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2018年9月

2018年9月27日 (木)

アホカと言われそうだが・・・

昨日、モテギという経産相が得意気に『アメリカとの二国間貿易交渉が良い方向でまとまった』という意味のことをしゃべっている映像をニュ-スで見た。あれほどアメリカをTPP会議に呼び戻すと言っていた男が、TPPという言葉を一言も発していないのは、完全にアメリカの軍門に下ったことだろう。これが日本の経済の司令塔なのかと情けなくなってくる。

どんな内容で話が付いたのかは一言も発しないのは親分からの命令なのだろう。親分はモテギに、『後はオレに任せろ。明日のトランプと話し合うが、その後に、NHKはじめオレの言うことを聞くメディアを集めて記者会見を開いて、国民を上手く騙し、その様子を特にNHKにはその全てを放送するように命じている・・・』というようなことを言ったのではと想像した。

それが、見事に当たってしまった。今朝のテレビのニュ-ス番組である。この男が、得意気に長々と記者会見をするのは、全て『うそ』であることは、これまでの様子でいやというほど知っていることなので、即座にチャンネルを切り換える。

あるチャンネルでは『広島優勝・・・』こちらの方がよほど今の私の気持ちを癒してくれる。しかし、その後、デンデン記者会見の様子を映し出したので、すぐにパス。違う局では『貴乃花親方問題・・・』こちらも興味がないので、BSに移し、しばらくしてNHKに戻すが、まだデンデンが何かを言っている。気持ちが悪いので民放に替えるが、いずれもすでにデンデン記者会見のニュ-スは終わっていた。

今回は、民放もアホラシクなったのだろう。流さないと官邸から、何故報じなかったという圧力がかかることは明らかなので、一応、お付き合い的な内容でまとめたようだが、やはりNHKは、私が知る限りずっと続けていた。それは、家内が7時半から毎日BS3で朝ドラを見るからだが・・・。

トランプが、ツイッタ-で『アメリカは日本を助けるために多くのことをしているのだから、もっと互恵的な関係を築くのは当然だろう・・・』と書き込んだことはネットで知っている。その内容は,『北朝鮮の拉致問題で金正恩委員長に伝言したりするなど散々、協力してやったのだから、今度はモレノ言うことをきく番だ・・・』という意味だということぐらいは、横浜の片田舎の貧乏老人でも推察できる。

デンデンの記者会見は見ていないので、何をしゃべったのかわからないが、あの顔はウソをついている時。いや、自分ではうそとは思っていないで、平気で誤魔化している時の顔といっても差し支えない。

となると、これで、自動車の関税が上ることは間違いない。そして、今朝の各紙のトップはスズキやニッサンのデ-タ改竄という記事。何となくだが、関連がありそうな気もしなくはない。

が、トヨタの話題はない。アメリカが自動車関税を値上げたら一番影響を受けるのはトヨタだろうにこれも変な話。これもゲスのかんぐりかも知れないが、デンデンとトヨタは話が付いているのでは・・・と言う気もしてくる。

そこで,ふと、中国とアメリカが熾烈な貿易戦争をしていることが頭をよぎる。中国は、アメリカに対抗して、アメリカの大豆やトウモロコシなどの農作物の関税を25%にしたとなると、アメリカの農家のトランプ離れが起きるのは当然。

しかし、『アメリカファ-スト』で白人が多い大規模経営農家の負担を大きくさせるはずはない。しかも中間選挙を控えるトランプ陣営が選択するとは思えない。となると、何のことはない。トランプがデンデンに命じたことは、これまで中国に輸出していた農作物を日本に買わせればよいだけの話だと気付き、これは『全て当たらずとも遠からじ・・・』と私なりに納得。

アメリカは農産・畜産物への規制緩和を迫っていることはマスコミも報じている。現在生後30カ月超となっている牛のBSE検査が撤廃され、名前は忘れたが、カビを防ぐための添加物の記載もしなくてすむようになるという記事があったような気がする。

今後、明らかになるだろうが、日本の農家や畜産家が厳しい環境になることだけは間違いなさそうだ。さらに深刻なのは、当たり前にス-パ-にアメリカ産の農薬まみれ・添加物まみれの食品が出回ること。

(唐突で滑稽な想像でお前はバカかと言われそうだが)アメリカでは、権力に媚びることを『是』とする添加物の研究が進み、広島・長崎の原子爆弾ではないが、『日本人で試してみよう』なんてことが、研究者の間で話し合われている?・・・。(田舎親父)

2018年9月26日 (水)

司法は死んだ・・・

 広島高裁が、原子力規制委員会の内規を厳格に適用し、過去の阿蘇山の噴火で火砕流が伊方原発まで届いた可能性があると指摘し、伊方原発の運転差し止めを申し渡した判決に、『やるではないか広島高裁・・・』と司法の矜持というか、良識が残っていると喜んだのは昨年の12月だったと記憶している。

 ところが、一昨日、おなじ広島高裁が、四国電力の『異議申し立て』をすんなり認めて仮処分取り消したというニュ-スに、国民の多くが原発は要らないと考え、実際に、九種電力などは電力が余り、太陽光電力の買い取り価格を下げているという現実がありながら、それでも原発を基幹電力と規定する現政権にすり夜判決に、改めて、『司法は死んだ』と思わせられる。

 今回広島高裁の裁判官は、『社会通念』という言葉で、火砕流がここまで押し寄せるリスクは容認できるというトンデモ理屈であるが、そのことは、福島原発は絶対安全だから、大津波がきてもびくともしないという『原発神話』を復活させただけのように思えてならない。

福島原発事故は人災で、過去に、原発を飲み込むほどの大津波があった可能性を専門家たちが危ぶみ、東電の安全を確認する部署の技術者が防潮堤の嵩上げを提言し、その会議まで開かれたにもかかわらず、そんなことはあり得ないと切り捨てた結果だったことを、広島高裁が知らないはずはない。

にもかかわらず、差し止めの仮処分を無効にしたことで、四国電力は『お上からのお許しが出た』と大喜びして、早速、来月からでも再稼働する動きを出しているらしい。

毎日新聞のネット版の記事によると、原子力規制委は安全審査の手引書『火山影響評価ガイド』で、原発から160キロ圏内の火山は電力会社に影響評価を義務付け、破局的噴火を含む大規模噴火では、火砕流や溶岩流が敷地に到達する可能性が『十分小さい』と判断できなければ立地不適格とし、原発の稼働はできないと定めている。

この基準を厳格に適用して、昨年12月、おなじ広島高裁の別の裁判官が、運転停止の仮処分を出したと受け止めているが、その後、規制委は、『可能性が十分小さいかどうか』をどう判断するのかを、ガイドを補完する形で見解をまとめたという。

それによると、原発の運転期間(原則40年)中に破局的噴火が起きる根拠がなければ、火砕流などが敷地内に到達する可能性も『十分小さい』と判断するとの解釈でき、破局的噴火の発生可能性を具体的に示せなければ『社会通念上、安全対策を考慮しなくても許容される』との見解も明らかにしたというから、何のことはない、先の判決を覆すためにわざわざ、『社会通念』という極めて曖昧な非科学的な文言を追加したとしか思えない。

現政権の思うまま、言うままに動く規制委。そしてその規制委が示した見解に沿っての今回の判決。デンデン政権は、全ての原発をこの手法で再稼働させる気なのだろう。

もはや、三権分立などという言葉は死語。この国には、デンデン一家でなければ人間にあらず・・・ということになってしまったとしか言いようがないが、こんなことが許されて良いはずはない。

もう一度、福島原発事故に匹敵する大事故がなければ、完全に行政に組みこまれた司法は、再稼働容認の姿勢を変えない?・・・。

いや、デンデン政権のやり方は、福島原発事故ですら、『アンダ-コントロ-ル』と恥ずかしげもなく大ウソついて商業主義のオリンピックを招致したことではっきりしていることから、司法はますます存在感がうすれていくことは間違いなさそうだ。

今日もまた、困った話しだという終わりになってしまったようだ・・・。(田舎親父)

2018年9月25日 (火)

リオの二の舞?・・・

 『ブラジル・リオデジャネイロにある国立博物館で今月2日に大火があり、由緒ある建物とともに約2千万点もの収蔵品の大半が焼けうせた』という見出しのニュ-スを、全国の博物館の関係者はどんな気持ちで読んだのだろう。

東京や京都の国立博物館は大したショックをもたなかったかも知れないが、地方の県立や市町村立の博物館では、きっと次は我が身と対岸の火事ではないと危機感をもった学芸員はじめ関係者は多いのではないだろうか。

記事によると、リオの国立博物館は1818年に開館したという。日本ではまだ黒船が襲来するかなり以前、まさに太平の夢の中。当時のわが国では、一部には私的な貴重品を残す人はいたと思われるが、公的に、民族文化や自然史などを保存するという考え方は、ほとんどなかったのではないだろうか。

ブラジルと聞くと、経済的はもとより、未だにアマゾン川流域で知られない民族が発見されたというニュ-スに象徴されるように、どちらかというと、文化面では遅れていると概念を持っている人が多いようだが私もその一人。しかし、実際には日本よりはるかに進んでいることを迂闊なことながら初めて知る。

