日記・コラム・つぶやき

2017年5月27日 (土)

文科省の無責任さに呆れる・・・

 加計学園問題が面白くなってきた。やっと、東京はもとより朝日や毎日が、官邸の意向を受けて文科省が動きだした背景を報じはじめた矢先に、前次官の証言が飛び出したことから、デンデンン地味の悪巧みが国民の前に明らかになり、情勢は動きはじめた。

この前次官が文科省の天下り問題で詰め腹を切らされたことは今年の1月。私は、このことを、どこの役所もやっているだろうに、何故文科省でしかも今なの・・・疑問をつぶやいたもの。

しかし、今回の前次官の証言に続いて、加計学園が今治に獣医学部の新設申請に対して文科省が慎重な姿勢を崩さす、官邸の命令にすくに応じなかった経緯があるという、新たな情報が明らかになると、なるほどだから文科省のしかも次官という官僚のトップが辞任に追いやられたのかと、その筋書きに納得する。

このことは、メディアの姿勢が続き真相に近づく可能性が出てくることを期待して、しばらくは様子見することにしたい。そこで今日は、無理に教科にした英語の時数確保のための文科省の姿勢についてつぶやくことに・・・。

2020年度に実施される次期学習指導要領で、小学校の英語が正式に教科になることは批判を込めて何度も取り上げてきた。教科なのだから教科書が存在しそれに沿って授業を進めることになるのだろう。そして、何らかの方法で評価をし、通知表で保護者には知らせなければならなくなるのは、教員免許に英語の指導が義務づけられていない小学校の教師には難しく辛い話。

私の感覚では現場は大混乱に陥っているはずなのに、案外動揺がないというマスコミ報道に疑問を感じたものだが、まだ実感がないだけではというと言い過ぎだろうか。

それを裏付けるのは、正式な教科書が示されていないからではと推察している。3年後となると、すでに新しい教科書ができていなければならないだろうに、まだ見本すら配られていないようだ。

教科書会社のサイトを調べてみると、算数や国語などの教科には従来の見慣れた教科書が掲載されているが、同じように教科になる道徳にはある『教科書』という言葉が英語にはない。

存在するのは、資料とか教材という言葉であることから、教科書会社としても、どんな内容にしたら良いのか議論百中、まだ編集方針も固まっていないのかも知れない。となると、現場はまだ実感がないというのも納得できない話ではない。

教科としての英語の時数は年間70時間と指導要領で決められているが、授業時数を計算する場合、夏休みなどの長期休業などを考慮して、年間35週が基準になっていることは案外一般には知られていない。

指導要領で決められた70時間は、週に2コマ(小学校での1コマは45分でこれを1時間と見なす)であるが、現場では、この時数を如何に確保するかということが大問題でとても内容までは検討できないのも当然だろう。

確保の方法を教えてほしいという声が文科省に届いたのか、先日、18年度から2年間を移行期間と定め、授業時間確保のため、『総合的な学習の時間(総合学習)』の一部を『英語』に振り替える措置を『容認する』ということに決めたというマスコミ報道があった。

『容認する』とはなんとも上手く逃げたものだが、文科省としても時数確保にはこれしか方法がなく、『総合的な学習の時間』を『英語』に読み替えなさいという示唆そのものであり、『総合的な学習の時間』の存在を限りなく曖昧にしたと受け取っても差し支えないようだ。

現在の指導要領では、総合的な学習の時間として、3年生以上は70時間(コマ)、外国語の時間は、5・6年生に35時間(コマ)割り振っているが、これを英語(3.4年生は外国語指導)に読み替えれば、授業時数の確保はさほど難しくなくなるのは間違いないところ。

今朝の新聞記事では、『総合的な学習の時間』の35時間を読み替えるのではなく、10時間程度となっているが、あくまで移行措置でのこと。一時しのぎというか、方便に過ぎない?・・・。

となると、20年度からは『総合的な学習の時間』は35時間、週にわずか1時間となる。すでに、小学校でもプログラミング教育を導入すると決めているので、実際に学校独自で導入しても良い学習はなくなることになりそうだ。

あれほど気合を入れた戦後始めての学校教育改革とうたわれた『総合的な学習の時間』が、何ら総括されることなく名前だけになってしまう。いやそれだけではなく、次期指導要領の正式版はまだでていないとなると、『総合的な学習の時間』とか『総合学習』という言葉すら消えている可能性もありそうだ。

失敗だったと一言あればまだしも、これで良いはずはない・・・。(田舎親父)

2017年5月26日 (金)

ヨ-ロッパの国々を見習いたいもの・・・

 『永世中立国』という響きが中学生の私には最高の魅力だった。ヨ-ロッパの列強国に囲まれても、アルプスの神々しい姿に守られたこの国の『戦争になってもどちらに偏ることなく中立を守る』という国是に憧れて、一度は行きたい思いを持ち続けていた。

その意識は、大人になりいろいろな分野の知識が加わり、『永世中立国』であっても軍隊を持っていることはともかく、スイスの銀行が世界各国の富裕層の汚れたカネをも守ることによって国の存在が保証されているということに、この国にも影かあるのだなあと感じるようになり、徐々にスイス熱が覚めていったものである。

さらに、原発に対して不信感を持つようになってからは、ヨ-ロッパの国々同様、エネルギ-の大半を原発で賄っていることに、スイス国民は核のゴミ問題には無関心なところは日本人と変わらないと感じ、さほど立派な思想の持ち主ではないことに一安心?・・・。 

しかし、福島現発事故でドイツのメルケル首相はいち早く『脱原発』を宣言。原発依存度が75%以上と言われるフランスでも、依存度を50%にまで下げるという動きが報じられていた。

