めることは絶対にせず、話をすり替えて国民にツケを回すのはいつもの得意技・・・。

最初のうちは、介護保険があれば心配ないと約束していたはずなのに、利用の際の条件は引き上げられるだけで、介護保険適用の介護はますます形だけのものになり、介護をしてほしかったらカネを払えという雰囲気が当り前に漂いはじめている。

 先日もつぶやいたが、一定所得以上の利用者負担引き上げを盛り込んだ介護保険法の改正案が衆院を通過し、今国会で成立することが確実になったらしいが、『一定所得』という言葉が曲者で、年金生活者の殆どに利用者負担が影響するのだから、年金から天引きされる介護保険料は年々値上がりするのだが、受けられる介護はなしというのが実体であるらしい。

 東京新聞に、食卓の上には『もう限界です』との走り書きがあった。東京都八王子市で先月、認知症の妻(81)を殺害し、無理心中を図ったとして、夫(84)が殺人の疑いで逮捕された。睡眠薬を飲んで自殺を図った夫は『介護に疲れ、精神的に追い込まれた』と供述している。介護サービスは利用していたというという記事が載っていた。

 最近、この種の記事はかなりの頻度で目にするが、自分も介護されたい身でありながら一人ではなにもできない相方を介護しなければならない・・・となると、無理心中したくなるのもわかるよな気がする。

お互いが苦労を共有していればまだしも、相手が重度の認知症で自分が伴侶であることすらわからないとなると、思い余って殺害するのも理解できないこともないが、例え相手が認知症であっても殺人犯として逮捕される。当然だろうが、これが、わが国の現実なのだと思うと、なんとも痛ましく気分がふさがれる。

厚労省によると、介護を受けていた65歳以上の人が、親族による殺人や心中などで亡くなったケースは自治体が把握しているだけで2014年度は25件もあったとのこと。そして、高齢者虐待に関する調査では、家族などによる虐待と判断した件数は15年度、15900件超に上っているというから凄まじい。

虐待の発生要因として最も多いのが『介護疲れ・介護ストレス』で、25%を占めているというのでは日常の介護を軽減しなければ、この高齢者虐待の数値が上がることがあっても下がることはないのは小学生でもわかる理屈。

介護には膨大なカネがかかることは理解できるが、これは始めから分かっていることである。そのために介護保険という制度を作ったのに関わらず、カネがかかりすぎるという理由で介護費用を抑制、介護サービスのカットを次々と打ち出しているのは筋違いだろう。

先日の繰り返しになるが、単身者の場合、年収340万円以上の人の利用者負担を2割から3割に引き上げるとのことだが、対象は、たったの12万人。単純に計算できないがデンデンの忖度を受けて、100億円以上の土地をただ同然に個人に払い下げるよなことをしなければ、こんなアホな話は生まれないのではないだろうか。

しかも、15年8月から単身者で280万円以上の収入があると判定された人たちは2割に引き上げられたばかりだというから許せない。さらに、軽度の要支援者向けの訪問・通所介護を市町村事業に移す見直しも、先月初めに完全実施されたと報じられたばかり。

 いっそのこと、北朝鮮のミサイルで国が滅びた方が良いのではなんて乱暴なことも考えたくなる今日5月2日は,ゴ-ルデンウイ-クの真ん中・・・。(田舎親父)

2017年5月 1日 (月)

ポテトチップス異変・・・

 ポテトチップスは、子どもはもとより大人でも大好きという人が多いようだ。それほど、日本人のおやつの定番になっているのだが、そのポテトチップスが品薄になり、販売の完全中止や一時休止が相次ぎ、商品の種類が激減しているという話題で賑やか。

最大の原因は去年の夏の台風だという。ジャガイモの主産地は北海道で,中でも十勝地方は圧倒的な生産量を誇るのだそうだが、その十勝地方全域で去年は天候不順に加えて、台風によってジャガイモに壊滅的な被害を与えたことである。