そのリオの国立博物館は、南米大陸では最も古い約1万2千年も前の人骨をはじめ、南北米大陸で最大級の人類史や自然史の史料を収蔵していたという。これがすっかり失われたことにも驚くが、近年は予算が削られ、消火の設備など防災の対策が遅れていたという事実に愕然とする。

さらに、その予算不足の主な原因が、つい2年前に行われたオリンピックだというから、これは聞き捨てにできないものがある。

イギリスのBBC放送は、かねて専門家たちが深刻な火災の恐れを訴えていたことや、火災の後に副館長が会見して『一度たりとも満足な支援を得られたことがない』と述べたことを伝えており、政府に抗議する激しいデモも起きたと報じているように、ブラジル政府とリオ市は、博物館の消火設備の点検する予算も組めなかったことは事実らしい。

にわかには信じられないが、それほどリオ市にとって、オリンピック後の景気の落ち込みが酷かったようだ。

記事はわが国の博物館の厳しい状況にもふれており、日本博物館協会が2013年、国内の博物館に行った調査では、回答した2258館のうち8割に上る1806館が『財政面で厳しい状況にある』と答えたとのこと。

また3分の2を超す1514館が『施設設備が老朽化している』と回答し、さらに半数以上の博物館が『資料を良好な状態で保存することが難しくなっている』『施設の耐震化対策が不十分』という実情を嘆いている。

博物館がこのように冷遇される背景の一つには国や自治体の財政難があるが、見逃せないのは、選挙で票になりにくい文化政策を政治家が冷遇してきたことで、昨年4月、ヤマモト某という地方創生担当相が、文化財の保護や継承に尽くす学芸員たちを『一番のがん』と発言したのは、その端的な表れであろうと皮肉っている。

そう言えば、そんなことがあったことを思い出す。当時、デンデン政権は口先で『地方創生』などと、あたかも地方を大事にしているようなキャッチコピ-を流していたが、その担当大臣がこんな発言をするところに、この政権の本質があり、ますます地方が切り捨てられる危機感を覚えたものである。

記事は続く。博物館を管轄する文化庁という役所が今年創設50年になるそうだ。その文化庁が、本年度の当初予算をめぐって『新・文化庁元年』と華々しくPRしているそうだが、その額はたったの1千億円と少しらしい。

この金額はアメリカに押し売りされた2基のイ-ジス・アショアの一基分の1340億円にも及ばないというから情けない限り。もっとも、この価格も怪しく、実際には5000億円以上だという報道もあるほど・・・。

北朝鮮がミサイルをガァムのアメリカ軍基地に向かって発射することはないことは明らかなのに、アメリカさまを守るために、わが国が実際にミサイルを打ち落とせるかもわからない代物を装備する?・・・。

この無駄金を、先人から受け継いだ国土と同じくかけがえのない遺産である文化財を守る方策や、その拠点となる博物館など文化施設の拡充に当てれば、リオ博物館の二の舞はもとより、地方の文化遺産の保存に役立つにだろうに。

外国人観光客は増えているという。そして観光客のかなりの数が、日本の伝統文化や歴史に感心を持ち、近年、地方にも足を運ぶ外国人も多いと聞いている。

そんな外国人にバクチを勧め、懐のカネを目当てにカジノを作るよりも、日本の本当の味わいを知ってもらうために、博物館の充実が必要だろうと言いたいが、今だけ・金だけ・自分だけのデンデン一家にそんな声が届くはずはない。

そして、2020年のオリンピックが終わった後、残る莫大な負の遺産のツケを支払うために地方が冷遇されることは明らかだろうに、悲しいことに、そのことを伝えるメディアはない。

 行き着くところ、やはりリオの二の舞か?・・・。(田舎親父)

2018年9月24日 (月)

現場は混乱するだろうな・・・

―――教科別の「評定」なくなる? 有識者が支持 中教審WG―――

この見出しを見て、いよいよ教員は追い込まれ、自殺者が続出するのではと危惧したのは私だけだろうか。

評価のあり方を話し合う中央教育審議会のワーキンググループ(WG)で、教科ごとに数値評価する『評定』をなくすべきかどうかが議論され、参加した多くの有識者はなくしたうえで、各教科で『知識及び技能』『思考力・判断力・表現力等』など項目ごとに『ABC』といった形で評価する『観点別評価』だけにすべきだ、との立場が圧倒的だったという記事の文面である。

かっての学校では、相対評価と称して、各クラス(学年)の児童生徒を、言葉はいろいろと違うが、例えば、よくできる・だいたいできる・普通・かなり遅れている・遅れているという5つの段階を、おおむね10%・20%・40%・20% ・10%の割合で人数を割り当てていた。

これは普通の教員にとっては実に簡単で、テストの点数で線引きすれば良かったことからかなりの長い間、この酒の要諦が当たり前としてまかり通ってきた。

しかし、当たり前のことなのだが、もっと子どもの思考などを重視しなければならないという意見が強くなり、2002年度の指導要領の改定によって、相対的に人数を割り当てるのではなく、理解したかどうかを評価する『絶対評価』方式に変更になった。しかし、小学校では3段階、中学高校では5段階でつけるという、絶対評価に基づく相対評価といった代物である。

私は、人数を割り当てる相対評価自体意味がないもので、通知表に1や2という印をつけることは、教員の能力を自ら低いことだと認めることにつながると主張。市販のテストは使わず、自作のテストは、間違った答えに対しては、わかるまで何回も差し戻していたこともあって、ほとんどが100点をつけていたことから、絶対評価とは言えないものの、かなりわがままな評定を通知表に示したもの。

当時は、校長や教育委員会からの締めつけがなかったことから、こんな勝手なことができたのだろうが、絶対評価に切り変わった年が定年間近だったことから、教員のアタフタする様子をみて、もう少し指針をしっかりさせないとますます加重労働になるのではと懸念していたことを思い出す。

そして予感通り、絶対評価にしたことが全てではないが、年々教員の仕事は増え続け、最近になってやっと、勤務時間を少なくしなければという世論が広がるようになってきたことは方向としては良いことなのだろうが、観点別だけの評価にすることには、教員に違った意味の労働過重ももたらすのではと引っかかるが・・・。

相対評価は教育の本来の目的とはほど遠いことは間違いない。現在行われているらしい絶対評価も、あまり意味があるとは思えない。だからと言って、観点別だけの評価に変えるというのも少し急ぎ過ぎではないだろうか。

何故ならば、各教科における『知識及び技能』は比較的簡単に評価できるが、『思考力・判断力・表現力』などということには、ペ-パ-テストで見極められることではない。そこには丁寧な指導が必要になってくることは、ほんの少しでも教育に携わっている人間には常識になっていることである。

時間的余裕があれば、一人一人に応じた丁寧な指導によって、『思考力・判断力・表現力』などを伸ばすことはできるが、現実は『ゆとり教育』の反動だと言わんばかりに、指導内容が増え続け、授業時数を生み出すことが全国の学校の悩みである。

加えて、英語が教科になり、道徳までもが評価を前提にした教科扱いなるのだから、教科書を上辺だけで指導するのが精いっぱいではなかろうか。

観点別評価は否定しないが、そのための大前提は、『一人一人の個性に応じた丁寧な指導』であることを知ってほしいもの。そのためには指導内容を精選して、時間的な余裕を与えることである。

『一人一人の個性に応じた丁寧な指導』は教育の原則だと思うのだが、現場を重視しない官僚や学者などは奇麗事をのたまうだけ。

現在のシステムで、評価を観点別だけにしたら、評価をするためにだけに授業をすることになることは疑えない。すると、そぞろ金もうけに長けたチエ者が、この問題はできれば『思考力』がついたれという市販テストを考えついて、学校に売り込むことになりそうだ。

ますます学校現場の混乱が目に浮かぶが・・・。(田舎親父)

2018年9月23日 (日)

二つの小説のような事件?・・・

その1 典型的な推理小説的事件・・・

『サ高住』という言葉の意味を知ったのはそれほど昔のことではない。この言葉を初めて目にしたとき、何かの略語に違いないとり思ったが、記事を読んで『サ-ビス付き高齢者住宅』のことだと知り、この安易な略語を当然のごとく一般化してしまうわが国の構造に対して何とも言えない違和感を覚えたものである。

それはさておき、『サ-ビス付き』とうたう以上は、介護システムが整い介護士の手厚い介護が用意されていることだろうと思ってしまう。その一つには、緊急の場合24時間ボタンを押せば介護士が飛び込んでくれる施設を想像するのは私だけだろうか。

そこまでは無理としても、夜は警備員が常駐し、警報が鳴るとすぐに状況を確認して、必要だと判断すれば介護士に連絡するか、あるいは救急車の出動を要請するようナシステムになっていると期待をこめて思いたい。

そんな東京都の町田市にある『ココファンまちだ鶴川(3階建て)』というサ高住で、殺人事件が起きたというテレビニュ-スにビックリする。21日午前6時10分頃、入居者の男性(70)から『泥棒が入って女房が死んでいる』と110番があったとのこと。

瞬間的には、この男性は旅行でも出かけていたのかと思ったが、それにしては午前6時に帰宅するはずはないだろう。なんとも不可解な事件だと思ったものだが、すぐに違うニュ-スに移ったのでそのときはそこまで・・・。