となると、恐らく、スイスも含めてヨ-ロッパの国々は、原発依存率を下げる風潮が広がっているのだろうが、わが国のマスコミは、現政権に忖度しているらしく、この話題はほとんど報じられないことから、その動きなど知ることができなかった。

ところが、先日、この国では『原子力発電所への依存度を下げる政府の長期エネルギー戦略の賛否を問う国民投票』が実施されたという話をネットで知る。マスコミは相変わらずほとんど報じていないが・・・。

ドイツのように首脳が宣言するのではなく、スイス政府は国として『脱原発』を選択しこれを国民に賛否を問うという政策はなんとも羨ましく感じる。さらに、国民は政府の方針に対して『是』とした結果に、わが国とは大違い。ただただ感心するのみ・・・。

賛成が58.2%だったとある。国民投票というシステムが日本にはないので、国民に投票の義務があるのかそれとも自由投票なのかがはっきりしないが、エネルギ-問題は重大問題であることから約60%という数値には重い価値がある。

 スイスでは現在、電力の約3分の1を原発に依存しているとのこと。スイス政府は福島原発の事故をきっかけに、脱原発方針を打ち出したようだが、(くりかえすが)スイスのこのような動きをわが国のマスコミは完全スル-。今回のニュ-スすら知らない人が多いのではないだろうか。

今回の国民投票の結果を受け、長期エネルギー戦略に基づく改正法が2018年に施行される見通しだという。現在使用中の原発はエネルギーが余ったことを確認した上で、徐々に解体していくとのことから、スイスから原発が消えるまでにはかなりの年数がかかりそうだ。しかも、核のゴミ処理はこれからの課題になるというから、それまでにはかなりの紆余曲折があることは容易に想像できる。

その一つに、自然エネルギ-に切り換えていくとはいうものの、スイスという国は、いったことはないが、風景の美しさが売り物だと耳にしているので、水力や風力に切り換えるとなると、実際に発電所を建設する段階になって、景観が損なわれるという問題にぶつかることは間違いなさそうだが、これをどのように解決するのだろうと素朴な疑問も頭をよぎる・・・。

困難が伴うことは私でも想像がつくが、わが国は福島原発の重大事故を引き起し、今なお多くの人が故郷を追われているにも関わらず、現政権は、除染は終わったからさあ戻れと強要。戻らない奴は補償を打ち切るという、まさに悪代官そのももの残酷さ。

外に向かっては、『原発事故は完全に収束している』と宣言し、世界からは失笑を買っていることに比べ、天国と地獄以上の差があるのでは。さすがにヨ-ロッパは民主主義が確立している。国民投票で決めるというのは羨ましい限り。

対してわが国は、事故当事国であっても、原発をエネル-ギのベ-スにすると恥ずかしげもなく宣言し、一旦は40年という原発の寿命を伸ばすことまでして、次々と再稼働を進めているとは、ヨ-ロッパの人々にはまさにブラックジョ-クとしか受け取れないだろう。

もう一度、原発事故を起こさないと、『今だけ・自分だけ・カネだけ・・・』という発想が変えられないというのでは、世界に対してあまりにも情けない・・・。(田舎親父)

2017年5月25日 (木)

廃校ありきではなく・・・

 以前も何度かつぶやいたが、全国的に少子化が急速に進み、公立学校の廃校の勢いが止まらない。これ以上この傾向が続けば、日本全体が活気のない幽霊の集団のような社会になることは明らか。

何とか廃校にしないですむたいさくがないものかと、現職時代は地方に訪れて実体を調査して、何としても学校を残したいと思う人たちは話し合うなどして、対策を模索したものである。その行動の過程で、地方のいろいろな方と知り合い、廃校ネットワ-ク的な連絡網の構築にほんの少しでもお手伝いができたのではと自負している。

そんな私なので、『廃校』という文字に敏感に反応し、新聞紙上に見つけると、ついつい食いついてしまう習性がある。5月22日の東京新聞社説の『少子化と廃校 地域主体で未来図を』という見出しは、まさにその典型。

書き出しの、学校は地域住民の『よりどころ』であり、子どもの数だけで拙速に判断はせず、廃校と決めても地域の未来を見すえた活用をしたいという文面に、その通りとうなずく。

私が『廃校』に興味を持ちだしたのは今からおよそ20年前。当時は、全国の公立小学校の数は約2万5千校、中学校は約1万2千校という記憶が頭の隅に今でも残っている。

これがどれほどの数値になっているのか調べてみた。『一般財団法人日本私学教育研究所』が発表している昨年度の統計として、小学校は20011校、中学校は9555校となっている。私の記憶が正しければ、わずか20年間で、小学校は約5千校、中学校でも約2千5百校が姿を消していることになる。

社説には、文科省は一昨年、公立小中学校の統合の基準を60年ぶりに見直し、都道府県教委に手引を出したとあり、その内容は、小学校では6学級以上の一定規模が必要などとして、事実上、小規模校の統廃合を促すものらしい。

東京新聞は丁寧な取材でこの記事を書いたと信じているが、私の記憶によれば、20年前の、文科省や教育委員会が持つ姿勢は(地方都市の基準として)小学校の場合、6学級以上であり一学級の児童数が10人以上となっていたのではないだろうか。

しかし、あくまでそれは目安であり、実際には、少なくとも各学年に児童が在籍している場合は、住民の強い希望もあってすぐに『廃校』という話は出なかったはず。むしろ教育委員会としては、何とか存続させようと努力していたのではなかっただろうか。