加えて、梅雨とは無縁の北海道が、昨年は5月から6月にかけての長雨続きだったという。私もその頃、札幌に4日間程滞在して歩き回ったのだがその間スッキリと晴れたのはたった一日だけだったことから、今年は変だなと首を傾げたことを思い出し納得する。

北海道ではジャガイモの種イモを蒔くのは丁度その頃、過剰な水分を嫌うジャガイモにとって成育条件は最悪。さらに、8月だけで3つの台風が上陸し、河川の氾濫で畑が水浸しどころか表土を流されたのでは、収穫量が大幅に減るのは当然だろう。畑を元の姿に戻すためには相当な年月と人々の努力が必要なことは想像に難くなく、今年も、かなり減収になることは十分推測できる。

最近、日本全体に異常気象が当り前になっている。つい2、30年前までは『竜巻』という現象のイメ-ジは知識として知っているものの、アメリカの広大な乾燥地帯でおきるものだという程度の認識だったが、昨今は毎年のように日本各地で『竜巻だと思われる』という言葉が、テレビニュ-スで頻繁に流れ、その映像が紹介されている。

急な雷雨と落雷も日常的になっている。降水量も半端でなく、あっと言う間に河川が増水し、思わぬ被害が報道されることは日常茶飯事になっている。これらの異常気象は『地球温暖化』が原因だというのが定説になっている。

ジャガイモとは関係ないが、近年北海道近海では『鮭』の捕獲量が激減していることは、一昔前には『鮭の水揚げ日本一』を誇った標津町に訪れるたびに、そのことを実感として感じている。

そのことだけからは直ちに温暖化と決めつけられないが、鮭の代わりに、比較的に暖かい海で育つブリの収穫量が年々増えていることを知らされると、海水温度が上昇していることを認めざるを得なくなり、明らかに地球温暖化であることを知識の乏しい私でも信じなければならなくなってくる。

地球はむしろ寒冷化しているという学説もあるのだそうだ。アメリのトランプ政権は、この学説を根拠にして、温暖化など大したことはないという認識を持ち、パリ協定から離脱する動きを見せているそうだ。

しかし現実として、海水温度は上がり、南氷洋の氷が溶けて海水面が上がっていることから、寒冷化に向かっているという学説を信じるのは勝手だが、現実の温暖化をくい止める努力はするべきだと思うのだが・・・。

話がそれてしまったが、ポテトチップスメーカーは、国産志向が強く、包装紙にも100%と記載されている商品が多く、消費者も輸入を嫌う傾向があるとのこと。今回のメ-カ-の減産は、国産原料の入荷が期待できないという見通しなのだろうが、ポテトチップス愛好家にとっては大ショックなのだそうだ。

先日は、大手ネットオークションサイトに、『入手困難』になったポテトチップス関連の商品が、20袋12万円で出品され、たちまち落札されたというニュ-スが流れたが、それほどまでにして入手したい人が多いのだろう。私としては俄には信じられないが・・・。

ところで、最近ポテトチップスを自宅で作るマシ-ンを入手した。原理はごく簡単で、ジャガイモを薄く切って、所定の場所に置いて電源を入れるだけ、数分後には、ポテトチップスができるというスグレモノであるが、ス-パ-で売っているジャガイモでは味的に納得できないのが難点である。

そこで、愛媛県の宇和島近郊にある『遊子の段畑』のジャガイモを取り寄せて作ってみたら、市販のポテトチップスに決して負けないほど美味いものができたことを一言付け加えておこう。

以前もつぶやいたことがあるが、『遊子の段畑』は、海岸から石垣を積み上げた段々畑であるが、畑の幅はわずか1m程度であり、その石段が信じられないような数となって連なっている。まさに『耕して天に至る』という表現がぴったりする絶景・奇観である。

そこでは年末にジャガイモの種イモを蒔いて、4月に収穫するのだが、太陽と海からの反射による光と熱が石垣を温め、絶妙な味のジャガイモとなるという。確かに美味い。

一度、ぜひ現地に出かけて、素晴らしい景観を眺め、ここで採れたジャガイモの味を体験されてはいかがだろう・・・。(田舎親父)

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