翌日の新聞の記事によれば、夫婦は約3年前にこの施設に入居し、一階の隣同士の部屋に住んでいたのだそうだ。いろいろな夫婦がいて良いと思うのだが、普通は少し広めの部屋に夫婦で住むだろうに、隣同士とはいえ別々に住んでいたということに、理解しにくい思いが浮かぶ。

毎朝午前6時に夫婦で犬の散歩をするのが日課だったが、初枝さんが部屋から出てこなかったため、夫が玄関の鍵を開けて入ったという。

どんな警備態勢を敷いていたのかはわからないが、普通は外部からの侵入は難しい構造になっているのではないだろうか。遺体の状況からかなり恨みを持った犯行らしいというから、もしも窓を破って侵入するという荒っぽい手口から、被害者はよほど恨まれていたようだ。

普通の見方をすれば、一番疑われるのが夫だろう。しかし、推理小説的にはトンデモない展開になって、思わぬ人物が犯人だったりするのが常套の筋書き。さてこの先どんな動きになるのだろう・・・。

その2 こちらはホラ-小説かな・・・

田舎暮らしに憧れて地方に移住する人が多いという。そんな成功例を紹介しているのが、毎週土曜日の午後6時からテレビ朝日で豊艶『人生の楽園』という番組である。

一時は私も田舎へ移住を真剣に考えたことがあるので、特に用がある場合は別にして、毎週欠かさす見るようにしているが、筋書きは移住先の人々に受け入れられて、活躍している高齢者の話がほとんど。私を含めて、見ている人に何となくホッとした感じを与えることから人気が高いようだ。

そんな話とは裏腹に、こちらは地域社会から『村八分』的に排除されている移住者夫妻の物語である。

その舞台は奈良県天理市。夫妻は母親を伴って1992年に土地を購入して家を新築して移住してきたという。その地には神社の氏子を中心にした自治会があり、年額1万3500円という、私にはかなり高額だと思える自治会費(共益金)を要求されて、払い続けてきたらしいが、自治会は夫妻が集会や神社の祭りなどに参加することを認めず、市の広報誌や回覧板も届けなかったというからなんとも酷い話である。

夫妻はこの仕打ちを20年間我慢していたらしい。ついに限界になって2012年に支払いを断ってからは、完全に『村八分』的な扱いになったと弁護士に相談し、弁護士が人権侵害だと提訴したことで今回大新聞が取り上げたようだ。

記事には、地域には235世帯があり、自治会に所属しているのは52世帯で自治会の構成員として認めていない世帯が183世帯もあるとのこと。この183世帯が疑問を感じていたとしても共益金を払い続けていたとしたらなんとも理解に苦しむ話である。

自治会としても、地域の一員として生活するのだから、共益金野支払いは当然だと考えているとしたらなんとも勝手な理屈である。

きっとこの神社には古いしきたりがあって、氏子はこの古いしきたりをクリアした人に限るという不文律があるらしいが、1万円以上の共益金とは、まるでヤクザの『みかじめ料』では・・・。

まさにホラ-小説にはもってこいの話題である。私は、今回の事件?は移住を考える人たちに対して、よほど移住先のことを研究した上で実行しなければ、この夫婦とおなじような目に会うと警告しているように思えるのだが・・・。

たとえ、両者が和解したとしても、わだかまりは残るはず。もし、今回の話を小説にしたとしたら、著者はどんな展開にするのだろうとぼんやりとが考えている。(田舎親父)

2018年9月21日 (金)

フランスとは真逆・・・

 少し古い話しになるが、フランスでは新学期が始まった9月3日から、国内全て幼稚園、小中学校で子どもたちの携帯電話の使用を禁じる法律が施行されたという記事を見付け、凄いなあとビックリ。

形態電話という文言だが、恐らく、その実は全世界に普及しているスマホタだろうと想像しているが、このスマホについては、わが国では『依存症』という病名までつくほど、特に中高生には悪影響がでていることがかなりの頻度で伝えられている。

どうやらフランスでも同じような現象が起きていることから、マクロン政権は、教育の専門家などと協議を重ねて、法制化したのだろうが、このことは昨年5月の大統領選の公約になっていたというから、議会からはさほどの反対はなかったのではないだろうか。

しかも、禁止したのは校内や校外活動での使用で、持ち込むこと自体は禁じていない上に、授業で必要な場合の使用や障害者の使用は認めると法律は明記し、さらに高校に至っては一律禁止ではなく、学校の判断に任せるというからなかなか粋な計らいである。

記事には、フランスでは12~17歳の8割以上が携帯電話を持っており、授業への集中を妨げるなどの弊害があったの文言があるところから,わが国と同じで、子どもたちに『依存症』が流行っているのだろう。

これまでから多くの学校で使用は既に禁止されていたようだが、学校によって方針に差があるとなると徹底は難しかったに違いない。今回の法制化で、違反した場合の没収という処置ができるのだから、授業中の使用などの問題はかなり少なくなることは確実だろうから、教員や保護者からからは歓迎の声が上がるのはもっともである。

この記事を読んだわが国の教育関係者も多いだろう。すでに退職して15年も過ぎた私には、現在の学校現場の悩みは人づてに耳にするだけになってしまったが、電話機能だけの携帯電話(ガラ携)の時代でも、その依存症が広がっていたことから、驚くほどの多機能なスマホとなると、その症状は重症化しているはず。

持ち込みを禁止すると、保護者からは安全確認に支障が出るというクレ-ムもあるだろうし、持ち込み禁止と決めても、没収などしたらそれこそ教員は児童生徒とのトラブルにり、学習指導など落ち着いてできるわけはない。教員の悩みは、20年前に比べてさらに広く・深くなっていると想像している。

ふと昨日行われた自民党の総裁選挙で、どちらかの候補がこの話題を取り上げて、『フランスに習い、幼稚園や小中学校では使用禁止』という公約を掲げたら、議員はともかく、党員たちはどんな反応をしたのだろうかという思いが頭をよぎる。

両候補とも教員や親たちが真剣に悩んでいることなどには知らんふり、こんな問題は票につながらないとでも思ったのか話題になることはなかったが、取り上げたらかなり面白いことになったのではと想像すると残念でならない。

そして、これは事実らしいが、沖縄の知事選では、自民党と鵺党が推薦する候補者の応援に駆り出される現職の閣僚たちが、スマホの使い方や問題点には全くふれず、料金を大幅に下げると演説しているというから、むしろ子どもたちにおおいに使えて言っているように聞こえる。どう見てもフランスとは真逆・・・。

本当に子どもの幸せ、将来を考えたら、法制化とまでいかなくても、政府の方針としてスマホは学校では使用禁止にしたい』という現政権の大好きな閣議決定か、文科大臣が同様な内容を都道府県教育委員会に重要通達として届けてほしいものである。(田舎親父)

2018年9月19日 (水)

私が心配することではないだろうが・・・

 先日、大阪が変だとつぶやいた翌日だったか、市長の方針に対し体制ベッタリのヨミウリですら、学校現場からは懸念や反発が噴き出しているという記事を掲載せざるを得なかったことから明らかなように、大阪市民はかなりの刺激を受け、反対する気持ちが高まっているようだ。

市民の反対は当然だろう。こんな方針がまかり通ると、大阪市の教員にとって、自分を主張することは認められず、評価を受けるためには唯一は学力テストの点数を上げることしかないのだから、反対の抗議行動が始まるはずだと続報を楽しみにしていた。

ところが驚いたことに、大阪市の教育委員会が、市長の意見をもっともだと判断したらしいとのマスコミ報道に愕然とする。

 記事の見出しには『大阪市教委、教員評価に全国学力調査の結果を反映へ』とある。本文を読むと、小中学生が受ける全国学力調査の結果を校長や教員の評価に反映させるとする大阪市長の意向を受け、市教委は14日、新しい評価制度を今年度内に策定すると明らかにしたとある。

何のことはない。市長がいう学力テストの点数を教員の評価に直結させることになりそうだ。新制度は2019年度の試行を経て、20年度に実施し、21年度のボーナスなどからテストの結果を反映させるというから、正気の沙汰ではない。

この日、大阪市の『総合教育会議』という会合で市長が市教委に制度設計をするよう求めたのだそうだ。現場から離れて相当名時間が過ぎたので、最近の教育行政の仕組みがどうなっているのかほとんどわからないが、文面から推察すると、『総合教育会議』は市長がトップで、市長が選んだ御用学者と教育委員たちが集まる場らしい。

教育委員のメンツは知らないが、私の知る限りでは、大学教授や医者や弁護士など、いわゆる有識者という肩書はついているものの学校現場についてはあまり精通していない人物が多いとなると、面と向かって市長の提案には反対できないことも当然かも知れない。

記事には『教員を志す学生が逃げる危惧もあり、減額する評価は避けてほしい』との意見がでたそうだが、教員を集めにくいから、金額の増減を小さくしてほしいとは、少し視野が違うのではとつぶやきたくなる。

また、ある有識者は『制度設計をしっかりしてほしい』との意見を出したらしいが、制度設計をしっかり議論することは当然だが、もともとが学力テストの点数を上げろという市長の発想を『是』とした会議の性格から、先の教育委員の意見とあまり差はない。

この日の会議を受けて大阪市教委は、評価手法とは別に、各小中学校ごとに来年度の全国学力調査の得点目標を立てる方針を明らかにしたというから、恐らく今頃は各学校ではいかにして点数を上げるかということで大騒ぎになっているのではないだろうか。