それが、文科省の廃校への手好き的な通達が出されたとなると、当時の目安が基準になったことを表していることになり、いよいよ『廃校』という現実が全国に広まったことを感じる。

設置基準に基づくと、学校という形を整えるには、子どもたちを直接指導する学級担任は当然だか、校長と教頭(副校長)に加えて養護教諭が必要とされている。

現在でもマンモス校といわれる20学級以上の小学校は全国でもかなり存在する。自治体に四手は、教員配置の加算は多少あるようだか、校長・教頭・養護教諭は基本的に一人で、それ以上もそれ以下も許されない。

2人の児童のクラスでも、35人のクラスでも担任は一人。これも変わらない。授業時数が同じだから当然だろうと思うのだが、現在の経済重視というか成果主義からの発想では、教員一人の経済効果という面からは無駄だというのが一般的な考え方ではないだろうか。それが文科省の通達に現れている。

確かに、学校を統廃合し算数的な計算をすれば、教員数は大幅に削減され、その分の自治体が負担する人件費などの経費は少なくなることは明らかであるが、そもそも学校、特に地方における小学校の存在は、単に児童の教育の場だけではなく、住民の心の支えであることを忘れてほしくない。むしろそのことを第一に考えてほしいと強く願う。

子どもがゼロになったのでは仕方ないが、一人でも子どもが存在するのであれば、そこに教師が一人でも在籍していれば学校として認めるという発想がほしいもの。名前は分校でも、あるいは時代に合わないが分教所でも良いと思っている。

そこには、わざわざ教員を管理する校長などは必要があるのだろうか。どうしても規定を変えられないのなら、本校の校長が兼任すればすむはず。こんな私の考え方を示して、住民や自治体の人たちは議論したことが懐かしく思い出される。

廃校になってしまったら、復活することはまず不可能。文科省は一片の通達で統廃合を促すのではなく、地元自治体の組長さんはじめ住民と話し合い、残す方法を模索してほしい。そのため、どうしたら若者(子育て世代)が生活できる地域にするかを考えたいものである。

そのために、廃校問題を文科省だけで完結するのではなく、他の省庁に広げて共通の議論の場をも裸体ものである。その結果、尽力至らなくやむなく廃校にする場合でも、住民の学校に対する思い入れを大切にし、校舎を地域活性化の拠点として活用する構想を望みたい。

廃校を実に有効活用している例は私でもほんの少しだが知っている。文科省には成功例が数多く届いているはずだろうから、それらを合わせて提示すれば廃校アリキの議論ではなく、討論に幅ができ、新しい発想が生まれるものと期待している。(田舎親父)

2017年5月24日 (水)

メディアの真価が問われる重大局面・・・ 

 5月21日の毎日新聞のネット版の記事は驚くが、その通りだだろうと納得する。天皇の退位問題で、陛下自らが不満を語られたという文面である。

 天皇陛下の退位を巡る政府の有識者会議で、昨年11月のヒアリングの際に保守系の専門家から『天皇は祈っているだけでよい』などの意見が出たことに、陛下が『ヒアリングで批判をされたことがショックだった』の強い不満を漏らされていたことが明らかになったといことと、このことは、すでに陛下の考えは宮内庁側の関係者を通じて首相官邸に伝えられたという文面である。

 日本史を詳しく学んだわけではないが、天皇は神聖な存在だという考え方は、日本人全体に広く深く浸透していることは衆目の一致するところ。歴史的事実を繙いても、権力者の都合で、一時的に南北朝という複数の天皇が存在した時代があったが、その争いに決着がつくと共に、天皇は唯一無二の存在として今日に続いている。

あの絶大な権力を握った、信長・秀吉・家康であっても、天皇家をつぶしたり乗ったりは決して考えなかったことは歴史の定説。そして、戦勝国アメリカの絶対的な力でも、この日本の天皇制を根本からなくすことができず、妥協の産物として『象徴』という、実に日本人の発想を大事にするような文言を日本国憲法に折り込み今日に至っている。

私は、天皇制に不思議さをおぼえながらも、天皇という言葉の持つ神秘性は犯し難く、特に、現天皇皇后両陛下が、大きな災害がおきると直ちに現地に出向き、被災者と同じ高さの目線で語りかけておられる映像を見ると、現政権のやっている汚らしさに比べて、素直に素晴らしい行為と賞賛することばかりであり、天皇制は不思議さよりも『是』として受け止めルようになっている。

その天皇が、国民の幸せを真剣に考えて全身全霊を捧げて行う公務を年齢的にも体力と気力にムリが生じてきているので、退位を真剣に考えたいというお言葉は、日本人全員の心を打ったに違いない。

しかし、現政権はいつものようなウソで塗り固めた奇麗ごとの言葉で、天皇の退位も自分たちの都合を優先させ、ここでも有識者会議なるわけのわからない組織を作り、下司の言葉で表現すれば『天皇が退位したいから退位させてやろう。しかし、天皇のわがままは一代限りにしよう』という結論ありきの議論を続けていたようだ。

席上、御用学者たちは、災害が起きたからといって、その度に被災地に出かける必要はないと言い出し、『天皇は皇居で祈っているだけで良い』という暴論になったのだろうと想像しているが、これにはさすがに天皇は怒りの言葉を発せられたのではないだろうか。

 陛下は、『一代限りでは自分のわがままと思われるのでよくない。制度化でなければならない』と語られたとあるが、気持ちは痛いほど理解できる。自分が考えで、国民のために行うことが公務であり、それが年齢的に難しくなるのは自分だけではないと、特例ではなく次の、そしてその次の退位が可能な法案を望まれていることは、私ごとき人間でも容易に想像がつく。

自分の素直な気持ちを、都合の良いように利用する現政権に、『自分の意志が曲げられるとは思っていなかった』と側近にもらされたことも十分あり得るだろう。その意味で毎日新聞の記事は信憑性があると思っている。

この記事にはデンデン首相は驚いたらしく、早速宮内庁の次長に『毎日の記事は信用できないデマである』と言わせたが、この次長たる人物は、昨年8月のあのお言葉事件の責任を取って一新された宮内庁人事の過程で、現政権によって送り込まれた警察官僚OBとなると、話がきな臭くなってくる。

 当然のことながら、今回の、次長の記者会見の発言は、現政権(首相)の代弁であることは明らかであるが、この次長発言に対し、毎日新聞は『十分な取材に基づいて報道しております』とコメントしているから、この問題に関しては、毎日新聞はジャ-ナリズムの矜持を取り戻したようだ。これは素晴らしいと大拍手。

 ただ、この次長の発言に対して、殆どの新聞テレビがダンマリを決め込んでいるのが不気味であるが・・・。

天皇陛下が現政権(首相)に不満をもらしたというのだからこれは大問題。これをメディアが、陛下の気持ちを事実として報じたら、圧倒的多数の国民が、『アベ・ふざけるな・・・』という声を上げることは間違いない。

天皇陛下の不満さえも、現政権は平気でもみ消す。こんなことを許したら、これ以上の暴政・圧政を止める手段はなく、確実に戦前の世界に近い暗い時代がやってくることは、私のような世間知らずの老人でもはっきりとわかる。

毎日新聞だけの問題にしてはならない。現政権の機関紙に成り下がった読売・産経は仕方ないとしても、心あるメディアが日本の将来のために立ち上がることを願いたい。(田舎親父)

2017年5月23日 (火)

リオの現状は4年後の東京?・・・

一昨日(日曜日)の朝日新聞の朝刊の記事に、『世界最大のスポーツの祭典の舞台は、祭りが終わって1年もたたないうちに、たなざらしになっていた・・・』という書き出しの記事に目が留まる。

記事には、プ-ル競技場の4月21日現在の写真が掲載されているが、まるで廃墟。ブラジル政府とリオ市当局はこれからどうするのだろうと、要らぬ心配が先にたつ。

同時に、記事の見出しの『兵どもの夢の跡・・・リオ五輪、施設たなざらし・廃墟も』という文言は、リオを東京と置き換えるだけで、4年後の東京の姿を表しているように思えてならない。

リオ・オリンピックが行われたのは遠い昔のように思えるが、実際は去年の8月。まだ1年も過ぎていない。なのに、こんな映像が世界を駆け抜けているのは、よほどブラジル政府とリオデジャネイロ市が財政難に陥っていることを如実に表していると言っても言い過ぎでなさそうだ。

閉幕直後は、『大成功』という声が上がっていたようにも覚えている。それは、カネをかけない運営に東京も学ぶことが多いと評価していたのではないだろうか。しかし実際は、カネを賭けたくてもかけられなかっというのがホンネで、オリンピックを政治利用したツケがここにきて明らかになっているというところでは・・・。

記事によると、競技施設の多くは放置されたままだという。競泳や柔道、テニスなどの競技施設が集まり、大会時はにぎわいの中心だったリオ市西部バーラ地区の『五輪公園』は東京ドーム25個分の敷地を持っているそうだが、平日は封鎖されているとのこと。

実際に行ったこともないが、さしずめ東京でいうと、国立競技場周辺あたり?・・・。リオ・オリンピックは、東京の当初の構想よりもさらにコンパクトな大会だったらしく、記事にある『五輪公園』には主要な競技場が集中していたらしい。

その広大な土地は、一応土日祝日は市民に開放されているようだが゛トイレも水道も日陰もない廃墟のような状態という姿は想像を絶する。しかし、新しく作られるポ-ト会場である『海の森公園』あたりとなると、4年後は十分あり得る話ではないだろうか。
 記事には、そこを訪れた家族の『こんなはずじゃなかった。五輪のレガシー(遺産)が我々、一般市民に引き継がれないことに怒りを感じる』という言葉を紹介しているが、平日に地方から訪れた人々は、さらに悔しい思いをするのに違いない。

その荒れ方は半端ではなさそうだ。私の文章力ではとても表現できないので、そのまま引用させてもらうことにする。(引用はじめ)
 公園内の競技施設は、ほとんど放置されている。萩野公介選手が金メダルを取った競泳会場。プールは移設されたが、解体費がまかなえず、建物の外壁などは残されたままだ。/中に入ると、いくつもの消火器がゴミのように散乱していた。隣にある屋外の練習用プール跡地には汚水がたまり、大量の蚊が飛び交っていた。「ゴミは持ち帰ろう」。観客に呼びかけるステッカーが床に貼られたまま、放置されていた。/日本柔道男子が全階級でメダルを取ったカリオカアリーナ2は、土日祝日でも立ち入れない。管理主体が市から政府に移ったものの、ブラジル代表選手のトレーニングセンター(トレセン)として改築する計画は実現していない。人の姿が全くない中、施設を老朽化させないために稼働させている空調の音だけが建物の外まで大きく響く。隣のアリーナ3は、市が学校に生まれ変わらせる計画だが、一向に進んでいない。/「市や国が民間業者に改修を依頼したくても、民間も金がないからどこも手を挙げない」。リオ大会組織委員会で残務処理にあたるマリオ・アンドラダさん(58)は嘆いた。組織委自身も資金難で、大会期間中に購入した物品の代金、計8千万レアル(約28億円)を払えないでいる。(以下略・引用ここまで)