ペ-パ-テストの点数は保護者の収入や学歴と密接な関連があることは、多くの識者が指摘するまでもなく、こればかりは担任がいかに努力しても解決できないことは学校現場では常識になっている。

以前は、大阪西成区という地名がマスコミが度々取り上げたことで、全国的な知名度が高かった。良いテ-マではなく、むしろ経済的弱者の住民と彼らにまつわる話題が多かったが、そんな学校は学力向上よりも生活指導に教員の労力が向けられることが多いのは誰の目にも明らかだろう。

現在の西成区の環境は知らないが、大阪に限らず、地域によってそれぞれの特徴がありテストの成績だけを取り上げられる『平和な学校』なら、この市教委の方針をすぐにでも具現化できるだろうが、そんな学校ばかりではない。

となると、教員は給料やボ-ナスに差がつくのだから、できれば生活指導などに煩わされない、いわゆる『経済的に恵まれた平和な学校』に赴任したがるのも当然といえばこんな当然な話はない。

大阪市では日頃から真剣に子どもと向き合っても、テストの成績が上がらない給料もボ-ナスも上らない?・・・。どんなことになるか想像もしたくない。

蛇足になるが、以前のつぶやきのつづきを。

東京都の大田区は昭和22年に当時の大森区が蒲田区を編入合併して、その文字を取って大田区と名付けられた自治体であるが、東京都の縮図と言われるほど、区民の経済格差が著しいことが大きな特徴で、現在はかなり改善されたような噂は耳にするが、実体はさほど変わらないのではないだろうか。

特に、合併後だと思うが、富裕層が世田谷目黒に近い地域に多く集まるようになったことが原因だと思っているのだが、その人たちの要望が通ったのだろうが、大森とも蒲田とも違う雰囲気が漂う『調布地区』という、いわば大田区の中に新たな区とも思えるような地区を作ったのだから、行政システムも含めて区内が完全に3つの地区に別れ現在に至っている。

私が知っている大田区の時代では、教育委員会が自ら3つの地区をはっきり区別し、区教委の独自の判断だろうが、人事権は今でも都教委が持っていることから、区内に配属された教員の中で、優秀な経歴を持つものは、まず調布地区に配属するというウソのような人事がまかり通っていた。

教員がそうならば校長の人事はおして知るべきで、新任の校長はまず蒲田地区で雑巾掛けを味わい、無難に努めたら次は大森地区や調布地区に異動するのが当たり前の習慣になっていた。

当然のことだが、問題が多いのは蒲地地区、特に羽田ブロックと言われる学校には、組合意識が高い反教委・反校長という教員が重点的に配されるのだから、日常的に問題が表面化するのは当然のこと。当時、『一コロ』と言われていた退職後早々に死亡する校長が多かったことも思い出す。

 長くなったので、蛇足のつづきはまたの機会に・・・。(田舎親父)

2018年9月18日 (火)

大丈夫なのかなあ・・・

 先日、築地から来月11日に移転される予定の豊洲市場の敷地内で、幅およそ10m、深さが5cmのひび割れが見つかったという記事に驚く。

地盤の沈下が原因だとのことだが、東京都は、補修工事を行うため開場時期への影響はないとし、その日に、予定通り開いた市場関係者による祝賀会の様子をテレビカメラが映し出していた。

ひび割れが見つかったのは、豊洲市場の水産仲卸売場棟の西側で、建物と舗装部分の境目で発生しとのこと。その部分は、土壌汚染対策として盛り土をしていの場所で、盛り土とその下にある粘土層が沈下したとのことらしいが、都は一定の時間が経過すれば沈下は収まるため、今後、突然大きな陥没が発生することは無いと説明しているのだそうだ。

ただ、ネット情報によれば、このひび割れは昨年の秋には発生していたのに、との関係者は知らんふりを決め込み、仲卸業者が指摘したのでしかたなくこれを認めたとある。この情報が正しければ、(これまでの都の姿勢を見る限り本当だと思うが)トンデモない事態になりそうだ。

豊洲は埋め立て地だということはよく知られていることである。先日の台風21号で関西空港が壊滅的な被害を受けたが、この空港も埋め立て地の上に建設した施設で、計画当初から地盤沈下という難題を抱えていたことも私でも知っている事実である。

地盤の沈下は続くという前提の基で、その上に空港や豊洲市場という物凄い建造物を造るということは、当然、いかなる地盤沈下にも耐え得る工法がとられているはずだろうことに疑いを持たなかったが・・・。

こからは全くの素人の経験になるが、私が校長として最初に赴任したのは、大田区の大森第一小学校。この学校は羽田空港の拡張に伴い、いわゆる二重窓の防音校舎になっていたが、赴任して間もなく校舎を全面的に糧帰るという話を聞いて、トンデモない学校に赴任させられたものと驚いたもの。

このことは以前もつぶやいた記憶があるが、その後の1年は校舎の改築のために働かされてようなもので、毎週火曜日の午後は区の営繕課の主査と設定.事務所の責任者との打ち合わせが定例になっていたことも今思うと懐かしい思い出である。

相手は二人とも一級建築士の資格を持つ専門家であり、いろいろと指導受けてなるほどと思うことばかりだったが、その中で特に,ここの土地は海苔の養殖場だった遠浅の砂地だから、極端に地盤が弱いので、この対策が一番大事だと教えられたことを思い出す。

そのため、26m下の安定した岩盤に何本もの太い杭を打ち、その上に校舎を建てなければならないことを初めて知る。何でも現在の校舎は、戦後間もなく建造された建物なので、信じられない数の松の太い杭が地中に打ち込まれているとの説明にも度肝を抜かれたもの。

その結果、直径が1m、長さ20数mの鉄筋コンクリ-トの杭を300本(この数値は定かではないが)が必要になり、それを前提に校舎の建築計画を練ったものである。そのためなのだろうが、建築費が当時の金額で26億円だという金額が今でも頭を離れないが、その後、大田区の学校は全面建て替えがないことから、この金額がネックになっているのはと想像している。

ということから、開催空港はもちろん豊洲市場を造るに当たっては、地盤の沈下を見越して、たとえ安定岩盤が何メ-トル下になろうとも、数千本、あるいは数万本になっても不思議がないほどの大量の杭を打ち込んでいなければならないはずではないだろうか。

ところが、今回の亀裂は建物と道路との境目というから、道路の部分には杭が打ち込まれていなかったことになるのでは・・・。となると、来月開業することはともかく、市場につながる道路部分は今後も沈下し続けることになりそうだ。

私が心配することではないが、開業したら構内の通路はトンデモない数の車両が行き来するに違いない。大丈夫なのだろうか・・・。(田舎親父)

2018年9月17日 (月)

敬老の日に思うこと・・・

 今日は『敬老の日』という国民の祝日。この祝日も、9月15日と固定した日にちだったものを、かなり以前に連休を増やすということが主な理由で9月の第3月曜日と規定したことから、年により日にちが変わるのだから、なんともいい加減な祝日の一つだと思うことしきり。

 後期高齢者の仲間入りした私も年齢的には立派な老人。この祝日の定義からしたら、何らかの『敬われているような雰囲気』を感じられても良いのだろうが、聞こえてくるのはこの日だけのことだろうが『お年寄りを敬いましょう』的なキャッチコピ-の氾濫だけ。

 笑えるのは、私でも知っている全国チェ-ンのファミリ-レストランや回転寿司店の、『特別の日のお祝いメュ-』的な言葉が溢れているチラシが、この日の数日前から新聞に織り込まれていることだけかも知れない。この日を目当てに客を引き込む作戦なのだろうが、いわば『敬老の日』は単なる客寄せパンダ的な言葉として利用されているだけで、敬老などという精神はどこにもなさそうだ。

そのことはさておき、先日の新聞記事に、『全国の100歳以上の高齢者が昨年より2014人多い6万97855人に上る』という文言を見付けて考えさせられた。

 時に、『人生100年時代』なる言葉を見聞きする機会が多くなったが、ここまで100歳以上の人が増えると、本当にそんな時代が近づいているのではと恐ろしく感じるのは私だけなのだろか。ただ、この7万人近い100歳の人が、どんな生活をしているのかということに関しては、ごく特殊な例をのぞいてはメディアも報じない。当然だとは思うが、かなり悲惨な生活をしている人も多いのではないだろうか。

ここからは私の勝手な独り言。先日もマスコミが大きく取り上げていたが、5歳の女のかが、『ごめんなさい』と謝っていながら継父の虐待で命を落した事件に象徴されるように、実母であっても子育てに疲れたという理由で日常的に暴力を振るい、最悪の場合死にいたらしめる事件が後を絶たない。また、10代から20代の若者の死亡事故もかなりの頻度で報じられている。これらの事件や若年層の事故による死亡が平均寿命を延ばしていることは以前もつぶやいたこと。

こんな理不尽な事件を防ぐ根本的な議論があまり聞こえてこないのに、100歳を越える高齢者が活躍する話題は無条件に『是』として報じられているが、介護施設か病院で意識すら混濁した状態の年寄りも多いはずなのにと、へそ曲がりの私には、なんとも違和感を覚えるのだが・・・。