ゾッとする。この記事で、20年ほど前に開催された長野オリンピックの『負の遺産』で、ずっと長野市民は苦しんでいる話を思い出す。

 長野市は冬期オリンピック開催のために、スケート会場など多くの競技場を長野市を中心に新設し、その費用を市が1200億円を負担したそうだが、大会終了後は、当初見込んだ観光客は景気の低迷で伸びず、利子を含めた負債の返済で苦労していることは度々耳にする。

先日も、長野市は毎年、施設の維持管理費に約10億円を支出し続け、開催から約20年を経た来年度に建設費返済は終わるという内容の記事があった。施設の維持管理費の負担は、建物そのものを解体しない限り永久に続くというから、市民の多くは、オリンピックを開催したことに疑問符をつけているのではないだろうか。

長野市長は昨年、『近隣の都市を含め、できるだけ既存のものを利用し、開催後も利用可能な体制を取ったほうがいい』とコイケ都知事へアドバイスをしたそうだが、すでに新しく競技場建設を決めた今では、このアトバイスもと徒花になりそうだ。

それでも都民の『オリンピッ熱』は下がりそうにないという。一月後の都議選で、莫大な負の遺産が明らかなことを主張する候補者が出現することを願うが、それを言い出したら確実に落選となると難しいだろうな・・・。(田舎親父)

2017年5月22日 (月)

富山市民をバカとう資格なし・・・

 政務調査費という公金を、これはオレのカネだとばかり、飲み食いやパチンコなどに使っていた議員が続出した富山市の話がかなり大々的に報じられたのは去年、それとも一昨年だっただろうか。

どちらにしてもさほど昔のことではない。自民党に限らず民進党に属する議員も、当り前のごとくデタラメな支出がバレたことがマスコミの絶好の餌食になり、辞任が相次いだが、あまりにもその数が多いのに日本中がビックリ。富山市民は何を考えているのかと批判されながらも結果的にやり直し選挙になったように記憶している。

こんな話は、富山に限らず、全国どこでも同じようなものだろうという意識があって、さほど興味がわく話ではないことから、私の頭からはすっかり消えていた。

ところが驚いたことに、カネまみれを批判されて辞任した議員たちが、出直し選挙に立候補して、その中でかなりの人数が当選していたらしく、以前と同じように、飲み食いや嗜好品購入に使っていたというから呆れる。

出直し選挙では『皆さんの期待を裏切ることは二度としません。富山市の発展のために命を捧げて頑張りますから、もう一度・・・』などと心にもないことをのたまい、市民の気持ちをくすぐり歯の浮くようなセリフを連発したに違いない。

市民は、大丈夫なのかなあと思いながらも、古くからの地縁などもあって、ついつい投票用紙に馴染みの名前を書いたのだろうが、元々この輩には公と私を区別するという意識が欠落しているのだから、もらったカネはオレのものという従来の行動パタ-ン。これが当り前の感覚で、飲み食いなどに使うことは罪の意識などハナから持ち合わせているはずがないらしい。

このニュ-スを知って、思わず『富山市民ってバカだなあ・・・』というつぶやきが口から漏れそうになるが、ちっと待てと心の中で影の声。これは富山市民だけに当てはまることではなく、日本人全体に言えることではと気付いた次第・・・。

現政権の横暴は何なのだろう。何をしても数の力さえあればできるのだとばかり、『共謀罪』という、いわば戦前の治安維持法に当たるようなトンデモ法さえ、強引に採血したのはつい先日の出来事。

5万分の一の地図を持って山菜取りに出かけても、あるいは双眼鏡でバ-ドウオッチングをしていても、警察の恣意で逮捕できることを否定しない法など存在しては民主主義などという言葉そのものの意味すらなくなってしまう。

その前には、自衛隊の海外派兵をするばかりか、『駆けつけ警護』などという奇妙な言葉を作り出して、戦争ができる国にしてしまった。

森友学園や加計学園の一連の騒動は,今更述べるまでもないが、全ては、デンデ一家の悪巧みが源であることは明らか。

自民党という政党は、このデンデン一家に乗っ取られたようで、親分に少し拙いような情報が出ると,たちまちそれを全員で覆い隠すために動く組織に成り下がっている。親分が、こうしろ・こうしたいとつぶやくと、たちまち忖度意識が働きその通りになる。まさに『やくざの世界』と類似するが、これは小説の筋書きではなくではなく現実の日本の姿。

『富山市民ってバカだなあ・・・』という言葉は、そのまま『日本国民って、本当にバカだなあ』という、本当がついて返ってくる。このやくざな一家をのさばらしたのは誰なのだろうと振り返ると、国民一人一人の自覚の無さ。富山市民にバカだなあという資格はない。

国民全員とは言わない。せめて、半分・いや3割の人が、一家の悪意に気付いてほしいものである。そして,選挙なんて・・・と思って投票所に足を向けない人の何割かが、現政権の下請け組織に成り果てている自民党や宗教政党、さらには維新というデンデンにすり寄るインチギ政党の候補者に『NO』を突きつけるだけで、たちまち世の中が変わることは間違いない。

そんなことが実現すれば良いのになあと思いながら、今日もまた、愚にもつかないつぶやきをくりかえしているの・・・。(田舎親父)

2017年5月19日 (金)

また大学入試の変更・・・

文科省という役所の官僚たちは、自分たちに自信がないらしく、時をかまわず、しかも一部の有識者という御用学者の意見だけで、制度を変えたがる習性があるようだ。これは、クセといっても奇怪しくないほど、次々に改定という名の変更がなされている。

その最たるものが、英語を小学校で義務化し、しかも教科として高学年では週2コマの授業を学校現場に押しつけたことに加えて、道徳という人間のあり方を議論する分野を、教科として位置づけて、文科省の基準で評価をしなければならないとしたことではないだろうか。

広く国民的な議論を踏まえたのならまだしも、突然、グロ-バルな人間を養成しなければならないとして、戦後はじめて現場が主導できる『総合的学習の時間』が創設され、そき中の一分野として『国際理解』という言葉が現れたのは、20年ほど前のことだった。

現場はとまどいながらも、必死になって学習の工夫を模索しはじめた矢先に、総括もなにもなく突如、英語が必要だという押しつけになり、時を移さず『国際理解』が『英語の習得』と同義語となり、高学年で英語指導が義務づけられたことは記憶に新しい。それが現在では低中学年にも広がっている。

さらに、教科に位置づけられた『英語の授業』は週に2コマとなり、そのため他の教科の時数確保に学校現場は大混乱。文部官僚たちの制度を変えなけれどという脅迫概念が、ますます強くなっているように思えてならない。

道徳の教科化も大問題であるが、今までも何度もつぶやいていたことなので、ここでは省略するが、文部官僚たちの性癖は、またまた大学入試制度を改革しなければという意識にとりつかれはじめているらしい。

文科省が2020年度(この年がなぜかオリンピック開催年と一致するのも奇怪しい話だが)から大学入試制度を変えると言い出した。その新しい『大学入学共通テスト(仮称)』の実施の具体案を明らかにした。

 ここにもご多分に漏れず、改革の柱は『英語』である。『英検』や『TOEFL』といった民間の検定試験を英語に採用するとのことであるが、どうやら英語に関しては、お抱えの有識者たちが作る問題では、丹生氏における英語力は計れないと認、実績がある民間の検定を使わせてもらうというところらしい。

 英語の文科省案は、高校3年の4~12月の間に2回まで、英検やTOEFLなどの検定を受け、その良い方の結果を使えるとしている。話はそれるが、想定される『検定試験』は10種類ほどあるのだそうだが、『英検』と『TOEFL』だけだと思っていた私には、俄に信じられない思いであるが・・・。

世の中には、これもビジネスとばかり『英語検定試験』に参加する業者が多いことを改めて知るが、そのことはともかく、これらの検定の中で『学習指導要領』に対応したものを大学入試センターが認定するというから、検定試験を実施している企業の熾烈な競争が激しくなることは間違いなさそうだ。

 私はこれまで検定を受けたこともない。どこでこんな検定があるのかという知識もないが、ビジネスとして行われていることから利潤を得ることが最大の目的だろうから、これらの民間検定は人口比に応じて場所や実施回数などに差があることは想像に難くない。

当然のことながら、大都市では受験機会も多く、自分が得意とする検定があり、そこで高い点数が期待できそうだが、地方では、検定の種類も回数も限られていることは疑えない。どうやら、大学入試まで地方と都会との格差を広げる片棒を担ぐことになり、実際に実施されたら、地方がさらにさびれることは間違いなさそうだ。

 さらに、これらの検定がビジネスである以上、受験料が発生し、それは自己負担であるはず。記事によれば、英検は2級の試験で5800円で、他には2万5000円以上の検定もあるとのこと。文科省は割引を要請すると説明するが、家庭の経済的格差によって受験機会は大きく変わることも間違いないところ。これも経済格差を広げるものであり、決して容認できるものではない。

 繰り返しになるが、私には英語検定がどんなものか理解できないが、10以上も検定を実施している企業があるということは、費用や回数はもちろんだが、もっとも重要なことはその内容。難易度が違うのは当然で、文科省かがそれを公平に評価できる方法が確立できているとは思えない。

 実際にこのような英語入試が実施されたら、英語塾は大変な人気になるに違いない。今でも、ちょっとした都会の駅前では、学習塾にならんで英語塾が乱立していることから、数年後の駅前は大変なことになりそうだ。

 文科省という役所も、現政権の『今だけ・自分たちだけ・カネ儲けだけ』という方針の実行部隊として、学習指導要領を変更したり入試方式を変更したりしているのではと言うと、言い過ぎだろうか・・・。(田舎親父)

2017年5月18日 (木)

オリンピックのためだけに全面禁煙?・・・

 この国はオリンピックが何よりも大事な価値観として存在しているらしく、オリンピックという言葉の前では文句を言えない雰囲気が充満しているようだ。その最たるものが、無茶苦茶な運営費。

当初は、全て都内の会場でコンパクトに行うという話だったが、都内の開催地に選ばれた競技場は、ここは不適当、もっと良い場所がある、施設が老朽化しているなどの理由で、国立競技場の建て替えはじめ、新規の競技施設建設はもちろん、ヨットは江ノ島だ、野球は横浜球場だ、サッカ-は埼玉や宮城だと、コンパクトどころか広域開催になっている。

やっと、これら都外の仮設の建設費用を都が負担するということで、一応決着はついたものの、そこでの運営費や警備費用はどうするのかが不透明で、関係する組長さんたちはやきもきしているのだそうだ。

結局、費用は2兆円以上かかるとの試算らしいが、実際近づいてきたら、今以上にカネ儲け命が輩が跋扈して、あれも必要これもいると言うことになり、3兆・4兆と豆腐を数える単位のような天文学的な無駄遣いが始まるのは明らか。その結果、後に残るのは負の遺産ばかり・・・となるのは私でも十分予想できる話。