若い頃、同僚に『オレは39歳で死にたいとと思っている』というセリフをよく口にしていた。深い意味がある訳ではないが、40歳を境にして、今までかなり体制に批判的な仲間が、不思議に体制に組みこまれる現状を許せなかったからではなかっただろうか。

残念ながら、その願いは叶わず、60歳の定年まで勤めて、嘱託も断って毎日のんべんだらりと霞を食らって75歳になる現在まで生きているのだから、当時の私からはとても信じられない。しかも、病院に出かけるのは数ヶ月に一回の血液検査に出かけるだけだから、あと数年は生き続けることは間違いなさそうだ。

医者からは、毎回の血液検査で、血糖値だけが基準値を少し上回ることから、『糖尿病予備軍』という病名をいただいている。A1cの値もぎりぎりの正常値なのだから、予備軍となっているのだろうが、日常生活に何ら支障がきたすことはない。

身体が固くなって、膝を曲げるのも難儀にはなっているが、毎日自分の足で歩けることから、ひょっとして、私も100歳まで生きなければならないのかと思うことはある。しかし、100歳まで生きても良いが、それまでの25年の間に、この世が末期を迎え、人類が死滅する瞬間を自分の目で見たいと願うことは変わらない。

さらに、今日の朝刊に70歳以上が国民の20%を超えたという記事が追い打ち。いやはや恐ろしい時代になったものと、敬老という雰囲気が全く感じられない『敬老の日』に思うこと・・・。(田舎親父)

2018年9月15日 (土)

近年未曾有の大災害が多過ぎる・・・

 北海道の厚真町を震源とする震度7の大地震は、これまでの地震対策を根本的に改めなければならないほどのインパクトを与えたと言っても過言ではないだろう。

上空からの映像で見ると、緑と茶色のモザイク模様としか表現できない風景は、地震が起きた2018年9月6日の午前3時8分の寸前までは、緑一色に覆われたわずか海抜100m程度の丘の連続だった。

そんななだらかな丘が一瞬にして崩落。モザイク模様の景色を生み出すと同時に、道路が通っている麓の集落を飲み込んで、大勢の人の命を奪ったのだから地震の恐ろしさを目の当たりにさせられる。

専門家に言わせれば、火山灰が降り積もった地形だとのこと。確かにもろいだろうことは、全くの素人の私でも想像がつきそうだが、それは現場を見て言えること。

都市部のまるで断崖のような場所に建っている家屋でない。広々と広がる北海道で昔から南が開けた場所は、人々が住むにはもっとも恵まれた環境である。そこに最初に家を建てた人は、恐らく裏山が火山灰でできたとは知らなかったに違いない。

太陽の恵みが最大限に受けられるという環境が、人々を南斜面の麓に引きつけて、民家が建ち並んでいたのだろうが、少なくとも100年以上はこの地域に山崩れを引き起こすような大地震が起きていなかったことから、時に『火山灰質』という言葉を聞いても,危険という意識にはつながらなかったことは当然である。

こんな条件に当てはまる場所は、北海道はもとより、ほんの少しの過疎地では当たり前に見られる風景ではないだろうか。今までの田舎の風景をみる視点が変わってくるような気がする。

一方、札幌市という大都会の郊外とも言える清田区という場所では、大規模な液状化減少が起きて、道路がうねりコンクリ-トがはがれ上下水道管がむき出しになり、その回りの家は大きく傾いている。そんな光景をテレビが映し出している。

私が『液状化』という言葉と、その被害を知ったのは、昭和39年の新潟地震で鉄筋コンクリ-トの建物が横倒しになっている映像に最大限の衝撃を受けて田もの。その時の解説が『液状化による倒壊』というものだった。

以後、大地震の度にこの言葉は聞かされてきた。地中で水が涌きだしてドロドロになるのだから、現在はともかく過去に、湿地だった時代があると教えられた。あの3・11の東北大震災では、横浜でも液状化で家が傾いた場所が数カ所あった記憶が蘇る。

やはりそこは、川筋だったり、以前、池を埋め立てて住宅地にした住宅地にした場所ばかり。私の散歩コ-スでもそんなところは稀ではない。そして住宅が次々に建てられ、昔の風景は記憶からなくなってしまう。

今回液状化の被害を受けた清田区の被災地も、埋め立て地だという。昔の川筋は道路の下を暗渠とし、その上に道路をつくり、その道路を中心に埋め立て地を広げて、一大住宅地になっているとのことである。

札幌は人口が200万人と聞いている。あの広大な北海道全体で500万人というから実にその半数近くの人々が札幌市内に住んでいることになる。

去年、札幌の街中を4日ほどうろついたが、横浜などに比べると、起伏はなだらかで住宅が密集し過ぎているという感じを受け、中心部こそは横浜と変わらないが、私が住む横浜の片田舎よりはるかに広々とした風景が続いている。

清田区の被災地は、きっとそんな一角なのだろうが、もともと人が住んでいた場所ではないはず。ほとんどは札幌近辺に家を求めてこの土地から移り住んだ人たちに違いない。今回の被災地に住む人々の多くは、過去に川筋だということを知らされなかったか、知ったとしても、これまで地震が起きていないことが安心感になっていたのではないだろうか。

埋め立てた業者や認可した行政は、この土地が駅時イヴ化する恐れがあることを認識していなかったのだろうか。そんなことはあるまい。

埋め立て業者が現在も存在するかどうかはわからないが、もし存在しているとしても、そして行政も、今回の液状化被害を『想定外』という流行語で逃げてしまうのではないだろうか。

ふと、数年前の広島市北部を襲った大雨被害の凄まじさが目に浮かぶ。記録的な大雨が原因で、過去に例を見ない土砂崩れが起き、一帯を泥の海にして多くの人の命を奪った大災害である。

液状化とは関係ない話だが、この地も元を正せば川筋に沿って、大規模に山を人為的に削り住宅地にした土地であるという記事が頭に残っている。広島という大都会に人が集まり、必要に迫られて開発したに違いない。その工事に行政が主導したとしたら、一端の責任はあるのだろうが、このことについての記事は見当たらない。

この大災害でも、恐らく『想定外の大雨』ということばが飛びかよったに違いないが、被害を受けた人に責任を全て押しつけるのは非情である。行政が失った家に変わる住まいを補償する義務はあると思いたい。

地方自治体ができなければ国が助けの手を伸ばすのは当たり前の話だと思うのだが、現政権のデタラメさでは、こんな当たり前の論理は一蹴されることは間違いなさそうだ。あまりにもこの国の情けない政治の実情に、今朝も困った話だとつぶやく私・・・。(田舎親父)

2018年9月14日 (金)

さて、どんな展開に?・・・

 昨日、マスコミ各紙各局が、総裁選の討論を嫌がってロシアに逃亡していると伝えられいるわが国の首相サマが、ロシアや中国の首脳たちが出席している東方経済フォ-ラムで、突如、ロシアのプ-チン大統領から『一切の前提条件なしで、年内に平和条約を締結しよう』との提案されたことを一斉に報じていた。

 これにはデンデンさんはビックリしたらしく、困った顔で苦笑しただけの映像が映し出されていた。このことはデンデンさんが『異常な戦後を終わらせて平和条約を結ぼう』と北方領土問題を持ち出そうとしたことに対して、プ-チンが『じゃあ、年末までに無条件で締結な、他の問題は後回しに考えよう』と応じたとのことらしい。

 プ-チンが言う『前提条件なしでの平和条約』ということは、『北方領土のことはさておいて、まず、互いに侵略しないようにするための平和条約』を結ぼうではないかということだということぐらいは、政治音痴の私でもわかるが、今までこんな提案は、プ-チンはもとよりロシア側からは一切なかったというから、デンデンさんとしては、何をどう答えたら良いのかわからなくなり、パニック状態で顔が引きつったのではないだろうか。

プ-チンは以前から『北方4島は太平洋戦争の代償として、国際的な約束でロシアへの帰属が決まったもの。だから正式にロシアの領土である』と主張し、ロシアの国内法にのっとって開発を進めているという論理を展開していることはマスコミも再三報じている。

ところが、日本政府としてはこの話は認める訳にはいかない。歴代の政権は何とか返してほしいと交渉を続けてきたと説明しているが全く進展がない。というより、本気の交渉をしてきたのかも疑わしいというのが真実では?・・・。

今回のプ-チンの提案は、まず日本は北方領土をロシアの領土だと認めろという脅しなのだろうが、これまで、平和条約は領土問題が解決してからだという日本政府としてはこれを認められないのがタテマエなのだろう。

このことは、すぐにデンデン一家の代貸しの官房長官が『平和条約締結は4島の返還が前提であるわが国の基本方針は変わらない』とプ-チン提案を記者会見で明確に否定したことでも明らかだろう。

ここから超がつく政治音・痴外交音痴の貧乏老人のつぶやきであるが、官房長官は首相の許可なく、こんな発言をしたとは思えない。恐らく、大慌てで首相に連絡をとり、『オレの考えは従来と同じ』ということで、プ-チン提案を『否』とすることを内外に示すための記者会見であったと思いたい。

マスコミ報道でも、プ-チン提案は『平和条約を締結してから領土問題を話し合う』という意図があると伝えられている。プ-チンとしては、デンデン首相が『そんなアホなことを飲めるか』と、即拒否することを予想した発言だったのではないだろうか。