そのオリンピックに関して、今、競技場近辺の飲食店での禁煙問題が話題になっている。私は、実際にオリンピックが開かれた外国の都市に出かけたことはないので、その雰囲気は想像するしかないが、近年オリンピックが開かれた都市や国々では、屋内の禁煙は当り前なので、わが国でもそうしなければならないという議論が進んでいるという。

もっともな話であるが、わが国においては一番幅を利かせているのが『俺だけ・カネだけ・利権だけ』という自民党の議員だが、その輩が屋内全面禁煙に反対しているというから、話がややこしくなっている。

この問題に関しては、珍しく厚労省の官僚たちは、世界の時代の流れを敏感に察知して、屋内全面禁煙を打ち出したのだそうだが、すぐに、省内でも反対がでたらしく、飲食店内は原則禁止ではなく、たばこを吸う場合には、密閉された喫煙スペースを作らなければならないという案文を作ったようだ。

ここでも役所の大好きな『原則』という言葉を出して基準を曖昧にし、例外としてという文面を続けて、広さが30平方メートル以下のバーやスナックのみ、喫煙を認める方針だという。

バ-やスナックという言葉から、酒類を出して接客するという意味なのだろうが、最近は喫茶店でもビ-ルがメニュ-ニ入っているのはごく普通。また、ちょっとした都会ではファ-ストフ-ズ店が幅を利かせている昨今、線引きは極めて曖昧。このあたりどう解決するのだろうと要らぬ心配をしてしまう。

自民党の議員たちは、飲食店の『売り上げが減る』と主張して、一定の面積よりも小さい店では、店の入り口などに『喫煙』『分煙』の表示を義務づけることで、バーやスナック以外の飲食店でも喫煙できるようにしたいようだが、私的には、むしろ『全面禁煙』にした方が客足は延びるような気がする。しかし、業界の利権代表である議員たちには、目先の票しか見えないようだ。

ここで、このところ人気が落ちてきたコイケ都知事が登場する。知事は、受動喫煙対策を夏の都議選の争点とする考えを示し、受動喫煙対策の条例化を自らが率いる『都民ファーストの会』の公約に盛り込む方針だという。
 一方、自民党の東京都連も、受動喫煙対策の条例化を党本部の動きとは別に、都議選の公約に盛り込む方針を発表し、公明党や民進党も都議選の公約に盛り込むという。全ての党が、オリンピックの成功のために『屋内禁煙』を打ち出したら、都民はどの基準で候補者に投票するのか迷うのではないだろうか。

オリンピックも都議選も興味がない私であるが、これは面白くなってきた感じ。ただ、日本中が、オリンピックのためだけに『屋内禁煙』と大騒ぎするのでは、なんとも情けない話。

愛煙家が住みにくい世界になっているが、タバコの煙が健康に悪いことは証明されているのだから、人がいる場所では吸わないという最低限の礼儀というか常識を持てれば良いだけの話だと思うのだが。

しかし、ここにも『自分だけ・・・』というムリがまかり通り、相手の迷惑省みずという風潮が蔓延しているのでは、オリンピックという錦の御旗を掲げて選挙の公約にしたくなるのは仕方ないところだろうな・・・。(田舎親父)

2017年5月17日 (水)

線路に逃げることが大流行?・・・

 今年に入って線路に立ち入る事故が急増しているのだそうだ。その殆どが、痴漢の疑いをかけられた男性だというから考えさせられる。

私は直接経験したわけではない。また現場を目撃したこともないが、身動きができないほどの満員電車では、痴漢騒ぎは日常茶飯事であることは想像に難くない。

意識的に女性の身体を触るのが痴漢行為なのだろうが、実際には、その気がなくても、女性の身体の一部が触れることもあることは、私も満員電車通勤を40年近く続けたの間に何度か、それに近い経験はある。幸い、痴漢として疑われなかったが・・・。

痴漢だと思った女性がキャ-とでも叫ぶと、たちまち回りの乗客が騒ぎだす。寄ってたかって該当者だと思われる男性を取り囲み、電車から引きずり出して駅員に引き渡すのが当り前だと言う話も良く耳にしたものである。

そんなことになったら身の破滅。たちまち職を奪われ家族が路頭に迷うことになる。そこで私がとった自衛手段は、できる限り先頭車両の一番前のドアから乗車して運転席の後ろ窓から前方の景色を眺めて過ごすこと。あいにくその場所が確保できない時は、両手で吊り革につかまる、いわゆるバンザイ姿勢をとることである。おかげで、痴漢に間違えられた経験は一度もないのだから、この消極的な作戦は一応成功したようだが・・・。

 通勤の後半には『女性専用』という車両が登場したことに、徹底的に痴漢騒ぎをなくすなら、『男性専用』という車両も必要ではと言いたくなったが、乗客の男女比からは無理だろうな・・・と諦めたことも思い出す。

 話を戻すが、痴漢の立証権はあくまで女性にあるという。男性が、故意ではなく相手の女性の思い込みだと主張しても聞き入れられる場合は少なく、徹底的に否認して裁判に訴えて無罪を勝ち取るまでには、長い年月と相当な資金が必要。時に、冤罪だとわかることもあるらしいがそれは稀なこと。その場合は間違いなくマスコミが大騒ぎなるのがオチ。

 中には、意識的に男性を挑発して、痴漢だと騒ぐ女性も存在するというから、通勤地獄は女性以上に男性に厳しいようだ。

 痴漢に間違えられ捕まった男性は、一瞬頭が真っ白になりパニックに陥ることは間違いない。何とかこの場を逃げなければという心理が働き、身の危険など省みず、一番捕まりにくい線路に飛び出すのだろう。