そしてその時は、領土問題を真剣に話し合うための提案なのに、『それを拒否することは、日本はこの問題を必要としないということだから、今後一切北方4島のことは話し合う必要はない』と、東方経済フォ-ラムという公式の場で宣言すると言う筋書きを描いていたのでは・・・。

デンデンさんは即拒否を伝えたわけではないが、代貸しが明確に拒否を発表したことで、プ-チンの描いている筋書きはほぼ間違いなく進んでいるのだから、プ-チンは『シメタ。これで尖閣も決まったな・・・』と、今頃中国の習主席と乾杯でもしているのではないだろうか。

これもマスコミ報道であるが、プーチンは平和条約締結後『友人として全ての係争中の問題を解決しよう』とも主張しているというから、領土問題は先送りを示唆していることになるが、ソビエト・ロシア政権が領土問題の先送りを明確に打ち出したのは初めてだというから、先送りを日本政府が正式に拒否したという主張を強めるに違いなさそうだ。

そんなことを思いながら、お昼のNHKニュ-スを見ていたら、官房長官の言い方が少し変わってきているように感じる。ひょっとして、デンデンさんはよくよく考えてみたら、側近の誰かから、ここで真っ向から拒否したら領土問題を話し合う機会はなくなると教えられ官房長官にニアンスを変えろと命じたのかも知れない。

ただ、一度は正式に、プ-チンの提案を一蹴したデンデン政権の今回の態度で、領土問題が、再び話し合いの話題にも登らなくなったとしたら、これ以上に悲しいことはないとつぶやきたくなる。

外交ってそんな生易しいものではないぞという声が聞こえてきそうだが・・・。(田舎親父)

2018年9月13日 (木)

7時22分に出勤する小学校?・・・

 先日、『さいたま市教育委員会が、市内の公立学校にタイムカードを導入する取り組みを10日から試験的に始めた』というニュ-スをNHKが流していた。

さいたま市教育委員会がタイムカードを導入するのは、市立のすべての小中学校や高校など166校に勤める教員や事務職員などの6000人余りが対象で、市教委の指導主事によると、教職員の長時間労働の改善につながるという認識だという。

いよいよ教員もタイムカ-ドの時代になったものだと思いながら、映像をみていると、NHKが取材した小学校で、教員たちが次々にICカ-ドをカ-ドリ-ダ-に掲げている姿が映し出されている。

特に嫌がっている様子はない。むしろ、当然だというような雰囲気を感じるが、テレビカメラが映し出したカ-ドリ-ダ-の『7.22』という数値を意識した人はどれぐらいいるのだろ。私はそのことに大きな衝撃を受ける。

考えてみてほしい。『7.22』という数値は『午前7時22分』を意味している。こんな時刻に、さいたま市の教員は勤務を強いられているとしたら、こちらの方が大問題ではないだろうか。

私の担任時代の勤務時間は8時25分出勤・16時5分退庁だと記憶している。当時でも、教員の勤務時間はそんなにいい加減なのかと憤慨する人もいたが、その時は、次のように説明するとほぼ全員の方は理解してくれた。

すなわち、教員は学校に到着すると基本的には子どもといつも一緒にいることが原則。しかも給食指導と称する仕事も極めて大事だと位置づけられおり、終わってすぐに清掃活動が始まることから、基本的に昼休みはなくその時間は勤務だとしても奇怪しくない。

また、午前中も子どもたちには20分休みが刻まれているが、教員は監督責任という言葉に縛られているので、実際には職員室(教員室)でお茶を飲むことはあっても、精神的には子どもの安全から目が離せない。万一、休み時間に子どもが事故を起こした場合、間違いなく教員の責任を問われるので、教育委員会も授業間の20分休みを教員の憩休息時間としてカウンとしないことで組合と合意していた。

ということで、名目上の勤務時間は8時10分から17時5分までなのだが、運用として、午前中の休息分の15分を8時10分から25分と前倒し。退庁時刻は17時5分であるがやはり午後の15分の休息と昼休みの45分は美奈氏の勤務時間となり、この1時間を退庁前に合わせ16時5分には勤務が終わることになる。

教員は本給の4%を教員特別手当として全員に上乗せされている代わりに、残業代は支払われないことを認識していたので、4時5分になったからといって帰宅する者は、子どもを保育園に預けている女性教員ぐらいだけで、ほとんどは何かと理屈をつけて校内に残っていたので、保護者からの問い合わせなどで困ることはまずない。私はほぼ毎日、子どもたちと野球やサッカ-で遊んだものである。

ところが、イシハラ都政が始まると、都の一般の職員と始業・終業時刻が違うのは都民が納得しないという理屈で、勤務時間の見直しが議論になり、8時10分に出勤簿に押印してからの15分は休憩。職員朝会が始ま流6時25分までは休息。昼の休憩時間の45分は16時からとし、その間は校外に出かけることは可であるが、その後の15分間は休息時刻なので校内に戻り、5時10分になったら退庁という決まりになった。

私に言わせれば、まさにアホカもの・・・。当時はすでに校長職になっていたので、この決まりはほとんど無視したものだが、教員の方が守るのだからなんとも複雑な思いと同時に、ならばしかたない、教員の自主性に任せていたことははっきりと覚えている。

恐らく今どきは、教員だけの話しになっているのだろうが、勤務状況を公式に証明するのは出勤簿の押印だけだったが、(自慢にもならないが)教頭職の4年間以外、一度も自ら押印した記憶がなく、ハンコを教頭さんに預けていたトンデモ教員だった。

子どもを巻き込んだ事故に合わなかったので今では笑っていられるが、押印だけでは細かいアリバイは証明できないので、私自身富士通時代には違和感なくタイムレコ-ダ-を伝っていたこともあって、今回のさいたま市のタイムレコ-ダ-の導入には否を唱える訳ではない。

しかし話を戻すが、『7時22分』という時刻に、教員のほとんどが登校していることには大きな違和感どころではなく、そんなことがまかり通るさいたま市の学校の存在そのものを許せない。

現職当時、ある時季には、6時前に自宅を出て、8時過ぎの出勤に間に合わせたことも懐かしい思いでだが、7時22分に出勤しなければならないとなると、始発に乗らないと遅刻になる可能性すら出てくる。

さいたま市は市内在住の者しか教員として採用しないという条例でも制定しているなら7時22分の出勤は可能かも知れないが、だからと言って16時に退勤としている訳ではないだろう。今話題のサマ-タイムの先駆け?・・・。

これで教員の勤務時間軽減?・・・。なんともアホラシイ話である。(田舎親父

2018年9月12日 (水)

恐ろしい記事を見付けた・・・

 日本中に自然災害が猛烈な勢いで広がっているにもかかわらず、人の命なんか知らぬ存ぜぬ、自分の利益ばかり考える政治屋たちと、それを批判もしないマスコミに国民の多くが完全に骨抜きにされて、日本中が『自分だけ・今だけ・金もうけだけ』という風潮の広がりに、何と気分の塞がりを感じている。

 先月、後期高齢者の仲間入りしたことで、私自身、人生も残り少なくなったと実感するようになっている昨今であるが、昨日の朝、新聞社はしては珍しくデンデン政権批判を露にしている『日刊ゲンダイ』という大衆紙のネット版に『50歳のあなたは93歳前後を目標に老後を設計する必要がある』という見出しを見付ける。

 『人生100年時代という言葉をよく耳にするようになりました。しかし40~60代のサラリーマンですら、自分が100歳まで生きるなんて、まったく実感がないに違いありません』という書き出しで始まる記事は、なかなか実体をよく観察している。ほとんどの人が『自分はせいぜい平均寿命まで』と思っているのではという表現もかなり説得力を感じる。

現在の平均寿命は女性は87歳、男性は81歳だそうだが、私の寿命も単純に計算すると後数年になることから、『そのあたりを着地点にして、老後の人生設計をしている人も大勢いるはず』という表現は、自分の気持ちを見透かされたような気がする。

ところが、ここからがこの記事の真骨頂らしいく、若くして亡くなった人が全体の平均を下げているだけで、平均寿命と『死亡率50%』はイコールではないという表現と、それに続く『同じ年に生まれた1万人の子供のうち81歳まで生き延びるのは約6000人。5000人に減るのはその3年後、つまり84歳になった時点』という文面が妙に引っかかる。

記事は、この年齢を『半減期』と表現し、だからこそ、平均寿命よりも半減期を目安にして、老後設計をするほうがより安全と述べている。

『半減期』という表現は、放射性物質から放たれている応射能が半分になる期間であることは知っているが、こんなところにも使われるのかとある意味新鮮味を覚えるが、それだけではなく、平均寿命も半減期も、着実に延び続け、現在の推計では、だいたい10年で2歳ずつ延びているというから、計算がややこしくなる。
 記事によると、仮に50歳の男性は、今の『半減期』である84歳を念頭に、老後を考えた場合、80歳に達する30年後には、半減期は6歳延びていることになり90歳になることになり、さらにあと10年頑張って、90歳に到達したときには、半減期はさらに2歳延びて92歳となる計算だという。

ここまで読んできて、なるほど、見出しの意味がここにあるのかとは納得するが、これは面白いが恐ろしい。

50歳といえば、多くの男性は現在の職場では管理職になっている年代。責任は日に日に重くなり、日頃から仕事に追われる人が圧倒的だと思うと、果たして90歳以上までの老後設計をする余裕はないことは間違いないところ。

後期高齢者の仲間入りした自分も年々減り続ける年金と、増え続ける介護保険料などで予想が大きく違っていることから、30年後の社会など想像することすらおぼつかない。

記事にもあるが、恐ろしい話である。このまま老人が増え続けていくのだから、それを支えるためには莫大な費用がかかることは、計算が苦手な私でも理解できること。現在、医療費の支払いは1割負担なので、健康が唯一の取り柄の私にはとって、さほどの圧迫感はないが、もし重大な病気でもなったら、1割負担でも大変だろうと気持ちを引きき締めている。

しかも、いつまでも1割負担が続くのかも不安であり、実際に私より少し年代が下の人は2割負担になっていると聞いている。そしてさらに現政権は、老人の負担率を上げるように画策していることも頭痛の種。

現在は、横浜の片田舎で霞を食らって健康な生活を何とか維持している私であるが、今後、何がおきるかわからない。突然介護される立場になることも考えられないことはないが、できるだけ想像しないようにしているのが現実。

30年後、現在50歳の人たちが80歳になる近い将来、果たしてどんな社会になっているのだろうと考えると、その答えは・・・。

考えさせられる記事である。(田舎親父)

2018年9月 8日 (土)

これも北海道いじめ?・・・

 昨日の続きになるが、北海道の胆振地方の内陸での直下型地震で、あの広大な北海道全域が停電になっていることがどうしても気になり、本当に北海道全体が停電しているのか確かめるために、昨日も述べたが、その日の夕方、知床に近い標津町の友人に電話して確認してみた。

 私の住む神奈川県では、県全域が停電などという事態は、あの3・11大災害でもなかったこと。神奈川全域どころか、横浜全域ということもこれまでなかったと記憶している。なのに、あの広大な面積を誇る北海道全域とは何故なのだろうと何とも釈然としない。

北海道電力の説明では、震源地の近くにある道内最大の『苫東厚真発電所』が機能不全に陥ったからだというが、道内の発電所はここだけではないはずなのに、そんな子供だましのような言い分に対してマスコミは騒がないのも何とも不思議な気がしてならなかったが・・・。

何でも『苫東厚真発電所』の3基の総発電量は最大出力で165万キロワットの能力を有しているのだそうだ。北海道全域の電力需要は380万キロワットだというから、およそ半分近くをこの発電所が賄っていることになる。

超大型の発電所だと言うことはわかったが、発電所はここだけではないだろう。実際に稼働中だったかどうかははっきりしないが、北海道電力が所有する発電所は水力56、火力12に及部という。それらの発電所がロ-テ-ションを組んで道内の需要電力を賄っていたはずなのに、『苫東厚真発電所』がこけてしまったことで全体がアウトは、道民にとっては迷惑極まりない。

電力は張り巡らされた送電網で家庭や工場に運ばれることは、小学生でも知っている知識であるが、大規模発電所が停止して、送電網を流れる電気が足りなくなると、それを補うために、他の発電機が『過稼働』の状態になるのだそうだ。素人考えでは、なにも絶えず大電力を流し続ける必要はないように思えるのだが。

それはともかく、発電機と言えど『過稼働』が続けば、ついには壊れることはあり得そうだということは理解できる。今回の地震では、他の発電所に『過稼働』を強いたのは、『苫東厚真発電所』の3基の発電機が大きな揺れで、配管の蒸気漏れや出火によって3基全てが止まってしまったことが原因だという。

要は、道内最大の『苫東厚真発電所』が故障して緊急停止したことで、送電線のバランスが崩れて、このままでは送電線そのものがパンクするという設計上の限界ラインに達したので、稼働中の他の発電所の発電機も自動停止したということらしい。

このことからはっきりしたのは、『苫東厚真発電所』の規模があまりにも大き過ぎにということ。北海道電力としては、そのことは十分認識していたと思われるが、一極集中しなければならないのは、北海道があまりにも広大だからではないだろうか。

北海道の人口は役500万人ぐらいといわれている。ということは、全世帯に電気を届けるための送電線の長さは、神奈川県の数百倍どころではないはず。その保守管理費用は、他の電力会社の数倍・数十倍に当たることも容易に想像できる。それを北海道電力一社に委ねていることになる。

利益を追及することは民間企業である以上やむ得ないことは私でもわかる話だが、地域によって発電所を分散するとなると、その運営に対して莫大な費用がかかることも当然であることから、利益のためには一極集中にならざるを得なかったというところだろう。

しかし、こんな不公平なことはない。首都圏では、どんなに大規模な発電所であっても故障したから首都圏全域が停電ということは考えられないのに、北海道の住民にとってはそんな不公平なことが日常的に起こり得るのは許し難い。

せめて、緊急の場合は全国の電力会社からの緊急送電で、できるだけ狭い停電範囲にとどまるようなシステムを構築するのが急務ではないだろうか・・・。(田舎親父)

2018年9月 7日 (金)

早く退場させなければ・・・

 先日も、観念論だと分かっているが・・・という前書きを記して、デンデン政権を一日でも早く終わらせなければ、自然災害はこれでもかとばかり続くのではないだろうかとつぶやいたが、台風21号の大阪を中心にした甚大な被害に続いて、昨日未明に北海道で震度7の大地震が発生し、北海道全域が大混乱に陥っているという報道に、一層その思いが強くなる。

今回の地震は恐らく誰もも予測していなかっただろう。この地方は火山が多いことから、火山性の地震は予測していたが、これほどまでの大地震に、地元の人も信じられないというところに違いない。

これまでは北海道でおきる大地震は、『十勝沖』という文言が代名詞になっていたが、今回は、道南の石狩平野の南端が震源。震源の深さは37キロとさほど浅くないのに、マグニチュ-ド6.7でも直下型の恐ろしさなのだろう。

信じられないような凄まじい映像が映し出されるたびに、被害の大きさが伝わってくる。上空からの映像では、さほど高くない山、むしろ丘と言っても良いような丘陵地全体が、土砂崩れでまさに一帯が垂直の壁。

恐らく一昨日までは緑豊かだった山地全体土砂崩れがおき手いる。なにも知らずにこの映像を見せられたら、土砂崩れが起きたとは思えないほど、まるで大がかりな土木工事が同時多発的に行われているような錯覚すら覚える。

今回の地震で、一部は復旧したと伝えられているが、今でも北海道の大部分が停電しているという。発電所は各地に点在しているはずなのに、あの広い北海道全域とは到底想像できないが、民法各局もNHKと歩調を揃えて、およそ295万世帯と表現しているから、停電はほぼ北海道全域に広がっていることは間違いないようだ。

当然のことながら、交通機関はズタズタ。道路は至るところで寸断され、札幌南部の振興住宅地では液状化で多くの住宅が倒れたり傾いている映像に、あの3.11震災での首都圏の住宅地の惨状を思い出す。

停電について、標津町の友人に電話して確認したが、地震発生とほぼ同時に停電し、昨日の午後の段階でも停電はつづいているとのこと。今は鮭の定置網量が始まったばかりで、陸揚げした鮭を急遽大型の冷凍室に入れて、扉を開かない措置をしているという。

大型の冷凍庫は停電になっても、扉さえ開かなければ1週間はしのげるらしい。なるほどと納得するが、停電が長引くと、新たに収穫した鮭を収納する場所がなくなり、せっかく数年ぶりの豊漁だと言われているのに、このままでは大打撃になるのではと心配になる。

北海道電力の説明では、震源地近くにある道内で最大規模の火力発電所が稼働できなくなったためだという。この理屈は間違いないらしいが、素人的にはどう考えても無理がありそうに思えてならず、またそぞろ、だから原発が必要だと言い出すのではないかと警戒している。

その北海道で唯一の泊原発が、地震の揺れで外部電力が切れてしまい、一週間限定の非常用の発電機を動かして、どうにか使用済み燃料を冷やしている状態だと言うからお笑い草。もしも、震源地が日本海側で少し大規模な津波でも襲っていれば福島の二の舞。想像するだけでゾッとする。

台風21号は関西空港に壊滅的な打撃を与えて猛スピ-ドで日本海を北上、今回の被災地に大量に雨を降らせていたことが、大規模な土砂崩れの下地になっていたというから、台風と地震が全く無関係だとは思えない。

マスコミはめったに報じなくなったが、岡山県や愛媛県を中心とする西日本各地を襲った大水害は、つい一月前のこと。その日の夜、気象庁が100年に一度の大水害の恐れがあると警告をしていたにもかかわらず、デンデンは赤坂で子分たちと。オ-ムの死刑囚の死刑執行を肴にして、総裁選の前祝い・・・。

その不祥事が報じられると慌てて繕いをしていたが、すぐに休養でゴルフ三昧というマスコミ事に、この男は、全てが自分だけ・今だけ・金だけ主義で、他人の痛みなど知ったことではないと言う冷血漢であることを改めて感じたもの。

デンデンは今回の北海道の大地震にもかかわらず、代貸し曰く、ロシア訪問は変えないとのこと。プ-チン大統領からアホカ扱いされても、自然災害の復旧よりも総裁選の討論から逃げ出すためのロシア訪問であることは、横浜の片田舎の貧乏老人でも知っている筋書き。