 となると電車は遅延、多くの乗客に迷惑をかけることになるのだが、本人としてはそこまで気が回らない。マスコミか意識的にとりあげているのかも知れないが、こんな行為が流行になるのだからなんとも奇怪しい限り・・・。

 ここまで同じような事件が報じられると、そのうち逃げた男性が電車にはねられて死亡する事件になるのではと心配していたが、一昨日の夜のテレビニュ-スで、事実になったことを知る。

 15日午後8時15分ごろ、横浜市青葉区東急田園都市線青葉台駅の下りホームで、電車内の痴漢行為を指摘された30代の男性がホームから線路に飛び降りて電車にはねられ死亡したという報道である。

 男性は電車内で痴漢をしたと指摘され、被害を訴えた女性と目撃したという乗客とともに同駅で電車から降りて、男性を取り囲んでいたところ、インタ-フォンで連絡を受けた駅員が駆け付け、男性と話し合っている最中に男性が線路に飛び降りたという。

 恐らく、この事件の続報はないだろう。詳しい身元など知るよしもなく、また知ろうと思わないが、家族や身内に加えて知人は存在し、特に家族の悲しみはいくばくのものかと、事件の真実はともかく同情するしかない。

実際に痴漢行為が存在したのかはわからない。しかし、例え冤罪であっても証明することがほとんど不可能。となると、命をなくした男性の心理は、痴漢を訴えた女性も取り囲んだ乗客たちも何となくわかるような気持ちになり、心の中ではひっかかるものがあるに違いない。

この事故で、田園都市線はあざみ野―長津田駅間で約2時間、上下線の運転を見合わせたというから、場合によっては、東急が家族に莫大な損害賠償を要求することもあり得ない話ではなさそうだ。

もしも、この男性が冤罪だった、こんな気の毒なことはない。いや、痴漢行為が事実だったとしても、その行為から逃げるために、命との交換?・・・。バカバカしい話で、こんな事件が流行になってはたまらない。

隣の席の女性のイヤホンからの音漏れを注意したところ、突然『痴漢です』と騒がれて、危うく捕まりそうになったというウソみたいな話もあることから、男性専用車両も必要だという議論も始まるのでは・・・。

いやはや大変な、そして夢のない無機質な時代になったものである。満員電車で通勤しなくても良い環境を整えるために知恵を出したいものだが、今だけ・自分だけ、カネ儲けだという世の中では、お前など引っ込んでろと言われるのが関の山だろうな・・・。(杉)


2017年5月16日 (火)

年金資金がクラスタ-爆弾?・・・

 100年は心配ないと言われていた巨額の年金財源を一部の政治屋とその仲間たちが自分のカネのように利権目当てでハコモノを大量に作ることに費やした結果、今後の年金運用が難しくなり、それを挽回するために、投資というギャンブルで自転車操業しているという話に、ウソだろうとつぶやいたのは数年前。

 ところが、この公的年金の積立金を運用する年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)という組織は、文句があるのが・・・とばかり開き直り、人道的見地から国際条約や法律で禁止されているクラスター爆弾を製造するアメリカ米国企業に投資しているというから、わが国はもはや、カネのためなら人の命などどうでも良いという国に成り果ててしまった感じがする。

 クラスター爆弾とは、大きな爆弾の中に無数の小型の爆弾を入れておき、空中で爆発させて多数の子爆弾をばらまくため、殺傷力が高く『戦争の親玉』とか、『悪魔の爆弾』と言われている程度の知識は持っている。

アメリカはベトナム戦争でこの爆弾を大量に使ったと非難されていたが、その不発弾がベトナム国土はもちろんのこと、周辺の国々には今でも残っているという。以前、その不発弾を処理する国際組織に所属する人の聞いたことがあるが、クラスタ-爆弾の知識がない現地の子どもたちが、知らずに手で触れて爆発するということが、現在でも日常的に起きているのだそうだ。

まさに、時を越えて人々を不幸にする爆弾である。国際条約で『使ってはならない』ことになっているはずなのに、現実は、この爆弾を今でも作り続けている企業があること自体許し難いことであるが、こともあろうに、わが国のGPIFは公然とその企業に投資しているとは・・・。9条で戦争放棄を高らかにうたう、日本国憲法の精神を踏みにじる天に唾する行為である。

このことを国会で民進党の議員が取り上げて質問したそうだが、現政権は『製造する企業の株式を保有することは禁止されていない』とうそぶき、さらにこの見解を閣議決定したというから呆れてものがいえぬ。

 GPIFが投資しているのはアメリカの『テキストロン』という企業で、2015年度末の時点で約192万株をも保有していたのだそうだ。今北朝鮮がらみで、世界的に兵器関係の企業の株価は跳ね上がっているというから、カネ儲けの対象には絶好な投資先になっているのだろう。ここまで悪魔に魂を売り渡した理念のない政府がこれまであっただろうか・・・。

 北朝鮮の緊張が高まれば、ますますGPIFにとっては懐にカネが飛び込んで来るのだから望ましいことになる理屈だろうが、このカネは正真正銘の『汚れた黒いカネ』。普通の感覚では絶対に手にしてならないはずなのに、デンデン男とその子分たちは、こんな当り前の理念も捨て去って、ただただカネ・カネ・カネさえ儲ければそれで良いらしい。

 老後の安心?のための私たちの大切なお金を『戦争の親玉(悪魔の爆弾)』を作るために使っているとはなんともおぞましく、世界から軽蔑されても仕方ない国になり下がってしまった。そして、自分もその国民の一人であることが情けなく悲しい・・・。(田舎親父)

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