もはや、観念論だと笑われても、デンデンを退場させないと、本当に近い将来この国は未曾有の自然災害(いやデンデン災害)に襲われると確信できるのだがいかがだろう・・・。(田舎親父)

2018年9月 4日 (火)

こんなことまでお国のご命令・・・

 昨日の朝のことである。NHKテレビのニュ-スを新聞を読みながら聞いていたら『文科省が小学生のランドセルが重過ぎることから、家庭学習に必要でないものは学校に置くように全国の教育委員会に通知した』という意味のアナウンサ-の声が耳にと入り、なんとも違和感を覚えてテレビの画面に目が移る。

 アナウンサ-がどんなことを言ったのか、正確なところをネットで確かめると、『各地の学校で新学期が始まる中、文部科学省は子どもたちのランドセルなどが重すぎるという意見を踏まえて、宿題で使わない教科書などは教室に置いて帰ることを認めるよう、全国の教育委員会に対して求める方針』だとのことである。

ランドセルが重過ぎるということは、以前から話題になっているので、そんなに大変なのかと、去年の今頃、実際に子どもたちの登下校の様子を調べたことがあるが、横浜の片田舎では、水筒を重そうに持っていることははっきり確認できたが書道道具などは持ち歩いていないような記憶がある。

もっとも、登下校する子どもの様子をジロジロと見ていたら、それこそ変質者と間違われるご時世なので、対象は近所の顔見知りの、水筒以外は背中のランドセル姿の子どもたちに、『重いかい?・・・』と聞くと、重いと答える子もいれば、平気だよと言う子もいることから、横浜の片田舎ではさほどの負担にはなっていないようだ。

しかし、NHKは小中学校では教える量の増加で教科書が分厚くなり、教材も増えていることから、ランドセルは重くなっているが原則それらを自宅に持ち帰るよう指導している学校が多いと言う。
 そのため、腰痛となる子どもたちも出始めるなど、対策を求める声が上がっていたのだそうだが、そんなことまで文科省の官僚たちが心配しているとは驚く限り。

そこで、文科省は、家庭学習で使用しない教科書や、リコーダーや書道の道具などについては、施錠ができる教室の机やロッカーに置いて帰ることを認めるよう求める方針を打ち出したのだそうだ。

アナウンサ-の放送原稿には、『子どもたちのランドセルの重さについて、大正大学の白土健教授が去年、小学1年から3年までの合わせて20人の児童を調査した結果、平均の重量は7.7キロでした』という一文に加えて、『小学1年生の平均体重はおよそ21キロですが、なかには体重の半分近い9.7キロのものもあったということです』という文面もある。

白土という先生が文科省のお気に入りなのかはともかく、1年生から3年生のたった20人のデ-タで、全てがさも真実のごとく報道するNHKに、ここでも現政権の広報機関に成り下がっているのではと皮肉の一つも口にしたくなる。

私に言わせれば、こんな細かな数値を示す以上、せめて近くの小学校の協力を求めて、その小学校全体のデ-タを基にする程度のことは必要で、できれば、学習指導要領を全国津々浦々に強制的に押し付ける文科省ならば、教育委員会に命じてデ-タを集めることはお手のものだろうに、わざわざ白土という先生のたった20人のデ-タを基にしているのも怪しげな話である。

それにしても文科省の親切心には皮肉をこめて涙が出ると表現しておこう。子どもの健康のためと言う大義名分を使ってまで、こんな細かなことまで介入するとなると、次はどんなご命令が下ることやらと心配になってくる。

今回の通達は保護者には歓迎されそうだ。しかし、文科省の本心は、どんな些細なことでも全国一律の基準で動く学校を目指しているように思える。私としては、うがちすぎだと言われるかも知れないが、学校の自主性を徹底的に押さえるのが目的ではと思えるのだが・・・。

この通達で、ランドセルそのものが重くなっていることは全く触れないのも何か意図的なものを感じる。ランドセルを用いることはいわば全国共通の校則になっていることに加えて、年々豪華なランドセルを求めることが親の努めだと言う風潮が大流行で、全国でランドセルの豪華競争が激化していることは私でも知っていること。

荷物を軽くすることがどうしても必要なら、牛革の豪華なランドセルではなく軽量素材のバックでも良かろうにと思うのだが、こちらは知らんふり・・・。

また、アナウンサ-の原稿には『学校で栽培したアサガオなどを持ち帰らせる場合は、保護者が学校に取りに来ることを認めるとしています』とあるが、こんな教材を指定したのは文科省。何とも大きな違和感をもたらしてくれる。

こんな細かなことを通達するより、せめて、今大きな話題になっている『ブラック校則』について、『各学校は保護者の声を聞いて見直しなさい』という通達ならば、まだ意味があるだろうに・・・。(田舎親父)

2018年9月 3日 (月)

久しぶりに通夜に・・・

 15歳で母親を、18歳で父親を失った私は、高校卒業して富士通に入社し、2年で自分の能力の限界を感じて、何とか国立大学(授業料の関係で私立ははじめから頭になかっただけ)にもぐり込んだのだが、その間、京都に帰省したときには必ず墓に出かけるのが習慣になっていた。

習慣と言うよりも、墓地に入ると何となく母親の声が聞こえてくるような気がしたことから、自然に足が向いたと表現した方が相応しいのだろうが、いつの間にか、そんな『お墓参り』と縁遠くなり、30歳を過ぎてからは、数年前に墓を引き継いでいる兄が亡くなり、その納骨の付き合いに出かけたたった一度きりになっているのだから、この変化は何なのだろう。

当然、自分の墓は必要ないと家族には宣言している。家内は、台所の片隅に手作りの位牌もどきものを作って仏壇替わり。こちらの方がいつでも話しかけられるので便利なので、わざわざお墓など入らないと、私と同意見。

私は『骨を桑の葉パウダ-を作るための手持ちの石臼で挽いて、横浜の片田舎の野原にでも』という発言すると、家内は『大阪の一心寺に壁に塗り込んでもらう』と、およそマンガのような会話をしている日常である。

墓に対しては極めてシビアな考え方をしているので、仰々しい葬式が必要だろうかと、葬式そのものに対しても懐疑的になり義務感で出かけるよりも、自分だけの方法で故人を忍ぶ方が良いのではという考え方が強くなっている。

だからではないが、訃報の連絡での通夜が営なわれている夜は、しみじみと一人静かに、故人との思い出をつまみに酒を飲むのを常としている。そして、後日、機会を見て自宅を訪れて、遺影の前で線香の上げることにしている。

それでも、どうしても通夜に出かけてご遺族に何らかの声を掛けたいと思う気持ちになることもあり、最近では、4年前に亡くなった最後の教え子の通夜に駆けつける。38歳の若さで亡くなったこともあって、ご両親の嘆きは深いものがあるはずだが、気丈夫にも、お礼を言われ思わず涙したものである。

小中学校の同級生たち100人ほどが集まり、急遽別の場所で献杯を重ねてしまった。知り合い太刀が久しぶりである場になるのだから、これが通夜の役割なのかもしれないと思うが、その場が終わればそれで終わり。ねそれで良いのだろうかという思いを改めて感じたもの。

ただ、この集まりは通夜だけではなく、ご両親のたっての希望らしいが、故人の誕生日近くの土曜日には、必ず集まりを持ち私にも声がかかることから、今でもずっと続いているのは幸いなのだろう。

もっとも、最近では家族葬という言葉が当たり前になり、亡くなったことを知るのは年末に届く喪中の連絡の場合がほとんどなどで、葬式の直接の案内はほとんどないのが実情であるが・・・。

 そんな私であるが、8月の末に大昔に勤務していた糀谷小学校の仲間だった友人から、50年前の同僚で、考え方が全く違うことから何かにぶつかっていた先輩が亡くなったとの連絡。9月1日に通夜、翌日に告別式が桐ヶ谷斎場で行われるとの連絡を受ける。

しばし迷ったが、この先輩との因縁は浅からず、思想的には相いれないが、異動してからは何となく付き合いが続き、共通の先輩が大分県の竹田にUタ-ンしてからは、数回一緒に出かけて、この先輩の自宅から見える滝廉太郎の『荒城の月』のモデルだと言われている原城址の石垣を眺めながら3人で、夜を徹して飲みながら語り合った記憶が鮮明に蘇る。

それからが大変。その日の昼過ぎ、何年ぶりかの黒服を取り出すと、背中に虫が食ったアナが数カ所開いていることを発見。新しく購入する時間的余裕がなく、ワイシャツで出かけようと思ったが、多分知り合いは連絡してくれた友人たちだけだろうと思い、ボンドで黒い布を貼って出かけてきた。

見たことがある人も数人いたような記憶があるが、声をかけるのも憚れる。ご遺族とは面識はないので、焼香が終わり数人の友人と近くの安酒場で献杯。1時間と少しの間、故人を忍ぶと同時に、互いに歳をとったものだと嘆き節。 

 これで良いのだろうが、知らない人たちが圧倒的な葬式に出席する意味は何なのだろうという疑問を改めて持つ。

 安酒を煽って故人を忍んだ数人の友人たちとはまた会おうと別れたが、これが通夜の良さだとは思うものの、ただ旧交を温めるというだけの飲み会が価値のあるものになったかとなると複雑な心境にさせられる。考えすぎなのかも知れないが・・・。(田舎親父)

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